第178話:西郷隆盛と庄内(1/2)



◆150年前の郷土史
今年は明治維新から150年ということで、NHK大河ドラマでは『西郷どん』が放送されています。その西郷隆盛と庄内藩が深い関係にあることは、以前「第83話:司馬遼太郎と庄内」で紹介しました。庄内藩は戊辰戦争で降伏した藩であるのに、西郷隆盛の温情により、奥羽越列藩同盟を組む会津藩と真逆の好待遇を受けています。なぜ庄内藩だけが西郷によって特別扱いされたのか。その謎を追って150年前の郷土の歴史を振り返ります。

◆庄内藩について
庄内藩のエリアは現在の市町村でいえば、北から遊佐町・酒田市・庄内町・三川町・鶴岡市になります。庄内藩の歴史をざっくり説明すると、関ケ原の戦い(1600年)を境に庄内の勢力図は豊臣側の上杉氏から徳川側の最上氏に替わり、そこから庄内藩はスタートしたことになります。鶴岡には本丸の鶴ケ岡城(現在の鶴岡公園)、酒田には亀ヶ崎城(現在の酒田東高等学校)を置き、松嶺には支藩の松山藩がありました。特に、この慶長年間から酒田湊は北前船の寄港地として栄えました。その後最上家はお家騒動で改易され、庄内藩主は信州松代から移封された酒井家に替わり、以後、戊辰戦争時の第14代藩主酒井忠宝(ただみち)まで続きます。

◆酒田の本間家
そして無視できない存在が、庄内藩の財政を陰で支えていた酒田の豪商本間家です。「本間様には及びもつかぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われたほど大きな財力を誇っていました。近年分かってきたことですが、戊辰戦争時の本間家はプロシャとの交易を通して、実は武器のブローカーの役割をも担っていたのです。かといって本間家が「死の商人」にみなされることはなかったのも事実です。むしろ庶民からは「本間様」と慕われ続け、酒田の経済や文化の面、さらには防砂林などの環境保全に至るまで、酒井家への財政的な支援を通じて数々の功績をあげています。酒田の歴史は本間家を抜きに語れないこと。故に西郷と庄内藩の関わりの中でも、後述しますが本間家は陰の実力者として重要な役割を担っていたのです。

◆戊辰戦争の戦後処理
戊辰戦争での庄内藩は、奥羽越列藩同盟(会津藩・長岡藩・米沢藩・仙台藩など)のなかで最後に降伏した藩でした。会津藩や長岡藩が悲惨な状況下で降伏していった中で、庄内藩は攻勢を示しながら、米沢藩家老・千坂太郎左衛門の説得もあり、ついに恭順の道を選んだのです。庄内藩はそもそも譜代親藩で朝敵の立場にあり、当然にして酒井家は新政府軍により厳しい処分が下ることを覚悟していたのです。ところが、西郷の指示を受けた黒田清隆により、温情をもって無血開城の処遇を受けるのです。

版籍奉還した藩主たちは、一旦お家断絶した後、地方に転封されるか、もしくは論功行賞により華族として東京へ移住のどちらかなのですが、酒井の殿様は庄内藩知事に、松嶺の殿様は松山藩知事に命じられ、なんと庄内に留まることを許されたのです。さらに酒井家の第13代と第14代の殿様は西郷の後援によりドイツに留学までしています。当時藩主がそのまま知事に留まるケースは薩摩藩と庄内藩しかなかったそうです。

こうした一連の待遇をみても、西郷隆盛が庄内藩に温情を以て寛大な処置をしたことがわかります。悲劇的な末路に至った会津藩のように、薩長に対する恨み辛みを語り継ぐという風土にはならなかった、むしろ官軍側の西郷隆盛を崇拝する気風を築いた庄内藩は極めて異例な藩といえるのです。

