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第186話:「酒田の修験道」との出会い、まるで「デジャブ」のように


                           【酒田駅構内】
◆少年の冒険
わたしが小学4年生のときです。小学校の傍を新井田川という川が流れていて、その川岸に寄り添うように、「生石街道」と呼ぶ「道」が東の出羽丘陵の方へ真っすぐ延びていました。普段の生活圏とは逆の方角だけに、頭の中では「この道の先にはいったい何があるんだろう?」と、絶えず好奇心を膨らませていました。ついにはその臨界点を超えると抑えきれなかったのか、ひとり自転車に乗り未踏の地へと出立となります。とはいえ小学4年生の「冒険」は、田んぼに囲まれた道を自転車でひたすら走るだけの旅。なんとか5キロ程走ったのですが、道は出羽丘陵にぶつかり行き止まり。そこがちょうど生石(おいし)という集落でした。そこから山道を駆け登る気力はなく、疲労した大腿四頭筋をかばいながら、帰りのことが少し不安になってきます。結局、そこで何をしたというわけでもなく、そのまま自転車で踵を返すように帰還したのです。ただそれだけことなのですが、ささやかな「冒険談」を誰に話すわけでもなく、自分の胸にしまいこんでいました。

◆再びの「生石」
それから55年の歳月が流れた昨年8月末のこと。その「生石」に再び訪れることになろうとは、誰が予測できたでしょう。とにかくびっくりすることが起きました。
それは羽黒山での「山の行(仏式)」(8/24~9/1)に参加したときのこと。あいにくの豪雨続きで、主催者が急遽予定を変更して、半日だけの社寺を巡るバスツァーを組んだのです。庄内地方でかつて修験道に所縁のあった社寺を訪ねるというもので、そのひとつに選ばれたのが、生石にある「延命寺」。そして「延命寺」の西に位置する標高352mの「鷹尾山」は、かつて「鷹尾山修験」が栄えた山でした。「鷹尾山修験」は、鎌倉時代の初期から存在した修験道ですが、16世紀の中頃、上杉氏によって弾圧され、消滅してしまったのです。羽黒修験や鳥海修験であればある程度は明らかにされています。ところが「酒田の修験道」となると、まだ分からないことが多いのです。その代表ともいえる、歴史の闇に隠されてしまった「鷹尾山修験」を、わたしは2度目の生石探訪を以て初めて知ることになったのです。と同時に、ここは小学4年のときに来た「生石」だ!と、まるでデジャブのように記憶が蘇ったときは、思わずゾクゾクッと胸がざわついたことは言うまでもありません。

◆『酒田市史』によれば
東京に帰ると、「鷹尾修験」のことがどうしても気になって、永田町の国立国会図書館に足を運び、酒田市の正史ともいうべき酒田市史編纂委員会による『酒田市史』(デジタル版)をモニター越しに閲覧し調べました。「酒田の修験道」という項目を検索して読んでみると、「鷹尾修験」についての概要は理解できましたが、詳細部分となると未だ不明のところが多く、歴史資料が極めて少ないという事情が読み取れます。
それでもただひとつ、どうしても気になる箇所を見つけました。

「鷹町の稲荷神社に本地として十一面観音を祀り、鷹尾山金剛寺と称して信仰を得ていたことが棟札に残っている。これは生石山善勝坊金剛院延命寺を別当とする鷹尾山修験の流れとも推定される。」とあるのです。

実はここに記載された「鷹町」こそが、わたしの実家の所在地の旧町名であり、そこの稲荷神社は我が家の氏神様であり、わたしが子供のころによく遊んだ場所なのです。つまり(推定の域ではあるにしても)消滅してしまったかつての「鷹尾修験」の本地仏である十一面観音が祀られた稲荷神社の傍で、わたしは生まれ育ったということになり、小学4年生のときには、なぜか引き寄せられるように、所縁とする鷹尾山方面に、ひたすら自転車のペダルを踏んで向かっていたのです。その推察が確かなことであれば、まるで「灯台もと暗し」を絵に描いたような、実は身近なところに「ご縁」があったということになります。

