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第163話:昭和16年の日記から見えるもの(2/2)

~国体イデオロギーと八紘一宇~



◆泥沼化した日中戦争
昭和12年(1937年)7月7日に勃発した「支那事変(日華事変)」は、盧溝橋で日中両軍の偶発的な衝突から始まり、次第に全面戦争へと発展します。当初、現地では停戦協定を進めているにもかかわらず、時の近衛内閣は早々と華北への派兵を決定。8月には上海で武力衝突、12月には国民政府の首都である南京を占領(ここで南京大虐殺が起きた)。こうして日本軍優勢のまま中国は簡単に屈服すると思われたにもかかわらず、中国の抵抗が予想外につよく日本軍の死傷者は増大します。この年に動員された兵士はなんと93万人、そのうち戦死者は11月8日までに9115人に達したと戦史には記録されています。これは「事変」ではなく明らかに「日中戦争」という名の「侵略戦争」です。10月の国際連盟総会では日本に対する非難決議が採択され、日本は国際世論の反発を受けながら、もはや先の見えない泥沼へと突入していったのです。

◆「東亜新秩序の建設」
「支那事変」が混迷の長期戦に至り、結果的に昭和16年(1941年)の大東亜戦争(太平洋戦争)に発展した経緯を振り返れば、その大方の舵取りに近衛内閣の首班である近衛文麿が関わっています。(その意味では近衛文麿の政治責任は東條英機よりも重大。)
近衛内閣は宣戦布告のないまま、「支那事変」の派兵を「膺懲(ようちょう)」(条約を守らない中国を懲らしめる意)のための聖戦であると声明。ところが多くの犠牲を払い長期化を余儀なくされると、「膺懲」の理由だけでは難局を打開できない状況に陥ります。

そこで近衛内閣は、新たに「東亜新秩序の建設」を戦争目的であると声明。ドイツがヨーロッパで快進撃するさなか、ナチスドイツがベルサイユ体制を打破し「ヨーロッパ新秩序」を打ち立てると宣言したことに呼応し、アジアでも日本を中心とする新秩序を作ると宣言したものです。それは昭和13年(1938年)11月の「東亜新秩序の建設」の提唱であり、さらに昭和15年(1940年)6月の「新体制運動」の決意表明における「大東亜新秩序の建設」と続きました。

アジア全体(大東亜圏)における「新秩序の建設」とは、アジア諸国を西欧の植民地支配から開放し、アジア全体の安定を確保するために日本が中心となって新秩序の建設をおしすすめるということ。そのことが戦争の目的であり、領土的野心に基づく侵略戦争ではないと主張します。しかし実際のところ、日本は朝鮮に対し明治43年(1910年)以来植民地化を続け、中国には大正4年(1915年)の「対支24カ条の要求」以来、排日運動が止まないなか、国際法違反の領土侵略を続けているという矛盾を抱えていました。つまり日本が戦争目的と主張した「東亜新秩序の建設」とは、結局のところ「自己説得の論理」というべきものでした。

さらに言えば、国民はその欺瞞性に気づくことはなかったということ。たとえば父の日記には「新秩序の建設に絶えず邪魔をする米国」という新聞記事のフレーズが記されているくらいです。

◆「八紘一宇」とは
一般国民が「東亜新秩序」に賛同し戦争を支持せざるを得なかったのは、「東亜新秩序」に天皇制(=国体イデオロギー)が如実に組込まれていたことが最大の理由でした。国民に主権がなく、天皇にのみ主権があった時代であれば、それだけ天皇が絶対の権威として存在し、国民は臣民として従わざるを得ないのです。さらに、その基本理念というべきスローガンこそが「八紘一宇(はっこういちう)」だったということです。

「八紘一宇」の意味とは、「八紘=八方の遠い土地、一宇=一つ屋根の家。八方の遠い土地までも一家とするという意味で、天皇の御恩徳にしたがい奉らない、一切の禍をなすものを打ち払い、世界中が互いに助け合って、丁度和気に充ちた一家のように親しみ合い、以て全世界の国々の平和を確立し、共々の幸福をすすめようという大精神のことである。」とあります。

