第160話:「五十営鍼法」について



◆「外気功」による気の調整
およそ25年前、広州中医学院(現広州中医薬大学)を訪れた際に、気功師による「外気功」を見学したことがあります。当時の様子を再現するとこんな感じです。

モデル患者として選ばれた友人が指示された通りに椅子に座ると、気功師の先生は彼の傍に立ち、やおら身体に手をかざしたかと思うと、その手を体表から一定の距離を保ちながら、身体の上下をなぞるかのように腹部から肩へと移動し、さらに腕の末梢に向かいまた体幹に戻り、次には腰から足の末梢に向かいまた体幹に戻るという、まるで定められたコースに一筆書きをするように忙しく動かしていました。その間、目を閉じていた彼は気功師の手の動きに呼応するかのように、上半身が自然と横に揺さぶられていました。

◆「子午流注」の循環ルート
実技披露が終わって気功師の先生に確認したところ、一連の手の動きの意味するところは、経絡の流注(るちゅう)をなぞりながら手をかざすことでした。したがって、この「外気功」の目的とは、すべての経絡を通して気の滞りを生じさせないように、気を調えることにあると解説していました。

ここで「流注」とは12本の経絡の循環ルート。十二支に配当することで「子午流注(しごるちゅう)」とも言います。まずは中焦で起こった「気」は、始点の肺経から終点の肝経までを一回りとし、終わりのないメビウスの輪のように周回を繰り返し、各々の経絡では関連する臓腑に連絡しています。鍼灸医術の古典『黄帝内経・霊枢』の「五十営篇」によれば、その周回運動は一日に50回にも及び、気の流れの速さは一呼吸で6寸進むとされています。また同「営気篇」によれば始点の肺経から終点の肝経までの一回りを次のような順番で巡ると記述されています。

①肺経[始点]⇒②大腸経⇒③胃経⇒
⇒④脾経⇒⑤心経⇒⑥小腸経⇒
⇒⑦膀胱経⇒⑧腎経⇒⑨心包経⇒
⇒⑩三焦経⇒⑪胆経⇒⑫肝経[終点]

◆「五十営鍼法」による気の調整
ここで本題ですが、以上の「外気功」の鍼術版ともいえる「五十営鍼法」を、今回は紹介してみます。15年ぐらい前に台湾の友人から教えてもらった方法で、中国の某老中医が考案した鍼法と聞いております。もちろん「五十営鍼法」とは前述の『霊枢』「五十営篇」から命名したと思われます。やり方は、以下の通り「子午流注」の順番に応じて各経絡の要穴に刺鍼する方法です。但し体位を仰臥位に限定するために一部省略する経絡があります。

<流注>:括弧内は省略する経絡
①中焦→②肺→③大腸→④胃→⑤脾→⑥心→(小腸)→
(膀胱)→⑦腎→⑧心包→(三焦)→(胆)→⑨肝→⑩中焦
<刺鍼穴>
①中脘→②太淵→③合谷→④足三里→⑤三陰交→
⑥神門→⑦太谿→⑧大陵→⑨太衝→⑩関元
<特記>
・陽経の小腸経・膀胱経・三焦経・胆経は省略する。
・中焦の起点を中脘穴とし、終点を関元穴とする。
・10経穴、18箇所を順番にそって5分以内で刺鍼する。
・置鍼20分とする。
・置鍼中に経絡をめぐることを患者が体感できる。

この鍼法は、気の流れを調整する本治法(全体治療)として利用できます。ただ、わたしの場合、現在は2経穴だけで本治法ができるので、治療の中で「五十営鍼法」を使うことはありません。
とはいえ、鍼灸師なりたての方であれば、素早く刺鍼する技術を身につけることや、子午流注を意識しながら刺鍼するためには、「五十営鍼法」を基本トレーニングとして試行することをお勧めします。
また、一般の方であれば、せんねん灸のような簡便灸を18穴に順番にすえてゆく方法にかえれば、セルフケアとしての養生灸として応用できると考えています。(了)
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第155話:鍼灸の「補瀉」について