「ご縁」に繋がることや、「ご縁」の在り様が見えてくることを、仏教の世界では「因縁が熟す」とか「時節到来」と謂うそうですが、これが「山の行」に身を投じたことによって動き出したものであれば、本当に有り難いことだと思っています。
いずれにせよ「酒田の修験道」の歴史と、わが身に降り注いだ歴史ミステリー?の解読は、これからも続けていくつもりです。(了)

※酒田駅構内の写真:
「獅子頭」は酒田祭りのシンボルとして何気に使用しているが、「獅子舞」は元々「修験道」が生んだ芸能のひとつ。そうした経緯は全く忘れ去られている。左の広告「酒田カントリークラブ」は鷹尾山を造成したゴルフ場。現在は経営が代わり「ゴルフパーク酒田」になっている。

※追記:
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
昨年11月よりfacebook「進藤安神堂」を開きました。併せてご覧ください。
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第179話:西郷隆盛と庄内と本間家と(2/2)



◆転封騒ぎと本間家:
「戊辰戦争の戦後処理に裏の歴史が存在した」というのは、酒井の殿様の転封騒ぎと、そこに介在した本間家のことです。

慶応4年(1868年)の12月に明治と年号が改まり、出羽の国は最上川を境にして、南が羽前(鶴岡を中心とする田川郡)、北が羽後(酒田を中心とする飽海郡)とに分離させられました。さらに酒井の殿様は会津若松十二万石に移ること(転封)を命ぜられましたが、庄内の百姓たちの願い出により中止となります。翌2年(1869年)には磐城平(いわき・たいら)十二万石に移るように再度命ぜられたのですが、これもまた百姓たちの願い出により転封が中止になりました。しかしそのかわりとして、金七十万両を新政府に献金することになり、庄内藩は百姓や町民からもお金を集め、合計三十万両をまず政府に提出して、結果的には酒井の殿様の転封騒ぎはそこで一件落着したのです。

この明治の転封騒ぎは、酒井の殿様を慕う百姓たちの尽力により撤回されたという美談で語られていたのですが、後世の歴史家により、その真相が次第に明らかにされています。というのは、百姓たちの願い出の影で、庄内藩の菅実秀と本間家当主(本間光美)とが、政府側に転封中止の交渉を進めていたこと。そして献金三十万両のうち、本間家が五万両もの大金を拠出していたのです。酒井家の後ろ盾が本間家ですから、本間家が拠出した総額は当然五万両を越えていたことは十分想像できます。

こうした美談の影で、実際は本間家が大きく関与していたという構図は、維新から遡ること28年前の天保年間(1830~1844年)に起きた転封騒ぎにもありました。酒井の殿様を慕う庄内の百姓たちが幕府に申立をして中止に追い込んだ、所謂「天保の義民」は、後に藤沢周平が『義民が駆ける』(中公文庫)に著していますが、実際のところは、本間家が百姓たちに運動資金を出して影で演出していたというのが真相だったようです。

◆本間家の威勢
つまり本間家は、天保年間と明治二年の二度にわたって酒井の殿様を転封命令から救ったということです。明治維新後に朝敵であるはずの庄内藩の藩主が知事としてそのまま残った異例の処置は、確かに西郷隆盛による温情のお蔭ではありますが、裏の歴史からみれば、それは本間家の財力があったからこそ実現できたと言えます。

明治政府が転封中止替わりの献金七十万両を庄内藩に要求したという経緯は、政府の財政難に対する穴埋めが目的であり、更には、西郷隆盛主導で庄内藩が厚遇される流れに抵抗しようとする長州側(その中心が大村益次郎)からの要求という背景もあったようです。いずれにせよ、財政難の明治政府は「出羽の本間家」の財力に最初から目をつけていたと考える方が自然のようです。というのは、出羽(庄内)をまずは羽前と羽後に分けたのは、酒田の本間家を鶴岡の酒井家から一旦切り離すという狙いがあったと言われています。

