第142話:「前のめりに生きるひと」のために



多くの患者さんをみていると、前のめりに生きている方、結構多いような気がします。仕事でも家事でも一生懸命取り組み、身を粉にして頑張りすぎて、いつも疲れている方です。ゆっくり自分の身体と向き合って休息を与え、ときには自分にご褒美を与えることなど考えも及ばない、いつも前向きすぎるのです。こうした方の多くは、実は浅い呼吸をしています。

とかく頑張りすぎると呼吸は乱れやすくなります。それは周りに気を配るばかりに人の呼吸に合わせすぎるからです。すると自分の呼吸を忘れてしまい、呼吸は浅くなり自律神経が不安定になり、結果さまざまな不定愁訴を抱えてしまうことになります。ストレスフルな現代社会ほど、自分の呼吸を維持することは中々むずかしいものです。たかが「呼吸」されど「呼吸」ということ。逆に、深い呼吸を取り戻せば、疲労を回復するだけではなく、病気の予防にもつながります。

そうした方が鍼灸治療を受けると身体が軽くなり元気になっていきます。呼吸に意識を向ければ、明らかに治療前に比べて呼吸は深くなっています。呼吸が深いのは上体がリラックスした、いわゆる「上虚下実」(丹田に「気」が充実してどっしりし、上体には余分な力が入っていない状態)になったこと。しかも次第に本来の自分の呼吸を取り戻していきます。

このように、鍼灸治療は「気」の流れを調えると同時に「呼吸」もしっかり調え、元気にしてくれます。それと、定期的に治療を受けると、自分の身体と向き合う時間をしっかり確保ができて、それが至上の癒しであることを次第に実感できると思います。(了)

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第106話:「走ることについて」



◆ランナーズハイ
自宅から中原街道・桜田通りのルートを使って皇居の桜田門(12キロ)まで走り、そのまま皇居の周回コース(5キロ)を左回りに走ります。ちょうど終盤の半蔵門(上の写真)から桜田門へ向かう辺りになると、苦しい時間帯のはずなのに足取りはとても軽く、左手の緑の急斜面から深いお堀へと吸い込まれそうな気分になってきます。一瞬「このまま転げ落ちてもいい」と思うほどの「心地よさ」を感じてしまいます。これが当に「ランナーズハイ」。有酸素運動を繰り返すことで脳内の麻薬用物質であるβエンドルフィンが分泌されて、心身共に高揚する状態といわれています。人はなぜ走るのか、たぶん、こうした「ランナーズハイ」の「心地よさ」を味わえることが、その大きな要因であると考えています。

◆「心地よく走る」経験則
ジョギングは30代から続けてきた唯一のスポーツ。シティーランナーらしく「心地よく走る」ことにこだわってきました。ジョギングはきわめて個人的なスポーツ。だから何を語ろうがそれは汎用性のない内容になりがちです。あくまでも自分の身体を実際に動かすことによって、個人的に学んで得た「心地よく走る」経験則みたいなものですが、あえて紹介してみます。

走るときの「心地よさ」は、有酸素運動の中でひたすら「身体」と向き合うことよって生じてきます。「身体」と「精神(こころ)」のバランスを考察してみれば、明らかに身体性がより優位に働くほど、変性意識ともいえるランナーズハイが確実に訪れてきます。もし日常の些事の悩みや心配事があれば、とりあえず留保して考えることを止めます。つまり何も考えることなく、ただひたすら走ること―それが「身体と向き合う」ことであり「身体性をより優位にする」ことなのです。

それともうひとつの「心地よさ」があります。それはアイデアがふっと降りてくること。治療上のヒントなどが走っているときにふと浮かんだりします。無理に自分から考えることをしないかわり、直感的に思い浮かんだことだけを拾って考えることにしています。たぶんそれは無意識からの贈り物であり、やはり「身体性をより優位にする」ことで無意識との回路がオンになるからでしょう。それがうまくはたらいているひとときが創造的な「至福の時間」といえます。

ここで留意すべきは、肉体的な痛みとか苦しさの対処法。もし足が痛いとか膝が痛くなれば、ペースを落とすか走る距離を短縮するかで調整します。そうすることで、常に痛みや苦しみはオプショナルなもの(こちら次第)にしておくことが「心地よく走る」ためにとても大切なことだと考えています。ちなみに、この「オプショナルなもの」という表現は村上春樹がつかっていたもので、とても気にいっています。

