第165話:遠藤周作と聖母信仰と『沈黙』と



◆なぜ『アベマリア』に癒されるのか
クラシック音楽の世界には『アベマリア』とか『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』のように「聖母マリア」に関する多くの楽曲があります。基督教のカトリック教会だけに許された「聖母信仰」がその背景にあり、歴代の作曲家による同名の多くの作品があります。

西洋の宗教的歌曲にもかかわらず、日本ではどちらかといえばヒーリングミュージックとして受け入れられています。とはいえ、基督教徒でもないのに「聖母マリア」の音楽を聴いただけで、なぜか自然に癒されてしまう構図は冷静に考えてみてもおかしなことです。日本人の感性には、きっと特別な受信装置があるのかもしれません。

そんな疑問に応えてくれたのが、基督教徒(クリスチャン)でもある作家の遠藤周作(1923~1996)です。彼のエッセイによれば、長崎の隠れ切支丹たちは、基督教の「神」よりもむしろ「聖母マリア」に心ひかれていたといいます。しかも切支丹たちの聖母画はなんとなく泥臭く「おっかさん」のようであることから、彼らの聖母信仰とは西洋と異質の、むしろ日本人特有の母性的宗教心理によるものであったと指摘しています。だとすれば、現代の日本人が「聖母マリア」の音楽に癒されるのも、日本人の精神の基底に、隠れ切支丹と同じ母性的宗教心理がはたらくからであると理解できます。

◆日本人は「母の宗教」に心ひかれる
遠藤周作は、こうした母性的宗教心理を「母の宗教」と呼んでいました。そもそも基督教とは、戒律を重視した厳しい「父の宗教」と、深い愛を以て許すやさしい「母の宗教」とを兼ね備えたものであるとし、「聖母信仰」はその後者として存在していると解説しています。

一方で、日本人がこの「母の宗教」的世界に心ひかれる理由は、仏教が日本的展開をして、やっと根をおろし始めた鎌倉時代にあるといいます。鎌倉時代とは、それまでの「父の宗教」的な仏教から「母の宗教」的な仏教へと変化したこと、つまり浄土教(浄土宗や浄土真宗)の出現が大きく関与したということです。阿弥陀さまは、裁いたり罰したりする父ではなく、子どもの過ちを助けようとする母のように、普く衆生に浄土を補償する存在だということ。つまり、多くの民衆が浄土教(阿弥陀さま)に救われたことで、日本人の心に「母の宗教」的精神性が形成されていったと遠藤周作は説いているのです。

◆遠藤周作の異端性
わたしは遠藤文学のまじめな読者とはいえませんが、没後に出版された著作集を読んでいくうちに、こうした遠藤周作の宗教観に魅かれていきました。とりわけ仏教などの東洋思想に傾倒し、基督教を語りながらも東西の文化に拡がっていく独特の視座にはとても刺激を受けました。それと、彼の基督教の考え方には「異端性」を含んでいることが、なんといっても最大の特長といえるところです。

たとえば、仏教における「誰の心にも仏がある」とする「如来蔵(にょらいぞう)」の教えのように、遠藤周作には「心の中に神は存在する」もしくは「イエスは心の中に寄り添う」という確信があります。ところが基督教では「神」は天上の超越的存在であり、神を人間と同等に位置づける解釈そのものは異端と弾劾されます。

にもかかわらず、遠藤周作がそこにこだわる理由とは、日本人として生まれ、愛する母親に服を着せられるように基督教の洗礼を受けたころから、自分の心にある「東洋的で汎神的な感性」が内在しているからでした。基督教の教えと相反する「汎神的な感性」を持ち合わせながらも、ならば日本人の間尺に合った基督教があってもよいのではないかと、終生追い求めたところに遠藤周作の基督教文学の真髄があるのです。言い換えれば、それは「神と人間の関係性」の希求であり、彼の内面における「神の変容のドラマ」こそが、代表作『沈黙』を生んだとわたしは捉えています。

◆聖母信仰に隠れた異教性
ここで特筆すべきは、聖母信仰の歴史を紐解くと、意外な一面が見えてくることです。実は、そこを理解しておかないと基督教の底層の部分が見えてこないのです。

