第169話:修験道との繋がりを求めて(1/2)



◆わが身のルーツとは
自分の身体に流れる「血」とは一体なんだろう。所謂ファミリーヒストリーについて気になりだしたのは、ちょうど還暦を過ぎた頃でした。なかでも祖父の家系が代々神職に就いていたことは、今のわたしに何かしらの関係性があるのだろうか、ある種の期待感に似た好奇心が勝手に騒ぎ出しました。それまで興味の対象の一番隅っこにあった祖父の生家である神社についての事柄が無性に気になりだしたのです。とはいえ、ようやく自分の関心が成熟した頃にはすでに両親は亡くなり、尋ねるべき伯父伯母も鬼籍に入っていました。もっと早く聴いておけばよかったと後悔するも後の祭りです。

そこで自力で調べてみると、まるで見えない「力」がはたらいたとしか思えないような展開が待っていました。公立図書館の検索システムを使い、駄目もとで調べてみたのですが、偶然にも、故郷の神社について記述した江戸時代の古文書(昭和に出版された復刻本)に遭遇したのです。

◆山伏に繋がる
その復刻本を手にして漢文まじりの記述を読み解いていきます。そこで分かったことは、祖父の生家である神社は、鳥海山の麓、日本海に面した吹浦(ふくら)にある大物忌神社からの分家であり、(以前は神職だったという)山伏を派遣して勧請された神社である-と読み取れたのです。突然浮上した「ヤマブシ」という響きに戸惑いながら、親族にそのことを伝えたところ、たいして関心のない反応でした。結局興奮しているのはわたしだけ。でも冷静に考えてみれば、これはきっとわたし宛てに届いた「ご先祖さまからのメッセージ」だと確信できたのです。

大物忌神社(おおものいみじんじゃ)は鳥海山の山岳信仰の基点となる神社です。そこに関連した山伏(修験)となれば、わたしの家系は先祖代々鳥海山の神霊や仏菩薩と深い繋がりがあるということです。

そして最も驚くことは、「山伏」と現在のわたしの職業に共通点を見出せることです。たとえば鈴木正崇著『山岳信仰』を紐解くと、山伏についてこんな記述があります。

「山伏は半僧半俗として里に定住して、山の行を通じて神霊や仏菩薩と交流し、自然の特別な験力(げんりき)を身につけ、里に下れば加持祈祷・卜占託宣(ぼくせんたくせん)のほか、民衆の精神的な救済として病気直しや日々の悩みの解消、薬の処方など民衆の身近な『野のカウンセラー』として活躍していた。」

この「病気直しや日々の悩みの解消」という部分は、鍼灸師としてのわたしの生業とまさに符合。なにか先祖代々と繋がる「縁起の理」を感じないわけにはいかないのです。

◆あのときの意味
わたしが二十歳になった年(1974年)のある日。鳥海山が174年ぶりに噴火したというTVニュースが飛び込んできたのですが、その日の夜はなぜか興奮して寝つくことができなかったことを今でも鮮明に覚えています。言い伝えでは、鳥海山の祭神「大物忌神(おおものいみのかみ)」の怒りをかうと鳥海山は噴火し、それを鎮める役割が大物忌神社の神職とされています。
つまりそれは、174年後の噴火に居合わせた何も知らない神職の子孫である二十歳の青年が、意味も解らずただただ何もできない「もどかしさ」の感覚に襲われた結果、ついには寝つけなかった―というのがことの顛末であったと、今となっては解釈できます。
⇒参照「第134話:鳥海山の神仏と陰陽」

さらに振り返れば、これまで、仏教や神道、あるいは中国の道教とか神仙思想に対しての興味が持続できたのは、鍼灸医学を背景とする東洋の宗教哲学を学びたいという願望が人一倍あったにせよ、むしろそれは自然と受入れやすい(修験道的?)感性が潜在していたからこそであり、最終的にはご先祖さまと繋がるようにセッティングされていたのでは―とさえ思えてきます。