神話ともいうべきこの「八紘一宇」の世界とは、皇室の万世一系の「縦の世界性」から形作ってきた日本を、「横の世界性」へ拡大し、天皇統治を世界全体に広げてゆく、という意味なのです。そうなると、「横の世界性」に含まれるアジア諸国が、ウイルソンの民族自決主義に目覚めた(ナショナリズムの)国だとすると、それは「八紘一宇」の世界には馴染まないことになり、日本は侵略する可能性を含むことになります。

昭和15年(1940年)は神武天皇即位から2600年にあたるとされた年です。戦時下の国民の重苦しさをふきとばすために、11月10日に「紀元2600年記念祝賀行事」が盛大に挙行。
記念行事において政府と大政翼賛会は「八紘一宇」の神話を強調して、戦争へのいっそうの協力を求め、国家への国民の統合をはたそうとしたのです。
こうして「八紘一宇」の神話によって、日本軍が支那で展開している「聖戦」が天皇の名のもとに美化されていったのです。

◆戦前の狂気を支えた理念
先日100歳で亡くなった三笠宮崇仁親王(1915~2016)は「皇室の歴史はかなり粉飾された歴史である」と述べられていました。これは注目すべき貴重な発言です。戦前の天皇制とは、実は明治以降に作られた「特異な天皇制」だということ。プロイセンを参考に制定された大日本帝国憲法では、天皇を皇帝に倣い主権と統帥権をになう絶対的権威とし、尚且つ粉飾した皇国史観で神格化したものです。そもそも天皇が軍服を着て白馬に跨る姿は、江戸時代以前の帝であれば、それはまずありえないということです。

ともあれ、戦前の天皇制による「国体イデオロギー」は、国民に「思想の動員」を強いたということ。しかも、国民の心情や言論までも封殺してしまうことになり、国民は国際社会を客観的に俯瞰することがないまま、謂わば「精神的鎖国」の中に置かれていたのです。そうした意味では、スローガンの「八紘一宇」とは、「国体イデオロギー」の呪術語であり、国民の誰もが熱に踊らされた、あの時代の狂気を支えた理念のひとつだったといえるのです。(了)

※『昭和の歴史⑤/日中全面戦争』藤原彰著・小学館(82年)
藤原彰は元陸軍大尉として中国大陸を転戦した経歴があり、戦場における餓死の実態を明らかにした『餓死した英霊たち』(青木書店)も著わしている。
※『シリーズ日本近現代史⑤/満州事変から日中戦争へ』加藤陽子著・岩波新書(07年)
加藤陽子は1960年生まれ。他に『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)
※『日本の失敗』松本健一著・岩波現代文庫(06年)
西田幾多郎には「八紘一宇」についての関連論文があり、和辻哲郎は『戦陣訓』作成に参画した学者のひとりだったとか。知識人が戦争に関与していたことにも言及している。


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第162話:昭和16年の日記から見えるもの(1/2)



~開戦への道筋~

◆一冊の日記帳
父が59歳で亡くなった今からちょうど40年前のこと、遺品を整理していると、表紙に「2601」と刻印された1冊の古い日記帳が出てきました。最初に手にした当時22歳だったわたしは、なんとなく読むべき使命をそこで授かったような気がして、母に許可をもらい、形見分けとしてそのまま東京に持ち帰りました。

その日記は昭和16年(1941年)、父が24歳のときに書いたものです。「2601」とは皇紀2601年を意味していました。同級生のほとんどが兵隊として戦地に赴く中、父は肋膜炎(今でいう結核性胸膜炎)を患い、そのために大学を中退し徴兵検査を不合格となり、失意のまま世田谷の自宅で療養していました。結核発病から6年目、午前中は無理をせずに臥せば、午後は少しの散歩ができるほどにようやくなったと記しています。社会との接点はラジオと新聞のみであり、楽しみといえば読書で気を紛らわすことぐらい。そんな孤独な療養生活ぶりと、今から75年前の閉塞した時代の空気が日記から窺い知ることができます。

