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第87話:桜のワンシーン



春の嵐とともに、桜前線はようやく関東からふるさと東北へと歩みを進めたようです。
さて、「桜狂い」と呼ばれた西行さんには、吉野山の桜を詠んだ歌が60首もあるとか。
わたしのお気に入りは次の2首。

「ねがわくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」
「散る花を惜しむ心やとどまりて また来ん春のたねになるべき」

満開の中で死ねたらいいねという気持ちと、来年の桜に再生を託そうとする気持ちは
どちらもありだよね、と思うのが「桜」のもつ魅力でしょうか。

桜が咲くといつも思い出すのが、Aさんから伺ったちょっといい話。

Aさんの御主人が亡くなったのが6年前のこと。葬儀は3月の末で、ちょうど桜が満開の日でした。霊柩車が桐ケ谷斎場に向かうときに、運転手の方が時間を調整しようと、気をきかして少し迂回したらしいのです。その行き先がかむろ坂の桜並木。車はそこで満開の桜の中をゆっくりと動いていったそうです。それがまるで映画のワンシーンかのように、桜並木の中をスローモーションで移動する車を俯瞰して撮った映像がふと浮かんできて、おもわず胸がつまったとのこと。Aさんは今でもあの「桜のワンシーン」は忘れないといいます。

それはきっと、御主人が遺してくれた、満開の桜で染めた「最後の想い出」ということでしょう。しかもその「桜のワンシーン」は、家族の心象風景として、毎年桜の季節になれば、桜の満開と共にAさんの下にちゃんと忘れずに届けてくれるということです。
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第86話:「桜の木に気をかけなはれ」



「桜が散るとまた桜の一年が始まるもんです」
とTVのインタビューに答えて話すのは、京都の桜守(さくらもり)十六代佐野藤右衛門です。
咲いているだけが桜ではなく、散っては葉桜になって実を結び、夏の盆が過ぎると幹が成長し、秋には紅葉し、冬にはじっと新芽の準備をする、そのすべてがあってこそが桜の一年。と強調します。

そこで、桜とどう向き合うかについて、
「花見が終わっても散歩のついででいいから、桜の木に気をかけなはれ、そうすると桜もきっと応えてくれるもんですわ」
と教えてくれます。

咲いているだけが桜ではない、という指摘は耳が痛いほどに理解できます。春になれば花見に浮かれるだけで、ほかの季節の桜に思いを馳せることは確かになかったこと。秋になって桜の紅葉が「きれいだ」と気づいたのは、恥ずかしいかな、ここ数年のことでした。

佐野藤右衛門の話からは、桜を通して「人と自然は共生している」ということがよく分かります。さらに桜守が「木のこころ」を読みとって適切に手を加えることと、治療家が「身体とこころ」を診て治療することには、なにか共通した「眼差し」があるようにも読み取れます。なぜなら、桜に四季折々の顔があるように、人の「身体とこころ」も、季節に感応しながら変化してゆくものだからです。

佐野藤右衛門の『櫻よ・「花見の作法」から「木のこころ」』(集英社文庫)を読んでみました。章ごとのタイトルがとても粋です。その一部を紹介すると、

「人知れず咲く山桜が最高の花見」
「花見は一人でするもんや」
「姥桜こそ、美しい」
「自然に対してもっと五感を働かせ」
「あんたの都合で桜は咲かへん」
「桜に狂い咲きなど絶対にない」

とこんなふうに、興味をひかれる内容が続きます。
佐野藤右衛門の語りには職人(名人)ならではの直截簡明な小気味よさがあり、しかも「桜」の領域を越えるほどに示唆に富んだ深い洞察に溢れています。

※佐野藤右衛門『櫻よ・「花見の作法」から「木のこころ」』集英社文庫(04年)

第64話:江戸の時間

落語の『芝浜』は魚屋を営む夫婦を描いた人情噺です。しっかり者の女房が、飲んだくれて半月も商いを休んでいる亭主を起こし、釜の蓋があかねーから今日こそさっさと商いに行っとくれとばかりに送り出します。いやいや出掛けた亭主は、いつも魚河岸に着く頃には夜が明けるはずなのに、今日はまだ暗くてどうも様子がおかしいと思う。そうこうしていると、時を知らせる増上寺の鐘が7つ、時は「寅の刻」。明六つの「卯の刻」はまだ一時(いっとき)さき。「おっかぁ~のやつ、一時(いっとき)間違えやがった」と、うす暗闇の芝の浜でつぶやきます。

