第171話:修験道との繋がりを求めて(3/3)



◆修験道の歴史
法螺貝を鳴らして山中を駆け巡る山伏による修験道の世界は、どのように成立してきたのでしょうか。詳しく紹介している成書は少ないようですが、五来重(仏教民俗学)や鈴木正崇(宗教民俗学)らの著書から紐解くと、その歴史的な流れは概略次のような文脈になります。

仏教が入る前には陰陽道なり道教なりの仙人といわれるような山中修行者が山を管理していたのが山伏の原型。平安初期には山岳仏教の真言宗や天台宗などの密教の影響を受け、平安後期には吉野や熊野で発展。鎌倉時代には役小角(えんのおづぬ)が開祖に祀り上げられ、室町時代後期には教義・思想・組織が整えられ教団化。江戸時代には京都の聖護院中心の「本山派(天台系)」と醍醐三宝院中心の「当山派(真言系)」に組織化された―という経緯です。

煎じ詰めれば、修験道は山への独自の意味づけを通して、神仙思想を中核とする道教の思想や技法、陰陽道の知識なども加えた古来の山の神霊信仰に、仏教(特に密教)を合わせた「権現信仰」とする神仏習合(仏教+修験+神道)として確立したこと。
そうした中で、修験(山伏)は、あくまでも仏教側(密教系の神宮寺)に身を置き、山中での実践行と、里に下りての民衆への救済を通して「仏と神を繋ぐ」存在だったといえます。

◆修験道の「身体知」
日本列島の70~80%は丘陵や山地からなっています。山はそれだけ日本の風土の根幹をなしているわけですが、さらに民俗学の世界では、山こそ日本の文化、芸術、宗教の源泉であるとみます。その一環として、重畳する山岳に囲まれる広大な領域に目を留め、その奥地に潜入して修験(山伏)の生態をつぶさに観察した記録を読むと、霊山への探索は日常の世界とは別個の、怪奇と魅力に富むフィールドワークであることが十分に伝わってきます。

山に入れば感覚は鋭敏になり、山から「ちから」をいただいて元気になれます。それを古くから体現していたのが修験(山伏)の世界です。自然を神や仏や菩薩そのもの、あるいは顕現とし、その中に分け入って一体となること、仏教で言えば「即身成仏」の境地を修験(山伏)は目指していたのです。大自然の「いのち」に触れ、共に「いのち」を共有する感覚や体験を通じて、身体に新たな「ちから」を宿す。その「ちから」を「験力(げんりき)」と呼びます。言いかえれば、大自然そのものと自己が二つで一つの世界になること、それが修験の極意といわれています。

修験の修行は山中での秘所への到達と秘儀の実践に重きを置き、その根幹をなすのが峰々を縦走して行場や拝所をめぐる「峰入り」と呼ばれる行です。自然の多次元的世界に没入する繊細な感性を持った修験(山伏)にとっては、文字の知識に頼るのではなく、実践と体験こそが重要であると考え、「峰入り」修行をできるだけ多く積み重ねること、所謂「身体知(体験知)」を重要とみなしていたのです。

東洋医学では、身体まるごとを、もう一つの「自然」とみなします。患者さんの身体という多次元的世界と対峙する治療家にとっても、感性を磨く上では「身体知」はもちろん大切なこと。かつて修験(山伏)であったわたしのご先祖さまと繋がったという意味合いを考えれば、そうした身体知の実践を積むことの大切さを教えられている気がするのです。



◆出羽三山の修験道
修験道の世界を体感したくて、8月下旬に「山の行」へと旅に出ました。今や鳥海修験は消滅しているなか、現存する出羽三山の修験道を訪ねてみたのです。

ここでひとつ説明をはさむと、明治の神仏分離以降は、出羽三山の修験道が神道系と仏教系の二つに分かれています。仏像が壊され寺社が神社に鞍替えするという徹底的な神道化の流れの中で、新たに出羽三山神社が中核となったわけです。一方仏教系の修験とは、旧来からの羽黒修験の神宮寺であった正善院が、わずかに命脈を保ち、修験道儀礼を維持して現代を生き抜いてきたといえます。

