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第175話:治療家の「受信感覚」(2/2)



◆五感の先にある深層意識
鍼灸治療の診察法としては、わたしの場合「問診」と「触診」に最も重点を置きます。問診においては、患者さんの話を分析しながら、そこに露見する顔色とか声質などを大切な情報として受取ります。またFMテストなどの触診においては、患者さんの筋肉やツボにやさしく触れながら、指先に伝わってくる感触から大切な身体情報へと翻訳していきます。こうしたFace to Faceの関係に加え、身体に直に触れて会話をするという「気の交流」ともいうべき空間は、鍼灸治療ならではの独特の世界といえます。

そこで治療家に求められるものは何かとすれば、技術的なノウハウ云々はもちろんのことですが、むしろ患者さんと対峙したときの受信感覚だといえます。つまりそれは、五感を最大限に開放して「あなたの身体情報をすべて受け取りますよ」という感覚(イメージ)をもつこと。さらには、五感の先に患者さんの深層意識へ向かう眼差しを維持することだと理解しています。

◆山伏の世界との符合
こうした受信感覚について、ぜひ紹介したいのが山岳信仰における修験、所謂「山伏」の世界です。かつて、山伏は里に定住して、山に入れば神仏と交流することで自然の特別な験力を身につけ、里に下れば民衆への加持祈祷などのほか、民衆の精神的な救済として病気直しやカウンセラーとして活躍していた時代がありました。
山中を駆け上りながら「懺悔、懺悔、六根清浄」と掛け声を挙げます。「懺悔(さんげ)」は煩悩を払い心の中をリセットする意味であり、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」とは、六根つまり五感に通ずる感覚器を清浄(クリア)にし、大自然に対峙して受信感覚(アンテナ)を全開にする意味になります。

東洋医学では、患者さんの身体をまるごと一つの「自然(=小宇宙)」とみなして診るという営みになりますが、それはちょうど山岳信仰における山伏が「自然(=大宇宙)」に対峙する姿に符合します。さらにいえば、五感を全開にして患者さんの深層意識へとアプローチする構図は、山伏が「六根清浄」と唱えて五感を全開にして大自然を育む神仏と交流することにも符合します。

そうした「山伏の世界」を象徴する言葉をご存知でしょうか。それが出羽三山の山伏(羽黒修験)に今でも残る「受けたもう!」という言葉です。先達がいう言葉に、山伏は「受けたもう!」と言葉を返して無条件の「受容のこころ」を示します。この精神は先達と山伏の関係だけに留まらず、山伏が山中を駆け巡り大自然と対峙する際の「受けたもう!」とする「受容のこころ」でもあるのです。一方、治療家が患者さんを前にして「あなたの身体情報をすべて受け取りますよ」という感覚(イメージ)をもつことも、山伏が発する「受けたもう!」の精神に共通していると思わざるを得ないのです。

◆受信感覚を養うための坐禅
昨年夏に出羽三山での「山の行」に短期間ながら参加しました。山に入れば感覚は鋭敏になり、山から「ちから」をいただいて元気になれることを体験しました。治療家の受信感覚を養うには、山という大自然の「いのち」に触れ、共に「いのち」を共有する感覚や体験をすることがとても大切であると気づかされたものです。
とはいえ、都会のなかの普段の生活では自然と触れ合うことはままならないものです。

そこで、山伏が「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながらの行を、治療家の日常生活の中でなんとかできないものだろうかと考えたのが、普段からの瑜伽行(ゆがぎょう=ヨーガ)つまり坐禅をすることでした。
坐禅の実践によって、心の中からすべての汚れが払拭されて清らかに成りきった心「懺悔」の境地に至ります。
さらには、感覚を鎮めて外部からの情報を遮断し、感覚器を受動的なはたらきからむしろ能動的なはたらきへとシフトチェンジして「六根清浄」の境地を臨みます。ちなみに仏教の唯識思想によれば「六根」の「根」は感覚器官のことで、サンスクリット語では「インドリア」といい「力あるもの」という意味をもっています。
参禅することで、たとえば「見える」から「見る」、「聴こえる」から「聴く」というように、力ある能動的な感覚器官を取り戻すことによって表層意識を鎮めて、ついには深層意識への道筋をつけるという効果があると考えています。

坐禅の先生が参禅の目的について次のように話されたことがあります。
「人がもつ力にはアクティビティーとキャパシティーの二つがあるが、坐禅をすることで養えるのは後者のキャパシティーである。」
ここで「アクティビティー」は発信する力とすれば、「キャパシティー」は受信する力、いわば自然(人)に対峙する際の「懐の深さ」「受容する力」といえるものです。したがって坐禅をすることは、都会に居ながらにして「受けたもう!」の精神が養えると考えられます。