というのは、西欧のカトリック教会において「聖母信仰」は公式には長い間みとめていなかったことです。三位(父と子と聖霊)一体の教理のほかに「聖母信仰」を正式に認めたのは、1854年に法王ピオ9世がやっとマリアの無原罪説を採用し、第二次世界大戦も終わった1950年に法王ピオ12世が聖母被昇天を認めたほどなのです。

そもそも「聖母マリア」の教義は教会内部の神学論争の結果から生まれたのではなく、民衆層から起ってきた要求を教会が受け入れたものなのです。その歴史に詳しい心理学者のユングによれば、「中世に基督教が入ってから、原始の地母神の地域は基督教の聖地に変わり、ケルトの処女神は聖母マリアに変身したのである。」とあります。つまりユングに言わせれば、「聖母信仰は異教の地母神を吸収して、民衆信仰の底流を形成していったものである。したがって基督教には、実は見えない地下の根のところで異教的要素を内包している」と指摘しているのです。

遠藤周作にとって、プロテスタントではなくカトリックに救われるのは「聖母マリア」の存在が大きいと告白しています。つまり「聖母マリア」にはかつての異教である地母神が隠されているところに、自らがもつ「東洋的で汎神的な感性」は感応し、ついには異端ともいうべき立ち位置からも開放されたのではないでしょうか。

◆『沈黙』が意味するところ
遠藤周作は16~17世紀の日本人の基督教信仰には、仏教や汎神論が混在しているとみていました。そのことが彼を限りなく隠れ切支丹の世界に近づかせたといわれています。
さらに、『沈黙』で描かれた隠れ切支丹による「聖母信仰」には、西欧の中世における「地母神信仰」の姿を投影させたかのようにもみえます。それは、一見特異な「日本の基督教」を描いているようにみせて、実は西欧の基督教の底層に流れる原初的な精神性をも描いているようにもみえます。

聖母信仰が根強い地中海沿岸地方のシチリアからの移民の子であった巨匠マーティン・スコセッシ監督はそこに共鳴して、28年もの歳月をかけて映画『沈黙‐サイレンス‐』を制作したのではないでしょうか。

物語最後の場面はドラマチックで深く印象を残します。
棄教を強いられ思い苦しむ司祭のロドリゴに、神は救いの手をさしのべるでもなくただ「沈黙」をするだけでした。最後に、ロドリゴが踏み絵に足を上げた瞬間、
「踏むがいい・・・」と
ついにキリストは「沈黙」を破ります。

わたしの勝手な想像ですが、そのときのキリストの声は、まさに「阿弥陀さま」や「母」のような慈愛に満ちた声であり、発した声の主であるキリストは、ついに「如来蔵」のごとくロドリゴの心に宿したであろうと思うのです。(了)

※『神と仏』遠藤周作/山折哲雄監修(海竜社)平成12年
※『沈黙』遠藤周作(新潮文庫)平成16年
※『ユングとキリスト教』湯浅泰雄(講談社学術文庫)96年
  ユングの「聖母崇拝」についての講義内容を解説。(306頁)

※追記(2017‐01‐31):映画『沈黙-サイレンス-』の感想。
冒頭が、漆黒の闇に虫の声や鳥の囁き、そして波の音など、音楽のない静寂な「沈黙」から始まります。汎神的風土の中に神の存在を感じさせる演出です。それが終盤に登場するオレイラの「日本人は自然の中にしか神の存在を認めない」の言葉に符号します。それから、ロドリゴが棄教した後も、母なるイエスが心の中に寄り添っていたことを、スコセッシ監督は原作にないラストシーン(入棺したロドリゴの掌中でロザリオが輝くシーン)で見事に表現していました。
ただ、この作品は重いテーマを扱っていることを覚悟しないと、数々の残酷なシーンはきついかもしれません。
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第153話:森雄士師との遭遇



◆母の従弟
子どもの頃、親戚に気になる人がいました。母の従弟にあたる森雄士(もりゆうじ)という邦楽演奏家です。彼の存在を知ることになったのは、TVの邦楽番組を茶の間でみていた時でした。画面の向こう側に胡弓を演奏している盲目の男性がいて、母が「ゆうちゃんだ」と叫んだのです。そこではじめて彼についてのあらましを聞かされたと記憶しています。