神道系修験道(羽黒派古修験道) ⇒ 出羽三山神社
仏教系修験道(羽黒山修験本宗) ⇒ 正善院/荒沢寺


地元の人々でさえも、今や神道系と仏教系の区別をはっきり認識できる人は数少ないと思います。神仏分離からすでに150年経った現在、後戻りはできないほどの歳月を重ねています。神道系と仏教系が共存しながら、羽黒の修験道をさらに積極的に文化遺産として活用していく時代を共に模索していくことの方がむしろ現実的なのかもしれません。

◆修験道の体験
本年8月下旬、出羽三山神社主催の「錬成修行道場」(2泊3日)に参加してきました。参加者は全国から集まった約40名、そのおよそ2/3は経験者で、わたしのような還暦過ぎの初心者はむしろ無謀と思われていたのかもしれません。

行中は小雨が降る中、白装束(行衣と袴と脚絆)を身に纏い、片手には金剛杖を頼りに、とにかく転ばぬように足元だけに意識を集中して歩きます。全体の行程は羽黒山の参道、月山8合目から月山山頂、そして月山山頂から湯殿山への下りです。特にこの湯殿山への下りは、途中鉄梯子を後ろ向きで降りるという難所もあり、踏破してみればふくらはぎがパンパンに張り、膝はガクガク笑うほどでした。

湯殿山では滝行を経験。秘所と言うべき滝までの道程は、すべらないように足袋に草鞋(わらじ)を履いての沢登り。滝に着くと裸足に草鞋、褌(ふんどし)と鉢巻だけの裸になり、道彦さん指導の下、神道の禊の儀式に則りひとりひとりが滝に入ります。頸と肩に叩きつける水圧は、まるで地球の重力を一身に受けとめるかの勢いです。それが1分たらずの時間とはいえ、なぜか身体がほかほか高揚してくる、当に「ちから」をいただいて、すっかり禊をした気分になりました。

2泊3日の「山の行」を通じて、かつて人里離れたこの地でひたすら大自然と対峙して修行を積んでいた修験のいた時代を想像もし、わずかながらも修験の世界を追体験ができました。
月山から湯殿山の山路をひたすら無心に歩いた末のこと。ふと見渡すと峰々の稜線に囲まれたその大自然の狭間にぽつんと置かれた自分がいました。それは、自分の「いのち」が自然の「いのち」に生かされている、と気づかされた瞬間でもありました。(了)

※五来重『山の宗教・修験道案内』角川文庫(平成20年)
※鈴木正崇『山岳信仰』中央公論新書(2015年)
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第170話:修験道との繋がりを求めて(2/3)



◆庄内地方の山岳信仰
庄内地方は東西に流れる最上川を境に、以南を田川郡、以北を飽海(あくみ)郡と呼んでいました。田川では霊峰・月山が聳え、それに羽黒山・湯殿山を加えて出羽三山と呼びます。そして飽海では山形・秋田の県境に跨る出羽富士・鳥海山の雄姿が見えます。
出羽三山と鳥海山は共に古くから山岳信仰で栄えた霊山。特に月山と鳥海山は子午軸(南北)に対峙することから、それぞれを「陰の山」「陽の山」の関係とみなし、密教を取込んだ修験道の世界からは、「胎蔵界」「金剛界」の曼荼羅を形成しているとみます。

出羽三山と鳥海山に行者や修験(山伏)が登拝し修行の山として定着したのは中世の頃。それが近世になると、麓の人々の暮らしに水を提供する水分(みくまり)の山として五穀豊穣を願い、あるいは健康祈願や病気直しなど暮らしの安泰を祈るという庶民の信仰と祈願の山となっていきます。庶民の間で「お山参り」と呼ばれる信仰登拝は江戸時代には盛んに行われていました。各地域で「講」が組織され、男性は15歳になると村を代表して白装束に身に纏い、行者や山伏に先導されて鳥海山と出羽三山を続けて登拝するという風習もありました。

春に田植の季節となれば山の神が降りて田の神になり、秋の収穫が終われば田の神はふたたび山に帰るとされ、田の神との交替を繰り返す山の神は農神とみなしていました。
さらに、山の信仰は人々の死生観にまで及びます。山の自然の移り変わりに、人の死と再生の循環を重ね合わせ、先祖の霊が三十三回忌を超えると神霊は清まって山の神になるとする他界観がありました。

