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第156話:Aさんと俳句



◆ある出張治療で
介護付き老人ホームに入居されているAさん(92歳)は膝関節に拘縮があり、歩行がおぼつかないということで、ご親族から出張治療の依頼を受けました。閑静な住宅街にある施設の一室は、トイレ付きの8畳ほどの個室、Aさんはひながベッドに横になっていました。

窓からみえる景色は、近隣の住宅に囲まれた殺風景な緑のない空間。午後ともなれば西日が射すからといってカーテンを引いてしまうとか。俳句をたしなむというAさんにとって、季節の移ろいを映さない窓は何の意味をなさないかのようです。それでも愚痴ひとつ口にすることもなく穏やかに話をされます。ここを終の棲家と決めたかのような静かな覚悟さえ感じられます。

治療しながらの会話で、ちょっと気になることがありました。
かつては新聞の俳壇によく投句されていたのが、最近は俳句をつくっていないという一言でした。ならば、俳句の創作に向かう「元気」をなんとかアシストしようと思い立ちました。お灸を中心とする治療のテーマは、関節周囲を和らげるのはもちろんのこと、腎を補い(補腎)、元気を培う(培元気)ことです。そうした40分ほどの治療を終え、「また以前のように俳句をつくられるといいですね」と別れしなに声をかけることがいつもの挨拶になっていました。

◆ひとつの俳句から
こうして週に1度の治療を続け、そろそろ桜の開花が待たれる3月中旬のある日です。「俳句を作りました」と嬉しそうに語るAさんが、作ったばかりの一句をゆっくりとそらんじながらわたしに教えてくれたのです。

納骨の済みし安堵や 黄水仙

5年前まで住んでいた福島のお墓を東京に移すことになり、やっと新しいお墓が完成したのです。その墓参の帰り、立ち寄ったレストランで食事をとったときに、中庭にふと目をやると、黄色い水仙が咲いていたそうです。なるほど、この俳句からは安堵の気持ちに寄り添う黄水仙の情景が見事に浮かんできます。
嬉しそうに話されるAさんは、久々に外出ができた喜びもさることながら、こうして俳句の話をされるときが一番お元気にみえました。

◆故郷を遠くのがれて
ただ、ここでどうしてもつけ加えたいことがあります。この俳句には、さらに深い意味があったのです。
それは、Aさんが東日本大震災によって未だ故郷に帰ることができない避難者17万1千人のおひとりだということです。しかも、東京電力福島第1原発から20キロ圏内に一人で生活されていました。Aさんの自宅は、国が指定した「避難指示区域」の中でも最もシビアな「帰還困難区域」にあります。生まれ育った人口7千人ほどの町は全町避難を強いられ、今でも県内に約4千人、県外に約3千人が離散したままの状況にあります。

震災のあった3月11日の夕方、Aさんは自衛隊のヘリで救出され、その後病院を転々と移動させられ、ようやく東京の親族に身を寄せました。この5年間は、まさに流浪の民を強いられる中で、足が弱り車椅子の生活となりました。放射能に汚染された自宅にはもう2度と帰れないと判断し、ついには今のホームを終の棲家と決めたのだそうです。

自宅への一時帰還の許可が下りたときは、親族が代わりに自宅に入り、限られた時間のなかで、仏壇にあった位牌を持ち帰ったそうです。先祖代々が祀られた菩提寺のお墓には、もちろん立ち入ることはできません。ですから、今回の「納骨」とは、正確には東京の地に新たにお墓を求め、そこに位牌を納めたという事情があったのです。

離散せし 家族の如く飛ぶ蛍
故郷を遠くのがれて 月おぼろ

ほかの俳句もいくつか教えていただきました。その折々の俳句は、まさにAさんの人生そのものです。これからも、俳句をつくることが生きる力につながり、やっと得られた終の棲家で、静かな余生を過ごされることを、ただ願うだけです。(了)
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第136話:「ライフヒストリー」を傾聴する



