第168話:禅と老荘思想の関係



◆フランス人に教えられる
日本に来て25年というフランス人男性(40代)を治療したときのことです。来日した動機を伺うと、彼は「禅の心を学ぶために日本に来た」と応え、普段から坐禅をたしなむと話してくれました。朴訥な日本語ながらも、外国人とは思えないほどの清楚で凛としたたたずまいを感じさせ、東洋の「禅」を日々の生活のなかで実践されている方のようでした。

「禅」がアジアですでに衰退の道をたどっているその同じ時期に、西洋が「禅」について学び始めたという歴史があります。そうしたなかで日本人の仏教学者、鈴木大拙(1870~1966)は、西洋人の禅に対する関心を高めるにあたって多大な貢献をしたと言われています。

本家本元の日本人でありながら、「禅」の影響が日本の伝統文化や芸術、そして茶道・華道などの作法のなかにも脈々と生き続けていること、そして先達が欧米に「禅」を伝道したことをついぞ忘れかけています。まるで「逆輸入の使者」ともいうべき彼は、忘れかけていた「禅の心」を呼戻してくれました。

そこで今回は、東洋の伝統的思想である「禅」、特に「中国禅」と「老荘思想」との関係について書きとめてみました。

◆「中国禅」の系譜
仏教はインドに発生し、中央アジアを経て、中国・朝鮮・日本に伝播しました。なかでも「禅宗」は中国仏教の本流になったもので「中国禅」と呼ばれています。「禅宗」は確かに仏教から派生してきたものですが、釈迦から伝えられたインドの坐禅(禅定)を受けて、それに老荘思想(特に荘子の思想)の考え方を生かし、みごとに融合したという経緯を辿っています。

「禅宗」が生まれたのは7世紀のこと。坐禅修行に専念するための僧院が創設され、ふたりの僧が輩出されます。神秀(?~706)は中国の北方、慧能(638~713)は南方で教えを弘め、それぞれ「北宗(ほくしゅう)」と「南宗(なんしゅう)」を創設します。「北宗」が次第に衰退しはじめたころ、「南宗」の威勢と信望が確固としたものとなっていきます。中国禅の歴史に関する文書のほとんどは、この南宗から生まれています。南宗の急速な発展と共に、五つの宗派(五家)が創設され、そのうちの曹洞宗と臨済宗が、それぞれ留学僧であった道元と栄西によって日本に伝えられました。

◆インド仏教との違い
「禅宗」が中国で生れた理由として、インド人と中国人の精神性の違いがあります。インド人は夢想に向かう理屈好きの性格に対して、中国人は現実的で理屈を嫌う性格だと言われています。その違いがインド仏教から伝わる「輪廻」の考え方について差異を生じ、中国禅を生んだというのです。インド人は生まれかわり死にかわりの果てに、遠い来世に仏になって救済されることを望みますが、中国人は徹底した現実(現世)主義のため、遠い来世まで待てないのです。ましてや「生まれかわると次は豚だぞ」といわれれば、因果応報の観念に強迫されたと解釈するだけです。そこですぐに断ちきる手段はないかと考えたのが「この現世において悟りを開いて仏になる」とする「禅宗」でした。こうした精神性の違いから、インド仏教と中国仏教が全く違うものになっていったという指摘はとても興味深いことです。

◆仏は心の内に宿る(見性成仏)
「禅宗」は、禅院での生活と坐禅をはじめとする厳しい修行によって心身を鍛え、わが心の内に仏を見ようとします。故に「禅宗」は心を重んずる仏教と言えます。
この場合、仏を外にあるものとは見ずに、わが心の内に宿るものと見るのがポイントです。あるいは、わが心がそのままに仏であることを悟る立場でもあります。これを「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」といいます。

本来、心の内に仏が宿っているとするのは「仏性」であり、大乗仏教以来の「如来蔵(にょらいぞう)」思想を引継いでいます。しかも自ら悟ることから「禅宗」は「自力」の仏教といいます。一方「他力」の仏教である「浄土教」は、心の外の遠い彼方(西方浄土)に仏(阿弥陀仏)を置くという意味では、当に対照的な仏教になるわけです。