一冊の復刻本から偶然知り得たファミリーヒストリーの断片は、鳥海山の山岳信仰と修験道の世界についての興味を益々引き寄せています。さらには、今年の八月には出羽三山に足を伸ばして、二泊三日の修験道の体験、所謂「山の行」にも参加してきました。
こうした一連の知り得たこと、そして体験したことを次回お伝えしていきます。(つづく)


※進藤重記著『出羽国風土略記』歴史図書社(昭和49年)
進藤重記(1709~1769)は吹浦大物忌神社の神官。神宮寺と羽黒修験による神社側への一方的な訴えにより、庄内藩裁定の結果、田川郡に追放される。重記は吹浦に戻ることなく田川郡で没。子孫は藩医となり酒井家に仕えたという。『出羽国風土略記・十巻』は、享保・寛延より宝暦12年(1762年)迄の20年間で書かれた出羽国の地誌。現代においても郷土史研究の重要な本となっている。
※鈴木正崇著『山岳信仰』中央公論新書(2015年)
山岳信仰と修験道についての入門書。出羽三山・大峯・英彦山の三大霊山を中心に、全国の八つの霊山を取り上げて、山岳信仰の歴史と実態を明らかにする。

スポンサーサイト

第134話:「鳥海山」の神仏と陰陽



◆さやけき山「鳥海山」◆
ふるさと酒田では、日本海を背にすれば北東に「鳥海山」(標高2,236m)、そして南東に「月山」(標高1,984m)が望めます。酒田の人にとって「鳥海山」は「地元の山」という意識がつよく、「月山」はどちらかといえば隣の鶴岡の山とみなします。
斎藤茂吉の歌をかりれば、鳥海山は「さやけき山」です。こどもの頃から見慣れた鳥海山の雄姿は成長の折々に背景として存在し、かといってなにかを主張するふうでもなく、日常のありふれた風景の中に「さやけき」姿をいつもみせていました。

◆荒ぶる山「鳥海山」
その鳥海山が突然「荒ぶる山」の形相を見せたのは、わたしが上京して2年目、20歳になった1974年(昭和49年)のことでした。174年ぶりの噴火(水蒸気爆発)を知らせるTVニュースがいきなり6畳一間のアパートに飛び込んできたのです。幸い大きな被害はなかったようですが、山頂の大物忌神社(おおものいみじんじゃ)の屋代が噴石の被害を受けたと報じていました。お蔭でわたしは、興奮して寝付けなかったことを今でも覚えています。まるで寝た子を起こすかのような衝撃とでもいうのでしょうか、将来を定めきれない20歳の青年にとって、否応なしに奮起を促されたような熱いエネルギーを鳥海山噴火のニュースから感じとってしまったのです。かといって青年のこころが翌日から一変したわけでもなかったのですが、ただ、その日を境に鳥海山が「ありふれた山」ではなくなったことだけは確かでした。

◆「大物忌神社」とは
鳥海山が「荒ぶる山」とは全く想像もしてないことですが、山頂にある「大物忌神社」の主神である「大物忌神(おおものいみのかみ)」を調べてみれば、それは当然のことでした。民俗学者谷川健一の『日本の神々』によれば、「大物忌大神」とはいわゆるタタリ神で、怒りをかうと、鳥海山の噴火や出羽の蝦夷(えみし)の反乱が起きるという構図をもっていました。古代、大和朝廷が平穏を祈るためには「大物忌神社」に国司をつかわして祈祷させたとあります。つまり鳥海山に眠る「大物忌神」の怒りを鎮めるために「大物忌神社」は存在し、鳥海山は元々荒ぶる神の「大物忌神」を擁する「陽の山」であったというわけです。