ここで私的な日記を紹介する意味は他でもありません、昭和16年といえば大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発した年です。当時の(戦争に行くことができなかった)一青年が、12月8日開戦の日をどのような気持ちで迎えたかを知る上でも、父の日記は貴重な歴史資料になると思ったのです。

◆開戦に感動する父
12月8日の頁を開いてみると、午前七時の臨時ニュース「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」の有名なフレーズをそのまま記しています。さらに「畏(かしこ)し大詔喚発される。来るものが来たのである。」と添え、真珠湾攻撃、マレー半島敵前上陸などの華々しい戦果を並べ、結びは「歴史的な一日であった。」と感動した様子が綴られています。

この「来るものが来た」という万感の思いは何だったのでしょうか。戦後生まれのわたしにはとうてい理解しがたいところです。近代史の解説書を読むと、それは父に限ったことではなく、当時の国民が抱いた思いだったようです。ならば、なぜあんな悲惨で無謀な戦争に、国民のほとんどが大政翼賛の空気に埋没して、万感の思いを以て総力戦に参加していったのでしょうか。

その疑問に対する答えは、近代史の文脈と照合しながら、じっくり日記を読み解いてゆくと、ある程度は想像がつきました。というのも、父は内省の記録を遺しただけではなく、重要と思われた時事に関する新聞の切り抜きを丁寧に貼りつけ、自分なりの感想を添えていたからです。父の日記からは、まるで一冊のノンフェクションノベルを手にしたかのように、国内外の動静と時代の空気、そして12月8日に至る総動員化された国民の様子が読み取れるのです。

◆支那事変は「聖戦」
昭和16年とは支那事変(=日華事変)(1937年)から5年目の年。「解決不能」になった支那事変が、ついには世界規模の大東亜戦争をひきおこしてしまった年になります。明らかに日本軍は中国を侵略した戦争であるにもかかわらず、「戦争」と言わず「事変」と呼び、皇軍による「聖戦」とまで言いきります。日本側は、条約を守らない中国、条約を遵守する日本という図式に立つ論法を展開。つまり日本にとって満蒙は(日露戦争に)戦勝して講和条約で認められた既得権益であるのに対して、中国は背信または不法行為によって阻害していると主張していたのです。

たしかに日記を読む限りでも、「侵略行為」という意識はきわめて薄いことがわかります。たとえば「山東省南部の赤匪一万に大鉄槌をくだす」という記事があります。この「赤匪(せきひ)」とは共産党軍(八路軍)のことですが、軍隊ではなく匪賊(ひぞく)扱いであり、それはまるで悪者を征伐している感覚なのです。そうした国民意識の根底には、中国人を低く見る差別意識が働いていることは明らかです。

◆孤立する日本
満蒙問題はリットン調査団の報告を契機に、米英諸国からの非難が相次ぎ、国際連盟を脱退(1933年)した日本は国際社会から益々孤立していきます。実は国際社会からみれば、満州事変(1931年)以来の日本の軍事行動とは、国際連盟規約(1920年)と「支那ニ関スル九ヵ国条約」(1922年)、それに通称「不戦条約」と呼ばれるパリ条約(1928年)違反である「侵略行為」とみなされていたのです。これらの条約は、第一次世界大戦(1914年)の惨禍を蒙った諸国が反省をこめて「戦争制限と防止の新組織」として樹立した条約で、日本は3つとも参加していました。

ところが、日記を見る限りでは、日本が国際法違反の侵略行為をしているという認識はまず見当たりません。それこそ言論統制がなされていたからでしょうが、結果的には一般の国民意識までもが国際社会から乖離していたことを意味しています。