以上のように、治療家の受信感覚を養うために、私の場合はなるべく坐禅を心掛けているわけですが、それが普遍的なメソッドであるとは思ってはいません。自分に合うメソッドが当然あるでしょう。いずれにしましても、受信感覚を養うことは一朝一夕で得られるものではなく、それは日々の「行」によって得られるものであることは間違いないと考えます。(了)
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第174話:治療家の「受信感覚」(1/2)



◆「受信感覚」
鍼灸治療は患者さんと治療家との「気の交流」で成立しています。そこには、西洋医学の「診察法」や「医療面接」などでは説明できないような独特の世界観があります。そうした「気の交流」を通して、診察の過程で患者さんの「身体の声(というべき気)」を受けとり診断へと進みます。「身体の声」を受けとる作業では、治療家個人が積み上げてきた経験値を基に「受信感覚」を最大限にはたらかせています。

わたしの診察では「FMテスト」と名付けたオリジナルの診断法を併用しています。患者さんの腕橈骨筋が発するYesかNoかのデジタルな応答から「身体の声」を引き出す触診法です。そのときの「受信感覚」とは、論理的思考というよりむしろ直感的な「ひらめき」を優先的にはたらかせています。こうした治療家の特異ともいえる「受信感覚」だからこそ、鍼灸治療が「気の交流」といわれる由縁なのです。

今回のテーマは治療家に求められる、その「受信感覚」について採りあげ、さまざまの角度から考えてみようと思います。

◆「体用の論理」という切り口
「受信感覚」を説明する前に、患者さんの身体(という「対象」)をどう捉えるかという問題があります。その指針としているのが、以前に世阿弥の『至花道』を例に説明した「体用の論理」という独特な思考法です。
※参照記事⇒「第77話:世阿弥に学ぶ(その3)」
「体用の論理」は、ものの見方の「切り口」ともいえる東洋的思考法で、現象的な表れである「用」と本質的な構造である「体」という、ふたつの局面でものを見るのが特徴としています。
ここで大事なことは、現象的な「用」は捉えやすく、本質的な「体」は内面的直観(心)で捉えられること。そして「用」の原因を作っている大本の「体」の方に重きを置くことです。

「用」=現象的な表れで捉えられやすい 
「体」=本質的な構造であり内面的直観で捉える

これを鍼灸治療に当てはめれば、表に現れている病態(症状群)への眼差しが「用」であり、病に至る真の原因や病のメカニズムを考えることが「体」になります。具体的な治療法からいえば、局所の症状を和らげるための対症療法的なツボを求めるのが「用」であり、身体の全体から診た大事なツボ(要穴)もしくはツボの組み合わせ(配穴)を求めるのが「体」といえるでしょう。

◆内面的直感(心)がはたらく時
鍼灸治療では、伝統的な診察法である四診(望診・問診・聞診・切診)によって、その情報を基に論理的な思考を重ねて「用」を鑑別して、更には病の本質に当たる「体」の弁証まで漕ぎ着けるという手順を踏みます。ところがこれはあくまでも教科書的な手順といえます。それがシステマティックに診察診断が進むことはもちろん理想であり、そのことを否定するものではありません。ただ、実際の臨床つまり「気の交流」ともいえる患者さんとのやり取りのなかでは、病の本質である「体」を直感的に気付かされることが(鍼灸師を永年やっていると)度々経験するのです。

たとえば、問診している時に、ふと患者さんの話ぶりや顔色の変化から病の根本原因につながる「何か」を直感的に気付くとか、またはツボを触診している中で手指がなぜか止まって「このツボ!」という確信を得ることがあるのです。
こうした瞬間がまさに、内面的直感(心)で「体」を捉えたと理解しています。

◆井筒俊彦の『意識と本質』から
こうした内面的直感(心)がはたらく受信感覚の仕組みについて、深く掘り下げたのが哲学者の井筒俊彦でした。名著『意識と本質』のなかに、『易経』の哲学的思考を例に次のような記述があります。

「事象の本質は深層意識に存在し、それが象徴的イメージ(象)の形をとって表層の意識へ送り込まれる」

ここで大事な指摘は二つあります。一つは本質的な「体」は深層意識に存在していること。もう一つは「深層意識」へのアプローチこそが「内面的直感で捉える」ことであり、その結果において「体」が表層の意識へ送り込まれるのです。
※参照記事⇒「第124話:医と易の関係(2/2)」