「ゆうちゃん」こと森雄士は、母より5才年下の昭和4年生まれ。わが家に時おり訪れる製材所を営む「森のおじさん」の2番目の息子さんです。生後間もないころに麻疹により全盲になってしまい、将来を案じた「森のおじさん」はピアノや箏を習わせ、ついには東京の宮城道雄に手紙をかいて息子の弟子入りの承諾を得たそうです。
母にとって森家は叔父(わたしの祖父の弟)の家です。障がいをもちながらも一生懸命習い事に励む幼い従弟を、母の兄妹たち共々、弟のように可愛がっていたようです。実際、彼の世話をするために、母の次姉が一時東京に駆り出されたという話も聞いています。

こうして森雄士は、昭和10年、6才にして故郷酒田を離れ、東京で宮城道雄門下生としての生活をスタートしました。東京大空襲の折に酒田へ一時疎開したほかは、終生東京で過ごし、三味線(三絃)、箏、胡弓、歌(地歌)などの邦楽演奏家(筝曲家)として活躍したようです。

今や、わたしの両親は亡くなり、そして気がつけば叔父や叔母といえる人たちも鬼籍に入ってしまいました。親戚付き合いが希薄になっていくと同時に、気になる存在だったはずの森雄士のことも次第に忘れかけていました。

◆不思議なご縁
そんな矢先のことです。ひょんなことから、鍼灸師の公益団体が主催するイベントで、彼が箏を演奏したことを知ったのです。それにはびっくりしたのは言うまでもありません。
2010年のこと。日本鍼灸の礎を築いた杉山和一(杉山検校)の生誕400年を記念したコンサートで、和波孝禧のヴァイオリンと森雄士の箏による「春の海」と「谷間の水車」(共に宮城道雄作品)が披露されたのでした。
森雄士は当時81歳、宮城道雄の最後の弟子と謂われながら、演奏する機会はめっきり少なくなっていたそうですが、そのときのジョイントは、かつて東京盲学校で和楽の教官をしていたときの教え子である和波孝禧と、師弟共演という特別な意味合いもあったそうです。

ついぞ忘れかけていた森雄士を、杉山検校の生誕400年が引き寄せてくれました。何か不思議なご縁を感じてしまいます。かつて検校を中心とした当道座(盲人の相互扶助組織)という制度があった江戸時代を考えてみれば、鍼灸・あんまと三曲(箏・地歌三味線・胡弓)は同じ保護政策の下で、鍼灸医学や邦楽として発展してきたという歴史があります。大げさな言い方をすれば、この400年の歴史を振り返ることで、まだ見ぬ遠縁の森雄士にようやく遭遇できたと言うべきかもしれません。

◆道を究める
以来ネット上の繋がりとはいえ、邦楽関係者のブログを通して、ときどき彼の動静を垣間見るようにしてきました。たとえば、先のコンサートを聴いたという方が、こんな感想をブログに綴られていました。

「勿論今から数十年前の力強い演奏と言う訳には行きませんが、その当時天才演奏家と言われていた弾き方をその日も所々で感じさせる演奏を聞かせてくれました。(中略)演奏を見た感じを言いますと派手な弾き方は行っていません。むしろ何もしていないかの様に見えたり聞こえたりしますが、これは音楽的自然な表現に則って演奏している事にあります。」
 (ブログ「コロちゃんの独り言」から抜粋)

なかでも「何もしていないかの様に見えたり聞こえたり」というのは、中島敦の小説『名人伝』にある「弓の名人の究極は弓のことを忘れてしまう」ことに通じることなのでしょうか。筝曲のことはもちろん門外漢ですが、ふとそんなことを連想させました。

森雄士は2012年に亡くなりました。享年83でした。
亡くなる1か月前に録音したCDの存在を最近になって知り、さっそく購入して最後の演奏となった地歌と三弦を聴いております。またその関係者のご好意で、2005年に宮城道雄の思い出を語ったインタビュー記事(『邦楽ジャーナル』05年11月号/12月号)も入手しました。

ふとした奇遇から、彼に関した多くの事柄を知ることで、邦楽の道を究めた森雄士が、わたしのファミリーヒストリーの中に存在したことを誇りに思うと共に、わたしにとって森雄士は求道の「師」であることを、改めて確信しました。(了)