◆陰陽の関係と曼荼羅
南に聳える月山と相対して鳥海山を捉えれば、月山が「陰の山」で鳥海山が「陽の山」というように、両山は陰陽の関係にあるとされてきました。
それは地図を開いて両山を俯瞰すると、より明白に理解できます。というのは、不思議なことに月山と鳥海山はぴったり南北線上に位置しているからです。月明かりの夜に月山の頂に立ち、真北の北極星を仰ぐとその直下に鳥海山がみえるわけです。こうした地理的関係を偶然の所産と考えてしまえばそれまでです。しかし、月山と鳥海山が「子午の関係(南北線上の位置)」を以て対峙していることの意味を考えてみれば、かつて修験道で栄えた信仰の山である月山と鳥海山とを陰陽の関係で繋げることで、実は庄内地方を「曼荼羅」の宇宙観にみたてた古代人の眼差しがそこにあったことを、わたしはつよく感じてしまうのです。

◆鳥海山をとりまく神仏
曼荼羅を形成している鳥海山をとりまく神仏たちをここで紹介してみます。
大物忌神社には、鳥海神(鳥海山大権現)の「大物忌神」と月山神(月山大権現)の「月読命(つくよみのみこと)」を共に奉られています。「陽の山(鳥海山)」に主神である「大物忌神」のみを奉るのではなく、「陰の山(月山)」の主神である「月読命」をも奉るという意味合いは、陰陽論でいえば「陽中に陰を取り込む」という独特の思想が反映されているとみます。
ちなみに鳥海山周辺の地図をみれば、鳥海山を水源とするふたつの川「月光川」と「日向川」があることや、鳥海湖の傍に「月山森」と名付けた森があることも、まさに「陽中に陰を取り込む」という考え方が根底にあると想像できます。

さらに、かつての神仏習合の時代には、陰陽は「仏」の領域にも広がります。日本海に面した吹浦(ふくら)にある大物忌神社には「神宮寺」がありました。この神宮寺に「薬師如来」と「阿弥陀如来」が奉られていました。これは本地垂迹説に基づき、「大物忌神」の本地を「薬師如来」とし、「月読命」の本地を「阿弥陀如来」とされていたのです。ここで「阿弥陀如来」は来世往生の仏で、「薬師如来」は病気平癒を初めとする現世利益の仏と言われています。これを平たく解釈すれば、月山は「あの世の山」で鳥海山は「この世の山」という図式にもなります。

    「陽の山(鳥海山)」=「大物忌神」=「薬師如来」 =「この世の山」
    「陰の山(月 山)」 =「月読命」 =「阿弥陀如来」=「あの世の山」

◆庄内を取り巻く「曼荼羅の宇宙観」
ということは、子午の関係で対峙する「あの世の山」と「この世の山」とに挟まれた土地が「庄内地方」です。そこには、肥沃な「庄内平野」と東西に分け入る「最上川」から自然の恵みを授かった人々の悠久の歴史があります。人々は「この世の山」には畏怖の念をもって仰ぎ、「あの世の山」には山岳浄土への願いをもって仰ぎ見たのでしょうか。

このような神仏たちで彩られた「曼荼羅の宇宙観」は、明治政府がとった「神仏混淆廃止の令」をもって終焉させられます。特に明治5年に修験道が廃止されると、いわゆる「廃仏毀釈」が断行され、神宮寺は破壊され「薬師如来」と「阿弥陀如来」は麓の寺に移設されたと聞きます。修験(山伏)は還俗(げんぞく)させられるか、真言宗や神道に帰属させられたそうです。

鳥海山と月山をとりまく、こうした神仏習合による「曼荼羅の宇宙観」は、残念ながら今ではほとんど忘れられてしまいました。とはいえ、「廃仏毀釈」を断行される前を考えてみれば、神と仏が上手に共存していた時代が、ほぼ千年にも渡り面々と続いていたのです。
そのことが庄内における精神文化の基底をなしていた、と考えても決して間違いではないような気がしています。(了)