ここで幕末の国際関係を俯瞰すると、幕府はフランス、薩摩はイギリス、そして奥羽越列藩同盟はプロシャ(プロイセン)と、それぞれの後ろ盾が付いていました。その中で庄内藩下の本間家はプロシャとの交易を通して武器のブローカーとして暗躍していたわけです。特に本間家はプロシャ人の武器商人スネル兄弟と手を握り、奥羽越列藩同盟軍、とりわけ酒井家に兵器や軍艦を供給し、外人水兵さえも斡旋しようと奔走していたほどでした。

ここまで酒田の豪商本間家について長々と綴るのは、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という俗謡が示すように、殿様以上に威勢を誇っていた本間家の存在を、明治政府と西郷隆盛は当然にして一目置いていたであろうことを指摘したいのです。

◆西郷が庄内藩を特別扱いした理由
ではなぜ、西郷が庄内藩に対しては温情を以て配慮をし、無血開城に至ったのか。その疑問を解くカギは、やはり西郷と庄内藩及び本間家との関係性にあるとみています。

そのひとつが1867年(慶応3年)12月25日に起こった江戸薩摩藩邸焼討事件との関係です。薩摩藩邸を焼討した実行隊が江戸市中取締役である庄内藩でした。この焼討事件を契機に、幕府は討薩摩、薩摩藩は討幕へと舵をきり、ついに翌1868年(慶応4年)1月3日の鳥羽伏見の戦いへと大きく動いたわけです。ところが、焼討事件には裏があり、すべて西郷隆盛の謀略でした。西郷は関東浪士たちを囲い、江戸市中を横行して暴行掠奪を繰り返させ、江戸の治安が乱れ幕府の威信が底をつくことをねらい、さらには討幕のきっかけをそこで作りたかったのです。庄内藩は新徴組と共に市中取締役として、幕府の命を受け関東浪士たちを征圧するために囲い先の薩摩藩邸を焼討したわけです。一方西郷には、焼討の知らせを受けると手を叩いて喜んだという逸話が残っています。つまり庄内藩は、西郷の策略に乗っかり結果的には片棒を担がされたわけです。その片棒を担がされた返礼として、おそらく西郷は庄内藩に対して戦後温情を以て無血開城の処置をとったのではないかと思うのです。その根拠といえば、鳥羽伏見の戦いで官軍が作成した「朝敵リスト」には、なぜか焼討実行隊の庄内藩は含まれていなかったからです。

もうひとつは、薩摩藩と本間郡兵衛との関係です。
酒田本間家の分家筋にあたる本間郡兵衛という洋学者がいました。江戸に出て蘭学を学び、北斎に絵を習い「北曜」と号し、勝海舟に頼まれて勝塾の蘭学教師もしています。その後、欧米諸国を福沢諭吉らと巡遊し、このままでは日本は外国に経済的にも蹂躙されるとして、株式会社の創設が急務と考えました。そして薩摩藩の老中・小松帯刀の依頼で郡兵衛は鹿児島に赴き、開成所の英語教師に就きます。そこで起草したのが「薩州商社草案」で、郡兵衛が日本で一番早く株式会社を考えたことを物語る史料とされています。
その郡兵衛が、戊辰戦争直前の酒田に帰り、本間家の本家に「薩州商社」への出資を持ちかけようとするのですが、薩摩藩の間者(スパイ)と疑われ、外出を禁止されたあげくに幽閉先で毒殺されてしまいます。享年47。庄内藩の無血開城まで、あとわずか2か月のことでした。
西郷が開成所教師である本間郡兵衛と直接接したという史料はないそうですが、小松帯刀を通じて「薩州商社草案」のことや、郡兵衛は出羽酒田の本間家の人間であることは西郷の耳に当然届いていたと考えられます。そこで西郷は、庄内藩の影で威勢を誇る本間家を知り、庄内藩を配慮する上では、本間家と酒井家を同等に扱おうと思ったはずです。