◆「補瀉」とは
病証を捉える際の重要な尺度となるものが「虚実論」であることを前回説明しました。次に展開すべきは、病証の「虚」と「実」に対応した治療法として「補瀉(ほしゃ)」の概念となります。
「虚証」に対しては生気を補うという意味での「補」の鍼術を施し、「実証」に対しては気の流れを阻害する邪気を取り去るという意味での「瀉」の鍼術を施します。これら「補法」「瀉法」の鍼術を「補瀉手技」と呼びます。

「補法」:「虚証」に対して「生気を補う」鍼術
「瀉法」:「実証」に対して「邪気を取り去る」鍼術

たとえば、「陰虚証」(陰経の1経絡が虚)であれば、虚の当該経絡の最も反応が顕著な要穴(絡穴または原穴)に「補」の鍼術を施し、併せて、その母経の最も反応が顕著な要穴に「補」の鍼術を施します。
次に「陽実証」(陰経の1経絡の虚に乗じて1陽経が実)であれば、虚の当該経絡の最も反応が顕著な要穴(絡穴または原穴)に「補」の鍼術を施し、併せて、実の当該経絡の最も反応が顕著な要穴に「瀉」の鍼術を施します。

◆「夕べに死すとも可なり」の世界
ある高名な治療家は、「補瀉」が分かればまさに「夕べに死すとも可なり」とまで言い切りました。この至言は、鍼灸師は「補瀉」を自在に駆使するという高みを常にめざすことが肝要であるとしながら、「補瀉手技」は容易に体得できる技(わざ)ではないぞ!という戒めも、たぶんに込められています。
その容易ならざる理由とは、「補瀉手技」(を施す治療家)には極めて繊細な感覚が要求されるということ。たとえば押し手(鍼を支える指)に「気」の去来や「邪気」の排出を感じるという、まさに熟練を要する伝統技術なのです。

さらに、極めて繊細な感覚が要求される技(わざ)だからこそ、やり方は一様には収まらない面もあります。教わる師匠によっても、依拠する古典文献によっても、やり方に違いが生じるものです。そうしたなかで、治療家は指先の感覚を頼りに、先人が遺した「補瀉手技」を検証することで次第に体得していくものだと思っています。

◆「補瀉手技」の具体例
ここで、わたしが現時点で採用している「補瀉手技」の二つを紹介してみます。

(a)「遅刺速抜は補法、速刺遅抜は瀉法」
これは『黄帝内経・霊枢』の「小鍼解」篇を基本にしています。
具体的には、補法は「徐ろに刺入し捻転して気を集める。集めた気が外に漏れないように疾く抜鍼」します。一方瀉法は「疾く刺入して捻転して邪気もしくは余分な気をからめて、ゆっくり釣り針で持ち上げて外に出すように抜鍼」するのです。
特に補法で「捻転して気を集める」と押し手(鍼を支える指)に熱いものを感じます。また瀉法で「からめて、ゆっくり釣り針で持ち上げるように外に出す」というイメージでゆっくり抜鍼すると、敏感な患者さんであれば「何か身体から出ていく」との反応を得られます。

ちなみに、鍼灸の教科書では、よく「除刺除抜は補法、速刺速抜は瀉法」と記載されていますが、これは実際のところ古典の背景(出典先)がよくわからないと言われています。その手応えを比較すれば、断然「小鍼解」篇の手法に軍配があがるようです。

(b)「金鍼は補法、銀鍼は瀉法」
刺さない鍼「テイ鍼」を使う補瀉法です。これはわたし流の使い方で、要穴に「テイ鍼」を経絡の走行に沿って横に置き、絆創膏で固定します。所謂「テイ鍼」を約10分置鍼する方法です。「陽実証(陰経の1経絡の虚に乗じて1陽経が実)」の場合、「実」の要穴に「銀のテイ鍼」を、「虚」の要穴に「金のテイ鍼」を貼るのです。
金と銀の異種金属を使うことによって気の流れと邪気の排出をより促進させることができるようです。実際、敏感な患者さんであれば、置鍼中に身体の中を流れていく様子が体感できるといいます。(了)