◆時局は対米国
4月から日米交渉が始まり、明らかに仮想敵国は米国という空気が定着して、大事な時局は対中国ではなく対米国に変わっている様子が日記にも窺えます。たとえば、ルーズベルト米国大統領の一般教書演説やハル国務長官の日本を非難する発言に対して、新聞までもが「日本に対する事実上の参戦宣言である」とか「米国は対日四月危機を執拗に流布している」などと報じ、日米関係の緊迫化をむしろメディアが煽ぐような勢いで連日報道し、読者である父もそれに呼応するかの感想を記しています。

更に8月になると米国は対日石油輸出を禁止。所謂ABCD包囲網による経済封鎖です。10月頃には「米船攻撃事件は次々と発生を見、ついに軍艦撃沈」という報道が出始めると、父は「日米の関係も最後の関頭(瀬戸際)に突入する。」と記していました。
欧州戦ではドイツが地中海とソ連のモスクワへ攻勢。英国と仏国の劣勢に乗じて日本は仏印(インドシナ)など南方に攻勢をかけていきます。

11月に入り、来栖三郎特命全権大使がサンフランシスコに派遣され、緊急裡に日米会談が重ねられると、父は「いつの間にか臨戦態勢は戦時態勢となる。」と時局の重大さを実感してきます。そうした中で、国内では東條英機内閣に期待を寄せる風が吹きます。支那事変を解決できず、結果的に軍部の暴走を許してしまった第3次近衛文麿内閣から引き継いだ軍閥主導の東條英機内閣は強権姿勢に関わらず国民が後押しをしています。東條首相は「帝国外交の三原則」を発表し、日本に対する軍事的脅威や経済封鎖などを加える敵性国家に対しては断固戦うとの国策決議案が11月17日に採択されます。結果的に、この決議が開戦前の大きな局面であったといえます。父は翌日の日記に「昨日の東條首相の演説で国民の覚悟は出来た。」と興奮気味に記しているのです。

◆避けられなかった開戦
緊迫した日米交渉は世界の注目を浴びながら、ついに11月26日ハル国務長官による最後通牒(所謂ハルノート)により交渉決裂。日本は12月1日の御前会議で米英蘭に対して開戦を決定し12月8日へと突入していったのです。国際社会から俯瞰すれば、日本がとった進路は国際法を無視したどうみても無謀な選択にみえます。

しかし軍閥の暴走という枠組みだけでは解釈できない、それこそ国民総動員で熱病に罹患したかのような異常性を、父が記した「昭和16年」から受け取れます。戦争に対する責任論は多くの研究がありますが、責任とは特定の人物というより、むしろ「思想」にあるとする方が腑に落ちます。父を含めた当時の国民すべてが共用していた「思想」ともいうべき「国体イデオロギー」が熱病の正体だったとするのがわたしなりの解釈です。

具体的には前年昭和15年の皇紀2600年の「八紘一宇(はっこういちう)」というスローガンになります。日記の表紙に刻印された「2601」が象徴的にそれを物語っていたのでした。(つづく)

第161話:されど「戦争を知らない大人たち」



◆昭和一桁世代の気概
振り返ってみると、学校での恩師や会社の上司、そして好きな作家やメディアで活躍している著名人の中で、特に影響を受けたという意味では、その多くが昭和一桁世代の方々だったように思います。

ふとそんなことを思い立ったのは、このところ永六輔、大橋巨泉など、昭和一桁生まれの著名人の訃報が続いていたからです。彼らは戦争の愚かさを少年の心身で体感した世代であり、先の戦争における最後の語り部になっていました。最近の国際情勢や日本の安保法制の動きには敏感に反応し、今の日本が不穏な方向へ進んでいることに危機感を抱いていました。メディアを通じて警鐘を鳴らすそうした姿勢には、大いに共感をもって見てきました。