※斎藤茂吉(1882~1953):鳥海山を謳った短歌
「ここにして 浪の上なるみちのくの 鳥海山はさやけき山ぞ」
※谷川健一『日本の神々』岩波新書(99年)
※本地垂迹説とは
神仏習合における考え方。本地であるインド仏教から日本の地へ神として現れたとする。鳥海山の例で言うと、インド仏教の「薬師如来」が日本の神として現れたのが「大物忌神」。同じく「権現(ごんげん)」は仮に現れた神さまという意味。
※鎌田東二『神と仏の出逢う国』角川選書(平成21年)
明治初年の「廃仏毀釈」の経緯や神道の歴史が詳しく解説している。

第113話:清河八郎再考(3/3)

~『西遊草』にみるもうひとつの顔~



◆高等遊民としての八郎
庄内町清川の「清河八郎記念館」には、八郎が遺した膨大な量の「日記」や「旅日記」が保管されています。巷間伝わる八郎の性格はとかく「才気はあるが傲慢」とみられがちですが、「日記」から窺い知るかぎりでは、そうしたイメージはありません。むしろ豪家の長子として幼少より漢籍の教養を積んだ、所謂「高等遊民」のような趣が感じとられます。

というのも、享年34という短い生涯にもかかわらず、その大部分を「旅」に費やしていたことが驚きです。18歳のときに家族で松島と仙台へ旅をしたのを皮切りに、江戸に遊学した後も19歳で伯父弥兵衛と江戸から西日本に、21歳には京都遊学の帰路に九州を、24歳には北海道に、そして26歳には母親をつれて「お伊勢参り」の旅にまで出ています。当時の「旅」は少なくとも3か月、長くて半年に及ぶものでした。20代までの旅はいわば「修養」が目的のようなもの。「万巻の書を読み万里の旅をして壮大な気宇を養う」という中国伝来の考え方が下地にあったようです。八郎はそうした「修養の旅」をふんだんに経験することが可能な環境に育ち、大いに見聞を広めた稀有な人物であったといえます。

◆親孝行の旅
なかでも八郎26歳で母親(当時40歳)との「お伊勢参り」を克明に綴った旅日記は『西遊草(せいゆうそう)』と銘々され、今では岩波文庫にも収録されています。
『西遊草』に綴られた旅は安政2年(1855年)のこと。その前年(安政元年)12月に、神田三河町の清河塾が火災に遭って全焼してしまい、八郎は国許へ一旦もどっていました。しばらくは清河塾再建までのいわば充電期間として国許で過ごすところが、思い立って母親が冥途の土産にと願っていた「お伊勢参り」に同行したわけです。

その行程を紹介すると、3月に清川村を出立してから、鶴岡に出て、新潟~善光寺参り~お伊勢参り~奈良大阪京都~四国の善通寺へと巡り、西は岩国まで足を延ばしています。そして帰路は東海道をまわり鎌倉~江戸~日光~出羽清川村へと、同年9月に帰る全行程160日間におよぶ長旅です。
一部船を利用したり母のために駕籠を利用したりすることはあっても、ほとんどの行程が「歩くこと」を基本とした旅であり、今となれば驚くばかりの健脚です。この時代に使用人をつれての親子の旅を、しかもこれだけの長旅を可能にしたことからも、酒造と砂金で栄えた斎藤家(八郎の生家)の財力が相当なものだったことが窺えます。

◆『西遊草』からみえてくるもの
八郎親子は行く先々の観光名所に立ち寄り、母親は好きな芝居見物に夢中になったり、呉服屋で着物を買ったりします。芝居見物に興味がない八郎は宿に帰り夜半となれば、名所旧跡・行事、街道や宿場の様子、そして各地で聞いた言い伝え、そして自身の感想も含め、日記に克明に書き留めていたようです。