※森雄士(1929~2012):
昭和4年山形県酒田市生まれ。宮城道雄に箏・三絃・胡弓等を師事するため6歳で上京。東京盲学校初等部に入学。在学中はピアノなどの西洋音楽も学び、斎藤松声、久本玄智ら山田流講師陣にも師事する。音楽理論と作曲法は、団伊玖磨、柴田南雄に師事。卒後は同校で教鞭を執る。その他川村女子学園講師を務める。作品に「石川啄木詩集より」「箏とフルート二重奏曲」「壱越調」「箏独奏の為の変奏曲」などがある。(CDより抜粋)

※杉山和一(1610~1694):
江戸元禄時代に活躍した検校。元禄2年(1689年)に関八州の当道座(とうどうざ)を統括する「惣禄検校」となる。綱吉から拝領した本所一つ目の屋敷(「惣禄屋敷」)に盲人達の教育授産施設である「杉山流鍼治導引稽古所」を設け、鍼灸・導引(あん摩)の指導に当った。管(鍼管)に鍼を通して鍼頭を叩打する「管鍼法」を考案。「管鍼法」は日本鍼灸独自のスタイルとして定着した。

※CD『安藤政輝・宮城道雄を弾く4』日本伝統文化振興財団
収録2曲目:「水の玉」が森雄士の亡くなる1か月前の演奏録音。
 歌・箏:安藤政輝/歌・三弦:森雄士

第129話:井筒俊彦の世界



◆わたしの「横浜事件」
個人的な話ですが、「横浜事件」と勝手に呼んでいる忘れられない出来事があります。それは10年ぐらい前のある日の夕方。週に2日担当している横浜の治療院からの帰路、横浜駅京浜東北線のホームで上りの電車を待っていました。その日はいつものように何人かを治療した中で、ある患者さんの治療が不思議なほどに奏功したのですが、むしろ逆に「なぜあんなにうまくいったんだろう?」と妙にひっかかりを感じてしまい、釈然としないまま、ぼんやりホームで佇んでいました。

すると全く突然なことに、そのひっかかりに対する「回答」というべきイマージュ(心象)が、まるで深いところから湧き上がってきたかと思うと、一瞬にして身体が揺さぶられたのです。ふと周りを見渡せば、みるみる一面がセピア色に染まっていきます。と同時に、昂揚感とでもいうのか身体全体が熱くなってきて、わたしも一緒にその色に染まってゆくような感覚がしたものです。

どんな「回答」かについては、守秘義務に係わることなので詳しくは書けないのですが、とにかくわたしにとっては当に「腑に落ちる」衝撃的な内容だったということ。アイデアが浮かぶという感覚と同じように、意識の奥から勝手に浮上したことなのでしょうが、ただ、一面がセピア色になったり身体が熱くなったりする感覚はもちろん初めて体験することでした。

◆『意識と本質』
この不思議な出来事をどう解釈すればよいのか、その糸口を掴んだのは、偶然にも井筒俊彦の『意識と本質』を読んでいるときに、次の文章に遭遇したときでした。

「突然、日常的意識の活躍のさ中で、ふと、現実的事物との結合を離れ、事実性から遊離したイマージュがどこからともなく現れてきて、意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがある。・・・(中略)・・・シャーマンやタントラの達人のように、深層意識の超現実的次元を方法的に拓いた人たちだけが、この種のイマージュを正しく活用する術を心得ている。
しかし、常識的人間の場合でも、このようなイマージュ体験が実際に起る時、実は彼の内部には既に表層意識から深層意識への推移が生じつつあるのだ。」
            (『意識と本質』Ⅷより抜粋;187~188頁)

つまり、わたしが体験した「横浜事件」は、それこそ常識的人間のイマージュ体験であり、意識の表層と深層とで起きた事象であるに違いない、とたちまちのうちに理解ができたのです。

哲学が扱うものは「意識」とすれば、自分の意識の観察法を体得しておくために、「哲学」を学ぶことには意義があります。井筒俊彦の名著『意識と本質』は、そうした意味ではきわめて示唆的な事柄を提供してくれます。なかでも興味深いのが深層意識に関すること。わたしたちの日常生活では表層意識で彩られていますが、ひとたび足を止めてその足元を覗いてみれば、恐ろしく深い淵が開けた深層意識の存在に気づかされます。井筒は、深層意識に「言語」というファクターを持ち出し、言語以前の種子(ビージャ)が絡まり合うカオスの海であるとし、これを「言語アラヤ識」と名付けています。