◆鳥海山の神社と修験
こうした山岳信仰の中核となったのが、鳥海山では「大物忌神社」と「鳥海修験」でした。
鳥海山の山頂に建てられた「大物忌神社」には祭神「大物忌神」が祀られ、麓の山形側・秋田側のそれぞれの登拝口にも「大物忌神社」が置かれています。
山岳信仰と修験道の世界は、現在では消滅した世界ですが、改めてその過去の姿を振り返り、現在の姿へと変貌した経緯を書き留めてみます。

明治に入るまでの、吹浦にある「大物忌神社」では、神社と寺そして修験道が統合して、鳥海山の山岳信仰の中核をなしていたわけです。たとえば、神社の境内には神宮寺(真言宗か天台宗)があります。半僧半俗の山伏(修験の徒)は、その神宮寺に衆徒(しゅと)として所属して、周辺に居を構え山伏の集落を形成していました。
大物忌神社には本地垂迹説に基づく権現が祀られ、神宮寺には本地の仏像が安置。神社では真言密教の曼荼羅(胎蔵界と金剛界)を反映する意味から、鳥海山と月山の両権現が祀られ、大物忌神社は「大物忌月山両所宮」と言われていました。それと境内にある神宮寺(梵宮山光勝寺)には、両権現の本地である薬師如来と阿弥陀如来が共に祀られていたのです。

大物忌神社(大物忌月山両所宮)⇒ 鳥海山権現+ 月山権現
神宮寺(梵宮山光勝寺)    ⇒ 薬師如来 + 阿弥陀如来
山伏(修験の徒)は神宮寺に所属


神仏全体を取りまとめるのが「別当(べっとう)」と呼ばれる役職。別当の多くは僧侶が担うため、神社よりむしろ神宮寺のほうが権力を握っていました。それが江戸の後半になると神社と神宮寺との権力争いが次第に増して、神社と寺はある種の緊張関係にあったそうです。いずれにせよ、そうした環境下で、山伏(修験)たちは神宮寺側(密教系の仏教)に所属していたのです。

現在の大物忌神社は完全に神道に鞍替えしています。明治初年に政府が国家神道を中核に据え「神仏混淆禁止の令」を断行して、仏教色を徹底的に排除する所謂「廃仏毀釈」を押し進めた結果、神仏習合の装いは全くなくなっています。僧侶と修験を追放したことで、それまでの神社と神宮寺との権力争いは終結を迎えます。
具体的には、御神体は大物忌神と月山大神に代わり、境内の神宮寺は壊され、安置されていた薬師如来と阿弥陀如来は他の寺社に移設されたと聞きます。そして明治5年に下された「修験道廃止の令」を境に山伏(修験)は終焉を迎えるのですが、吹浦衆徒はそれに先駆け、明治2年には全戸が神道に転換し、明治3年には正式に神職となったそうです。

大物忌神社 ⇒ 大物忌神 + 月山大神
神宮寺(梵宮山光勝寺)は破壊
山伏(修験の徒)は廃止


鳥海山を信仰の対象とする「登拝」は、明治以降、民間信仰としての「お山参り」が引き継ぐのですが、それも徐々に衰退して、今ではスポーツや観光または健康や癒しを目的とする「登山」に変わりました。山伏(修験)の姿は消え、修験の集落は普通の村落になり、かつて山岳信仰で栄えた面影は、今は神社が受け継いだ伝統芸能に少し残っているのかもしれません。
次回は修験道の歴史と修験の体験を綴ります。(つづく)

※投稿論文『山岳信仰の展開と変容:鳥海山の歴史民俗的考察』
鈴木正崇(慶応大学文学部教授)
三田哲學會刊『哲學』第128集p447~514(2012年)

第169話:修験道との繋がりを求めて(1/3)



◆わが身のルーツとは
自分の身体に流れる「血」とは一体なんだろう。所謂ファミリーヒストリーについて気になりだしたのは、ちょうど還暦を過ぎた頃でした。なかでも祖父の家系が代々神職に就いていたことは、今のわたしに何かしらの関係性があるのだろうか、ある種の期待感に似た好奇心が勝手に騒ぎ出しました。それまで興味の対象の一番隅っこにあった祖父の生家である神社についての事柄が無性に気になりだしたのです。とはいえ、ようやく自分の関心が成熟した頃にはすでに両親は亡くなり、尋ねるべき伯父伯母も鬼籍に入っていました。もっと早く聴いておけばよかったと後悔するも後の祭りです。