◆再検証の必要性
西郷隆盛という人物について調べれば調べるほど、功罪相半ばする人物像が浮き彫りになります。近代と反近代が同居する人物であるとか、寛大で懐が深い反面、危険性と暴力性を併せ持つという評価すらあります。
ところが、南洲神社まで建立するまでに西郷隆盛を信望する(戦前生まれの)庄内人となると、西郷の功罪よりも、お金や名誉には全く関心を示さない西郷の人柄に惚れこみます。そのことは、西郷がなぜ庄内藩を擁護したかという理由を論ずることもなく、とかく美談として扱うことで、結局は西郷崇拝に偏った風土へと熟成させてきたのです。
ですが、そろそろ影の舞台の主役である本間家や本間郡兵衛の存在に、今一度スポットをあてて、この時代を再検証すべき時ではないかと思うのです。(了)

※佐高信著『西郷隆盛伝説』角川文庫(平成22年)
佐高は同郷の先輩。本の題名とは裏腹に、ほとんどが西郷隆盛と庄内藩の関わりを中心に論じる。西郷崇拝の御家禄派の歴史観を排除した郷土の歴史家・黒田伝四郎や、ワッパ運動研究家の佐藤誠朗を紹介し、秘められた裏の歴史を明らかにした本。
※黒田伝四郎著『やまがた幕末史話』東北出版企画(昭和52年)
今や古書店でしか手に入らない貴重本。黒田伝四郎は元山形新聞記者。綿密な史料を基に庄内の幕末史を綴る。やや小説風の文章が気になるが、西郷崇拝の御家禄派にひとり反旗を翻す姿勢はすごい。地元での現在の評価がむしろ気になる。
※半藤一利『幕末史』新潮社(2008年)
薩長中心の歴史観を排除した新たな幕末史。西郷隆盛を毛沢東のような人物と評しているのが興味深い。
※酒田の本間家
わたしが子どもの頃、本町にある「酒田市立公民館」は本間家の旧本宅(上の写真)であり、御成町にある「財団法人本間美術館」は本間家の旧別荘、そして日和山の「酒田市立光丘図書館」は本間家の旧書庫「光丘文庫」の古い建物を利用したもの。まさに酒田の街は本間家を抜きには語れない。

第178話:西郷隆盛と庄内と本間家と(1/2)



◆150年前の郷土史:
今年は明治維新から150年ということで、NHK大河ドラマでは『西郷どん』が放送されています。その西郷隆盛と庄内藩が深い関係にあることは、以前「第83話:司馬遼太郎と庄内」で紹介しました。庄内藩は戊辰戦争で降伏した藩であるのに、西郷隆盛の温情により、奥羽越列藩同盟を組む会津藩と真逆の好待遇を受けています。なぜ庄内藩だけが西郷によって特別扱いされたのか。その謎を追って150年前の郷土の歴史を振り返ります。

◆庄内藩について
庄内藩のエリアは現在の市町村でいえば、北から遊佐町・酒田市・庄内町・三川町・鶴岡市になります。庄内藩の歴史をざっくり説明すると、関ケ原の戦い(1600年)を境に庄内の勢力図は豊臣側の上杉氏から徳川側の最上氏に替わり、そこから庄内藩はスタートしたことになります。鶴岡には本丸の鶴ケ岡城(最上氏時代は大宝寺城/現在の鶴岡公園)、酒田には亀ヶ崎城(最上氏時代は東禅寺城/現在の酒田東高等学校)を置き、松嶺には支藩の松山藩がありました。特に、この慶長年間から酒田湊は北前船の寄港地として栄えました。その後最上家はお家騒動で改易され、庄内藩主は信州松代から移封された酒井家に替わり、以後、戊辰戦争時の第14代藩主酒井忠宝(ただみち)まで続きます。