『荘子』の外篇・雑篇では「自然の本性」という絶対者を自己の内におく点で、「禅宗」に近い性格を備えています。この場合の「自然の本性」は「禅宗」でいう「仏性」に置き換えられます。つまり「中国禅」を『荘子』で解釈できるほどに、老荘思想の影響を受けていると言えます。

◆文字や言語を通じない(不立文字)
禅の行となれば「ひたすら坐る」とか、「ひたすらなりきる」ことが強調されます。それは、有であるとか無であるとかの論理的思考を絶した、あるいは概念的智識を絶した、あくまでも無心の境地をいいます。つまり禅の行においては、経典を紐解くとか、頭で考えてことをなすことではなく、体験そのものを絶対視するということです。これを「不立文字(ふりゅうもんじ)」といいます。

「不立文字」の凡その意味は、「真理を追究することは、文字や言語を通じないで、直接の体験的直感によってとらえられる。」となります。理論よりも体験的直感とする考え方は、インド仏教の世界では主流にはならなかったのが、「中国禅」では重要視されたということです。

その背景には、中国の伝統的な思考法である「荘子の哲学」が関係しているといいます。荘子は、人為的な手段である文字や言語は、ありのままの真理(人為によって歪められない自然の姿)を逆に損なうものとして信用しないと説きます。それは、人間の言葉には、なんでも物を二つに分けて対立を作る習性をもっている。是と非、善と悪、美と醜、などの無限の対立差別を生む言葉による思考法は、あらゆる物は平等無差別とする「万物斉同(ばんぶつせいどう)」の考え方に反するものだと説いています。

これは仏教の根本原理である「空」の思想―二項対立を解体するための理念―にも通ずることから、そもそも荘子の哲学は「中国禅」と融合しやすい思想であったといえます。

◆直接体験としての禅
先のフランス人男性のたたずまいに、「禅の心」が彷彿とさせたのは、そもそも禅を頭で理解していることではなく、日々の坐禅とか日常生活による直接体験からほとばしるものがあったからでしょう。そんな彼に刺激を受けたわたしも、最近は機会があれば寺社に足を運び参禅し、少しでも禅の心に触れるようにしています。(了)

※鎌田茂雄著『禅とはなにか』講談社学術文庫(97年)
著者の体験を交えながら、禅とはなにかを平易に解き明かした入門書。
※森三樹三郎『老子・荘子』講談社学術文庫(94年)
後半に老荘思想が中国仏教の特に禅宗と浄土教にどのように影響を与えたか論じている。

スポンサーサイト

第147話:『東洋思想』の重層性



◆悩める学徒◆
鍼灸の専門学校に入学したころ、鍼灸医学の背景となる『東洋思想』に対して急に興味が膨らんできたころの話です。学ぼうとする意欲が芽生えたとは裏腹に、学校で教わる「東洋医学概論」とか「東洋医学史」はとても脆弱な内容に思えて、満足できないまま欲求不満だけがつのるばかりでした。結局のところ、人文科学系の東洋医学に関連する『東洋思想』を論ずる(数少ない)学者のなかから、これはと思う著作を探して自分なりに学ぶしかないと覚悟をきめたものです。とはいえ、それは海図も羅針盤もないところで愚直にも航海にでるようなもので、正直なところ何から手をつけてよいものやら全くわからない状態でした。

そんな悩める学徒に海図と羅針盤を提供し、学ぶことのヒントを示してくれた人物、それが伊藤真愚でした。氏は鎌倉円覚寺で修行した居士(こじ)であって鍼灸師という異色の人物、仏教の世界から東洋医学を語るという、当時の鍼灸界としては稀有な存在といえました。信州伊那に庵を構え、新宿の東洋鍼灸専門学校の講師を務めていました。すべてのツボを「お経」のように覚える「経穴経(けいけつきょう)」という独創的な教材は、当時学生のなかではとても評判になっていました。

◆伊藤真愚の教示◆
講演会の企画に参加したことがご縁で、氏と直接話をする機会を得ました。そのとき教えて戴いたことで一番印象に残っていることが、まさに東洋思想(中国思想)は何を要点にして学ぶかということ、それは―中国の歴史のなかで儒教・道教・仏教の三教がどのように影響し合ってきたのか、さらに日本ではどのように受け入れられてきたのか―という点でした。