今では落語や時代小説でしか垣間見られない、こうした「明六つ」だの「卯の刻」という独特の「時間の概念」をここで取り上げてみます。

江戸の時代は、一日を12で割った時間を「一時(いっとき)」といい、「一時(いっとき)」は凡そ2時間に相当します。この十二の時(とき)に十二支を配当して時の名称とし、これを「十二辰刻(じゅうにしんこく)」と呼びます。下図のように、十二支の順番でいくと、午後11時~午前01時が「子の刻(ねのこく)」、午前01時~03時が「丑の刻(うしのこく)」、続いて2時間毎に「寅の刻」、「辰の刻」、「巳の刻」、「午の刻」、「未の刻」、「酉の刻」、「戌の刻」、そして最後に午後09時~11時が「亥の刻」となります。



[十二辰刻]       [中心時刻] [鐘の数] 
[子の刻](23時~01時)[午前00時] 九つ(正子) 
[丑の刻](01時~03時)[午前02時] 八つ 
[寅の刻](03時~05時)[午前04時] 七つ  
[卯の刻](05時~07時)[午前06時] 六つ(明六つ)〇日の出 
[辰の刻](07時~09時)[午前08時] 五つ  
[巳の刻](09時~11時)[午前10時] 四つ  
[午の刻](11時~13時)[午後12時] 九つ(正午)  
[未の刻](13時~15時)[午後02時] 八つ(おやつ)  
[申の刻](15時~17時)[午後04時] 七つ  
[酉の刻](17時~19時)[午後06時] 六つ(暮六つ)★入り日 
[戌の刻](19時~21時)[午後08時] 五つ  
[亥の刻](21時~23時)[午後10時] 四つ   

ここで1年をとおして、日の出の時が「卯の刻」、日没の時が「酉の刻」と決まっていて、時を知らせる梵鐘は、それぞれが同じ「六つ」鐘を叩くことから、「卯の刻」を「明六つ(あけむつ)」、「酉の刻」を「暮六つ(くれむつ)」と呼びます。そこから昼と夜をそれぞれ6等分したのが「一時(いっとき)」になるのです。これは「不定時法」という時間法で、季節によっては「一時(いっとき)」の長さが伸び縮みするというということ。実際昼の「一時(いっとき)」の長さを比較すると、春分秋分のときが「2時間」、冬至のときが「1時間50分」、夏至のときで「2時間38分」となるそうです。こんなふうに季節によって時間の長さが変わってしまうなんて、現代人の頭と身体ではなかなか理解できない話ですが、実はこれこそ、自然の運行を最大限に優先した「時間の概念」といえるのかもしれません。

江戸時代の日本人は、日の出とともに起き、日の入りとともに寝る準備をしていました。それは照明などのエネルギー消費を極めて少なくしたエコロジーな生活だったといえます。商人や職人などの勤勉な労働者は、現代人のように日没後に残業するなんて到底考えられないこと。むしろお天道様を拝める時間の中でしっかり働くことを旨とし、しかも季節によって伸び縮みする時間に、身体も上手に合わせて暮らしていました。まさに自然体で無理のないライフスタイルを、江戸の庶民は普通に身につけていたことに、ただただ驚くばかりです。

十二支は「時間」だけでなく「方位」にも関連付けていいる。
例えば「辰巳の方角」といえば「東南」になる。
※「一時(いっとき)」の4分の1が「刻(こく)」で今の30分。
怪談でよくいう「丑三つ時」とは[丑の刻]の3番目の「刻」で午前2時から2時30分に当たる。
落語『芝浜』:かつては先代桂三木助の十八番でしたが、最近は立川談志があっというまに桂三木助を越えた感すらあります。図書館でCDを借りて両者聴き比べてみました。談志の落語は『芝浜』に限らず、すべての噺に独創的な演出がみられます。談志こそ名人としか言いようがありません。もっと生前に聴いとけばよかったと後悔しています。