彼ら昭和一桁世代とは、少年期に軍国教育から民主教育へといきなり大転換した日のことを、鮮烈なまでに脳裏に刻まれている人々です。その「原体験」があればこそ「体制にやすやすと迎合しない!」とする「気概」をもつに至ったといえます。寺山修司(昭和10年生まれ)が「身捨つるほどの祖国ありや」と謳った有名なフレーズは、その到達点といえるのかもしれません。

◆戦後世代に欠けたもの
こうして昭和一桁世代がぽつりぽつりいなくなるなかで、毎年終戦記念日を迎えると、はたして、戦後世代のわたしたちは次世代の子どもたちにいったい何を伝えられるのだろうと考えてしまいます。

わたしは昭和29年(1954年)生まれ。かつて「戦争を知らない子どもたち」と歌われた世代です。戦後70年が過ぎた現在、すでに還暦を迎えそのまま「戦争の知らない大人たち」になっています。そもそも昭和一桁世代のように、戦争を語る上での「リアリティ」は当然ながら持ち合わせてはいません。そればかりか、先の戦争に関連した日本近代史の事柄を問われても、なんともおぼつかないのです。

言い訳と自戒をこめて説明すれば、わたしたちの両親は大正世代です。先の戦争の話となると口が重く、子どもの前ではほとんど寡黙を通したという複雑な背景をもっていました。戦場に駆り出され悲惨な戦時下での犠牲者でありながら、同時に国民総動員で戦争に与(くみ)していたという当事者としての負い目も抱えていたようです。したがって戦争当時の断片的な「苦労話」を吐露したとしても、なぜ戦争に至ってしまったのかという総括的な話をすることは全くなかったといえます。

戦争のことを教えてくれないのは家庭ばかりではありません。学校での歴史教育もそうでした。日本の歴史を通史として学んでいく中で近代史はどうしても最後になります。さらに「大学受験に近代史は出題しない」という不文律がなんとなくあるために、益々学ぶ必要性をなくしているのが現状です。ですから、歴史が好きな友人のなかで戦国時代や幕末に詳しい人はいても、昭和史に詳しいという人はまず見渡らないのです。

こんな風に「戦争を知らない大人たち」は、実際のところ「戦争のことを教えてもらえなかった」境遇にあったとはいえ「自分で学ぶことを後回しにしてきた」ともいえるのです。

◆近代史を学んでみる
「戦争を知らない大人たち」である戦後世代が、いまや日本のリーダーとなっている現代です。毎年訪れる終戦記念日に繰り返す「悲惨な戦争を二度と繰り返してはいけない」という心情的な議論だけでは、次世代へのメッセージとしては説得力に欠けると共に、緊迫した世界情勢には対応できない段階にきています。

昭和一桁世代の気概に代わるものを身につけようとすれば、まずは先の戦争についての「近代史」をいま一度学び直すこと。何故あんな悲惨で無謀な戦争に至ったか、「軍閥の暴走」と単純化する前に、なぜ国民が大政翼賛の空気に埋没し、総力戦に参加したのかという論点を検証すべきでしょう。今を「戦前」にしないためにも、過去の歴史のあやまちからしっかり学び、それを次世代に伝えていくことが肝要です。(了)


第151話:「死者は歴史である」という見方



◆死者の臨在
わたしはいつからか「死者は傍にいる」と思うようにしています。
まるで突拍子もないことを言うようですが、そうでないと説明がつかないようなことが、これまで何度も経験しているからです。

たとえば、このブログを改めて読み返してみたときに、既に亡くなっている伯父とか父が、ある文脈に突然参入しているとしか思えないような文章に気付きます。それは当然自分の頭で書いているはずの文章でありながらも、実は亡き親族に「書かされていた」ということになります。

ここでいう「死者」というのはなにも親族にかぎらないということ。座学で影響を受けた先達も含みます。ひとりの思想家に強い刺激を受け始めた時に、古書店で何気に本を探していると、まるで読めと言わんばかりに、その思想家の本が眼前に現れることが度々あります。見えない力がはたらいてお膳立てを揃えてくれたということです。

