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第192話:NADA JAPANメンバーとしての活動報告と私見



◆活動報告
川崎ダルクさんでの耳鍼治療(NADA-5NP)のボランティアは、4月9日から始めて隔週の火曜日(月2回・所要時間は毎回1時間)のペースで、これまで7回ほど実施したことになります。川崎ダルクさんには、通所/入所合わせて薬物依存症の利用者さんが18名ほどいます。鍼治療を受けるのは強制ではなくて、あくまでも利用者さんの自由意思で決めてもらっています。これまで鍼治療を希望される利用者は、多くて9名、平均すると毎回6名ほどになります。

◆問診はしない
ここでちょっと強調したいのは、治療前後に簡単なアンケート用紙を利用者さんに渡し、今日の体調と治療後の体調の変化について☑で記入してもらうのですが、それ以上の個人情報については、根ほり葉ほりと問診することは決してないのです。そこが通常の鍼灸治療と大きく異なる点です。ですから、利用者さん一人ひとりが、何歳なのか、依存症が何時から発症したのか(病歴)、現在病院からどのような薬がだされているか(現病歴)などなど、個人の医療情報は全く知らないままに、わたしは治療しています。

では、なぜ問診をしてはいけないか―その理由とは、薬物依存症患者が回復に向かう過程では、治療者は患者に「問いただす」ことよりも、患者に寄り添うことを第一義とし、むしろ無言で坦々と治療することの方が大切である。(PTSDの治療ではトラウマが誘発されないためにも特にそれは配慮される。)―と耳鍼治療(NADA-5NP)を開発したNADA USAは指導しています。

◆ここからが「私見」です。
治療者が問診する能力を放棄して、あえて制約された条件下で治療することは、誰しもがそれを不合理な治療法とみるでしょう。ところが、東洋医学である伝統的鍼灸医学の世界には、そもそも「不問診」という理念が用意されていたことを思い出すべきです。
「問診」をしないでも、視る(望診)、触る(切診)、聞く(聞診)ことで、総合的に診断され得るということ。昔から名人とされる治療家は、顔色を診ただけで、もしくは脈を診ただけで、病の様子や余命までもが瞬時に分かったとされるくらいです。そうした名人級と行かないまでも、問診にかわる他の診断法で十分代用はできるはずです。

◆問診の代わりに「FⅯテスト」
そこで、わたしが採用している診断法を紹介すると、「FⅯテスト」と呼んでいるオリジナルの診断法です。患者さんの左腕橈骨筋を触診することで、「主経絡」と「気持ちの在りよう(感情)」を診断します。たとえば「脈診」は「脈」から身体情報を窺うわけですが、「FⅯテスト」の場合は「筋肉」から身体情報を窺う診断法と理解してもらえればよいと思います。
具体的には、耳鍼治療(NADA-5NP)の刺鍼する前に、坐位のままで利用者さんの左腕を机に置いて「FⅯテスト」を実施します。だいたい1分あれば、利用者さんの「主経絡」と「気持ちの在りよう(感情)」は診断できます。
たとえば、腎経虚の人であれば「腰痛もちですか?」とか、怒りとイライラがあれば「せっかちな性格ですか?」とか、ほんのちょっとだけこちらから言葉をかけてみると、言い当てられたとみえて、利用者さんは受容の顔色に変わるものです。

【主経絡(虚している陰経絡:体質や病証を示す)】
肝経虚・心包経虚・脾経虚・肺経虚・腎経虚の五種類。
【感情の種類(気持ちの在りようを診断)】
 心配/不安、悲しみ/悲観、怒り/怒りっぽい、孤独で寂しい、苛立ち/イライラ、恨み/妬み、不信感/猜疑心、否定的考え、僻み、うつ/おちこみ、自分を責める