氏はその例として、中国がインド仏教を導入した経緯について言及しました。中国の翻訳は、サンスクリット(梵字)で書かれた教義を、実は儒教や道教(老荘思想)というフィルターを通して漢訳していたこと。つまり儒教や道教(老荘思想)の用語を使って中国流に漢訳されたものが「中国仏教」であること、それが日本に伝来すると、さらにまた日本流に編集し直されたのが「日本仏教」だというのです。
つまり、氏が指摘する意味合いとは、東洋思想の変遷を辿れば、儒教・道教・仏教の三教が互いに意識しながら対立しつつも、時に混合(ミックス)と組合せ(コンビネーション)を繰り返してきた歴史があり、その流れをしっかり押さえておくことが大切であるということでした。

◆東洋思想を重層構造でみる◆
それまでのわたしは、東洋医学の古典である『黄帝内経(こうていだいけい)』の基底となす「神仙思想(道教)」を中心に学ぶべきと漠然と思っていただけに、氏の指摘はまさに目から鱗でした。それをきっかけに、『東洋思想』はひとつではなく重層構造にあるという認識にたつようになりました。

かつて『東洋思想』(東洋哲学)を「支那学」と呼んでいた時代には、たとえば岡倉天心や幸田露伴などの漢籍に長けた碩学たちは、儒教であれ道教であれ、そして仏教であれ高い知識と教養を身につけていたので、その重層性を俯瞰する眼は常に備わっていたといえます。ところが現代は、それぞれが分化した大系をとっているので、初学者にとっては相互の関係性が、むしろ見えにくくなっています。
ですから、日本の東洋医学、特に古来の養生法や呼吸法を中心とした、今でいう健康法に眼をむけたときには、その淵源に儒教・道教・仏教による三教の影響が必ず関与することを見極めながら読み解くべきなのです。

◆『養生訓』にみる重層性◆
たとえば、貝原益軒(1630~1714)が著した『養生訓』はその好例でしょう。
貝原益軒は福岡黒田藩の儒学者。「医者を志す者は、まず儒書を学び、その文義を理解すべし」と儒学者らしく説いていますが、だからといって『養生訓』全編が儒教の教義に基づいて説かれているわけでもありません。

なかでも老荘思想に基づく例としては、『老子』の「人の命は我にあり、天にあらず」を引用して、天から授かった命でも、長生きできるかどうかは、われわれの養生に対する心がけ次第であると説き、また『荘子』の有名な逸話、料理人の庖丁(ほうてい)を借りて、養生の術は、庖丁が心をはたらかせて牛を料理したのに似ているとし、自然の摂理に従うままに行うべしと説いています。

特に、貝原益軒は「気」が健康の根本だといいます。それは朱子学の理気論とはまた違った「気」の解釈で、「養気の術」という今でいう「気功」のような養生法を提唱しています。そして『黄帝内経』から「百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調うにあり。」を引用して、「気の養生学」を説いています。

さらに、「呼吸法」の大事なことは「気」を丹田に集むべしとする「丹田呼吸法」と貝原益軒は説いています。この丹田を重視する呼吸法は、実は中国天台宗の開祖智顗(ちぎ)(538~597)が著した『天台小止観』が原点ですが、天台大師智顗がインド古来の呼吸法と、中国の『荘子』から始まる「胎息法」をみごとにひとつにしたものです。この『天台小止観』に説く坐禅と呼吸法は、以後中国禅の「坐禅儀」(坐禅のやり方の書)にそのまま引き継がれて、それが日本に移ってきて、いろいろな文献になっています。

とこのように、例をあげたらきりがないのですが、ただひとついえるのは、こうして『養生訓』を例にしたように、内容の淵源をひとつひとつ丁寧に探っていけば、次第に東洋思想の重層性と全体像がみえてくるのです。(了)


※貝原益軒/伊藤友信訳 『養生訓・全現代語訳』講談社学術文庫(1982年)