◆それぞれの「ライフヒストリー」◆

大正5年生まれのAさんは東京の生まれ。小学1年の7歳のときに関東大震災を経験。大正12年9月1日、2学期の始業式をまさに終えて帰ろうとしたその正午前に突然グラッときた。なんとか避難した小石川植物園では、みるみる赤く染まる空を不安な気持ちで眺めていた。日が暮れ始めるころにやっと父親が探してくれたときは、ほっとしたあまりに大泣きしたと言います。
そして20歳になった年のこと。雪が降る日に親戚の家へ届け物を頼まれて数寄屋橋まで歩いて来たら、道を塞ぐ物々しいほどの憲兵隊に呼び止められた。「この先は行かないように」と言われ、しょうがないので踵をかえすも、なにやら不穏な空気を背中に感じたことを今でもはっきり記憶していると言います。それが昭和11年の二二六事件が起きた日のことでした。

大正13年生まれのBさんは東京の生まれ。生まれる前年9月1日の関東大震災のときは、まだ母のお腹にいた。母は火災から逃げて神田川に浸かって助かったから今わたしがこうしているのよと言います。
女学校に通う頃になると、厳しい戦時下に入ってしまい英語教育が禁止。それでも英語を勉強したかったBさんは、つてを頼って某教会にお忍びで通い、牧師さんに英語を習ったと言います。
そしてもうひとつ興味深い話が、Bさんは当時女学校の歴史教科書のなかに「壬申の乱」や「白村江の戦い」については全く触れていないことに疑問をもったということ。「万葉集」で額田大王に興味をもてば、天皇同士の戦である「壬申の乱」や新羅との戦いに負けた「白村江の戦い」にどうしても興味をもつでしょう、とその理由を説明してくれます。だから戦争が終わったら、もう一度古代の歴史を学び直そうと、ずっと思っていたそうです。

大正14年生まれのCさんは埼玉の生まれ。いちばん綺麗なときが戦時中だったという年代。村で同級生の優秀な男子の何人かは戦死してしまった。いまでも終戦特集のTV番組はつらくて見られないと言います。20歳になったのが昭和20年終戦の年。学校を卒業して、保健婦さんとして戦前戦後にわたり60歳定年までお勤めされた職業婦人。公衆衛生に尽力された保健婦としての日々は当に「結核との戦い」だったと振り返ります。まだ抗生剤のない時代はとにかく「栄養と休息と新鮮な空気」それだけだったと言います。いまでも保健婦さんの気概はそのままで、新しい医療情報をわたしに提供してくれるほどです。

昭和4年生まれのDさんは東京下町の生まれ。父親は工場を経営し、多くの職人さんを抱えていたそうです。昭和20年3月10日未明の東京大空襲により、家族全員が焼きだされます。飛んでくる焼夷弾の火の粉から身を守ろうと、近くの隅田川にみんな浸かって難を逃れたのですが、ふと気が付けば父親と兄弟のひとりが、目の前で亡くなっていたと涙ながらに話をしてくれました。Dさんは毎年3月10日になると、遺された兄弟と一緒に、墨田区の都慰霊堂で行われる慰霊祭には欠かさず参列しているそうです。

昭和10年生まれのEさんは樺太育ち。石炭が豊富だったので寒さで苦労した記憶はない。樺太の自然は素晴らしかったと言います。海産物も豊富でタラバガニはおやつにしていたくらい。でも楽しかった日々は戦争で長くは続かなかった。炭鉱で働いていた父親は召集されたまま硫黄島で戦死し、母と私たち兄弟は樺太にとり残された。終戦後、昭和21年にようやく本土に帰還。母親の身寄りを頼って親戚の家(といっても離れの納屋)に仮住まいをしたが、母親は心労がたたってまもなく亡くなった。正直その時期が一番つらかった。でも今は子どもと孫に恵まれてしあわせな毎日をおくっている。いつか硫黄島に墓参に行きたいが、なかなか叶わないでいると話してくれました。