◆「走ること」は「瞑想すること」
こうして「走る」という行為は「身体」と「精神」に関わるという意味では、ちょっと大げさな言い方かもしれませんが、まるで宗教的な「行(ぎょう)」に似ています。というのも、宗教学者が説いた「瞑想の基本型」について述べた次の行(くだり)が目に留まったときに、ふと「走ること」と「瞑想すること」にはどことなく共通性があると気づいたのです。

「瞑想というのは精神から身体へ深まっていくものであります。決して精神に対立する身体ではなくて、精神の表面的作用が次第に消えていって、遂には、精神そのものを包みこんでしまうような深い身体へきわまっていくのであります。」(玉城康四郎)

「瞑想」を「走ること」に置き換えても、意味は十分通ることがわかります。たとえば「走る」という単純な身体運動をひたすら繰り返し、または意識を呼吸に集中することで、すべて自分の「身体」に向き合うようにします。すると日常の些事から生じた諸々の感情は次第に遠ざかってゆく―それが「精神の表面的作用が次第に消えていって」という意味と重なります。さらに身体性が深まることで無意識レベルに生じる感情が抑制され、ランナーズハイのような変性意識が生じて高揚し、ときに創造的世界へと拡がることも可能です―それが「精神そのものを包みこんでしまうような深い身体へきわまっていく」という意味と共通するのです。

「走ること」の利点には「仲間や相手を必要としない」「特別な道具や装備も不要」「特別な場所まで足を運ばなくてもいい」などたくさんあって、それらに総じていえることは、きわめて個人的営みを大切にしているスポーツだということです。したがって走る楽しみ方も人の数だけあってもよいということ。わたしはといえば、こんなふうに瞑想する気持ちでいつも走れたらいいなと思っているところです。

※村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』文春文庫(10年)
「走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている」というフレーズが印象的。
※玉城康四郎『瞑想と経験』春秋社(73年)
玉城康四郎(1915~1999)。仏教学者であるまえに、日々行者であろうとする姿勢に敬服。
※湯浅泰雄『気・修行・身体』平河出版社(86年)
坐禅のように坐る瞑想が「常坐三昧」で、ひたすら行(ある)く瞑想が「常行三昧」。
「常行三昧」で有名なのが比叡山での「千日回峯行」。走る瞑想があるとすればこの「常行三昧」に近いといえる。

第105話:「黒胡麻ニンニク健康法」



◆備忘録から
古い備忘録ノートを整理していると、忘れかけていた「黒胡麻ニンニク」のレシピをみつけました。日付をみると8年前になります。来院された84歳の御婦人Aさんから教わって書き留めたものです。腰痛で来院されたAさんは大正10年東京深川生まれ、どこか女優の岡田嘉子に似て、背筋がしゃんとしているのでとうてい84歳にはみえないほどでした。聴けば、それまで病気らしい病気ひとつしたことがないとおっしゃいます。その健康の秘訣はなんでしょうかと伺うと、ほぼ20年間毎日飲み続けている自家製の「黒胡麻ニンニク」にあると教えていただいたのです。そこで今回は「黒胡麻ニンニク」の作り方を紹介してみます。

◆「黒胡麻ニンニク」の作り方
【材 料】:黒胡麻を1合、ニンニクを親指大にしたもの10個、ハチミツを1合。
      黒胡麻は「洗い胡麻」ではなく「炒り胡麻」。ニンニクは国産品を使う。
【作り方】:黒胡麻をフライパン(orほうろく)で炒る。
      1合を数回にわけて油が出るまでていねいに炒る。
      炒った黒胡麻をすり鉢でよくする。
      すり胡麻を容器に移し替え、すったニンニクとハチミツをよく混ぜる。
      1か月寝かせれば出来上がり。
【飲み方】:毎日ひと匙飲む。ニンニク臭があるので寝る前に飲む。疲れたときにこれを
      飲むと疲れがとれる。永く飲み続けるほど風邪をひかなくなる。

◆「黒胡麻ニンニク」の効用
黒胡麻とニンニクは健康補助食品の材料として定番ともいえるものですが、いまいちどその効用を整理してみます。
「胡麻」といえば抗酸化物質「ゴマグリナン」の一種「セサミン」が含まれており、活性酸素を除去することで老化防止やガンの予防にもなるとされています。また、「ゴマグリナン」は食物繊維の仲間で女性ホルモンの「エストロゲン」と似たようなはたらきをするので、更年期女性のホルモンバランスを調える作用もあります。
「ニンニク(大蒜)」はビタミンB類が豊富で筋肉疲労を改善し、また胃腸のはたらきを助け、薬味として使われるように抗菌作用にも優れています。