第146話:「部分と全体」論の背景



◆部分が全体を表す◆
東洋医学では「部分が全体を表す」という考え方が随所にみられます。たとえば代表的な診断法である「脈診」を例に挙げると、手首にある橈骨動脈に指を触れて感じる「脈のかたち」から、身体が置かれている現在の「病証」を類推します。動脈拍動部という「部分」を診察することで、身体「全体」の病証が診断できることになります。こうした考え方は「腹診」や「舌診」などの診断法も同じことがいえます。

一方診断法以外では、治療法のなかにも「部分が全体を表す」という考え方を基本にしているものがあります。身体の「部分」を治療することで、身体「全体」の治療ができるということ。その場合は、部分と全体がちょうど「相似形」の関係になっていることが特徴になっています。もうお気づきでしょうが「耳鍼療法」や「足の反射療法(足ツボ療法)」が当にそうです。たとえば「耳鍼療法」では、逆さにした胎児の身体をそのまま耳に投影してツボが決められています。となると、下の耳たぶは頭とか眼のツボ、中間の窪みは内臓のツボ、耳の上のほうは足腰のツボが配置されています。耳ツボは身体の一部分にあるツボでありながら、全身のツボとしてそこに投影されているので、どんな病証でも「耳鍼療法」だけで全身治療ができることになっています。

◆思想的背景
こうしたいわば「部分と全体」論の根拠となる思想的背景はどこにあるのでしょうか。
たとえば西洋では、空間的に一点のなかに全世界が映し出されるということでは、ライプニッツ(1646~1716)の「モナドロジー(単子論)」のような考え方があります。また、部分と全体が相似形の関係にあるということでは、数学者マンデルブロ(1924~2010)の「フラクタル理論(自己相似性)」のような考え方もあります。

ところが東洋では、ライプニッツやマンデルブロに先駆けて、その根拠となる思想哲学がすでに存在していたことになります。今回のテーマは、そうした思想的背景である老荘思想、なかでも『荘子(そうじ)』の「万物斉同(ばんぶつせいどう)」と、仏教の「華厳経」が説く「一即多、多即一」を中心に紹介したいと思います。

◆荘子の「万物斉同」
荘子(BC369~BC286推定)は春秋戦国時代の思想家で、道教の始祖のひとりとされる人物です。中国の格言に「人はこれ一箇の小天地なり」というように、中国にはもともと宇宙的視野から人間を考えようとする哲学があり、その代表が荘子の哲学です。
『荘子』の「斉物論(さいぶつろん)」には「万物斉同(ばんぶつせいどう)」の思想が説かれています。荘子は彼(かれ)と此(これ)、是と非というような、自他が互いに対立するものを一切失いつくした境地を「道枢(どうすう)」と呼びます。道枢は一切の対立と矛盾をこえた絶対の一に立脚して、千変万化する現象の世界に自由自在に応ずることができます。そうした道枢の境地を「万物斉同」の実在とし、理想の世界であると説くのが荘子の考え方です。
すべてを対立と矛盾をこえた世界とすれば、大もまた小であり、長もまた短であり、個も普遍であるとなります。したがって荘子が説く「万物斉同」は、「部分」は「全体」であるとする「部分と全体」論の源流ともいえるのです。

◆「華厳経」の「万物斉同」的理解
ここで歴史的な流れを紹介すると、インドで生まれた「華厳経」という経典が、中国に渡り漢訳されると中国の華厳宗が創立し、後に朝鮮や日本に伝来しました。日本の華厳宗といえば東大寺になり、聖武天皇が建立した奈良の大仏様は、華厳経の仏である「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」になります。平安時代には真言宗の空海は、哲学としての華厳を密教的行法の理論づけに利用しています。鎌倉時代では栂尾(とがのお)高山寺の明恵上人(1173~1232)は華厳と密教の一致を主張して華厳密教(厳密)の始祖と呼ばれるようになります。

話を中国の華厳宗に戻すと、インドの思惟としての「華厳経」が、漢訳仏教として翻訳された唐代は、ちょうど儒教・道教・仏教の三教交流時代に当たります。翻訳者は難解な哲学的教義としての「華厳経」をすぐには理解できなかったとしても、荘子の哲学というフィルターを通して漢訳するとたちまち腑に落ちたということがあったようです。
「華厳経」でいちばん多く説かれる、微塵のなかに大きな世界が全部入り込んでいるという「一即多、多即一」の思想を理解されたのは、荘子が説く「万物斉同」の思想とみごとに結実した結果であると言われています。