◆傾聴することの意味
紹介したお話は、あくまでも治療の流れの中で伺った話です。詳細に聞き書きをしたわけではなく、そのときの記憶を頼りにまとめたものです。個人的な好奇心から聴こうとしても、ここまで話していただけないもので、当然ながら、患者さんと信頼関係が築かれていることが前提となります。

問診事項とは直接関係のないような事柄であっても、患者さんが安心して話されて、治療家がそれを傾聴するという空間は、とても大切な「気の交流」の場となっています。そこで治療家がしっかり傾聴することで、患者さんのこころを支えることができると確信しています。もし、そこに技術的なことが必要であるとすれば、「聴き上手」になるために、ある程度の「歴史の知識」を身につけておくことが必要になるのかもしれません。

生活歴の長い高齢者ほど、過去の民俗学的な生活史のいろどりは豊富で、過去・現在・未来へと連なる、驚くような「ライフヒストリー」をもっているものです。
人生の先輩の話を伺うに際して、常に「教えていただく」という気持ちをもって傾聴すること。そしてなによりも、人生の厚みを知ることが、患者さんに敬意をもって関わることに繋がると考えています。(了)

※六車由美『驚きの介護民俗学』医学書院(2012年)
介護の現場に民俗学の「聞き書き」を導入した実験的試みを紹介。
利用者に対して介護職員はどのように傾聴すべきかが、とても参考になる内容。

第125話:はじめての映画『日本誕生』



◆5才の記憶
生まれてはじめて観た映画のことを、かすかな記憶を頼りに辿ってみると、たぶんそれは5才の頃に観た古事記を題材にした『日本誕生』に行き着きます。記憶の断片には、連れていってくれた祖父が、売店でグリコアーモンドチョコレートを買ってくれたことや、家に帰ると興奮のあまり「八俣の大蛇(やまたのおろち)ごっこ」で遊んだことなど、それらはいまでもぼんやりと心象風景として蘇ります。

映画のシーンで覚えているのは、三船敏郎が演ずる須佐之男命(スサノウノミコト)が八俣の大蛇を退治した場面。それと当時横綱だった朝潮太郎が演じていた力持ちの神様・天手力男神(アメノタヂカラオノカミ)でした。特に朝潮が天の岩戸の大岩を動かすと、眩いばかりの光の中に天照大御神(アマテラスオオミカミ)が登場する場面は印象に残っています。書棚にあった少年少女向け『日本神話物語』が予備知識になっていたとはいえ、はじめて観る映画という「非日常性」に遭遇したときの感動は、いま振返ってみても、若干5才の少年にとってとても大きかったように思うのです。

◆52年ぶりの再会
そして今から3年前のこと、この『日本誕生』を池袋の「新文芸坐」で偶然に観ることになったのです。パンフレットには―『日本誕生』は昭和34年10月公開の東宝映画(稲垣浩監督・円谷英二特撮監督)。東宝映画1000本目の記念作品として、三船敏郎をはじめとする豪華キャストで制作された―とあります。そんな大人の事情はもちろん初めて知ること。とにかく57才になったわたしは、『日本誕生』と実に52年ぶりに再会したわけです。

そこで新たな発見がありました。ひとつは天照大御神を原節子が演じていたこと。日本人離れの一見バタ臭い顔立ちは、まるで美輪明宏かと見間違えるかのような神々しさでした。そしてもうひとつは乙羽信子が天宇受売命(アメノウズメノミコト)を演じていたこと。かつて小沢昭一は「アメノウズメは歴史上はじめてストリップを演じた神様」と彼のラジオ番組「小沢昭一的こころ」でよく話していたものです。若き乙羽信子はそんな意図を汲んでか、胸乳を露わに(もちろん胸は作りものでしたが)天の岩戸の前でコケテッシュに舞い踊っていました。

52年ぶりの『日本誕生』に、かつての恋人に再会したような感激を味わってもよさそうですが、すでに57才になってしまったかつての少年にはどうも勝手が違いました。たしかに豪華キャストと謳うほど、東宝を代表する大勢の俳優陣が出演はしているものの、それは出演機会を平等に与えるために配慮された「学芸会」のようなもの。これには辟易してしまったのです。まあ記念映画であるからしょうがないことですが、さらに輪をかけたのは、上映時間がなんと180分(途中休憩あり)にも及ぶことでした。