名所旧跡を綴った所だけを読んでも、158年前の観光ガイドや時代考証としても実に興味深い内容です。例えば「品川」と「高輪」についての行(くだり)を紹介すると、品川は「日の出」が美しい所であり、高輪は「二十六夜待ち」の名所だったことがわかります。江戸の古地図を基に「ブラタモリ」を楽しむ好事家にとっては、『西遊草』はきっと貴重な歴史的文献にもなりそうです。

「江戸の外四宿のうちにても、品川は海にのぞみ、殊に人家のうつくしき事並びなし。此所に宿してあさの時は、海上より朝日のいづる景色、尤も美事也。」

「まもなく高輪にいたる。片側にて海をのぞみ、至てよろしき所なり。殊に七月廿六夜の月見にて、晴天なれば此辺群集いたす事をびただしく、例年をどりなども多くいづる也。」

また、自身の感想を述べた箇所は、八郎の人となりが表出しています。
例えば、京都の金閣寺では「庭の綺麗に感服するはいらぬこと」とし、将軍足利義満は当時の百姓たちの塗炭の苦しみを憂うることなく、個人の楽しみを満たすために金閣寺を築いた。また、京都御所では、先般の禁裡(皇居)の不審火は「異国船騒動以来の天変流行」のひとつで、政(まつりごと=幕府)が怠慢ゆえに天より戒めるべき、などと折々に八郎ならではの見解が述べられています。

当時八郎は26歳、八郎の心の中にはまだ尊王攘夷の気運が成熟していない頃で、交友関係といえば、安積艮斉塾や千葉道場で知合った仲間が中心でした。なかでも清河塾延焼の後始末を手伝った安積塾の仲間に岩崎弥太郎の従兄弟がいたことは、龍馬との関係を考える上でも興味深いことです。

ちなみに、江戸滞在時の記述を読むかぎりでは、八郎は神田橋にある庄内藩江戸上屋敷と交流していたことが分かります。生家の斉藤家が庄内藩に相当の寄進があることから、当時はまだ、庄内藩江戸上屋敷が八郎にとって強力な「後ろ盾」になっており、私塾再建のための一時用立てを都合するとか、当時江戸町方では浪士の土地借用が禁じられているなかで、庄内藩が土地の確保のために仲介までしてくれていたようです。

『西遊草』は、このように八郎に対する既成概念(負のイメージ)を払拭する内容が満載しているだけでなく、幕末の日記文学/紀行文学としても貴重な歴史的文献であるのです。          (完)

※清河八郎著『西遊草』岩波文庫(93年)
清河八郎記念館が所蔵している原本を、小山松勝一郎が校注したもので、漢字と仮名を整理し注釈を加えている。残念ながら現在は絶版のため復刻を待たれる。

第112話:清河八郎再考(2/3)



~孤高の策士・清河八郎~

◆八郎が生きた幕末とは
清河八郎(1830~1863)が生きた動乱の幕末といえば、「黒船来航」(嘉永6年・1853年)を契機にすべてが動きだします。幕府は大老井伊直助を筆頭に開国に舵をきり、さらに将軍の世子(よつぎ)問題もからむと薩摩藩や水戸藩などの諸藩から反発をかいます。井伊がその反対派を弾圧したのが「安政の大獄」(1858~1861年)。ついに井伊が水戸藩士らに暗殺されたのが「桜田門外の時変」(1860年)でした。この一連の流れの中で、幕府の開国政策の不備もあって通貨流失と物価高騰が生じて国民生活が困窮すると、「条約は即時に破棄し、外夷は追い払え」という「攘夷」の機運が沸騰し、京の朝廷に「攘夷」の勅令を願いついに「尊皇攘夷」というムーブメントが沸き起こります。すると諸藩では国許にいて階級制度に潰されるよりは、京や江戸に出て勤王攘夷の志士で活躍したいとする脱藩浪士が増えます。土佐の坂本龍馬(1836~1867)も当にその一人でした。