これを鍼灸治療に置き換えてみれば、患者さんの「身体の声」を聴くという診察行為は、とりもなおさず患者さんの「深層意識」へのアプローチであり、そこで病の「本質的情報(体)」を「象徴的イメージ(象)」として、治療家の表層意識に浮かび上がらせて(直感的に)理解することになります。

では、こうした一連の流れにおける治療家の受信感覚を普段から養うには、どのように心掛ければよいのでしょうか。次回は、その具体的方法を提案します。(つづく)

第160話:「五十営鍼法」について



◆「外気功」による気の調整
およそ25年前、広州中医学院(現広州中医薬大学)を訪れた際に、気功師による「外気功」を見学したことがあります。当時の様子を再現するとこんな感じです。

モデル患者として選ばれた友人が指示された通りに椅子に座ると、気功師の先生は彼の傍に立ち、やおら身体に手をかざしたかと思うと、その手を体表から一定の距離を保ちながら、身体の上下をなぞるかのように腹部から肩へと移動し、さらに腕の末梢に向かいまた体幹に戻り、次には腰から足の末梢に向かいまた体幹に戻るという、まるで定められたコースに一筆書きをするように忙しく動かしていました。その間、目を閉じていた彼は気功師の手の動きに呼応するかのように、上半身が自然と横に揺さぶられていました。

◆「子午流注」の循環ルート
実技披露が終わって気功師の先生に確認したところ、一連の手の動きの意味するところは、経絡の流注(るちゅう)をなぞりながら手をかざすことでした。したがって、この「外気功」の目的とは、すべての経絡を通して気の滞りを生じさせないように、気を調えることにあると解説していました。

ここで「流注」とは12本の経絡の循環ルート。十二支に配当することで「子午流注(しごるちゅう)」とも言います。まずは中焦で起こった「気」は、始点の肺経から終点の肝経までを一回りとし、終わりのないメビウスの輪のように周回を繰り返し、各々の経絡では関連する臓腑に連絡しています。鍼灸医術の古典『黄帝内経・霊枢』の「五十営篇」によれば、その周回運動は一日に50回にも及び、気の流れの速さは一呼吸で6寸進むとされています。また同「営気篇」によれば始点の肺経から終点の肝経までの一回りを次のような順番で巡ると記述されています。

①肺経[始点]⇒②大腸経⇒③胃経⇒
⇒④脾経⇒⑤心経⇒⑥小腸経⇒
⇒⑦膀胱経⇒⑧腎経⇒⑨心包経⇒
⇒⑩三焦経⇒⑪胆経⇒⑫肝経[終点]

◆「五十営鍼法」による気の調整
ここで本題ですが、以上の「外気功」の鍼術版ともいえる「五十営鍼法」を、今回は紹介してみます。15年ぐらい前に台湾の友人から教えてもらった方法で、中国の某老中医が考案した鍼法と聞いております。もちろん「五十営鍼法」とは前述の『霊枢』「五十営篇」から命名したと思われます。やり方は、以下の通り「子午流注」の順番に応じて各経絡の要穴に刺鍼する方法です。但し体位を仰臥位に限定するために一部省略する経絡があります。

<流注>:括弧内は省略する経絡
①中焦→②肺→③大腸→④胃→⑤脾→⑥心→(小腸)→
(膀胱)→⑦腎→⑧心包→(三焦)→(胆)→⑨肝→⑩中焦
<刺鍼穴>
①中脘→②太淵→③合谷→④足三里→⑤三陰交→
⑥神門→⑦太谿→⑧大陵→⑨太衝→⑩関元
<特記>
・陽経の小腸経・膀胱経・三焦経・胆経は省略する。
・中焦の起点を中脘穴とし、終点を関元穴とする。
・10経穴、18箇所を順番にそって5分以内で刺鍼する。
・置鍼20分とする。
・置鍼中に経絡をめぐることを患者が体感できる。

この鍼法は、気の流れを調整する本治法(全体治療)として利用できます。ただ、わたしの場合、現在は2経穴だけで本治法ができるので、治療の中で「五十営鍼法」を使うことはありません。
とはいえ、鍼灸師なりたての方であれば、素早く刺鍼する技術を身につけることや、子午流注を意識しながら刺鍼するためには、「五十営鍼法」を基本トレーニングとして試行することをお勧めします。
また、一般の方であれば、せんねん灸のような簡便灸を18穴に順番にすえてゆく方法にかえれば、セルフケアとしての養生灸として応用できると考えています。(了)