◆「助けて」が言えない人に寄り添う鍼灸師へ
薬物依存の研究で著名な松本俊彦医師は―依存症とは「人に依存できない病」と言ってもよいところがある。患者さんの中には、内なる優生思想を抱え、自分は人に迷惑をかけてばかりいるダメな人間だと思い込んでいる人が大変多い。だから「助けて」が言えない人、「SOS」を出せない人である。―と指摘しています。この指摘は重要で、わたしも利用者さんたちは「人に依存できないやさしい人たち」という印象を持ちますし、たとえ問診したとしても中々本音を吐き出すことに慣れていないようにみえます。

ですから、わたしたち鍼灸師が耳鍼治療(NADA-5NP)を通して、利用者さんにできることといえば、伝統的鍼灸医学の不問診を駆使することで、利用者さんの身体の声(主経絡や感情)を受取り理解することです。それができれば、回復に寄り添う存在としての役割を鍼灸師も為し得るのではないかと考えています。(了)

※NADA JAPANのホームページ
☞http://www.nada-japan.com/
※耳鍼治療(NADA-5NP)とは
☞http://anshindohariq.blog.fc2.com/blog-entry-247.html
※「FⅯテスト」とは
☞http://anshindohariq.blog.fc2.com/blog-entry-93.html
※松本俊彦編『「助けて」が言えない』日本評論社(2019年)


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第191話:『パリの漆職人・菅原精造』から



◆一冊の本
『船箪笥の研究』の小泉和子先生に直接お話を伺う機会を得たときのこと。船箪笥三大産地のひとつの酒田は、わたしの故郷であることをお伝えしたところ、先生は間髪を入れず「酒田出身の方だったら、この本を読みなさい」と、一冊の本を教えてくださったのです。それが今回紹介する『パリの漆職人・菅原精造』(白水社・2016年)です。

この本は、今から凡そ100年前、20世紀初頭に横浜港から渡仏したSUGAWARAというひとりの漆職人にフォーカスを当てています。フランス工芸界の歴史にその名を残しながら、日本国内では全く知られていない漆職人SUGAWARAについて、著者の熱田充克(元フジTVパリ支局長)は、残された僅かばかりの情報を基に、現地パリへ取材に赴き、家族や関係者たちの証言を集め、知られざるプロフィールをついに明らかにしたのです。

◆海を渡った菅原精造
謎の漆職人は、菅原精造(1984~1937)という人物でした。1984年(明治17年)山形県酒田市に生まれ、地元の「川瀬屋」という木工会社で漆工として働き、17歳に上京すると東京美術学校(現在の東京芸術大学)漆芸科に入学。卒業して2年後の1905年(明治38年)には、漆芸科の指導教官らと共に、21歳にして横浜港から出航しフランス・パリへと渡ります。その後指導教官らは次々に帰国するなか、菅原精造ひとりがそのままパリに定住し、日本に再び帰ることなく1937年(昭和12年)に生涯を終えるまで、日本の漆芸技術をヨーロッパに伝えたキーパーソンとして名を遺したのです。

パリに渡ったそもそもの理由は、パリのガイヤール工房が日本の漆芸技術導入のために、技術者派遣を東京美術学校に要請したことがきっかけでした。当時(20世紀初頭)西洋の工芸界では、アールヌーボーの衰退がみられ、その空白の時代を埋めようと、すでに芸術的評価の確立していた日本美術の伝統に目を向け始め、日本に熱い視線を注いでいたという背景があったと著者は分析しています。