これらを「薬膳学」から考察してみれば、「胡麻」は老化に関わる「腎」に、「ニンニク」は胃腸に関わる「脾」にはたらくと分析できます。つまり「黒胡麻ニンニク」は「腎(=先天の気)」と「脾(=後天の気)」の両方の「元気」にはたらくわけですから、養生を目的とする「保健薬膳」としても当に理想の組み合わせです。

◆健康法には時機がある
今回のことで思ったのですが、健康法との出会いには時機(タイミング)があるようです。つまり、健康法と出会う際には、そこで芽生え始めている健康に対する「意識」がそれとかみ合っているかとか、その健康法を必要としている「予感」がそこにあるかなど、当に時機が熟していることが必要条件のような気がします。となれば、漫然と選択するのではなくて、主動的に選択してこそ健康法は自分のものになっていくのです。

というのも、8年前はこの「黒胡麻ニンニク」を作って毎日飲んでみたものの、結局1か月も続かなかったのです。そのころは特にどこが悪いということもなく、当然健康に対する「意識」は希薄でした。それなりに健康であるゆえに時機は熟してなかったということです。

それが8年たってみると、人並みに「加齢」を意識するように身体の衰えを実感するようになってきました。「黒胡麻」で「補腎(腎の機能を補う)」して、「ニンニク」で「健脾(脾胃の機能を健やかに)」する必要性をようやく身体が実感するようになってきました。
古い備忘録ノートから、忘れかけていた「黒胡麻ニンニク」のレシピが目に留まったこと自体、なにか意味がありそうです。Aさんとの御縁から教えていただいた「健康法」がようやく日の目を見るのに8年かかったことになりますが、むしろこの時機を大切にして、さっそく「黒胡麻ニンニク健康法」を始めたいと思っています。

第54話:浩然の気を養う

「浩然の気を養う」という古くからの成句があります。「浩」は広大の意。浩然の気は、宇宙の根源の「道(タオ)」に繋がる充実した気という意味です。今の言葉でいえば、「自然の中に身も心も投じて、大いに元気をもらいましょう」といった意味になります。明治の文豪夏目漱石の『吾輩は猫である』には、主人公の猫が近所の庭でひねもす寝ころんで浩然の気を養う-という行(くだり)があります。明治の猫はさすがに高尚な趣味をお持ち(?)と感心しますが、同時に「浩然の気を養う」という行為が、当時は普段の養生法として定着していたことを窺わせます。

そもそも「浩然の気を養う」は『孟子』の「我、善く吾が浩然の気を養ふ」に由来します。ここで注目すべきは、その背景に存在する『荘子』の考え方。荘子は「人間の気」より「自然の気」に重きをおいていることです。ならば人間関係における気のキャッチボールに疲れ果て、ストレスを抱えがちな現代人は、「浩然の気」「自然の気」をしっかり補充する必要があるというものです。

では、浩然の気を養う-現代の養生法としては、どんなものがあるでしょうか。これまで接してきた多くの患者さんを参考に、紹介してみます。

はじめに紹介するのは「山歩き」です。山歩きをしてきた方はほとんどが「山から元気をもらってきました」とおっしゃいます。山が快く向かい入れておまけに元気までもおみやげにくれるなんて、当にお得な養生法です。これに関連して、自然界の「音」に注目する科学者がいます。自然の森には、鳥や虫の声、風にそよぐ木の葉の音、谷川のせせらぎの音など豊かな音に溢れています。人間の聴覚は20キロヘルツ以内の音しか聴くことができません。ところが、自然の森の中には100キロヘルツよりもはるかに高い周波数の音を出しているといいます。この高周波成分の音は、耳には聴こえていなくても、人間の脳(特に脳幹や視床下部)では、たしかにキャッチしていることが判明してきました。高周波成分の音によって脳基幹部が刺激されると、いわゆる「生きる意欲」をつくるドーパミンや、「心を鎮静化」するノルアドレナリンなどの神経伝達物質が多く分泌されて、私たちは単に気分的に心地よいだけでなく、まさに大脳生理学的に癒されるのです。山に行くと元気がもらえるのは、こうした脳にしか聴こえない自然界の「高周波成分の音」がきっと影響しているからかもしれません。

次なる養生法は「温泉」です。古くは江戸中期の京都では、後藤艮山という漢方医が、お灸と温泉療法を提唱していました。当時から有名な温泉地は「有馬温泉」と「城崎温泉」だったとか。温泉は火山国日本の宝といえます。温泉に行けば、気分もリラックスするのは、温泉の効用だけでなく、湯けむりの温泉街の近くにはだいたい名勝地があるように、きっと自然の「場の癒し」の効果も十分あります。また、主婦ならば「上げ膳据え膳」の時間、家事からの解放という意味合いも加わります。近場の温泉で定宿を決めて季節折々に楽しむ方もいます。よいことばかりの温泉、日本の宝である温泉を利用しない手はないのです。