第155話:鍼灸の「補瀉」について



◆「補瀉」とは
病証を捉える際の重要な尺度となるものが「虚実論」であることを前回説明しました。次に展開すべきは、病証の「虚」と「実」に対応した治療法として「補瀉(ほしゃ)」の概念となります。
「虚証」に対しては生気を補うという意味での「補」の鍼術を施し、「実証」に対しては気の流れを阻害する邪気を取り去るという意味での「瀉」の鍼術を施します。これら「補法」「瀉法」の鍼術を「補瀉手技」と呼びます。

「補法」:「虚証」に対して「生気を補う」鍼術
「瀉法」:「実証」に対して「邪気を取り去る」鍼術

たとえば、「陰虚証」(陰経の1経絡が虚)であれば、虚の当該経絡の最も反応が顕著な要穴(絡穴または原穴)に「補」の鍼術を施し、併せて、その母経の最も反応が顕著な要穴に「補」の鍼術を施します。
次に「陽実証」(陰経の1経絡の虚に乗じて1陽経が実)であれば、虚の当該経絡の最も反応が顕著な要穴(絡穴または原穴)に「補」の鍼術を施し、併せて、実の当該経絡の最も反応が顕著な要穴に「瀉」の鍼術を施します。

◆「夕べに死すとも可なり」の世界
ある高名な治療家は、「補瀉」が分かればまさに「夕べに死すとも可なり」とまで言い切りました。この至言は、鍼灸師は「補瀉」を自在に駆使するという高みを常にめざすことが肝要であるとしながら、「補瀉手技」は容易に体得できる技(わざ)ではないぞ!という戒めも、たぶんに込められています。
その容易ならざる理由とは、「補瀉手技」(を施す治療家)には極めて繊細な感覚が要求されるということ。たとえば押し手(鍼を支える指)に「気」の去来や「邪気」の排出を感じるという、まさに熟練を要する伝統技術なのです。

さらに、極めて繊細な感覚が要求される技(わざ)だからこそ、やり方は一様には収まらない面もあります。教わる師匠によっても、依拠する古典文献によっても、やり方に違いが生じるものです。そうしたなかで、治療家は指先の感覚を頼りに、先人が遺した「補瀉手技」を検証することで次第に体得していくものだと思っています。

◆「補瀉手技」の具体例
ここで、わたしが現時点で採用している「補瀉手技」の二つを紹介してみます。

(a)「遅刺速抜は補法、速刺遅抜は瀉法」
これは『黄帝内経・霊枢』の「小鍼解」篇を基本にしています。
具体的には、補法は「徐ろに刺入し捻転して気を集める。集めた気が外に漏れないように疾く抜鍼」します。一方瀉法は「疾く刺入して捻転して邪気もしくは余分な気をからめて、ゆっくり釣り針で持ち上げて外に出すように抜鍼」するのです。
特に補法で「捻転して気を集める」と押し手(鍼を支える指)に熱いものを感じます。また瀉法で「からめて、ゆっくり釣り針で持ち上げるように外に出す」というイメージでゆっくり抜鍼すると、敏感な患者さんであれば「何か身体から出ていく」との反応を得られます。

ちなみに、鍼灸の教科書では、よく「除刺除抜は補法、速刺速抜は瀉法」と記載されていますが、これは実際のところ古典の背景(出典先)がよくわからないと言われています。その手応えを比較すれば、断然「小鍼解」篇の手法に軍配があがるようです。

(b)「金鍼は補法、銀鍼は瀉法」
刺さない鍼「テイ鍼」を使う補瀉法です。これはわたし流の使い方で、要穴に「テイ鍼」を経絡の走行に沿って横に置き、絆創膏で固定します。所謂「テイ鍼」を約10分置鍼する方法です。「陽実証(陰経の1経絡の虚に乗じて1陽経が実)」の場合、「実」の要穴に「銀のテイ鍼」を、「虚」の要穴に「金のテイ鍼」を貼るのです。
金と銀の異種金属を使うことによって気の流れと邪気の排出をより促進させることができるようです。実際、敏感な患者さんであれば、置鍼中に身体の中を流れていく様子が体感できるといいます。(了)


※『霊枢』「小鍼解」篇からの引用文
「徐にして疾なれば則ち実すとは、徐ろに内れて疾く出すを言うなり。疾にして徐ろなれば則ち虚すとは、疾く内れて徐ろに出すを言うなり。」