◆華厳経の「一即多、多即一」
「華厳経」では、すべてのものを極小まで縮めて、極小のなかに極大を見ようとします。それが極小なるもののなかに無限なるもの、偉大なるものが宿っているとする、それが「一即多(いちそくた)」の思想です。たとえば、池に蓮の花が咲いています。蓮の葉に目を落とすと朝露が一滴雫(しずく)となって、キラッと朝日に映えて輝いています。目を凝らしてみれば、その球体の雫には全宇宙が映し出されていた―これが「一即多」を表す象徴的な構図です。

ここで「一即多」の「一」を部分とすれば「多」は全体であり、「一」を小宇宙とすれば「多」は大宇宙を意味し、自ずと「一」と「多」には相互の可逆的な関係が成立します。それが「一即多、多即一」となります。
「それぞれのなかにすべてがあり(一即多)、すべてのなかにそれぞれがある(多即一)」という「華厳経」の思想は、東洋の長い歴史のなかに生きつづけて、東洋医学のなかの「部分と全体」論の根拠にもなったと考えられます。(了)


※鎌田茂雄『華厳の思想』講談社学術文庫(1988年)
「華厳の思想」は日本人の生活感情や自然観のなかに定着している。華道や茶道の理念にもこの精神は生きていると解説。
※鎌田茂雄・上山春平『無限の世界観<華厳>』角川文庫/仏教の思想6(平成8年)
唐代の医学書『千金方』を著わした孫思邈(そんしばく)は道教の道士でありながら、「華厳」を熱心に研究していたこと。さらに孫思邈の伝記を著わしたのが中国華厳宗の大成者・法蔵であったことを紹介している。

第139話:『五行論』について



◆背景にある『五行論』◆
「キトラ古墳」の天井と壁面をみると、まず天井には北斗七星などの星座が描かれてあり、これは「道教」における「星辰信仰」という宇宙観に依拠します。さらに四方の壁面を見れば、それぞれに「四神(ししん)」を為す架空の動物が描かれてあります。「四神」とは四方の守護神のこと。東面に「青龍」、南面に「朱雀(すざく)」、西面に「白虎」、北面に「玄武」と、それぞれ壁中央に配置してあります。ちなみに『五行論』では四方に「中央」を加えて「五方」と呼び、さらに呼称についた「色」に着目すれば、青・赤(朱)・白・黒(玄)というように、中央の黄色を加えれば『五行論』における「五色」が内包されているのです。このように古代の古墳を覗いてみても、『五行論』を背景にしてすべてが構築されていることが分かります。

次に、季節の移り変わりにも『五行論』のリズムが刻み込められていることを紹介します。それは旧暦の「二十四節気」です。「立春」から始まり「大寒」で終わる合計24個の「節気」は15日毎に訪れます。その15日というのは、一日一日を「木」「火」「土」「金」「水」に配当しその最小単位の5日間を「候(こう)」と呼び、その「3候」を「節気」としているのです。旧暦は正式には「太陰太陽暦」といい、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽暦)が加味されたもの。「二十四節気」は太陽の運行(公転角度15度)に則した季節の節目ではありますが、実はそこには中国古来の『五行論』におけるリズム(木火土金水)が刻み込められているということです。

   1候=5日(木日・火日・土日・金日・水日)  節気=3候=15日
   1年=360日=24節気(15日x24)=72候(5日x72)

◆そもそも『五行論』とは
こうして中国で生まれた『五行論』は、「陰陽論」と共に天文・宗教・文化・芸術そして伝統医学である東洋医学の世界に色濃く浸透しています。
そこで今回は『五行論』について、主な特長について整理してみました。

『五行論』は、自然界のすべてが「木」「火」「土」「金」「水」の五つに分類されるという考え方です。たとえば季節であれば春夏土用秋冬、方位であれば東南中央西北、五臓であれば肝心脾肺腎、色であれば赤青黄白黒ということです。
これを一覧に表したのが「五行色体表」と呼ばれるものですが、主な項目だけを書くと次のようになります。