最後は「旅行」ですが「そうだ京都いこう!」とJR東海のキャッチコピーそのままに実行した方がいます。退職間近58歳の女性Aさんは土曜日の早朝、食卓テーブルに置手紙を家族に残し、紅葉の京都にでかけました。新幹線による日帰り旅行ですが、急に思い立って即実行に意味がありそうです。置手紙には「京都に紅葉をみてきます。探さないでください。」、その横に携帯電話を置いていく念の入れようです。紅葉の京都で浩然の気を養ってきたAさんは、とてもすがすがしい顔でその晩に無事ご帰還したことは、いうまでもないことです。


※孟子(BC372~BC289)『孟子』より
「その気たるや、至大至剛、直を以て養ひて害すること無ければ、天地の間に塞がる。
我、善く吾が浩然の気を養ふ。」
中国戦国時代の孔子につぐ儒学者。
※大橋力『音と文明―音の環境学ことはじめ』岩波書店(03年)
 合唱団「芸能山城組」を主宰しながら、文明科学研究所長として音の研究に携わる。
※後藤艮山(1659~1733
 江戸中期の古方派の漢方医。27歳のとき父母を伴って京都に移り医を業とした。伝統的な医学理論をあまり重視せず、一気が停留することによって病が生ずる「一気停留説」を唱えた。熊胆・蕃椒を多用し、灸治療、並びに温泉療法を推奨したので「湯熊灸庵」のあだ名がある。

第21話:老いと向きあい病をつれそう

高齢の患者さんで特に80歳を越えると、どうしても完全には治らない病をかかえる方が多くなります。腰骨が曲がっていたり膝の軟骨がすり減っていたり、骨の変形はもちろん元にもどることはないのですが、少しでも進行を抑えたい、つらい症状をいくらかでも軽くしたいと定期的に鍼灸治療を受けられます。患者さんにとっては、ひとつの病を抱えるだけで精神的に参ってしまいがちですが、現実につきつけられた問題として、完全に治らない病とどう向き合い、どう上手に付き合っていくかが、とても大事なテーマになっていきます。そして老いの先にある「死」をみつめることにもなります。

歌人の斎藤史(さいとうふみ)(1909~2002)は、老いや病の処し方をテーマにした短歌をたくさん遺しています。単に老いや病と明るく向き合う歌というだけでなく、深い洞察に裏打ちされた人生の真理を提示してくれます。へたな養生書よりきっと参考になりそうです。

「〈コワレモノ注意〉と書ける包み持ち 膝病むわれが傾き歩く」(斎藤史)

これなんか情景が浮かんでくるユーモラスな歌です。自分の膝とコワレモノ表示を対比するおかしさ、そんな状況をむしろ楽しんでいるかのようです。多くの人は膝を傷めると自由に出掛けられないことにまずはショックを受けます。斎藤はそんな自分の姿さえも明るく観察してしまう小気味よさがあります。

「死の側(がわ)より 照明(てら)せばことにかがやきて 
               ひたくれなゐの生ならずやも」(斎藤史)

老いは死をみつめることです。これは歌集「ひたくれなゐ」に収めた彼女の代表的短歌です。いつかは必ず死ぬものと分かってはいても、いざ現実の無常感を前にすれば誰しもが死の恐怖にあたふたとする。ところがこの歌では、暗い死の側よりのぞくと実は生がなんと輝いていることか、という発見。これは中々気づかない着眼です。一瞬の生に光明がさして、いまを大切に生きようと思わせます。 

以前、大病をしたAさん(80代)の自宅に毎回出張して、病後の体力回復のために鍼灸治療をしていました。治療の効あって体力は回復してきたのですが、少し物忘れが多くなったことを気にしはじめると「もう死にたい」と口にするようになりました。「次回私が来るまではとりあえず死ぬことはやめて生きていること」を約束してもらい、出張治療を続けていました。治療家は患者さんの身体だけでなく、心にも向き合っているという当たり前のことに気付かされながらも、ただ無力感を味わうだけでした。ふと斎藤史の「ひたくれなゐ」を思い出し、Aさんには「いまを大切に生きてほしい」と祈るばかりでした。

※斎藤史『斎藤史歌文集』講談社文芸文庫(01年)