◆酒田の本間家
そして無視できない存在が、庄内藩の財政を陰で支えていた酒田の豪商本間家です。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われたほど大きな財力を誇っていました。近年分かってきたことですが、戊辰戦争時の本間家はプロシャとの交易を通して、実は武器のブローカーの役割をも担っていたのです。かといって本間家が「死の商人」にみなされることはなかったのも事実です。むしろ庶民からは「本間様」と慕われ続け、酒田の経済や文化の面、さらには防砂林などの環境保全に至るまで、酒井家への財政的な支援を通じて数々の功績をあげています。酒田の歴史は本間家を抜きに語れないこと。故に西郷と庄内藩の関わりの中でも、後述しますが本間家は陰の実力者として重要な役割を担っていたのです。

◆戊辰戦争の戦後処理
戊辰戦争での庄内藩は、奥羽越列藩同盟(会津藩・長岡藩・米沢藩・仙台藩など)のなかで最後に降伏した藩でした。会津藩や長岡藩が悲惨な状況下で降伏していった中で、庄内藩は攻勢を示しながら、米沢藩家老・千坂太郎左衛門の説得もあり、ついに恭順の道を選んだのです。庄内藩はそもそも譜代親藩で朝敵の立場にあり、当然にして酒井家は新政府軍により厳しい処分が下ることを覚悟していたのです。ところが、西郷の指示を受けた黒田清隆により、温情をもって無血開城の処遇を受けるのです。

版籍奉還した藩主たちは、一旦お家断絶した後、地方に転封されるか、もしくは論功行賞により華族として東京へ移住のどちらかなのですが、酒井の殿様は庄内藩知事に、松嶺の殿様は松山藩知事に命じられ、なんと庄内に留まることを許されたのです。さらに酒井家の第13代と第14代の殿様は西郷の後援によりドイツに留学までしています。当時旧藩の関係者がそのまま知事に留まるケースは薩摩藩と庄内藩しかなかったそうです。

こうした一連の待遇をみても、西郷隆盛が庄内藩に温情を以て寛大な処置をしたことがわかります。悲劇的な末路に至った会津藩のように、薩長に対する恨み辛みを語り継ぐという風土にはならなかった、むしろ官軍側の西郷隆盛を崇拝する気風を築いた庄内藩は極めて異例とも言える藩なのです。

◆西郷隆盛崇拝の風土
西郷隆盛の人柄に惚れこんだ酒井の殿様と庄内藩士78名が鹿児島に留学して、西郷語録を庄内藩士が編纂し、それが今でも岩波文庫にもなっている『西郷南洲翁遺訓』であることは承知の通りです。庄内藩の受入れ側としての代表が、中老の菅実秀(すが・さねひで)翁。西郷と菅の関係が美談として語られ、現代においても酒田に西郷を祀った「南洲神社」(財団法人)を建立されたように、西郷隆盛を崇拝する庄内人の気風が(特に戦前世代の中に)脈々と続いたといえます。

たとえば戦前であれば、『西郷南洲翁遺訓』をそれこそ教養の書として愛読された時代がありました。庄内出身者である石原莞爾(満州事変を主導した軍人)、大川周明(イスラム研究家。東京裁判で民間人として唯一A級戦犯)、阿部次郎(「三太郎の日記」の作者)たちは、みな『西郷南洲翁遺訓』を通して西郷隆盛から多大な影響を受けたと述べています。

◆戦後世代だからみえるもの
一方、わたしたち戦後生まれの庄内人は、西郷と庄内藩の歴史的な繋がりを等しく理解しているわけではありません。戦前の世代がもつような西郷に対する認識と思い入れはむしろ皆無に等しいでしょう。戦後教育を受けたわたしたちは、振り返れば中学でも高校でも(不思議なことですが)郷土の歴史をまとまった形で教わることもなく、さらには戦前、愛国主義者によって西郷が祀り上げられたことから、終戦後は西郷の評価が全否定されたという経緯もあり、結局、西郷に関わる郷土史については(教育の場では)全く学ぶ機会がなかったのです。