鍼灸治療においても同様なことがいえます。たとえば、わたしがオリジナルと標榜している技術や理論であっても、冷静に考えてみれば、自分で創作したものなど、ほとんど皆無に等しいといえます。なぜなら、それが直感的に閃いたものであっても、先人の智慧に幾度も触れていくうちに、先人からプレゼントされたと解釈した方が、がぜん納得がいくのです。

そうなると「死者」は広い意味での「他者」にちかい概念となり、魔訶不思議と思われる日常の出来事でも、けっして奇異なことではなく、むしろ日常のなかに「他者」が必要に応じて(きわめて唐突にも)入り込み、「魂」に寄り添ってくれることだと思っています。

◆若松英輔の「死者を生きる」
そうした考え方に確信をもったのは、井筒俊彦研究で著名な若松英輔の文章に触れたことによります。中島岳志との往復書簡をまとめた『近代の超克』では、「死者論」に言及しているのですが、それまでの「もやもや」をはらすほどに見事に言語化してくれる内容でした。

若松は「死者は実在であって、けっして概念ではない」と断言した上で、集合論でいえば「死者の世界が生者の世界を包んでいるのかもしれない」と説きます。
 「死者の世界」∋「生者の世界」
この図式は、死者から生者に繋がる永い時系列上の空間において、あくまでも「死者」が主体であり、ベクトルは「死者」から「生者」に向かうことを意味しています。
 「死者」→→→→「生者」
ところが、「死者のことをおもんばかる」とか「死者を代弁する」という行為は、一見美しい言葉に響きますが、生者を主軸に置いてしまうわけですから、それこそ傲慢な行いになると警告しています。
つまり、そうした「死者『と』生きる」という行為より、むしろ「死者から繋がる」という意味での「死者『を』生きる」ことのほうが、じつは最も大切であると強調しているのです。そして「死者を生きる」ことで、死者から生者に繋がる「彼方なる世界」を感覚できると言います。

◆死者から歴史へ
若松は、「死者」からさらに「歴史」との関わりについて論究します。それは「死者は無数の死者たちであるとともに歴史でもある。」とし、「死者を生きる」ことは「不可避的に歴史といううねりに参入することにほかなりません。」と述べています。

ただし、死者は意図せずしてやってくるわけで「ままならぬ」存在です。それは折口信夫が言うところの「マレビト」に近い存在なのでしょう。

それでも死者は、必要に応じて生者の「魂」に寄り添い、経験した濃密な「時間」である「歴史」を生者に与えることができる存在だということです。
言いかえれば、人間は誰ひとり単独の存在ではなくて、死者(=歴史)と繋がり、「彼方なる世界」という大きな生命の器として存在することを可能にした、唯一の「生き物」だといえます。

「見えるものは見えないものによって生かされている。」と若松英輔が表現したように、こうしてわたしたち生者は、死者(=歴史)によって生かされている存在だということです。
(了)


※中島岳志/若松英輔『現代の超克』ミシマ社(2014年)
中島はアジア主義や大本教などに詳しい近代思想が専門。若松は井筒俊彦の研究で著名な思想家。戦前41年に「文学界」に掲載された座談会『現代の超克』を下敷きに、両氏の往復書簡と対談によって、現代版『現代の超克』としてまとめた本。
「死者論」については、小林秀雄の「無常という事」を引用している。これは、記憶と思い出の違いとか、ベルグソンの時間論を併せて理解するとさらに面白い。

第148話:差別は歴史の歪曲から生まれた



◆「白村江の戦い」での敗戦
6~7世紀の日本は、朝鮮を窓口として大陸からの文化と技術を吸収してきました。それが仏教であり漢方医学です。中国大陸における隋・唐といった統一国家の出現が、朝鮮半島の新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)に反乱を起こさせ、それが日本にも及んできたという状況でした。その当時は、明らかに朝鮮の三国(三韓)が先進国であり、日本はむしろ辺境の地で先進文化に追いつこうとする立場。さらに日本の政治はすべて、朝鮮半島とのからみ合いで進められたとみるべきなのです。