◆パリにおける菅原精造の功績
ひとりパリに定住した菅原は、その後の潮流となるアール・デコにおける著名な漆芸家の二人に、日本の漆芸技術を教えています。そのことが、後々西洋の工芸界にSUGAWARAの名を遺すことになったのです。とりわけ菅原が一躍注目されるようになったのは、その著名な漆芸家のひとりであるアイリーン・グレイ(1878~1976)との関わりでした。工芸デザイナーであり女性建築家でもあったアイリーンの足跡を語る上で、菅原精造は欠かせない存在だったからです。というのは、菅原が当初、アイリーンが経営する工房に所属していましたが、彼女が40歳になって漆芸デザイナーから建築家へと転身したことを契機に、アイリーンの工房を菅原が引き継いだという経緯がありました。ちなみに、近代建築の巨匠であるル・コルビュジュエは、建築家アイリーンの才能に嫉妬していたという有名な逸話があり、それを題材にした映画もありますが、そうしたアイリーンの影に菅原の存在があると想像するだけでも、興味は尽きないところです。

また、本場のパリに絵を学びに訪れた画家たち、たとえば藤田嗣治らとも、菅原は交流があったようです。ところが、菅原は彼らにとってパリの先輩でありながら、彼らの華々しい歴史の影に完全に埋もれてしまった感すらあります。日本の職人が海を渡っていた歴史にもっとスポットを当てるべきであると同時に、菅原精造の足跡において、自分が持っている日本の伝統工芸技術をヨーロッパで試したいとする、あくまでも主動的な職人としての矜持と、アール・デコの著名な漆芸家たちに多大な影響を与えたという功績は、さらに顕彰すべきことかもしれません。

◆酒田との関わり
冒頭に紹介したように、小泉先生がこの本を推した理由は、菅原精造が酒田出身だということと、酒田の船箪笥との関係が少なからずあったということです。というのは、『パリの漆職人・菅原精造』には、菅原が漆工として修業した時代の、つまり当時酒田の木工業界について、著者は専門とする小泉先生に取材した経緯が書かれているのです。さらには、小泉先生の『船箪笥の研究』を併せて読むと、菅原精造と当時酒田の木工業界との関係が、より具体的に浮かび上がってきます。

近世の幕藩体制下における酒田は、北前船の寄港地として栄えた港湾都市でした。なかでも、幕末から明治大正にかけて、酒田の特産のひとつが、船箪笥をはじめとする箪笥・指物類全体の製造でした。海運の発達により北海道にまでその市場を拡大する程であり、そのために、酒田には技術的に質の高い職人たちを大勢擁していたということ。そして、漆職人の菅原精造は、その系譜上にいた職人であることは十分理解できるのです。

菅原精造が17歳まで漆工として働いていた酒田市今町にあった「川瀬屋」は、木工品全般を大量に北海道へ輸出するほどの工場でした。「川瀬屋」の経営者は金沢出身の円山卯吉。彼自身は職人ではないのですが、木工品や漆工品の品質改良や意匠の改善を企てたり、子弟の教育のため済世学校を建てたり、そして新潟や会津から腕の良い職人を呼んで指導を当たらせるなど、特に熱心な経営者だったようです。この円山の下で職人の指物・塗物全般にわたり指導に当たった名人級の職人に新潟出身の土田龍八がいました。土田の指導が始まってから酒田木工の水準が飛躍的に上がったといわれているそうです。土田が来酒したのは1890年(明治23年)ですから、菅原は少年時代に土田龍八の薫陶を受けたことは間違いないと言えます。

こうしてみると、船箪笥を代表とするかつての箪笥・指物文化で栄えた湊町・酒田が、海外にまで活躍の場を広げた漆職人・菅原精造を産み出したとも言えます。と同時に、今や失われてしまった酒田箪笥の歴史文化と共に、菅原精造の名は記憶に留めるべきだろうと思うばかりです。(了)

※熱田充克著『パリの漆職人・菅原精造』白水社(2016年)
※小泉和子著『船箪笥の研究』思文閣出版(2011年)
※アイリーン・グレイ(1878~1976)
アイルランド生まれ。ロンドンの美術学校を経たのち、パリに出て工房を立ち上げ、家具作りやインテリアなどのトータルデザイナーとして活躍。独学で建築を学ぶと、40歳にして建築家になる。近代建築の巨匠コルビュジュとの交流を描いた仏映画「ル・コルビュジェとアイリーン 追憶のヴィラ」は2017年に公開されている。