※『霊枢』「小鍼解」篇からの引用文
「徐にして疾なれば則ち実すとは、徐ろに内れて疾く出すを言うなり。疾にして徐ろなれば則ち虚すとは、疾く内れて徐ろに出すを言うなり。」

第154話:鍼灸の「虚実論」について



◆はじめに
鍼灸専門学校で東洋医学を学び始めたころ、まず混乱したのが用語の定義に多様性があるということです。その最たるものが「虚実」という概念でした。古典的な鍼灸医学を標榜する治療家であれば「虚実」は病証を捉える際の重要な尺度となるものですが、本によってその解釈がまるっきり異なることが現状になっています。
今回は、そうした混乱した経験を踏まえ、各種「虚実論」の違いについて取り上げてみます。

◆混乱のはじまり
鍼灸専門学校に入学したのが90年代初頭。当時ブームだった増永静人(1925~1981)の「経絡指圧」に興味をもち、ずいぶんと増永の著書は読んだ記憶があります。そこで繰り広げられる「虚実」の概念は、初学者にとっては東洋医学共通の概念であろうと当然思うわけです。ましてや増永は京大出身で心理学を学んだ鬼才であり、緻密な文章力には理数系の人間でさえもが魅了されるくらいでした。
ところが、学校の授業や他の専門書を読んでいくと、どうもそれは特殊な理論であり、むしろ増永独自の「虚実論」として扱うべきものと次第に気づいていったのです。普通に考えれば、それは大きな混乱の極み、場合によっては無駄な時間を費やしたと悔やむところです。

◆多様な「虚実論」
ただ、増永式「虚実論」が特殊な解釈であったとしても、それは決して無駄な学習ではありませんでした。というのも、当時はちょうど鍼灸治療学のカルキュラムに中医学理論を導入するという新たな転換期にあり、学会(全日本鍼灸学会など)では、日中間の「虚実論」の相違点がテーマになるくらいでした。さらには、増永式「虚実論」どころか、日本漢方の「虚実論」、中医学の「虚実論」、はたまた経絡治療の「虚実論」というように、百花繚乱のごとく林立していることが、日本鍼灸界が置かれた現状であることをそこで知るに及んだのです。
このように混乱から始まった「虚実論」とはいえ、それぞれの相違点を整理分析したことが、結果的には「虚実論」についての理解を深めたことになりました。

◆「虚実論」の相違点
そこで「日本漢方」「中医学」そして「経絡治療」についての「虚実論」の違いを以下のように箇条書きでまとめてみました。たとえば「陰虚証」とか「陽虚証」とひとくちで言ったとしても、「中医学」とか「経絡治療」では、まったく意味するところが違うことが分かると思います。

◎「日本漢方」の虚実 
⇒体力があるのが「実証」、体力がないのが「虚証」
 (出典先/古典的背景はどうも不明?)

◎「中医学」の虚実
⇒『素問』の「通評虚実論」を基本
「邪気盛んなるを則ち実、精気を奪われるを則ち虚」
(邪気が存在すれば実証、正気の虚損が虚証)
「陰虚証」:津液・血などの陰液が虚損。虚熱あり。
「陽実証」:陽実邪(風熱・熱・火・燥・暑)が侵襲
「陽虚証」:陽気の虚損。
「陰実証」:陰実邪(風寒・寒・湿)が侵襲

◎「経絡治療」の虚実
⇒「経絡」の虚実
「陰虚証」:陰経の1経絡が虚
「陽実証」:陰経の1経絡の虚に乗じて1陽経が実
「陽虚証」:陰経の1経絡と陽経の1経絡が共に虚
「陰実証」:陰経の1経絡が実(死に近い)
(杉山勲の鍼術講座による)