日本は戦をして初めての敗戦を経験します。それが「大化の改新」(646年)から17年後の「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)でした。当時の百済は高句麗・新羅の両国と緊張状態にあり、攻められるたびに都を変えていました。日本はそうした百済の窮乏を支える友好国の立場であり、百済を守るために唐・新羅連合軍に水軍を派遣して打って出たのですが、百済と共に敗戦国となります。

◆敗戦から「壬申の乱」へ
敗戦処理として唐・新羅から二千人ぐらい来日していたと言われ、敗戦国百済からは多くの亡命者が渡来人として日本に移り住んだとも言われています。「白村江の敗戦」から体勢をたてなおしたのが、近江大津宮に移した天智天皇(中大兄皇子)です。そこで唐の律令制度を受け入れたといわれていますが、実際は唐・新羅に否応なく押し付けられたポツダム宣言受諾とする見方もあります。天智天皇の死後に起きた「壬申(じんしん)の乱」(672年)は、そうした外交路線の変更をめぐる天智天皇と大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)側の対立の構図とみると、なるほど合点がいきます。

近江朝廷は、後ろに唐という陰の力があったからこそ、一定の安定を保っていたのです。天智天皇は大津の都を小長安とすることを夢見ていました。額田王(ぬかたのおおきみ)の「あかねさす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守(のもり)は見ずや君が袖振る」と歌われた薬狩(くすりがり)は、近江大津宮が唐の風習をそのまま受け入れたという証左とみてよいのでしょう。こうして、日本古代史の流れを唐や朝鮮半島を含めた東アジアの情勢としてみると、みえないものが随分みえてくるということです。

◆歴史を歪曲した「三韓征伐」
ところが驚くことには、戦前の歴史教科書(国定教科書の「小学国史」)では、この「白村江の戦い」については一行も載せていないのです。そればかりか、それとは真逆の「日本は新羅を征伐して朝鮮半島を統一した」という所謂「三韓征伐(さんかんせいばつ)」を教えていました。これは『古事記』『日本書紀』の記述に基づくもので、「神功(じんぐう)皇后の三韓征伐」として出てくるものです。参考までに、その「小学国史」には次のように書かれています。

「この頃、朝鮮には新羅・百済・高麗(高句麗のこと)の三国があり、これを三韓といったが、中でも、新羅はわが国に一番近く、その勢いもたいそう強かった。熊襲(くまそ)がたびたびそむくのも、この新羅がそそのかすためであった。そこで神功皇后は、新羅を従へれば熊襲は自然と平ぐであらうとお考へになり、武内宿禰(たけうちのすくね)と御相談となって、御みづから兵をひきゐて新羅をお討ちになることになった。時に紀元八百六十年であった。」

文中の「紀元八百六十年」は西暦200年にあたる年で、第14代の仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后である神功皇后が、朝鮮に凱旋して新羅を滅ぼすと、百済・高句麗の二国もまた我が国に従うようになり、大和朝廷はついに朝鮮半島を統一したという内容でした。
この史実はのちの歴史学者(津田左右吉、直木孝次郎など)により否定され、七世紀頃に創作されたものと結論付けられています。

しかしながら、この「三韓征伐」は日本人に強烈な印象を植え付けて、皇国史観における日本人の優位性を強調し、天皇にひれ伏した朝鮮民族は「劣等だ、未開だ」というイメージを尋常小学校から教え続けたのです。
思えば、戦前教育を受けたわたしの両親も祖父母も、朝鮮人を差別する言葉を日常的に使うことがありました。そこに明白な悪意はないにしても、市井の人々が極々普通に差別的な言葉を口にしてしまうところに、戦前教育の罪深さを改めて実感できます。