   【五行】 木  火  土  金  水
   【五色】 青  赤  黄  白  黒
   【五季】 春  夏  土用 秋  冬
   【五方】 東  南  中央 西  北
   【五臓】 肝  心  脾  肺  腎
   【五腑】 胆  小腸 胃  大腸 膀胱
   【五主】 筋  脈  肌肉 皮毛 骨
   【五竅】 眼  舌  口  鼻  耳

ここで注意すべきは『五行論』は単なる分類学ではないということ。大事なことは二つあって、ひとつは自然界すべてのものが絶え間なく変化し、しかも円環(もしくは五角形)運動を呈している、とする所謂「循環の思想」を意味します。
   「木」⇒「火」⇒「土」⇒「金」⇒「水」⇒「木」・・・
たとえばそこに「金」の隠喩(メタファー)が現れていたとしても、それはあくまでも循環変化のひとつの位相(フェーズ)であるということ。むしろその場合、上流側の「土」との関係性を大切にします。具体的な例をあげれば、風邪(肺金の病)を引いている患者さんには、肺機能をサポートしている胃腸(土の臓腑)の治療も同時に加える-ということがそれに該当します。

そしてもうひとつは、五つのエレメントに隠喩(メタファー)として分類しながらも、「五行色体表」の縦列に示す項目に着目します。そこで一見関係性のない項目同志に「意味的連関」を見出すことを重んじること。それが『五行論』における最大の特長となっています。たとえば、「肝」虚証の人は、「春」に体調を崩しやすく、「眼」が疲れやすく、「筋」肉が疲労しやすい・・などと繋がるのです。しかも大半のことが不思議なくらいにぴったり整合性を示します。したがって、逆に「眼」が疲れやすい人であれば、「肝」虚証ではないか、他に「筋」肉も疲労しやすいのでは・・と問診しながら診察を進めることができるのです。

◆『五行論』は迷信にあらず
鍼灸の学校教育を振りかえると、『五行論』といえば「五行色体表」を教えて終わりという傾向にありました。「五行色体表」を丸暗記した学生であれば、たぶん『五行論』は古色蒼然とした分類学にすぎないと思いがち。そうなると、当然にして『五行論』は迷信あつかいされてしまうのです。

しかし先に説明したように、『五行論』とは、自然界の「循環の思想」であり、または自然界を横断する「意味的連関」に眼差しをおいた独特の思考法であります。
人の身体と心が、まるごと自然界の一員であるとするのが東洋思想の根幹とするならば、眼とか耳などの身体の部位も、臓器も、気持ちのあり様も、季節のうつろいも、口にする食べ物も、それぞれが呈する位相(フェーズ)間には、意味をもって繋がっているというのは、ごくごく自然なこと。そうした眼差しを提示してくれる思考法が、当に『五行論』だということです。(了)

第133話:細胞レベルの陰陽論



◆細胞の世界からみえること◆
身体を構成している細胞の世界に目を投じてみれば、そこには「生」と「死」のドラマが繰りひろげられています。というのも、身体は約60兆個の細胞で構成されていて、ある一定数の細胞が数週間で死を迎えると、さらにその分の新しい細胞が生まれ順次入れ替わるからです。たえず入れ替わるのが「新陳代謝」であり、入れ替わる力が徐々に弱くなるのが「老化」といえます。

こうした一連のドラマを荷っているのが「体細胞」と「幹細胞」のふたつの細胞です。
「体細胞」は身体の多くを構成している細胞で、ある回数の分裂を経た後では、もう分裂することを止めます。したがって「体細胞」は有限な「死すべき細胞」といえます。
もうひとつの「幹細胞」は無限の分裂ができる「不老不死の細胞」の性質をもち、各種「体細胞」に分化できる細胞のことです。したがって「幹細胞」は不老不死の身体から、同様に不老不死の複製「幹細胞」と、定められた役割をもつはかなくも「死すべき細胞」である「体細胞」とを、同時に分裂させる細胞だということです。
例をあげると、骨髄の奥深く蔵された「造血幹細胞」は、血液を構成するさまざまな「体細胞」を産みながら、自分自身は無限に分裂して、老化をすることがない細胞です。