歴史には表の歴史と裏の歴史があり、裏の歴史にこそ真実が隠されているものです。例外なく戊辰戦争の戦後処理にも裏の歴史が存在していたことを後世伝えられています。ところが庄内にはそれを語ることをよしとしない空気が戦前からあり、現代においてもそのまま引き摺っている傾向があるようです。その「空気」とは、はっきり言えば西郷隆盛崇拝に偏り過ぎる庄内の気風そのものです。わたしは幕末史が好きなひとりの庄内人ですが、故郷を離れて故郷を俯瞰できる自由な立場にあるからこそ、今一度、西郷隆盛と庄内にみえるもう一つの風景を捉えてみたいと思います。(つづく)

第177話:酒田のグリーンハウス(2/2)



◆「世界一の映画館」:
グリーンハウスを知らない方は、たぶん東北の日本海に面した人口10万規模の小都市の、ありふれた場末の映画館を想像するかもしれません。ところが、そうではないのです。昭和30~40年代ごろ、映画評論家の淀川長治にグリーンハウスを「世界一の映画館」と高く評価されたほど、東京日比谷の映画館に全くひけをとらない、上質の映画を提供し、しかも一級の館内環境を誇る映画館だったのです。

そのグリーンハウスをプロデュースしたのが、経営者の子息であり支配人の佐藤久一(1930~1997)という人物。佐藤は映画の買い付けに直接ひとりで東京に出向き、試写会で直に選定するという徹底ぶりでした。ちなみに、試写会で映画評論家の荻昌弘や淀川長治と知遇を得たことから、淀川は酒田のグリーンハウスに数回来訪。それが縁で先の「世界一の映画館」発言に繋がっていったのです。
また、昭和35年(1960年)にアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』を上映したときは、東京・日比谷スカラ座のロードショウと同時公開を成し遂げています。当時の地方映画館としては、かなり画期的なことでした。

◆館内の魅力と先進性
グリーンハウスは元々ダンスホールを改築した建物で、さほど目を引くほどの外観ではなかったのですが、館内環境の充実ぶりとなると、今でも当時を知る酒田市民の語り草なっています。たとえば、入口の回転ドアを抜けると、エントランスホールの右手にオープン式の切符売り場。壁のショーケースにはブランド物のハンドバックとアクセサリーが展示。そこに居る白髪の案内係の男性は、グレーのダブルのジャケットに黒ズボン、蝶ネクタイに白手袋で正装し、まるで一流ホテルの接客並みに「いらっしゃいませ」と出迎えてくれます。
ロビーは、館内喫茶室「緑館茶房」からの珈琲のとてもいい香りが漂っています。500席ほどの場内は二階席が完全予約席、加えて一部家族用の個室も完備。ロビーの右隅の階段を登った先には、当時は珍しい名画座「シネサロン」と呼ぶ定員10名ほどの小規模映写室が併設されているほどの贅沢さでした。

特に酒田市民がグリーンハウスを語る上で欠かせないものが、開映を知らせるグレンミラー楽団による「ムーンライトセレナーデ」の音楽です。館内の休憩時間表示がカウントダウンすると同時に「ムーンライトセレナーデ」が流れだし、音量が次第に小さくなるのに合わせて、緑の緞帳(どんちょう)が静かに上がる。ダウンライトが曲のテンポに合わせて後方から順に消えて、ステージ右端の生け花と左端の白い女性像のスポットライトだけが残る。最後にそれも消えるとレースの幕がするするっと開き、スクリーン上に映画が映し出されます。この憎いばかりの一連の演出はすべて佐藤久一の考案によるものでした。

◆文化をプロデュース
江戸時代の酒田は北前船による交易が盛んで、「西の堺、東の酒田」と並び称されるほど、商都として繁栄を誇っていました。酒田の豪商や豪農は京都の文化を吸収することに貪欲で、都の文化人や職人を招くこともしばしばで、そうした交流の中で酒田の文化は磨かれたという歴史があります。佐藤久一は酒田の名家の生まれ。かつての豪商の血を引くように、金に糸目をつけず一流の文化を希求する感性を持ちながら、他に類のない映画館「グリーンハウス」をプロデュースしたといえます。