第190話:船箪笥の本(その2)

~小泉和子著『船箪笥の研究』~



◆『船箪笥の研究』
柳宗悦の『船箪笥』に続いて紹介したいのが、小泉和子の『船箪笥の研究』(2011年刊)です。著者の小泉和子は元京都女子大教授で、現在大田区鵜の木にある「昭和のくらし博物館」の館長。家具の歴史についての著作が多く、傍らで「家具道具室内史学会」を主宰。最近の話題では、アニメ映画『この世界の片隅に』の時代考証にも関わっています。

この本は学術書の体裁をとりながらも、船箪笥の歴史や、三大産地(福井の三国・佐渡の小木・庄内の酒田)のそれぞれの特徴を分かりやすく解説。なかでも、我がふるさと酒田の船箪笥の項を読むと、その歴史の全貌を知ると共に、幕末から明治後半にかけて活躍した高度な技術をもった酒田の職人たちの姿が、失われてしまった文化と共に浮かんできます。

◆酒田の船箪笥の特徴
この本から、酒田の船箪笥の特徴を拾ってみます。
酒田の船箪笥は主に欅製で、側板の接合部(ほぞ組)は、複雑な「天秤蟻(てんびん・あり)」を採用。これは酒田の木工で非常に使われる精密な技法です。金具は銅や真鍮を使い、その装飾技法は絵様刳形(えようくりがた)と呼び、絵様曲線に刳って作る抽象的な図柄を装飾する技法です。これらの技法を凝らした酒田の船箪笥は「作りが丁寧である」「意匠的に派手でなく、技術的に高度である」「堅牢に作られている」などの形容が連なるほどに高く評価されています。

◆酒田湊の特殊性
他の産地(三国や小木)と比べて大きく違う点は、船箪笥だけを専門に製造していたわけではないこと。そもそも酒田は箪笥・指物類全体にわたり盛んに製造されてきた地域であったこと。しかも、幕末に始まった船箪笥の技術が、しだいに帳箪笥(帳面類を納める箪笥)や衣装箪笥までの箪笥指物全体にまで影響を与え、ついには「酒田箪笥」全体の水準をあげたという経緯を辿ってきたのです。

酒田湊の歴史からも次のように解説しています。
7世紀後半に目を落とすと、1672(寛文12)年からの上方と結ぶ西廻り航路、さらには18世紀後半、1799(寛政11)年からの東蝦夷地と結ぶ北前船の運行により、海運が一層発展した酒田は、すでに東北地方一帯の経済的・文化的中心都市となっていた。したがって、市域内での箪笥・指物関係の需要が極めて大きいため、わざわざ廻船相手の需要を開拓して船箪笥だけを作る必要がなかった。よって、船箪笥は商品生産ではなく注文生産が主となり、職人と買い手が直接交渉するため、丁寧でよい仕事をするようになったというのです。
そのことが、前述の「技術的に高度で堅牢に作られている」土壌を作ったというわけです。ちなみに、現存する(廻船相手の)船箪笥が、三国や小木と比べると極端に少ないと言われていますが、一方で酒田の商人たちが商売で使っていた「懸硯(かけすずり)」や「帳箪笥(ちょうだんす)」は、船箪笥と全く同じものだったのです。つまり酒田では、商人から注文を受ける「懸硯」や「帳箪笥」の類も、実は(商人相手の)船箪笥であったという訳です。



◆酒田の職人たちの足跡
船箪笥をはじめとする箪笥・指物関係の職人たちにとっては、発注元の商人たちの存在はとても大きいといえます。特に、廻船問屋「鐙屋(あぶみや)」を代表する旧来の三十六人衆に加えて、江戸中期・新興の豪商である本間家の台頭は、地域の政治・経済そして文化の面で主導的な役割を果たしていました。そうした環境が、職人たちを支え、職人たちを競わせ、ついには職人の高度な技術力を育むことになったことは間違いないと言えます。