そこで自力で調べてみると、まるで見えない「力」がはたらいたとしか思えないような展開が待っていました。公立図書館の検索システムを使い、駄目もとで調べてみたのですが、偶然にも、故郷の神社について記述した江戸時代の古文書(昭和に出版された復刻本)に遭遇したのです。

◆山伏に繋がる
その復刻本を手にして漢文まじりの記述を読み解いていきます。そこで分かったことは、祖父の生家である神社は、鳥海山の麓、日本海に面した吹浦(ふくら)にある大物忌神社からの分家であり、(以前は神職だったという)山伏を派遣して勧請された神社である-と読み取れたのです。突然浮上した「ヤマブシ」という響きに戸惑いながら、親族にそのことを伝えたところ、たいして関心のない反応でした。結局興奮しているのはわたしだけ。でも冷静に考えてみれば、これはきっとわたし宛てに届いた「ご先祖さまからのメッセージ」だと確信できたのです。

大物忌神社(おおものいみじんじゃ)は鳥海山の山岳信仰の基点となる神社です。そこに関連した山伏(修験)となれば、わたしの家系は先祖代々鳥海山の神霊や仏菩薩と深い繋がりがあるということです。

そして最も驚くことは、「山伏」と現在のわたしの職業に共通点を見出せることです。たとえば鈴木正崇著『山岳信仰』を紐解くと、山伏についてこんな記述があります。

「山伏は半僧半俗として里に定住して、山の行を通じて神霊や仏菩薩と交流し、自然の特別な験力(げんりき)を身につけ、里に下れば加持祈祷・卜占託宣(ぼくせんたくせん)のほか、民衆の精神的な救済として病気直しや日々の悩みの解消、薬の処方など民衆の身近な『野のカウンセラー』として活躍していた。」

この「病気直しや日々の悩みの解消」という部分は、鍼灸師としてのわたしの生業とまさに符合。なにか先祖代々と繋がる「縁起の理」を感じないわけにはいかないのです。

◆あのときの意味
わたしが二十歳になった年(1974年)のある日。鳥海山が174年ぶりに噴火したというTVニュースが飛び込んできたのですが、その日の夜はなぜか興奮して寝つくことができなかったことを今でも鮮明に覚えています。言い伝えでは、鳥海山の祭神「大物忌神(おおものいみのかみ)」の怒りをかうと鳥海山は噴火し、それを鎮める役割が大物忌神社の神職とされています。
つまりそれは、174年後の噴火に居合わせた何も知らない神職の子孫である二十歳の青年が、意味も解らずただただ何もできない「もどかしさ」の感覚に襲われた結果、ついには寝つけなかった―というのがことの顛末であったと、今となっては解釈できます。
⇒参照「第134話:鳥海山の神仏と陰陽」

さらに振り返れば、これまで、仏教や神道、あるいは中国の道教とか神仙思想に対しての興味が持続できたのは、鍼灸医学を背景とする東洋の宗教哲学を学びたいという願望が人一倍あったにせよ、むしろそれは自然と受入れやすい(修験道的?)感性が潜在していたからこそであり、最終的にはご先祖さまと繋がるようにセッティングされていたのでは―とさえ思えてきます。

一冊の復刻本から偶然知り得たファミリーヒストリーの断片は、鳥海山の山岳信仰と修験道の世界についての興味を益々引き寄せています。さらには、今年の八月には出羽三山に足を伸ばして、二泊三日の修験道の体験、所謂「山の行」にも参加してきました。
こうした一連の知り得たこと、そして体験したことを次回お伝えしていきます。(つづく)


※進藤重記著『出羽国風土略記』歴史図書社(昭和49年)
進藤重記(1709~1769)は吹浦大物忌神社の神官。神宮寺と羽黒修験による神社側への一方的な訴えにより、庄内藩裁定の結果、田川郡に追放される。重記は吹浦に戻ることなく田川郡で没。子孫は藩医となり酒井家に仕えたという。『出羽国風土略記・十巻』は、享保・寛延より宝暦12年(1762年)迄の20年間で書かれた出羽国の地誌。現代においても郷土史研究の重要な本となっている。
※鈴木正崇著『山岳信仰』中央公論新書(2015年)
山岳信仰と修験道についての入門書。出羽三山・大峯・英彦山の三大霊山を中心に、全国の八つの霊山を取り上げて、山岳信仰の歴史と実態を明らかにする。