◆神話性とは
といいながらも、冗長に流された作品にもそれなりに収穫はありました。たとえば森繁久彌・三木のり平・有島一郎・小林桂樹・左卜全などの面々が、かつての「喜劇駅前シリーズ」のように大らかで滑稽なほどに神々を演じていたこと。こうした演出(もしくは演出のなさ?)には賛否両論がありそうですが、本来『古事記』がもっている玄妙な魅力にむしろ符合しているといえます。つまり、『古事記』に活躍する人物像は、みな生き生きした野性味あふれる原始人であり、天地を駆け巡り、心のままに笑い、怒り、戦い、愛し合う、という世界からみれば、多少退屈でもそれはそれで大した問題ではないと思うからです。

そもそも「神話性」とは深層に隠された世界を描いたもの。話の筋を追うだけではむしろつまらない代物といえます。当時5才のわたしが、今だったら退屈な『日本誕生』をよく飽きもせず180分間よくぞ最後まで観ていたものですが、むしろそれは、子どもというのは本来、無意識下に「神話性」を受容するピュアな感性を自然のままに備えていると言われ、逆に大人になって行くほどその感度は衰えてしまうらしい。だからこそ、子どものうちに「神話性」に触れるべき機会は大いにあってしかるべき-ということです。

◆『古事記』の世界とは
『古事記』は大切な「日本の神話」でありながら、戦前は国粋主義に利用されたという理由から、ついぞ戦後教育では扱うことなく現在に至っています。
「天地(あめつち)のはじめの時・・」というくだりから始まる『古事記』は「神々の夜明けと黄昏を描いた壮大な叙事詩」といわれており、作家の田辺聖子は「古事記ほど人々の心の夢をゆすぶる、不思議な文学はない」と指摘しています。だから『古事記』がこのまま「未読の必読書」として定着してしまうのはとても残念なこと。願わくは、子どもが『ハリーポッター』を読みふけるように、『古事記』もまた日本のファンタジーとして、ぜひ読み継がれてゆくべきです。

ともあれ、わたしが大人になってから『古事記』に関心を以て読むようになったのは、5才のときに映画『日本誕生』を観たという原体験があればこそでしょう。グリコアーモンドチョコレートを買い与えてまでも連れて行ってくれた当時65才の祖父には感謝しつつ、今度はわたしが次の世代(まだ見ぬ孫?)にその思いを受け継げたらと願っています。

※『田辺聖子の古事記』集英社文庫(96年)
数ある『古事記』の現代語訳の中では、田辺聖子本が一番わかりやすい。古典に造詣が深いだけでなく、とにかくわかりやすく解説してくれるところがよい。

第60話:わが母の教え給いし「お灸の話」

わたしの母は85歳で亡くなるまで毎日お灸(カマミニ)をしていました。70歳を過ぎてから、慢性の心臓病と坐骨神経痛を抱えていました。78歳には心房細動から血栓が腎臓に飛んで腎梗塞を起こし、片方の腎臓が機能しなくなります。それではと、わたしが帰省した折に母にお灸を勧め、適当なツボを教えました。78歳から亡くなるまでほぼ7年間、毎日お灸したことになります。直接治療してあげられない親不孝のわたしができることは、毎月お灸を送ってやることぐらいでした。

ときおり電話で様子を聴きながら、お灸の効果のほどを確認してみると、母はお灸がすっかり気に入った様子。ところが母の口からは、わたしが教えたことのないツボの名前がポンポンでてくるのです。どうも自分でツボの本を買って研究を始めたようです。大正生まれの母は終戦前後に教員をしていました。基本的に人の話を聴くより人に教えることが好きな性格。あとになって、母が持っているツボの本を見せてもらうと、要点どころに朱線がいっぱい引いてありました。