第31話:「木」と会話する(クスノキ)

くす


私にとってのアクティブな趣味といえばジョギングです。ちょっとかわっていますが、私流の楽しみ方は走りながら「木」と会話するということ。「木」と会話するにはまずは相手の名前を覚えるのが礼儀と心得、近くの洗足池公園で散歩しながら樹木の名前をずいぶん覚えたものです。その甲斐あってか、相性がよいと思った最初の「木」がクスノキ(樟)でした。古くから神木として親しまれ、鎮守の森の大木といえばクスノキと相場が決まっています。宮崎駿の「となりのトトロ」でも、七国山の祠の傍にそびえ、しめ縄で飾られたあの大木もクスノキでした。私の父方の本家が神社の宮司ということもあり、なんとなく相性がよいと思ったのはそんなDNAが騒いだのかもしれません。

ひとつ紹介すると、自宅から皇居までのジョギングコースであれば約12キロ。中原街道を五反田に向かい桜田通りをひた走って桜田門までの行程です。途中、魚藍坂から左折する角に面する慶応大三田校舎はクスノキとヤマモモの大木に囲まれています。さらに右手に東京タワーが見えるころには「芝公園」のクスノキも視界に入ってきます。そして和製マロニエと呼ぶトチノキの街路樹になる霞ヶ関官庁街を抜けると終点の皇居桜田門。その手前左には、刑事ドラマでおなじみ警視庁のクスノキがでんと偉そうに立っています。

幸田文の本には「木にはそれぞれ履歴がある」と書いています。私が生まれる前の歴史をこの大木はきっと記憶しています。戊辰戦争とか、関東大震災、二二六事件の雪の日、そして東京大空襲の3月10日未明のことなどを。そんなことを想像しながら、まなざしを「木」に向けることが会話すること、と自分なりに解釈しているのです。

都内のクスノキで一番のお勧めは、なんといっても明治神宮。大正8年に造営されたそうですが、照葉樹林の森として、これだけ成熟度の高い森はないといわれています。時の大隈重信が「代々木の森を藪にする気か!」と落葉樹に反対して杉を植えよと提言したそうですが、専門家たちは「関東ロームには杉は育たない、100年後の森を見据えるなら、カシ(樫)、シイ(椎)、クス(樟)などの照葉樹林が一番相応しい」と説得した経緯があったとか。こうした見識のある専門家のお蔭で、私たち現代人は都会にいながらにして、森林浴を堪能できるというものです。これから8月の暑いさなかに、明治神宮の森に逃げ込めば、きっとここは、緑の涼に囲まれた「アジール(聖域的避難所)」だと確信できます。

それから、舟越桂の彫刻の素材はクスノキだとか。天童荒太の「永遠の仔」の装丁デザインに使われて以来、実は舟越ファン。神木として扱われてきたクスノキで彫った胸像に、大理石の目玉を入れ込むなんてまさに画竜点睛。仏像でいえば現代の「檀像」といえるかも。彼の作品が惹きつける理由は、たぶんそこにあるのではないかと分析しています。

※幸田文『木』新潮文庫(平成07年)
※白洲正子『木』平凡社ライブラリー(00年)
以上の2冊は、「木」と上手に会話できる最良のテキストです。

第20話:「旧暦」を調べてわかったこと

◆はじめに
『旧暦カレンダー』を治療室のいつもみえるところに貼っています。月齢がビジュアルにわかるように、月の形が日付の下に描いているスタイルが一番便利です。本日2012年6月20日でいうならば、旧暦の5月1日で新月になります。そう今日から皐月(さつき)。梅雨は水無月より旧暦の皐月の方が似合います。

「満月に人は生まれやすく、新月に人は死にやすい」とか「満月になると気分や体調に変化を起こしやすい」などといわれます。実際そうした傾向を感じることはあります。ではこの旧暦という暦はどんな特徴があるのか調べてみました。