◆「病理」の違い
「虚実論」に関連して、よく指摘されるのが「中医学」と「経絡治療」における「病理」の違いです。概略以下のようにまとめてみました。 
⒜ 寒熱の違い
中医学の証には寒熱が明瞭に含まれる。
経絡治療の証には寒熱の概念が含まれない。  
⒝ 気滞の違い
中医学による「気滞」は実証。
経絡治療による「気滞」は「気実」といい実証ではない。
虚があるために一方で正気が余っている状態をいう。
⒞ 病位の違い
中医学は臓腑中心。経絡治療は経絡中心。

◆おわりに
先に述べたように「虚実」は病証を捉える際の重要な尺度「ものさし」となるものです。各流派での違いがあるからといって、他派をやり玉に挙げて批判をすることではなく、治療家としてどのような「ものさし」を選択するかに力を注いだ方がより現実的です。試行錯誤を重ねながらも、治療上の手ごたえを実感することで、自分の治療世界を構築してゆくことの方が最も大切であるからです。(了)

第152話:師を求め旅に出よう



◆初学者の戸惑い
ブログを読まれた若い方から「どのように自分の治療スタイルを確立していけばよいのですか?」とよく相談を受けます。かつてわたしも同じような悩みをもっていた時期があったので、こうした初学者の戸惑いは、とても大切なテーマであると理解しています。

というのも、現代鍼灸は伝統療法であるとはいえ、治療の拠り処が古典的根拠に基づくもの、あるいは科学的根拠に基づくもの、はたまた某先生の独自理論によるものなど多岐にわたり、まさに百花繚乱の世界といえます。それらを横断する共通した理論があるかと思えば、実はバラバラであったりもします。それでいて各「治療法」は、それぞれの患者さんの支持を得て立派に成立しているわけです。不思議といえば不思議な世界です。そんな世界を前にして、自分がどのような治療スタイルを選ぶべきかで戸惑うのは、(まじめな)初学者であれば当然のことです。

◆「旅に出よう」
そうした相談には、いつも「師を求め旅に出よう」とアドバイスしています。鍼灸の道を究めようとすれば、まずは「一流の鍼灸医術」とはどういうものかを見定めた上で、自分にとっての「お手本」を探す必要があります。お手本となる「師」を探す期間が「師を求める旅」というわけです。ただし、ここでいう「師」とは、師匠と弟子の関係性に限定したことではなく、座学を通して「これだ!」と思う治療家なり理論家なりを自分の「師」と(勝手に)決めてもよいのです。

いずれにせよ、手始めの「師を求める旅」とは、治療家人生の方向性がそこで決まるぐらいの重要な選択です。それだけに、ボタンの掛け違いにならないように、じっくり取り組む必要があります。

今回のテーマは「師を求める旅」のポイントについて、あくまでも私見ですが思いつくままにまとめてみました。

◆無駄を覚悟で
いきなり師をきめることは中々難しいこと。まずは座学を通して多くの情報を集めることです。ときには座学から離れて、治療家の講演会や講座に参加して話を聞くことも、座学とはまた違った情報集めになります。さらには、治療家の技術とか身体性に直に触れるために、治療院を見学したり、実際に患者として治療を受けたりすることも有益なことです。

修業時代を振り返れば、初期の段階で学んだことが、現在の治療法のすべてに直結しているかといえば、そうでもないのです。その量から比較すれば、むしろ関連のないものの方が圧倒的に多いのです。かといってそれが無駄であったとは思いません。というのも、感覚を拠り処とする伝統療法にとっては、経験(の量)こそが真贋の目利きを養うからです。一見無駄のように見えても、後になって有益だったりすることもあれば、無駄であればこそ一方の「本物」が際立つということもあります。要は無駄を覚悟で取り組んだとしても損はないということです。

◆まとまった治療理論を学ぶ
この業界は、個別のノウハウを教えてくれる「師」はいくらでもいます。ところが、臨床で必要なのは、どんなケースでも応用が効く治療理論です。それには、まとまった漢方理論をもった「師」につくことと、自身もその理論を徹底的に学んでみることです。日本の漢方でも中医学の漢方でもよく、とにかく基礎理論をしっかり身につけることが肝要です。