第134話:「鳥海山」の神仏と陰陽



◆さやけき山「鳥海山」◆
ふるさと酒田では、日本海を背にすれば北東に「鳥海山」(標高2,236m)、そして南東に「月山」(標高1,984m)が望めます。酒田の人にとって「鳥海山」は「地元の山」という意識がつよく、「月山」はどちらかといえば隣の鶴岡の山とみなします。
斎藤茂吉の歌をかりれば、鳥海山は「さやけき山」です。こどもの頃から見慣れた鳥海山の雄姿は成長の折々に背景として存在し、かといってなにかを主張するふうでもなく、日常のありふれた風景の中に「さやけき」姿をいつもみせていました。

◆荒ぶる山「鳥海山」
その鳥海山が突然「荒ぶる山」の形相を見せたのは、わたしが上京して2年目、20歳になった1974年(昭和49年)のことでした。174年ぶりの噴火(水蒸気爆発)を知らせるTVニュースがいきなり6畳一間のアパートに飛び込んできたのです。幸い大きな被害はなかったようですが、山頂の大物忌神社(おおものいみじんじゃ)の屋代が噴石の被害を受けたと報じていました。お蔭でわたしは、興奮して寝付けなかったことを今でも覚えています。まるで寝た子を起こすかのような衝撃とでもいうのでしょうか、将来を定めきれない20歳の青年にとって、否応なしに奮起を促されたような熱いエネルギーを鳥海山噴火のニュースから感じとってしまったのです。かといって青年のこころが翌日から一変したわけでもなかったのですが、ただ、その日を境に鳥海山が「ありふれた山」ではなくなったことだけは確かでした。

◆「大物忌神社」とは
鳥海山が「荒ぶる山」とは全く想像もしてないことですが、山頂にある「大物忌神社」の主神である「大物忌神(おおものいみのかみ)」を調べてみれば、それは当然のことでした。民俗学者谷川健一の『日本の神々』によれば、「大物忌大神」とはいわゆるタタリ神で、怒りをかうと、鳥海山の噴火や出羽の蝦夷(えみし)の反乱が起きるという構図をもっていました。古代、大和朝廷が平穏を祈るためには「大物忌神社」に国司をつかわして祈祷させたとあります。つまり鳥海山に眠る「大物忌神」の怒りを鎮めるために「大物忌神社」は存在し、鳥海山は元々荒ぶる神の「大物忌神」を擁する「陽の山」であったというわけです。

◆陰陽の関係と曼荼羅
南に聳える月山と相対して鳥海山を捉えれば、月山が「陰の山」で鳥海山が「陽の山」というように、両山は陰陽の関係にあるとされてきました。
それは地図を開いて両山を俯瞰すると、より明白に理解できます。というのは、不思議なことに月山と鳥海山はぴったり南北線上に位置しているからです。月明かりの夜に月山の頂に立ち、真北の北極星を仰ぐとその直下に鳥海山がみえるわけです。こうした地理的関係を偶然の所産と考えてしまえばそれまでです。しかし、月山と鳥海山が「子午の関係(南北線上の位置)」を以て対峙していることの意味を考えてみれば、かつて修験道で栄えた信仰の山である月山と鳥海山とを陰陽の関係で繋げることで、実は庄内地方を「曼荼羅」の宇宙観にみたてた古代人の眼差しがそこにあったことを、わたしはつよく感じてしまうのです。

◆鳥海山をとりまく神仏
曼荼羅を形成している鳥海山をとりまく神仏たちをここで紹介してみます。
大物忌神社には、鳥海神(鳥海山大権現)の「大物忌神」と月山神(月山大権現)の「月読命(つくよみのみこと)」を共に奉られています。「陽の山(鳥海山)」に主神である「大物忌神」のみを奉るのではなく、「陰の山(月山)」の主神である「月読命」をも奉るという意味合いは、陰陽論でいえば「陽中に陰を取り込む」という独特の思想が反映されているとみます。
ちなみに鳥海山周辺の地図をみれば、鳥海山を水源とするふたつの川「月光川」と「日向川」があることや、鳥海湖の傍に「月山森」と名付けた森があることも、まさに「陽中に陰を取り込む」という考え方が根底にあると想像できます。