こうして井筒が説く深層意識とは、フロイトやユングの「無意識」とはひと味もふた味も趣が異なり、広く哲学・宗教・文学・言語学に及びながらも東洋哲学に根差しています。

◆井筒俊彦という人物
井筒俊彦(1914~1993)は、はじめイスラーム哲学の研究から出発し、後年、広く東洋哲学全体へと研究の幅を広げ、そこから独自の哲学を構築した学者です。井筒の学識の広さと深さについては広く知られていることで、また数十か国語を理解できるとまで言われた世界的な碩学です。遠藤周作を筆頭に井筒俊彦に傾倒した著名人は多く「日本人の魂の師匠たるべき大思想家」と評価されてきました。

わたしにとっての井筒俊彦の魅力は、単に学識の広さということだけではなく、東洋思想でいうところの「身体知」を感じさせる「知の巨人」にあります。たとえば、先の引用した文章でもそうですが、井筒の文章はいわゆる学者の文章でないということ。意識と身体の最も深い場所に身を置いて言葉を選んだこうした文章は、少なくとも自らの体験がなければ書けないといえます。ですから文中の「意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがある」は当にそうで、体験があるからこそ書けるのです。

また、恐るべきカオスともいえる深層意識を実際に垣間見ることで、それについて論究できるのは、座禅などの伝統的瞑想法による宗教的な行(ぎょう)をきっと体験されている方だろうと想像できます。実際のところ、井筒は父親の影響で若い頃から「禅」には深い関心を持ち、父・井筒信太郎から伝授された内観法を日々行じていたと言われています。

こうした井筒俊彦の「身体知」というべき実証主義的姿勢は、日本の「禅」に限らず、ギリシャ哲学の中の「神秘哲学」、イスラーム神秘主義(スーフィズム)、仏教の華厳哲学などの哲学研究を通して、あくまでも「形而上学は形而上的体験の後に来るべきものである」と言及していたことが当に象徴的です。
「井筒哲学」とは井筒自身の実感に裏打ちされた「哲学」だということです。


※井筒俊彦『意識と本質-精神的東洋を索めて』岩波文庫(91年)
決してやさしく書かれているわけではないが、繰り返し読んでみたくなる本。
※『井筒俊彦-言語の根源と哲学の発生』河出書房新社・道の手帖(2014年)
井筒俊彦生誕100年を記念して刊行されたガイドブック。
特に印象に残った記事は若松英輔による「光と意識の形而上学」。井筒と漱石とベルクソンの共通項を検証することで、井筒哲学の根幹がよくみえてくる。
※井筒俊彦『意味の深みへ―東洋哲学の水位』岩波書店(85年)
イスラームに対して時局追求的興味で知るよりも、その歴史的文化的根底を知るべきと井筒は説く。なかでもスンニ派とシーア派の根源的な違いについての言及が印象的。

第127話:50歳からの漱石



◆漱石は古くない
夏目漱石(1867~1916)の『こころ』が最近の朝日新聞に連載されているそうです。しかも今から100年前・大正3年(1914年)に朝日新聞に連載されたそのままのかたちで掲載しているとか。当時の「旧仮名遣い」は、今のわたしたちにとっては慣れない代物とはいえ、それでも漱石の小説は100年経っても少しも古さを感じさせない―と毎日読んでいる患者さんのAさんがそうおっしゃっていました。

わたしもAさんに同感です。昔も今も永く支持され続けてきた作家という意味では、漱石の右に出る作家はいないでしょう。古書店によく通うわたしからみても、漱石の文庫本ならば、どこの古書店でも必ず見かけます。一方、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安倍公房などはすっかり影を潜めてしまい、時代の寵児として脚光を浴びる作家でさえ、時の流れとともに忘れ去らようとするさまは書棚からも窺えます。そうした中でも漱石はひとり関せず、いつの時代にも普遍的な光を放ち続けています。-と、分かったような物言いをしてしまいましたが、実のところわたしが本当の意味で漱石を理解できるようになったのは、50歳をすぎてからのことです。