◆細胞間における陰陽論
このように、細胞レベルでの世界では「体細胞」と「幹細胞」が対照的な動きをしながら、身体のホメオスタシスを保つように活動を続けているわけです。言葉をかえれば「死すべき細胞」と「不老不死の細胞」が絶妙なバランスをもって生命活動を維持しているとも言えます。もしも「幹細胞」の役割がなければ「体細胞」の再生ができなくなり、もしも「体細胞」の役割がなければ「幹細胞」が絶えず分裂を繰り返して暴走してしまうでしょう。

この図式はまるで東洋思想における『陰陽論』そのものです。「死すべき細胞」と「不老不死の細胞」がそれぞれ「陰」と「陽」に該当し、陰陽の調和があってこそ生命活動が維持されるということです。

 「陰」=「体細胞」=「死すべき細胞」
 「陽」=「幹細胞」=「不老不死の細胞」

◆「死」の重要性
実は、「幹細胞」は「癌」に変わる細胞であるとも考えられています。無限に分裂していく性質が、両者に共通しているからです。「幹細胞」と「癌」には「死」という信号がDNAにセットされていないということ。死ぬこともなく無限に分裂できるということは、栄養が途切れない限りは永遠に生を連続させていくということですから、とても厄介な代物です。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が開発した「iPS細胞」は人為的に作られた「幹細胞」ですが、再生医療の実用化に向けて乗り越えるべき課題が「iPS細胞が癌化しないこと」であるのは、そうした理由によるのです。

こうしてみると、細胞に「死」という信号がDNAにセッティングされていることの重要性が明らかに分かってきます。「陰陽論」をさらに「体用の論理」で解釈すれば、「陰は体であり主体、陽は用であり機能」となります。となると「死すべき細胞」はより本質主体的な意味合いをもつということにもなります。

◆『不死の人』から
そこで思い出すのが、アルゼンチンの作家・ボルヘス(1899~1986)です。
彼の代表作である『不死の人』には、次のような興味深いエピソードが綴られています。
ローマ時代のある護民官が、不死の人々が住む神秘の国を求めて旅にでるのですが、そこで遭遇した「不死の国」とはユートピアどころか、住人が皆「言葉」を用いるすべを知らない野蛮人だったという話です。
この「言葉を話せない」というのはとても示唆的です。「言葉(の喪失)」を生きる上での「本質(の欠落)」と理解すれば、不死の人々は決して幸せな存在ではなかったということ。つまり、永遠に生きるしかない「不死」の世界とは、とどのつまりは記憶しても意味がなく、過去現在未来という時の流れにも意味がない、そして生きていること自体に意味をみいだせない世界であるのです。「不死」に拘泥するあまり「死」を蔑(ないがしろ)にすることは、生きる意味を失うことである。「死」とはそれこそ「生」と同じくらい大切なものなのだ―ということをボルヘスは言いたかったのでしょう。

◆細胞の世界が教えること
細胞レベルで繰り広げられた「生」と「死」のドラマは、実は人間の生き死に関わる領域までに投影され、まるで全体が入れ子構造になっていることを、ボルヘスの作品を通じてわたしたちは考えさせられます。
実際のところ現実は多くの問題を孕んでいます。たとえば先端科学技術である再生医療に着目すれば、「iPS細胞」の実用化しだいでは「壮年不死の思想」に拍車をかけないとも限らないでしょう。「不老不死の細胞」が暴走するように、人がなかなか死ねない時代になってしまうことだけは避けたいものです。
「死」は「生」のためにある―とはなかなかすんなりと受け入れられない命題かもしれません。とはいえ、病み、老いて死んでいくことが、人の自然な在り方として改めて見直すべきことを、細胞の世界がわたしたちに教えていることには間違いないようです。(了)


※石田秀美『21世紀問題群ブックス3「死のレッスン」』岩波書店(1996年)
東洋思想の立場から「死」を論究している稀有な本。
※集英社版『世界の文学9「ボルヘス」』篠原一士訳(1978年)
「不死の人」は短編集『エル・アレフ』に収蔵。