わたしの師からは―
基礎理論の正当性を日々「身体」で確認していく作業が日々の臨床治療だということ。(この場合の「身体」は、患者さんの身体の変化と、治療家自身の診断技術としての身体性を指す。)そして、それらの整合性を整理した上で、最終的には「自分の漢方」を作れるようになりなさい―と教えられたものです。
問題なのは、基礎理論の習得をおろそかにして、先に「自分の漢方だ」と標榜するケースです。それでは「ひとりよがりの漢方」になってしまうということです。

◆師に師がいるか
もうひとつ、師を選ぶ際の大事な条件があります。それは内田樹が提唱している「師に師がいる」ということ。特に鍼灸のような伝統医療では、この言葉は重要な意味をもっています。師の上にまた師がいるということは、師がもつ技術・理論・身体性のすべてが時系列上の連続的な空間に存在していることです。そもそも鍼灸は先人の智慧の蓄積によって成り立つ経験医学であるわけです。師が先人の智慧を引継いでいるかどうかは、「師に師がいる」という要件で明らかになるわけです。

もし「すべて自分が編み出した治療理論だ」と豪語する治療家であれば、師と選ぶには慎重にすべきです。鍼灸という業界は誰しもが「先生」と呼ばれるかわりに、「お山の大将」がとかく多い世界です。先人の智慧に対して謙虚な姿勢がみられるかどうか―という視点で「師」を見極めることも大切なことです。(了)

第135話:鍼を浅く刺すことの意味

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◆「鍼の刺入深さ」というテーマ◆
鍼灸師をはじめて22年目になります。これまでの治療家としての技術的な面を振り返れば、たとえば鍼を刺す深さについて言えば、以前より明らかに浅くなっています。
この「鍼の刺入深さ」について、自分なりに納得して今の形になるまでには、さまざまな試行錯誤を重ねています。それだけに鍼灸治療にとって重要なテーマであるという感慨があります。そこで今回は、これまでの経緯を紹介した上で「鍼を浅く刺す」ことの意味について考えてみます。

◆鍼灸師なりたての頃
鍼灸師の資格をとったばかりの頃は、ツボに鍼をどのくらい刺せばよいのか正直わからないものでした。とりあえず1㎝以内まで刺してから、雀啄(じゃくたく)といって上下に鍼を動かして「響かせる」という方法を取り入れました。「響かせる」ことで気が動くとされていたのです。こうした鍼の響きを「得気(とっき)」といいますが、「ピクッ」という響く感覚が、患者さんと施術者が共に感じるときと、患者さんだけが感じるときがあります。ですから患者さんには事前に「響いたら『はい』といってください」と伝え、雀啄をしながら患者さんが「はい」といった時点で雀啄を止めて、鍼から手を離して置鍼(ちしん)をしていました。

ところが、「ピクッ」という響く感覚を誰もが好むわけではないのです。ましてや刺鍼技術が未熟なレベルでは患者さんにとっては気持ちのいい鍼にはならず、その刺鍼スタイルは多くの患者さんの支持を得るまでには至らなかったものです。

◆浅く刺すようになった経緯
それがいつからか「切皮(せっぴ)」という打ち方、つまり浅く3~4mmしか刺入しない「浅刺(せんし)」にかわっていきます。自信を以てこの「切皮」に切り替えたのは、それまでの認識を大きくかえる技術を身につけたことによります。ツボに触れるだけで治療ができる「テイ鍼」をマスターしたこと。さらにテイ鍼と同じように、指でツボを触るだけで反応がわかるようになったからです。
  ※参照記事⇒ 第66話:刺さない鍼「テイ鍼」
  ※参照記事⇒ 第46話:「磁石」と「指の極性による触診技術」
ツボに触るだけで反応がわかることに気付いたことは大きな発見でした。そのことで「鍼は深さではない」という方向性がみえてきました。つまり正確にツボを取り、そこに適量の刺激を与えつつも、「切皮」程度の刺激でも十分効果が期待できると分かったのです。