さらに、かつての神仏習合の時代には、陰陽は「仏」の領域にも広がります。日本海に面した吹浦(ふくら)にある大物忌神社には「神宮寺」がありました。この神宮寺に「薬師如来」と「阿弥陀如来」が奉られていました。これは本地垂迹説に基づき、「大物忌神」の本地を「薬師如来」とし、「月読命」の本地を「阿弥陀如来」とされていたのです。ここで「阿弥陀如来」は来世往生の仏で、「薬師如来」は病気平癒を初めとする現世利益の仏と言われています。これを平たく解釈すれば、月山は「あの世の山」で鳥海山は「この世の山」という図式にもなります。

    「陽の山(鳥海山)」=「大物忌神」=「薬師如来」 =「この世の山」
    「陰の山(月 山)」 =「月読命」 =「阿弥陀如来」=「あの世の山」

◆庄内を取り巻く「曼荼羅の宇宙観」
ということは、子午の関係で対峙する「あの世の山」と「この世の山」とに挟まれた土地が「庄内地方」です。そこには、肥沃な「庄内平野」と東西に分け入る「最上川」から自然の恵みを授かった人々の悠久の歴史があります。人々は「この世の山」には畏怖の念をもって仰ぎ、「あの世の山」には山岳浄土への願いをもって仰ぎ見たのでしょうか。

このような神仏たちで彩られた「曼荼羅の宇宙観」は、明治政府がとった「神仏混淆廃止の令」をもって終焉させられます。特に明治5年に修験道が廃止されると、いわゆる「廃仏毀釈」が断行され、神宮寺は破壊され「薬師如来」と「阿弥陀如来」は麓の寺に移設されたと聞きます。修験(山伏)は還俗(げんぞく)させられるか、真言宗や神道に帰属させられたそうです。

鳥海山と月山をとりまく、こうした神仏習合による「曼荼羅の宇宙観」は、残念ながら今ではほとんど忘れられてしまいました。とはいえ、「廃仏毀釈」を断行される前を考えてみれば、神と仏が上手に共存していた時代が、ほぼ千年にも渡り面々と続いていたのです。
そのことが庄内における精神文化の基底をなしていた、と考えても決して間違いではないような気がしています。(了)

※斎藤茂吉(1882~1953):鳥海山を謳った短歌
「ここにして 浪の上なるみちのくの 鳥海山はさやけき山ぞ」
※谷川健一『日本の神々』岩波新書(99年)
※本地垂迹説とは
神仏習合における考え方。本地であるインド仏教から日本の地へ神として現れたとする。鳥海山の例で言うと、インド仏教の「薬師如来」が日本の神として現れたのが「大物忌神」。同じく「権現(ごんげん)」は仮に現れた神さまという意味。
※鎌田東二『神と仏の出逢う国』角川選書(平成21年)
明治初年の「廃仏毀釈」の経緯や神道の歴史が詳しく解説している。

第113話:清河八郎再考(3/3)

~『西遊草』にみるもうひとつの顔~



◆高等遊民としての八郎
庄内町清川の「清河八郎記念館」には、八郎が遺した膨大な量の「日記」や「旅日記」が保管されています。巷間伝わる八郎の性格はとかく「才気はあるが傲慢」とみられがちですが、「日記」から窺い知るかぎりでは、そうしたイメージはありません。むしろ豪家の長子として幼少より漢籍の教養を積んだ、所謂「高等遊民」のような趣が感じとられます。

というのも、享年34という短い生涯にもかかわらず、その大部分を「旅」に費やしていたことが驚きです。18歳のときに家族で松島と仙台へ旅をしたのを皮切りに、江戸に遊学した後も19歳で伯父弥兵衛と江戸から西日本に、21歳には京都遊学の帰路に九州を、24歳には北海道に、そして26歳には母親をつれて「お伊勢参り」の旅にまで出ています。当時の「旅」は少なくとも3か月、長くて半年に及ぶものでした。20代までの旅はいわば「修養」が目的のようなもの。「万巻の書を読み万里の旅をして壮大な気宇を養う」という中国伝来の考え方が下地にあったようです。八郎はそうした「修養の旅」をふんだんに経験することが可能な環境に育ち、大いに見聞を広めた稀有な人物であったといえます。