◆漱石の良さがわかる年齢
若いときは『ぼっちゃん』や『吾輩は猫である』をとりあえず読んだという記憶しかありません。たしか高校に入学した折、『蛍雪時代』に旺文社文庫の『草枕』が付録としてついていました。有名な冒頭の一節「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」の後は、正直いってちんぷんかんぷんで何が面白いんだろうと、途中で投げ出した記憶があります。今振り返れば―それはしょうがないこと。読解力もなければ、共感できるほどの人生経験もあるわけではないのだから―と言い訳ができます。
それが50歳をすぎて読んでみると、驚くほど多くの「気づき」を得られるものです。というより、わたしの方が漱石の面白味を理解できる年齢に、遅ればせながらようやく到達したというべきでしょうか。

◆『それから』にみる文明批評
「漱石は古くない」と思った小説のひとつに、漱石42歳のときの『それから』があります。親友の妻を横恋慕する所謂「姦通小説」の類です。明治も後期となり「日露戦争後の商工業膨張」を背景に、いわば「近代社会草創期」のなかでの人間模様を描いています。面白いのはその恋愛ドラマではなく、むしろ主人公にあります。主人公の長井代助は職をもたず、実業家の父から経済的援助を受け、書生を同居させるような所謂「高等遊民」。好きな音楽を聴き、洋書を読む毎日で、一向に働かないその理由を「日本対西洋の関係が駄目だから働かない」と理屈を述べます。
漱石は分身である代助を、世間を俯瞰する「高等遊民」にすることで、持論の文明批評を代助の言葉のはしはしに代弁させているような気がします。

ここで慶応3年生まれの漱石と、漱石の親の世代を考えれば、侍は帯刀して、藩政の縛りに苦労していた時代がほんの直前まであったということ。まだまだ江戸時代をひきずりながらも、急激な変化を強いられた明治という時代に漱石は小説を書いていたのです。一方、代助はと言えば、父は17歳のときに家中のひとりを切り殺した経験をもち、伯父は京都で頭巾を着た浪士に殺されています。それがたちまち明治の文明開化を経ると、富国強兵・殖産興業を国是とし、是が非でも西洋列国に肩を並ぼうと、日本は西洋文化を積極的に取り入れます。ついには日露戦争で勝利すると、日本は次第に傲慢な風潮になってゆき、父も商工業の膨張に乗じ、いかがわしいことをして財をなしたのではないかと、代助は父の自己欺瞞を批判します。

漱石は、はたして『それから』で何を云いたかったのでしょう。
33歳より2年間英国留学の経験をもつ漱石は、西洋文化に十分精通した上で、舶来ものに盲従する風潮に警鐘を鳴らし、世界の中での日本の立ち位置を質そうとしたのでしょう。
今読んでも「漱石は古くない」のは、漱石のそうした「時代」の先を見据え、「小説」という表現手段をつかい、常に「時代」にコミットしてきた姿勢にあるからだと思います。

◆『草枕』からのヒント
ちなみに、ピアニストの鬼才グレン・グールドは意外にも『草枕』の英訳版を愛読していたそうです。そんな興味も手伝って、高校時代に頓挫した『草枕』を再び読んでみました。それでもわたしにとっての『草枕』は難しい小説であることには変わりません。ただ面白いことに、小説の中に「霊台」という文字を2か所みつけました。それは鍼灸師のわたしにとって、ツボ「霊台」を理解する上での貴重なヒントになり得たのです。
※参照記事⇒「第38話:霊台考(その2)」

こんなふうに、漱石は今読んでもさまざまの「気づき」を提供してくれます。それと、できれば50歳を過ぎたころにでも、ゆっくり吟味しながら再読することもお勧めします。

第118話:「谷根千」と岡田虎二郎



◆「谷根千」の散策
最近「東京の右半分」にスポットがあたっているそうですが、わたしにとっての「東京の右半分」といえば、森まゆみが世に知らしめた「谷根千」と呼ぶ谷中・根津・千駄木の地域です。東京に出てもう42年、つねに「東京の左半分」に居住の中心を置いていたのでついぞ「谷根千」には縁のないまま過ごしてきましたが、最近になってようやく千代田線「千駄木」の駅を起点にして、半日のぶらり散歩をするようになりました。

先日は千駄木から日暮里までを散策。千駄木駅前の団子坂下から三崎坂に入って山岡鉄舟と三遊亭円朝のお墓がある「全生庵」。北西に路地へ入って「岡倉天心記念公園」。そして右に折れ蛍坂の近道を通れば4年もの修復工事を終えたばかりの「朝倉彫塑館」にたどり着きます。そこでゆっくり滞在したあと、左手に「本行寺」をみながら日暮里駅までの道程をぶらり散策しました。