◆攘夷浪士の旗頭的存在へ
八郎は坂本龍馬の6歳年上になります。面識があったかは不明ですが、共に千葉道場で剣術を学んでいます。ただ龍馬と違うのは、八郎は「学問の世界」で功名を立てたいと江戸に出て東条塾と昌平黌で学び、ついに安政元年(1854年)神田三河町に私塾を開き、浪人志士たちに文武を教授するまでになったことです。それも開塾したのは、江戸に出て7年、千葉道場に入門して3年10ヶ月の25歳という驚くほどの若さでした。その前年の嘉永6年(1853年)には黒船が来航。この神田三河町の清河塾は火災に遭って全焼してしまい、安政4年(1857年)の28歳のときに、再び神田駿河台に清河塾を開いています。それもちょうど「安政の大獄」が始まる前年。八郎は当に激動のなかで開塾を繰り返したわけです。

千葉道場で知り合った幕臣で攘夷派(反井伊派)の山岡鉄太郎(鉄舟)や、清河塾に集まった薩摩藩士らと交流をするなかで、八郎の志は次第に学問や文事から離れると当面の国事に向かい始め、ついに尊王攘夷家になることが決定づけられます。そして八郎31歳、万延元年(1860年)3月3日の「桜田門外の事変」を迎える頃には、清河塾はもう単なる文武教授所ではなく憂国者の集会所になっていました。八郎は同志を集めて「虎尾の会」を結成し、当に江戸在住の攘夷浪士の旗頭的存在になっていました。その年の暮れに起きたハリス総領事の通訳が殺された「ヒュースケン事件」の主犯は、「虎尾の会」に所属する薩摩藩士の2名。それをきっかけに八郎は幕府から警戒される人物になっていきます。

◆策士としての清河八郎
「桜田門外の事変」は元来、水戸藩士と薩摩藩士の合作で、桜田門で水戸藩士らが井伊を暗殺するだけでなく、京都では薩摩藩士らが朝旨を奉じて兵を挙げ、幕政の変革をはかるという計画であるはずが、その後半部分はついぞ未遂に終わっていたのです。そこで策を組み上げたのが、今や攘夷浪士の旗頭である清河八郎でした。八郎の策とは「京の公家を通じて一封の奏書を天覧に供し、何らかの密旨を戴いて九州に下り、薩摩の有志を糾合して義兵を募り、尊王攘夷の義挙を上げる」というもの。

八郎は行動にでます。事変の翌年、文久元年(1861年)の11月には、公家に仕える諸大夫(しょだいぶ)の田中河内介と京都で会い、八郎の策に賛同を得ると、田中の紹介状をもとに長州から九州へと行脚。九州では同じ志をもつ平野國臣や真木和泉守らと交流を重ねています。八郎の画策が功を奏したのと、島津久光が精兵千余を率いて東上する時機もあって、翌文久2年(1862年)の春には、西日本の志ある壮士らが京阪の地に集まる様相となり、薩摩藩邸の二十八番長屋には多くの浪士が集結したのです。

この挙兵の中心は薩摩藩の「誠忠組(精忠組)」の激派で「討幕挙兵に踏み切ろう」と血気盛んでした。「誠忠組」とは下級武士からなる「改革派」で、藩主久光側の「守旧派」と対峙する関係にあり、薩摩藩内部の複雑な事情もからんでいます。案の定、京での挙兵の流れを止めたのは藩主久光でした。久光の東上の目的は幕府と朝廷の関係修繕を計ることであり、「公武合体策」をあくまで是とする姿勢です。そこで寺田屋に集結した激派が幕府に刃向うとする動きを知った久光は激怒し、剣の達人たちを派遣して無礼討ちを命じ、粛清したのです。これが世に謂う「寺田屋事変」(文久2年4月23日)。ちなみに海音寺潮五郎は「寺田屋事変」を血で血を争う「薩摩維新史上の大汚点」と酷評しています。