第154話:鍼灸の「虚実論」について



◆はじめに
鍼灸専門学校で東洋医学を学び始めたころ、まず混乱したのが用語の定義に多様性があるということです。その最たるものが「虚実」という概念でした。古典的な鍼灸医学を標榜する治療家であれば「虚実」は病証を捉える際の重要な尺度となるものですが、本によってその解釈がまるっきり異なることが現状になっています。
今回は、そうした混乱した経験を踏まえ、各種「虚実論」の違いについて取り上げてみます。

◆混乱のはじまり
鍼灸専門学校に入学したのが90年代初頭。当時ブームだった増永静人(1925~1981)の「経絡指圧」に興味をもち、ずいぶんと増永の著書は読んだ記憶があります。そこで繰り広げられる「虚実」の概念は、初学者にとっては東洋医学共通の概念であろうと当然思うわけです。ましてや増永は京大出身で心理学を学んだ鬼才であり、緻密な文章力には理数系の人間でさえもが魅了されるくらいでした。
ところが、学校の授業や他の専門書を読んでいくと、どうもそれは特殊な理論であり、むしろ増永独自の「虚実論」として扱うべきものと次第に気づいていったのです。普通に考えれば、それは大きな混乱の極み、場合によっては無駄な時間を費やしたと悔やむところです。

◆多様な「虚実論」
ただ、増永式「虚実論」が特殊な解釈であったとしても、それは決して無駄な学習ではありませんでした。というのも、当時はちょうど鍼灸治療学のカルキュラムに中医学理論を導入するという新たな転換期にあり、学会(全日本鍼灸学会など)では、日中間の「虚実論」の相違点がテーマになるくらいでした。さらには、増永式「虚実論」どころか、日本漢方の「虚実論」、中医学の「虚実論」、はたまた経絡治療の「虚実論」というように、百花繚乱のごとく林立していることが、日本鍼灸界が置かれた現状であることをそこで知るに及んだのです。
このように混乱から始まった「虚実論」とはいえ、それぞれの相違点を整理分析したことが、結果的には「虚実論」についての理解を深めたことになりました。

◆「虚実論」の相違点
そこで「日本漢方」「中医学」そして「経絡治療」についての「虚実論」の違いを以下のように箇条書きでまとめてみました。たとえば「陰虚証」とか「陽虚証」とひとくちで言ったとしても、「中医学」とか「経絡治療」では、まったく意味するところが違うことが分かると思います。

◎「日本漢方」の虚実 
⇒体力があるのが「実証」、体力がないのが「虚証」
 (出典先/古典的背景はどうも不明?)

◎「中医学」の虚実
⇒『素問』の「通評虚実論」を基本
「邪気盛んなるを則ち実、精気を奪われるを則ち虚」
(邪気が存在すれば実証、正気の虚損が虚証)
「陰虚証」:津液・血などの陰液が虚損。虚熱あり。
「陽実証」:陽実邪(風熱・熱・火・燥・暑)が侵襲
「陽虚証」:陽気の虚損。
「陰実証」:陰実邪(風寒・寒・湿)が侵襲

◎「経絡治療」の虚実
⇒「経絡」の虚実
「陰虚証」:陰経の1経絡が虚
「陽実証」:陰経の1経絡の虚に乗じて1陽経が実
「陽虚証」:陰経の1経絡と陽経の1経絡が共に虚
「陰実証」:陰経の1経絡が実(死に近い)
(杉山勲の鍼術講座による)

◆「病理」の違い
「虚実論」に関連して、よく指摘されるのが「中医学」と「経絡治療」における「病理」の違いです。概略以下のようにまとめてみました。 
⒜ 寒熱の違い
中医学の証には寒熱が明瞭に含まれる。
経絡治療の証には寒熱の概念が含まれない。  
⒝ 気滞の違い
中医学による「気滞」は実証。
経絡治療による「気滞」は「気実」といい実証ではない。
虚があるために一方で正気が余っている状態をいう。
⒞ 病位の違い
中医学は臓腑中心。経絡治療は経絡中心。

◆おわりに
先に述べたように「虚実」は病証を捉える際の重要な尺度「ものさし」となるものです。各流派での違いがあるからといって、他派をやり玉に挙げて批判をすることではなく、治療家としてどのような「ものさし」を選択するかに力を注いだ方がより現実的です。試行錯誤を重ねながらも、治療上の手ごたえを実感することで、自分の治療世界を構築してゆくことの方が最も大切であるからです。(了)
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