◆「岡田式静坐法」の聖地「本行寺」
写真はその日暮里駅西口にある「本行寺」。日蓮宗の長久山「本行寺」は江戸時代に建立された寺で通称「月見寺」。戊辰戦争では彰義隊が寺に逃げ込んだことがあり、今でも正門には官軍が打った弾痕が残っています。あまり紹介されることのないこの寺が、実は今回の本題に関連しています。

この寺は明治から大正にかけての一時期、知識人を中心に燎原の火のように広がった「岡田式静坐法」の道場として使われた場所なのです。それは岡田虎二郎(1872~1920)が考案した静坐健康法。毎朝6時に開会し、参加者は本堂に二百名ほどが集まるほどにいつも盛況を呈し、全国には2万人もの静坐法の弟子が存在するまでになっていたとか。虎二郎の信望者には、東伏見宮などの皇族に始まり、華族、財界人から学者、学生まで幅広く、著名人では徳川慶喜、渋沢栄一、中里介山、坪内逍遥、島村抱月、相馬黒光なども静坐会に参加していました。

◆岡田虎二郎の死
虎二郎は謎に包まれた人物で、幼少のころは貧困と虚弱のため小学校しか出ていないにもかかわらず、持ち前の努力と練磨によって農事研究家として活躍し、一時期は単身渡米したこともあり、果ては対象を農作物から人間の健康法にシフトして「静坐法」を確立した稀有で不思議ともいえる人物なのです。
ところが大正9年10月17日、これだけのカリスマ的な存在だった虎二郎が急逝します。過労と腎臓病が原因だったとか。じっさい彼は生涯、一日平均3~4時間しか睡眠をとらなかったそうで、本行寺の他に多くの道場を奔走し指導に当たっていたために過労がたたったと思われます。ともあれ享年48。50歳にも満たなかったカリスマの死は、多くの信望者にショックを与えます。健康法として静坐会に参加した多くの著名人たちは、主宰者の早世にその効力を疑い、あっけなく会を離れるのもそれは当然の成り行きでした。
岡田虎二郎の死後、静坐会の存在も次第に過去の出来事として忘れ去られようとします。が、その根は絶えることなく、各地で静坐会のグループは小規模ながらも活動を続けたそうです。

◆「岡田式静坐法」の復権
なかでも虎二郎の弟子に柳田誠二郎(1893~1993)という人物がいます。日本銀行副総裁や初代日本航空社長を歴任した実業家ですが、100歳で亡くなるまでの80年間もの間、「岡田式静坐法」をまさに日々の健康法として実践された方です。しかも虎二郎の言行録を基に『岡田式静坐のすすめ』という解説書を遺されています。
生前の虎二郎は文章を一切遺さず、日記も死後焼却を頼んだほどでした。それだけに柳田が遺した解説書は貴重であり、虎二郎の早世により効力まで疑われた静坐法の復権を、享年100として当に身を以て証明したことが、なににもまして見事というほかはないのです。

森まゆみの『明治東京畸人傳』により「谷根千」と岡田虎二郎の関わりを知り、さらに柳田誠二郎の『岡田式静坐のすすめ』によって虎二郎の人となりと静坐法の神髄を知ることができます。考えてみれば、東洋の中では日本人が特に「座る」という生活文化を長い歴史のなかで根差してきたわけです。それだけに、かつて燎原の火のように広がった「岡田式静坐法」には、きっと現代の日本人が忘れかけている養生法のヒントが、大いに隠されているような気がしてならないのです。

※森まゆみ『明治東京畸人傳』新潮文庫(平成11年)
※柳田誠二郎『岡田式静坐のすすめ』地湧社(1983年)
※「岡田式静坐法」の大略
一、足の土踏まずを深く重ねて正坐する。膝の間は軽くあけ、尻を突き出す。
すると、自然に腹が出てやや前傾する。
二、肩の力を抜き、背骨は立て、鳩尾(みぞおち)を落とす。
三、眼は閉じ、吸う息は意識せず丹田の一点に力を入れて少しずつ鼻から息を吐く。