そんな研究熱心な母は、次第にプロであるはずの息子にしっかりお灸の講義?をするようになります。気丈に話す母はとてもうれしそうなので、わたしは電話口で「ハイハイ」と黙って聴いてあげます。そのときにメモをしたのが次のような内容でした。

◎「三陰交(さんいんこう)」は足が温まり調子が良い。冷えがひどいときは2個並べてやるといいようだ。お灸の代わりに円皮鍼を貼るのも持続的に効いている感じがするが、はがれてしまうのでやっぱり毎日のお灸の方がよい。
◎「大敦(だいとん)」にお灸を毎日したら失禁の量が半分に減ってきた。
◎白内障の手術をする前は毎日「二間(じかん)」にすえていた。幾分いいようだった。
◎便秘には「神門(しんもん)」に灸をすると必ず翌日までには排便がある。左の「神門」の方が効くとされているので左に2個右に1個をすえている。
◎食後にお灸をすると効果が半減するのでさける。(食後は消化器系に血液が回るから)
・・などです。(実際はすべて庄内弁で話しています)

こうして母は、きわめて実証主義的な姿勢で毎日お灸をしていたわけです。身をもってわたしに教えてくれたことに感謝するばかりです。母の最期は、家族にそれほど介護を煩わせることなく、病院に入院することもなく、自宅で静かに亡くなりました。お灸のもつ「力」を母が教えてくれたと信じています。

第51話:或る霊性の高いひとの話

以前治療させていただいた、私と同世代の女性Aさんの話です。
Aさんは、治療中に気の流れを実況中継してくれる不思議な方です。たとえば、私が反応を感じている特定のツボに指をかざすと、Aさんにもシュルシュルと風のようなものを、そのツボの部分に感じます。まさに双方向性の反応を共有できる珍しい患者さんでした。

Aさんは主婦の傍ら、障がい者のためのある運動に永年関わってきました。その強い信念とか気力には、私などはいつも頭が下がる思いでした。お話しをするなかで、大きな器をもった方だと常々思うと同時に、とても「霊性が高いひと」だな、と感じさせる方でした。

あるときは、Aさんは「心包経の人」なので私が「紅色の水晶がいいですよ」と何気なく言ったつもりが、次には、鎌倉小町通りのお店で買ったという紅水晶の手数珠を見せてくれ「これをつけたら人ごみが疲れなくなった」とおっしゃったこともありました。

そんなAさんを治療しながら、既に亡くなっているお父さんのことに、たまたま話が及びました。それがまたびっくりするような内容で驚いてしまいました。彼女が「霊性が高い」のは、きっとご尊父とのつながりにその理由があると直感的に理解しました。

Aさんのお父さんは戦前、軍需産業を代表する大手企業の社員で、設計を担当する技術士だったそうです。赤紙(召集令状)が届き、満州の部隊に配属されます。ところが、戦時下で状況が厳しくなった頃、突然勤務先に戻るよう命令が下され、ひとりだけ除隊し帰国します。途中での除隊命令はかなりのレアケースであり、それだけ軍需産業の技術士として重要なポジションについていたことが想像されます。そのことが、幸か不幸かその後の運命を大きく決定付けます。つまりお父さんは結果的に無事終戦を迎えたわけですが、かつて満州で苦楽を共にした戦友たちは全員戦死したのでした。

Aさんの記憶では、お父さんは戦争の話を家族にいっさい話さなかったそうです。その代わり、いつ頃からか、木を彫りだして何体もの仏像を作り始めます。Aさんの推測では、たぶん戦友の数だけ彫ったのだろうとおっしゃっていました。それらの仏像は今でも実家に置いてあるといいます。それとAさんの嫁入り道具には、お父さんが彫ったお地蔵さんが一体あり、今でも自宅に大事に飾っているそうです。

そうした貴重な話を伺い、きっとお父さんが生前多くの徳を積まれたことが、Aさんの霊性を高めることに繋がっていること、そしてAさんはお父さんにいつも守られているのだろうと、思わずにはいられませんでした。
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