昭和34年(1959年)のこと。館内喫茶室「緑館茶房」を根城にした酒田の詩人たちが同人を結成し、詩誌『緑館』を創刊しています。佐藤久一は同人のよきパトロンでありよき理解者でした。その詩人のひとりが、名作『祝婚歌』で有名となった酒田出身の詩人・吉野弘(1926~2014)だったという逸話も残っています。

実は、佐藤久一は酒田大火の12年前、昭和39年(1964年)にグリーンハウスの支配人を辞めています。突然上京し荻昌弘の紹介で日生劇場に就職。そこで3年間勤務すると、また酒田に戻り次には「欅(けやき)」「ル・ポットフー」というフランス料理の一流レストランを手掛けます。グリーンハウスをプロデュースしたのは実質14年間。ひとつの事業が理想に近づくとそこには興味が薄れ、次の夢の実現にこともなげに展開していく姿勢はまさに天才といえます。

◆酒田人として
岡田芳郎の『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』が平成19年(2007年)に世に出るまで、天才ともいえる彼の偉業の数々を、実際のところ酒田市民の多くが知らなかったことでした。酒田大火の出火元という複雑な問題を抱えていたために多くを語れなかった事情もありましたが、酒田大火から42年にして、ようやく佐藤久一の名誉回復と再評価がなされた感があります。
さらには、グリーンハウスと共に青春時代を過ごした酒田市民が、ようやく想い出を語り始めたことにも感動します。
そしてなによりも嬉しいのが、ロビーに漂う珈琲の香りとムーンライトセレナーデの調べと共に、グリーンハウスの想い出がそれぞれの胸の中に生きていることが、酒田人としての誇りだということを改めて気付かされたことでした。(了)


※ねじめ正一著『風の棲む町』日本放送出版協会(1996年):酒田大火を舞台にした青春小説。2000年に文庫本化(新潮文庫)に伴い『青春ぐんぐん書店』に改題。
※岡田芳郎著『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』講談社(2007年):岡田芳郎は元電通社員。知られざる佐藤久一の偉業をはじめて紹介。
※映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』(2017年):プロデューサーが高橋卓也(山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局長)。監督は佐藤広一(天童出身)。同プロデュース作品で渡辺智史監督(鶴岡出身)『よみがえりのレシピ』(2011年)では佐藤広一は撮影を担当。

第176話:酒田のグリーンハウス(1/2)



◆映画館「グリーンハウス」:
ふるさと酒田に、かつて「グリーンハウス」という映画館がありました。昭和24年(1949年)の開業から昭和51年(1976年)の酒田大火で焼失するまで、凡そ四半世紀にわたり酒田市民に親しまれた洋画専門の映画館です。酒田で生れた人なら、かつ現在60歳以上の方なら、青春に寄り添う映画館は?と問われれば、きっとグリーンハウスと答えることでしょう。

酒田大火から今年で42年。グリーンハウスを懐かしむ市民の証言を集めたドキュメンタリー映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』が、酒田で先行上映されたとの風の便りが届きました。2月に亡くなった大杉漣がナレーションを担当していることも話題になっているようです。ともあれ、わたしが高校時代によく利用した想い出の映画館だけに、映像に記録されることを永らく切望しておりました。「グリーンハウス」ファンとしては、ついにその日がやって来た!という感慨があります。
その風の便りに誘われて、グリーンハウスに纏わる想い出を語ってみます。

◆我が心の「グリーンハウス」
わたしの高校時代(昭和44~47年)は、ちょうどアメリカン・ニューシネマが全盛の頃でした。『卒業』『明日に向かって撃て』『イージーライダー』『小さな巨人』『いちご白書』など数えたらきりがないのですが、すべてグリーンハウスで観た記憶があります。アメリカではベトナム戦争が泥沼化のまま終結し、日本では学生運動や、日本赤軍などの過激派の活動が終焉を迎え、体制批判のヒーロ―を求めつつも、結局は体制に潰されてゆくという時代の閉塞感を、田舎の高校生には遠い世界のことながら、逐次映像の世界から感じ取っていた気がします。今思えば、精一杯背伸びをしていた自分がちょっと気恥ずかしく、それでいて懐かしいもの。そんな心象風景を辿ってゆけば、中町柳小路通りにあったグリーンハウスの外観が、アメリカン・ニューシネマのワンシーンのように今でもぼんやり蘇ってきます。