◆八郎の次なる一手
こうして清河八郎の名を世に知らしめたのが、策士としてみせたこの一連の行動だったはずが、結果的には薩摩藩主島津久光による「寺田屋事変」によって計画は頓挫してしまったのです。このことは、八郎にとって薩摩藩との関係が完全に切れたことを意味しています。つまり坂本龍馬には薩摩と長州の大藩の後ろ盾がありましたが、結局清河八郎には何も後ろ盾のない「孤高の策士」で終わったということになります。

ところが策士としての八郎は怯むことはないのです。同年(文久2年)の暮れに次の一手を画策します。それが前回述べた幕府に対する「浪士組」結成の建白です。幕府を欺く策は一見トリッキーにみえたとしても、尊王攘夷旗頭の策としては、それまでの八郎の行動をみればひとつもブレはないのです。

◆八郎は「豪邁な才人」
海音寺潮五郎は、八郎を才気に溢れた人物と認めながら、人の処し方からみて「傲慢」な性格と評しています。庄内人の贔屓目かもしれませんが、わたしからみれば「傲慢な才人」というよりむしろ「豪邁(ごうまい)な才人」とみます。八郎の類まれな「行動力」「推進力」にこそ正当に評価すべきと思っています。というのも、八郎が遺した日記に自分の性格を語る上で「然るに、素性豪邁にして・・」との行(くだり)があります。この「豪邁」は「絶えず邁進する性格」と理解できます。もしわたしが八郎の「気のありよう」を診断すれば、きっと「気が逸る」とでるでしょう。「豪邁」の人は現代でいえば起業家に多く、頭では絶えずプランニングすることが日常であり、思い立てば即行動をとるタイプです。但しこうした「できるひと」はとかく「傲慢」にみえて誤解を受けやすいもの。したがって彼をサポートする優秀な参謀や、後ろ盾があれば、それにこしたことはないのです。

攘夷浪士の旗頭的存在になるきっかけとなった「桜田門外の事変」は八郎31歳。そして麻布一の橋で佐々木只三郎によって斬殺されたのが八郎34歳。その間のわずか4年という歳月を、郷里清川村の「清川だし」が吹きすさぶが如く、そして「前のめり」に生き急ぐが如く、清河八郎は激動の幕末を駆け抜けていったのです。       (つづく)


※海音寺潮五郎『幕末動乱の男たち(上)』新潮文庫(平成20年)
※中村彰彦『幕末入門』中公文庫(2007年)
※佐々木只三郎という人物:元会津藩士。文久3年(1863年)4月13日に清河八郎を暗殺したときは「新徴組」の取締出役。その功績を買われて「京都見廻組」の与頭(くみがしら)になる。慶応3年(1867年)11月15日近江屋での坂本龍馬暗殺事件の執行者は「京都見廻組」が定説。従って佐々木只三郎は、奇しくも八郎と竜馬の暗殺にそれぞれ関わった人物である。その後、鳥羽伏見の戦いでの負傷がもとで慶応4年(1868年)死去。享年35。

第111話:清河八郎再考(1/3)



~八郎は奇妙にあらず~

◆「清川村」の清河八郎
酒田市に隣接する庄内町に「清川(きよかわ)」という地域があります。市町村合併前は「立川町清川」、さらに江戸時代に遡れば「出羽国田川郡清川村」。清川は最上川とその支流の立谷沢川との合流点に位置します。最上渓沿いに吹く夏風はとても険しく、地元の人は「清川だし」と呼び、最近ではそれを風力発電に利用しています。

この清川村こそ、勤皇の志士・清河八郎(きよかわ・はちろう)(1830~1863)の郷里。本名は斉藤元司。生家の斉藤家は地主であるとともに酒造業を営み、苗字帯刀を許された豪家でした。現在でも清川には、ゆかりの地を象徴するかのように、清河八郎を祭神とした「清河神社」(昭和8年創建)と「清河八郎記念館」(昭和37年竣工)があります。