◆吉田松陰の罪
明治22年の大日本帝国憲法の公布、明治23年の教育勅語の制定によって明治の屋台骨が完成したと言われています。それを受けて明治36年(1903年)には国定教科書が作られ、終戦の昭和20年(1945年)までの間、尋常小学校や国民学校で使われたことになります。

この「小学国史」に書かれた「三韓征伐」に盛り込まれた皇国史観や朝鮮人への差別は、実は幕末の吉田松陰による「朝鮮論」がその背景にあると、日本近現代史の加藤陽子(東大大学院教授)は指摘しています。

「松陰は、列強との交易で失った損害を朝鮮や満州で償うべきであると論じつつ、国体の優秀性を皇統の永続性に見出し、天皇親政がおこなわれていた古代における三韓朝貢という理想のイメージに基づいて、朝鮮服属を日本本来のあるべき姿として描き出しています。」 (『戦争の近現代史』44頁)

文中の「天皇親政がおこなわれていた古代における三韓朝貢」とは、日本が三韓征伐して朝鮮を統一(実際は伝説)したときは、日本が宗主国で朝鮮は属国という関係だったのだから、幕府が倒れた後の王政復古(つまり明治維新)になれば、当然朝鮮は日本の属国であるという一方的な論理なのです。ある意味、松陰の思想はかなり危険な思想ということになりますが、松陰が説く朝鮮服属論は、松陰の薫陶を受けた明治の元勲らに継承され、後の「脱亜入欧」や「アジア主義」にも色濃く影響を与えていたのです。ところが「脱亜入欧」はアジアの人々を低くみて、「アジア主義」は結局アジアの人々に支持されなかった結果を、わたしたちは決して忘れてはいけないのです。

◆歴史を知ること
こうしてみると、松陰の「朝鮮論」や戦前の歴史教科書は、いずれも「三韓征伐」という史実とは異なる伝説を基本とし、明らかに間違った歴史観を構築していたことになります。
結果、朝鮮半島の人々に対する差別が、自然と日本人に植え付けられる原因になりました。

ただ、それが過去の出来事だけではなく、最近のヘイトスピーチにみられるように、韓国や北朝鮮の人々への差別的発言を耳にしてしまう状況は、新たに憂慮すべき問題です。
冷静に考えてみると、わたしたち戦後世代の中に朝鮮半島の人々を差別する要因がもしあるとすれば、それは明らかに歴史認識の欠如にあります。というのは、戦前生まれの親たちは先の戦争について寡黙を通し、ほとんど子供に語り継がなかった、さらに学校教育においても、近代史を充分な時間を割いて教えることもなかった、などがその主な理由です。たとえば、日本は日露戦争に勝利した後の1910年に朝鮮を併合して、終戦1945年までの35年もの間、朝鮮を植民統治とした事実をどれだけの人が正確に知っているでしょうか。また、その事実を知っていたとしても、「朝鮮を近代化するために必要だった」という誤った認識をいまだにもっている人が多いことも事実なのです。

こうした歴史観のずれを戦前戦後を通していまだに継続していることは、東アジアの平和にとって不幸な事象です。考えるべきことは、この差別に至った歴史上の出発点をいま一度検証してみる必要があるということ、そして過去の歴史に学び現代を考えるということは常に大切だということです。(了)

※杉本苑子/永井路子著『ごめんあそばせ独断日本史』(中公文庫)1988年
  共に大正14年生まれの女流作家による歴史対談。
※『日韓理解への道』座談会/司馬遼太郎、金達寿ら(中公文庫)1987年
※『日韓ソウルの友情』座談会/司馬遼太郎、田中明ら(中公文庫)1988年
  80年代の古代史ブームのさなか、司馬遼太郎を中心とする日韓の碩学たちによる白熱した座談会を記録
※加藤陽子著『戦争の近現代史』(講談社現代新書)2002年
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