この本の真骨頂は、職人たちの足跡を詳細に記録している点です。特に、箪笥(箱屋)職人、指物師、金具職人、塗り師たちがどこの町に住んでいたか、さらには職人名とその系譜について詳細に記録されています。たとえば、わたしが生れた「鷹町(たかまち)」と隣の「天正寺町(てんしょうじまち)」、そして「檜物町(ひものまち)」には箪笥職人の名人、それを囲む指物師たち、そして「十王堂町(じゅうおうどうまち)」には金具職人の名人が住んでいたことが分かります。

「鷹町」:斎藤右惣右衛門(箱屋) 
「天正寺町」:斎藤津右衛門(箪笥屋)
「檜物町」:斎藤茂兵衛(箪笥屋) 
「十王堂町」:白崎孫八、佐々木清一(金具師)

現存する酒田の船箪笥は、今や骨董品として人々に触れられない所にそれぞれが散在しているようです。かつての職人たちの足跡も、人々の記憶から忘れさられようとしています。この本が遺した記録を基に、なんとか地元酒田に公的な博物館として「酒田の船箪笥」を遺して欲しいと願うのは、きっとわたしだけではないと思うのです。(了)

※小泉和子著『船箪笥の研究』思文閣出版(2016年)
小泉和子氏は、古くは酒田市歴史編纂室篇『酒田市史』の中で「酒田の家具の歴史」の執筆を担当。酒田市とは所縁のある学者さんです。

第189話:船箪笥の本(その1)

~柳宗悦著『船箪笥』~



◆酒田と船箪笥
ふるさとの酒田は、かつて北前船に積んだ「船箪笥」の産地でもありました。今や「船箪笥」を作る職人は皆無となり、「船箪笥」は過去のものとなりました。羽越本線の酒田駅開業(大正8年)と同時に陸上交通網が発達し、さらに海運業は汽船の登場により近代化を計り、ついに船箪笥は北前船と運命を共にして終焉を迎えたと言われています。

子どもの頃(昭和30年代)の微かな記憶を辿れば、近所に箪笥屋と指物師の家があり、幼稚園に行く道すがら金具職人の家もありました。当時の高齢の職人たちが実は「船箪笥」の系譜上の職人であると知ったのは、随分と後になってからでした。
もはや伝説の家具となった船箪笥を初めて目にしたのが20代の頃、友人の誘いで何気に立ち寄った駒場東大前の「日本民藝館」。そこに展示してあった酒田の船箪笥は、とても風格のある骨董品に見えたものです。独特の金具を身に纏い、重々しい堅牢な造りの船箪笥は、欅や漆、鉄といった素材の持つ力と美しさをぎりぎりまで発揮させているところに、わたしはすっかり魅せられました。

◆柳宗悦著『船箪笥』から
興奮の冷めぬままに買い求めた本が、「日本民藝館」を創設した柳宗悦(やなぎむねよし)による『船箪笥』(昭和36年出版)でした。忘れかけていた船箪笥を世に初めて紹介した記念すべき本。趣のある旧仮名づかいの文面が、民芸運動の神髄を伝え、しかも写真のように、同胞である芹澤銈介が担当した装丁と本文に添えられた図案も、とても魅力的です。

船箪笥は用途の違いから、懸硯(かけすずり/硯箱を入れる)・帳箱(ちょうばこ/帳面類を入れる)・半櫃(はんがい/衣装を入れる)の三種類に大別されます。このうち懸硯と帳箱は一種の金庫(さらに言えば前者は手提金庫)で半櫃は衣装箪笥になります。