◆旧暦の歴史と概要
中国哲学では天人相関の基本的信仰があります。自然界の現象(天)と人間生活の現象(人)との相関関係を経験的に見出して、その関係性を尊重する眼差しをもっていることです。古代中国では同じ天を扱う「天文」と「暦学」が、精密科学としての伝統的地位を確立していました。その中の「暦学」は天の運行の規則性を見出し、その規則によって将来をも正確に予測するもので、太陽や月の運行の数学的関係式を作り、将来の日食や月食を予報するまでに至り、四千年以上前に開発されたのが「農暦」という暦でした。

旧暦とは正確には「太陰太陽暦」という暦法です。日本では明治5年(1872年)12月3日の改暦まで、千二百年以上にわたって使われてきました。基本は「農暦」と同じです。古くは7世紀後半「白村江の戦い」の後、百済から逃れてきた渡来人によって日本に伝わったとされています。中国の隋唐に倣った律令官僚制度のなかでは、「陰陽寮(おんようのつかさ)」にあり、天文博士や暦博士が担っていました。実際の季節とズレを修正する目的もしくは政治的な目的からしばしば改暦を繰り返してきました。ちなみに針灸博士は「典薬寮(てんやくのつかさ)」になります。

この旧暦は、基本的には月の運行を中心として、1年は大の月(30日)が6回、小の月(29日)が6回、合わせて354日になります。しかし、そのままでは「太陽暦」との誤差が、1年で11日あまりも生じてしまいます。春夏秋冬のある東アジアでは、四季がずれてしまうのです。古来、中国では天文学が発達していたので、一年(太陽年)が365日であることが分かっていたのです。(これがすごい!)そこで考えだされたのが、「太陽暦」を活用した「閏月(うるうづき)」です。太陽暦との誤差を調節するために、「平気法」という法則に基づいて、19年に7回、閏月が入り、その年は1年が13ヶ月になります。
旧暦を一般的に「太陰暦」と呼ぶことで、月の運行だけで作っていると誤解を生じやすいのですが、実際には月の運行と太陽の運行の両方を加味した「太陰太陽暦」なのです。また、二十四節気(立春~大寒)が四季の区分の指標になっています。

◆旧暦の活用
実は今年2012年は「閏3月」があり、1年が13ヶ月で構成されています。これは今年の春は1月から閏3月まで4ヶ月あることになり「今年の春は長い」という季節の特徴を示しています。実際太陽暦で言えば旧正月(春節)だった1月23日から5月20日までの期間になります。(つまり金環日食の5月21日から夏がスタートしていた。)閏月が四季のどこに入るかで、日本の気候が大きく変動することも、実際の気象統計と照合すると納得できるといわれています。こうした旧暦の情報から前もって商売に活用することもあるとか。たとえば婦人服を扱う経営者が、今年は春が長いとの予測をもとに、長袖のブラウスや薄手のセーターをいつもより多めに仕入れて長めに置くのだそうです。

◆天文学的な文化遺産
ところで今年の相次ぐ天文ショーで気づかれたと思いますが、金環日食の5月21日は旧暦の4月1日の新月で、部分月食の6月4日は旧暦の4月15日の満月でした。つまり日食は新月の朔(1日)にあり、月食は満月の望(15日)と決まっています。暦が太陽と月の運行に密着するように作られいて、旧暦は太陽暦よりもはるかに天文学的であるということです。一方西洋から始まった「太陽暦」は、天文学とは離れたところにあり、生活上の便宜のための簡単なもの、もしくは教会の行事や年中行事を暦注するものであったというわけです。「太陽暦」であれば来年のカレンダーを子供でも作れますが、旧暦のカレンダーはそう簡単には作れないのです。ですから古来より暦学家は太陽や月の運行を数学的関係式で割り出し、その正しさを日食や月食の予測で確認していたのです。

旧暦の知識を学ぶといろいろなことがわかってきます。旧暦は迷信でも不合理なものでもなく、先人が遺してくれた文化遺産です。きわめて天文学的に裏打ちされたもの、ひらたくいえば「自然のありように適した暦」というだけでなく「人にやさしい暦」なのです。

※中山茂『日本の天文学-占い・暦・宇宙観』朝日文庫(00年)
※小林弦彦『旧暦はくらしの羅針盤』NHK出版生活人新書(02年)
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