それと浅目に刺す「切皮」というのは、患者さんにとっては置鍼中に寝てしまうくらいに気持ちがよいものです。しかもストレスフルな現代人にとってはこの「切皮」が最適といわれます。もう20年も前ですが、その妥当性を裏付ける論文が西條一止(当時筑波短期技術大学教授)によって発表されました。西條は鍼刺激と自律神経の関係について論究し、鍼刺激によって副交感神経優位(身体がリラックス)になるのは「坐位で呼気時に浅刺」とすると最も効果があるという結論に達したのです。元々「切皮」という「浅刺」は伝統的日本鍼灸(たとえば経絡治療)が得意としていました。よってこの論文は業界内でも大いに自信を与えるほどの援軍となったと記憶しています。

◆鍼を浅く刺すと関連臓腑に通ずる
わたしにとっても西條論文は援軍ではありました。ただ一方では、「浅刺」の効果が「身体がリラックスする」効果だけなのだろうか、という物足りなさを感じていました。というのも、要穴(当該経絡の大事なツボ)に軽く「浅刺」を施すと、身体全体がすっと変化することが実感できたからです。そこで直感的に考えたことは「鍼を浅く刺すと関連臓腑に通ずる」ということ。もちろん副交感神経優位であれば内臓機能は活発になるということですが、それを東洋医学から解釈すれば、「鍼を浅く刺すことで経絡に気が流れ、さらに関連する臓腑にまで行き渡る」と考えたのです。

◆本山博の実験
そうした仮説を裏付けてくれたのが、たまたま本山博の本を読んでいたときに、ふと目に留まった、とある「実験」についての記述です。その概要は以下の通りです。

「薬指の先端(井穴の中衝)と三焦経上のいくつかのツボ、および三焦経の募穴(石門)と三焦経の兪穴(三焦兪)に、小さな脳波測定用の小さな電極をつけ、EEG(脳波計)につないでGSR(皮膚電気反射)を記録してみた。まずは薬指の先端に、強い電気刺激を与えると、全身の交感神経が反応して、三焦経上の各ツボにはほとんど同波形の反応がでた。
ところが、薬指の先端に、ごく微弱な、痛みを感じない程度の電気刺激を与えてみたところ、三焦経上の各ツボには電位変化が起きないで、募穴(石門)と兪穴(三焦兪)の上にだけ、刺激して2~3秒後にGSR状の電位変化が出た。しかも30秒後ほどしてまた同じように反応が出た。また逆に、背中の兪穴(三焦兪)に同様な刺激を与えると、薬指の先端にだけ反応がでた。」

◆本山実験が教えること
本山実験の目的は、経絡の末端の要穴と、経絡上の各ツボ、ないしは経絡に関連した募穴と兪穴が古典でいうネットワークを形成していることの実証です。ちなみに「募穴」や「兪穴」とは当該経絡と離れた部位に存在していながら、当該経絡に関連した「臓腑」と密接に関係しているツボ群のことです。

ここで、わたしが特に注目したいのは、強い刺激のときは経絡上の各ツボが反応して、弱い刺激のときは募穴とか兪穴が反応するという点です。つまり刺激の強弱によって反応する場所が「経絡」もしくは「臓腑」で違いがでるということです。
 強い刺激を「要穴」に →  経絡上の各ツボ   = 経絡に反応
 弱い刺激を「要穴」に → 「募穴」「兪穴」    = 臓腑に反応

本山博の実験が教えていることを基に、実際の臨床では次のように活用しています。たとえば、痛みを誘発する経絡上の強い凝りがあった場合、その凝りを弛める周辺のツボを求め、そこにやや深めに鍼を刺して響かせます。響かせたほうが確実に凝りは消失します。そしてそれ以外のほとんどのツボ―たとえば経絡の末端部にある要穴(通常は「井穴」よりも「原穴」や「絡穴」)とか背中の「兪穴」など―には弱めの刺激である「切皮」程度の「浅刺」を施しています。

ということで、鍼を浅く刺すことは身体をリラックスさせるばかりか、関連した臓腑に通じることで心身共に調えるはたらきがあると、今では確信しています。(了)

※本山博『宗教と医学』名著刊行会(平成4年)
 三焦経を使った実験は129頁に記載。