◆昭和51年(1976年)の酒田大火
酒田大火でグリーンハウスがなくなってしまった後は、実は複雑な事情を抱えることになります。酒田大火の出火元がグリーンハウスだったということです。昭和51年10月29日午後5時頃、グリーンハウスから出火(漏電が原因と言われています)。折しも風速26mの強風にあおられ、中町商店街から東の住宅地へ瞬く間に延焼し、翌朝の午前5時に新井田川にぶつかるところでやっと鎮火。市街地の1774棟を焼失。被災者3300名。戦後4番目と言われた大火でした。わたしの実家は幸い延焼を免れましたが、親戚や多くの同級生の家が全焼しています。当時22歳のわたしは大火から1週間後に帰省。焼け跡の傍に災害救助で出動した自衛隊のトラックが点在し、焦げ臭い匂いがまだたちこめるなか、焦土と化した街並みの向こうに鳥海山がみえた光景は今でも忘れることはできません。これだけの災害の傷跡は、結果としてグリーンハウスを表立って懐かしむことを拒んでしまったのです。

◆みんなの思い
酒田大火からしばらくして、東京で高校の同級生たちと酒席を囲んだときのこと。誰かが、ちょっといいかっこしーながら「グリーンハウスの焼失は青春の終焉を意味している」と口火を切ると、急に堰を切ったように座は盛り上がりました。大火の年の春に父を亡くしていたわたしは、そのときの「青春の終焉」という言葉には密かに胸がざわついたことを覚えています。さらには、役者を目指していたA君が呼応して、映画『アメリカングラフティー』とダブらせ「グリーンハウスを舞台にした俺らの青春映画を作りたい」とみんなの総意を代弁するかのように熱く語ってくれたものです。
グリーンハウスが火元だったということはショックなことでしたが、グリーンハウスにまつわる青春の想い出は誰もが大事に抱えているだけに、それを何か「形」に残したいという思いはみんな共有していたのです。

◆グリーンハウスが語られるまでの経緯
大火から20年経った平成8年(1996年)、ねじめ正一の『風の棲む町』が話題になりました。映画ではなく小説でしたが、酒田大火を背景にした青春小説というふれこみでした。ところが、中身を読んでみると、グリーンハウスは大火の当日『愛のコリーダ』を上映されていた-というくだりしかなく、『アメリカングラフティー』のような映画館を取り巻く青春物語ではなかったことに失望したものです。でもどだい東京生まれのねじめ氏に要求すること自体無理な話だ。欲を言えばやっぱり、酒田の人間に書いてほしかった―と思うしかなかったものです。

それが平成19年(2007年)になると、急に事態は一変します。一冊の本によってグリーンハウスを評価する動きに転換したのです。それが『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』という長い長いタイトルの本でした。グリーンハウスが名実ともに「世界一の映画館」であることを初めて世に問う内容でしたが、著者は元電通社員の岡田芳郎という方です。結果的には、岡田氏という酒田の人間でない方が書いてくれたお陰で、グリーンハウスが全国に知られることになっただけでなく、地元酒田においても、酒田大火の出火元故に語られることが憚られた、それまでの封印を解かれる契機になったのです。

冒頭で紹介したドキュメンタリー映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』は、この本の出版から10年という熟成の時を経て、ようやく酒田の人間が呪縛から解き離されたように、それぞれの想い出を語っていると十分想像できます。
では、なぜグリーンハウスが「世界一の映画館」だったのか、長くなりましたのでそれは次回に書き留めます。(つづく)