◆船箪笥の魅力
柳宗悦(1889~1961)は船箪笥の魅力を次のように語っています。
「船箪笥の一つの魅力はその金具にある。こんなにも見事な金具を澤山身に纏ふ箪笥類は他にない。今だとて技は残るのであらうが、作る機縁が薄く、又勢ひに缺ける。何か時代に、又生活に力がなくば、これほどのものを生むことは出来ない。」

船箪笥を単なる骨董品としてみるのではなく、むしろ、それを取り巻く生活者と職人に視座を置き、生活の力があるからこれだけの作品ができる「これだけのものを使ひ切る暮らしが再び欲しいではないか。」と現代の人々に諭すかのように柳宗悦は説くのです。これぞ民芸運動家の面目躍如たる主張といえます。
職人は技だけがあってもダメ。「作る機縁」と「作る勢い」を重んじるところに深い意味を感じとれます。「機縁」とは人と人のご縁であり、「勢い」とは職人の気概と読み取れます。職人を自認するわが身としてはそのことを胆に銘じながら、いつまでも大切にしたい一冊となっています。(つづく)

※柳宗悦著『船箪笥』春秋社(昭和36年刊)

第188話:心包/心包経を考える(2/2)



◆奇経の要素を併せ持つ心包経虚
この図は、杉山勲の『はり灸治療の手引』から採りあげたもので、経絡治療における病証論をチャートに表しています。図中の「陰虚証」「陽虚証」は中医学による「陰虚証」「陽虚証」とは全く意味が異なり、あくまでも経絡治療の概念によります。

そうした細かい解説は省略しますが、要は、ここで理解して頂きたいのは、「心包経虚」が他の臓腑・経絡とは別に、特異な存在であるということです。ちなみに右側中央にある「奇経」は、病が慢性域に到達すると、12経絡から溢れ出て、バイパスラインに流れた状態にあることを意味していますが、左側中央の「心包経虚」にも、この「奇経」と同じ状態になることがあると考えるのです。

ただし、わたしが考えている病証論と杉山勲による病証論との違いは、このチャートで示すと、「心包経虚」には二つのケースがあり、ひとつは「陰虚証」の中の一つとしての「心包経虚」、もうひとつは「陰虚証」から逸脱して、いわば奇経の要素を併せ持つ「心包経虚」(チャートでは左側中央の「心包経虚」)となります。

この奇経の要素を併せ持つ「心包経虚」を語る場合に欠かせないのは、感情との関係性、そして無意識との関係性です。これら順を追って説明します。

◆感情との関係性(該当する感情は「心配」と「不安」)
『黄帝内経・素問』では五臓に対して、それぞれに怒・喜・思・憂・恐の5つの「感情(情志)」を配当しています。ところが、「心包」が初めて登場した『黄帝内経・霊枢』においても、心包に配当する「情志」の記載はないままでした。

◇肝(怒)-心(喜)-脾(思)-肺(憂)-腎(恐)-心包(?)

後世の医家たちの間で、心包の感情について言及した形跡は、わたしの記憶では思い当たりません。それぞれの臓器に特定の感情をむすびつけるのは、『五行論』というオマジナイの世界だと誤解している方がいるとすれば、それは東洋医学の心理学的側面に目を向けないことだと理解しています。

これまで25年の臨床経験のなかで、「心包経虚」と診断できる幾多の患者さんを診てきました。さらには、オリジナルの診察法である「FMテスト」を使えば、患者さんの「感情」の在りようを凡そ観察できます。その経験値から分析すると、心包と密接に関連する「感情」は、たぶん「心配」と「不安」であろう!とするのが、わたしなりの結論です。