今では庄内の人にとっても忘れられた存在になりつつあります。とはいえ、わたしが子どものころ、なぜか家の床の間には清河八郎の胸像が飾ってありました。どんな偉い人なのかよくわからないままに、子ども心にその面長のご尊顔をぼんやり眺めていたものです。そんな心象風景のせいか、清河八郎は大人になってからもなんとなく気になる存在になっていました。

◆「ヒール」としての清河八郎
清河八郎とはいったいどんな人物だったのでしょうか。一般には「新選組」の前身である「浪士組」結成に関わった人物として知られています。但し新選組を礼賛した小説からみれば、八郎は決まってヒール扱いということになっています。八郎は幕臣の山岡鉄舟らの協力を得て、将軍上洛の警護を名目とする「浪士組」結成を幕府に建白して実現します。ところが京都に着任すると「真の目的は天皇の警護」と突然浪士たちに向かって「尊皇攘夷」を宣言するのです。それを知った幕府は仰天し、即座江戸の帰還を命じ「浪士組」は事実上解散。江戸に帰還した浪士たちは、庄内藩江戸屋敷預かりの「新徴組(しんちょうぐみ)」として江戸市中警備に当たり、同じく江戸に帰還した八郎は、幕府の命を受けた佐々木只三郎らによって麻布一の橋で斬殺されます。そして京都に残った近藤勇・芹沢鴨らは新たに「新選組」を結成し、京都守護職の会津藩主松平容保のもと、京都市中警備に当たったというわけです。

幕府を欺いた八郎の策士ぶりを、司馬遼太郎は短編小説『奇妙なり八郎』に書いています。才気がありながら時代の表舞台に立つことなく、幕府の刺客によって斬殺された八郎を主人公にして、帯刀していた名刀「兼光」を報われない「才気」の象徴として描いていますが、司馬は題名『奇妙なり八郎』に示す如くまるで「トリックスター」のように八郎を描いています。

◆「孤高の志士」としての清河八郎
巷間知られる清河八郎のイメージは、あくまでも新選組側からみたものであり、しかも八郎の生涯の最後の1年間を語っているにすぎないのです。同郷の作家、藤沢周平はそんな八郎についての誤解をとくべく『回天の門』を書いています。八郎は18歳にして青雲の志をもって江戸にでて、東条塾や昌平黌で学び、さらに千葉周作の道場「玄武館」で剣術を学んだ当に文武両道を極めた志士でした。藤沢はやがて「勤王の志士」として功名をなした清河八郎の足跡を辿り「幕末に活躍した志士に策士と呼ばないものなどいない」「八郎はむしろ早く生まれ過ぎた天才」と説いています。こうした藤沢の見解には我が意を得るものが大いにあります。

幕末といえばとかく坂本龍馬ばかりが脚光を浴びます。維新の実現を見ることなく亡くなった才能ある志士はなにも龍馬ひとりではないのです。たとえば個人的な好みからいえば福井藩主松平春嶽の側近である橋本佐内(安政の大獄により獄死。享年26)とか、水戸藩主徳川斉昭の側用人である藤田東湖(安政の大地震で死亡)がそうです。そしてそこに庄内の清河八郎を加えてみたいのです。ただ八郎ひとり異色なのは、国許の庄内藩はおろか何の後ろ盾も持たなかった所謂「孤高の志士」だったということです。激動の幕末という時代に、清河八郎はアウトサイダーとしての立ち位置で暗躍した「孤高の志士」だからこそ、もっとスポットを当てるべきで、考察する価値がまだまだ内在している人物だと思っています。

「孤高の志士」である清河八郎の足跡を、次回は紹介してみます。(つづく)

※司馬遼太郎『幕末』より「奇妙なり八郎」文春文庫(1977年)
※藤沢周平『回天の門』文春文庫(1986年)
※海音寺潮五郎『幕末動乱の男たち(上)』新潮文庫(平成20年)
幕末に活躍した人物を列伝体でまとめたもの。海音寺は清河八郎記念館所蔵の日記を細かく読み込んでまとめている。