◆親孝行の旅
なかでも八郎26歳で母親(当時40歳)との「お伊勢参り」を克明に綴った旅日記は『西遊草(せいゆうそう)』と銘々され、今では岩波文庫にも収録されています。
『西遊草』に綴られた旅は安政2年(1855年)のこと。その前年(安政元年)12月に、神田三河町の清河塾が火災に遭って全焼してしまい、八郎は国許へ一旦もどっていました。しばらくは清河塾再建までのいわば充電期間として国許で過ごすところが、思い立って母親が冥途の土産にと願っていた「お伊勢参り」に同行したわけです。

その行程を紹介すると、3月に清川村を出立してから、鶴岡に出て、新潟~善光寺参り~お伊勢参り~奈良大阪京都~四国の善通寺へと巡り、西は岩国まで足を延ばしています。そして帰路は東海道をまわり鎌倉~江戸~日光~出羽清川村へと、同年9月に帰る全行程160日間におよぶ長旅です。
一部船を利用したり母のために駕籠を利用したりすることはあっても、ほとんどの行程が「歩くこと」を基本とした旅であり、今となれば驚くばかりの健脚です。この時代に使用人をつれての親子の旅を、しかもこれだけの長旅を可能にしたことからも、酒造と砂金で栄えた斎藤家(八郎の生家)の財力が相当なものだったことが窺えます。

◆『西遊草』からみえてくるもの
八郎親子は行く先々の観光名所に立ち寄り、母親は好きな芝居見物に夢中になったり、呉服屋で着物を買ったりします。芝居見物に興味がない八郎は宿に帰り夜半となれば、名所旧跡・行事、街道や宿場の様子、そして各地で聞いた言い伝え、そして自身の感想も含め、日記に克明に書き留めていたようです。

名所旧跡を綴った所だけを読んでも、158年前の観光ガイドや時代考証としても実に興味深い内容です。例えば「品川」と「高輪」についての行(くだり)を紹介すると、品川は「日の出」が美しい所であり、高輪は「二十六夜待ち」の名所だったことがわかります。江戸の古地図を基に「ブラタモリ」を楽しむ好事家にとっては、『西遊草』はきっと貴重な歴史的文献にもなりそうです。

「江戸の外四宿のうちにても、品川は海にのぞみ、殊に人家のうつくしき事並びなし。此所に宿してあさの時は、海上より朝日のいづる景色、尤も美事也。」

「まもなく高輪にいたる。片側にて海をのぞみ、至てよろしき所なり。殊に七月廿六夜の月見にて、晴天なれば此辺群集いたす事をびただしく、例年をどりなども多くいづる也。」

また、自身の感想を述べた箇所は、八郎の人となりが表出しています。
例えば、京都の金閣寺では「庭の綺麗に感服するはいらぬこと」とし、将軍足利義満は当時の百姓たちの塗炭の苦しみを憂うることなく、個人の楽しみを満たすために金閣寺を築いた。また、京都御所では、先般の禁裡(皇居)の不審火は「異国船騒動以来の天変流行」のひとつで、政(まつりごと=幕府)が怠慢ゆえに天より戒めるべき、などと折々に八郎ならではの見解が述べられています。

当時八郎は26歳、八郎の心の中にはまだ尊王攘夷の気運が成熟していない頃で、交友関係といえば、安積艮斉塾や千葉道場で知合った仲間が中心でした。なかでも清河塾延焼の後始末を手伝った安積塾の仲間に岩崎弥太郎の従兄弟がいたことは、龍馬との関係を考える上でも興味深いことです。

ちなみに、江戸滞在時の記述を読むかぎりでは、八郎は神田橋にある庄内藩江戸上屋敷と交流していたことが分かります。生家の斉藤家が庄内藩に相当の寄進があることから、当時はまだ、庄内藩江戸上屋敷が八郎にとって強力な「後ろ盾」になっており、私塾再建のための一時用立てを都合するとか、当時江戸町方では浪士の土地借用が禁じられているなかで、庄内藩が土地の確保のために仲介までしてくれていたようです。

『西遊草』は、このように八郎に対する既成概念(負のイメージ)を払拭する内容が満載しているだけでなく、幕末の日記文学/紀行文学としても貴重な歴史的文献であるのです。          (完)

※清河八郎著『西遊草』岩波文庫(93年)
清河八郎記念館が所蔵している原本を、小山松勝一郎が校注したもので、漢字と仮名を整理し注釈を加えている。残念ながら現在は絶版のため復刻を待たれる。