◆「心配」と「不安」の意味合い
では、先人は「心配」と「不安」という感情に、なぜスポットを当ててこなかったのでしょうか。それは、次のように考えます。
「心配」と「不安」という感情は、古代の人々にとっては直接的に関与することが少なかったとみてはいかがでしょうか。それよりも「怒り」とか「恐れ」もしくは「喜び」(というよりも、喜び過ぎて木に登るくらいの「狂喜!」)というような、起伏が激しくはっきりとした感情の方が、むしろ古代人の日常生活には十分関与していたのではと想像できます。ところが、人類の進化と成長、ないしは環境の安定化に伴い、別の意味としての感情が必要とされ、たとえば社会生活における疎外感とか不安感からくる感情の吐露として、新たに「心配」や「不安」という感情が生れたのではないでしょうか。そこにこそ、遅れて追加された「心包」という臓器と経絡の存在理由があるように思うのです。

◆カウンターウェイトとしての「心配」と「不安」
「心配」と「不安」という感情について、その表出の傾向を観察してみると、単独で表出することはもちろんありますが、むしろ「怒り」「イライラ」「落ち込み」「自責」などの強い感情や思いに寄り添うように出現する傾向にあります。これは、強い感情に対して、ややブレーキをかけて抑制にはたらくための感情だと理解できます。つまり、強い感情が暴走しないように、「心配」や「不安」がカウンターウェイト(重し)となってはたらいているからです。こうした感情の様子を交通整理した上で患者さんに伝えてあげるだけで、混沌とした気持ちが随分と落ち着いていくようです。

「心配」と「不安」という感情は、一見混沌とした感情の様相を作りだすかのように見えますが、かといって決してマイナスの感情だけではないということ。むしろ感情の世界にバランスをとろうとするはたらきが「心配」と「不安」という感情にあるとみます。

◆無意識との関係性
普段は「肝経虚」や「脾経虚」の方が、急に「心包経虚」に変化するときがあります。そのほとんどは、奇経の要素を併せ持つ「心包経虚」です。その様相としては、外からの強い念とか感情に動揺されて、気持ちの在りようが当に混乱をきたしている状態、いわゆる「人疲れ」が生じている状態です。だるいとか眠いなどの自覚症状がある場合と、ぼんやりとしながらも、はっきりとした自覚症状がない場合もあります。そんなときに、感情の在りようをみると、「心配」や「不安」に増して「怒り」「イライラ」「落ち込み」「自責」などのいずれかが、強い感情として現れ、まるでカウンターウェイトであるべき「心配」や「不安」がカバーしきれない様相にみえます。

概して「アンテナが敏感な人」のように、受信能力がより長けた人に多いようです。そして、決まって胸中央のツボ「檀中」と、背中のツボ「霊台」に反応がみられるのが特徴です。ここで「奇経の要素を併せ持つ」と形容したのは、通常の「陰虚証」から逸脱して、異なるフェーズ(位相)に移行したという意味です。異なるフェーズとは無意識レベルとしか言いようのない領域であり、表出する感情の根源は混沌(カオス)の無意識世界を由来とするものと考えています。無意識世界というと、何か特別な世界のようですが、誰にでも発現する可能性をもっています。

ここで「心包経」が無意識と関係があるとみるのは、心包経の募穴がツボ「檀中」であることが大いに関連があるとみています。乳房と乳房の中間に位置して、胸骨の窪みにあるツボ「檀中」は、本山博によれば、第4チャクラの「アナハタチャクラ(心臓のチャクラ)」に該当すると指摘しています。チャクラとは身体を離れた別次元への「扉」のような概念ですが、わたしにとってはそれが無意識世界への「扉」のように思えるのです。

◆まとめ
自説『心包経虚論』をまとめると、次のようになります。
⑴陰虚証としての「心包経虚」
◇病証:「気分障害」、「睡眠」、「循環器系」の症状を呈する。
◇基本治療穴:右の内関、左の中封
⑵奇経の要素を併せ持つ「心包経虚」
◇病証:気持ちの在りようが当に混乱をきたし、所謂「人疲れ」の状態。
◇基本治療穴:右の郄門(げきもん)、左の蠡溝(れいこう)

(完)

※文中の「檀中」の「檀」は正しくは「木へん」ではなく「肉づき」