◆西郷隆盛崇拝の風土
西郷隆盛の人柄に惚れこんだ酒井の殿様と庄内藩士78名が鹿児島に留学して、西郷語録を庄内藩士が編纂し、それが今でも岩波文庫にもなっている『西郷南洲翁遺訓』であることは承知の通りです。庄内藩の受入れ側としての代表が、中老の菅実秀(すが・さねひで)翁。西郷と菅の関係が美談として語られ、現代においても酒田に西郷を祀った「南洲神社」(財団法人)を建立されたように、西郷隆盛を崇拝する風土が(特に戦前世代の中に)脈々と続いたといえます。

たとえば戦前であれば、『西郷南洲翁遺訓』をそれこそ教養の書として愛読された時代がありました。庄内出身者である石原莞爾(満州事変を主導した軍人)、大川周明(イスラム研究家。東京裁判で民間人として唯一A級戦犯)、阿部次郎(「三太郎の日記」の作者)たちは、みな『西郷南洲翁遺訓』を通して西郷隆盛から多大な影響を受けたと述べています。

◆戦後世代だからみえるもの
一方、わたしたち戦後生まれの庄内人は、西郷と庄内藩の歴史的な繋がりを等しく理解しているわけではありません。戦前の世代がもつような西郷に対する認識と思い入れはむしろ皆無に等しいでしょう。戦後教育を受けたわたしたちは、振り返れば中学でも高校でも(不思議なことですが)郷土の歴史をまとまった形で教わることもなく、さらには戦前、愛国主義者によって西郷が祀り上げられたことから、終戦後は西郷の評価が全否定されたという経緯もあり、結局、西郷に関わる郷土史については(教育の場では)全く学ぶ機会がなかったのです。

歴史には表の歴史と裏の歴史があり、裏の歴史にこそ真実が隠されているものです。例外なく戊辰戦争の戦後処理にも裏の歴史が存在していたことを後世伝えられています。ところが庄内にはそれを語ることをよしとしない空気が戦前からあり、現代においてもそのまま引き摺っている傾向があるようです。その「空気」とは、はっきり言えば西郷隆盛崇拝に偏り過ぎる庄内の風土そのものです。わたしは幕末史が好きなひとりの庄内人ですが、故郷を離れて故郷を俯瞰できる自由な立場にあるからこそ、今一度、西郷隆盛と庄内にみえるもう一つの風景を捉えてみたいと思います。(つづく)
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第177話:酒田のグリーンハウス(2/2)



◆「世界一の映画館」
グリーンハウスを知らない方は、たぶん東北の日本海に面した人口10万規模の小都市の、ありふれた場末の映画館を想像するかもしれません。ところが、そうではないのです。昭和30~40年代ごろ、映画評論家の淀川長治にグリーンハウスを「世界一の映画館」と高く評価されたほど、東京日比谷の映画館に全くひけをとらない、上質の映画を提供し、しかも一級の館内環境を誇る映画館だったのです。

そのグリーンハウスをプロデュースしたのが、経営者の子息であり支配人の佐藤久一(1930~1997)という人物。佐藤は映画の買い付けに直接ひとりで東京に出向き、試写会で直に選定するという徹底ぶりでした。ちなみに、試写会で映画評論家の荻昌弘や淀川長治と知遇を得たことから、淀川は酒田のグリーンハウスに数回来訪。それが縁で先の「世界一の映画館」発言に繋がっていったのです。
また、昭和35年(1960年)にアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』を上映したときは、東京・日比谷スカラ座のロードショウと同時公開を成し遂げています。当時の地方映画館としては、かなり画期的なことでした。

◆館内の魅力と先進性
グリーンハウスは元々ダンスホールを改築した建物で、さほど目を引くほどの外観ではなかったのですが、館内環境の充実ぶりとなると、今でも当時を知る酒田市民の語り草なっています。たとえば、入口の回転ドアを抜けると、エントランスホールの右手にオープン式の切符売り場。壁のショーケースにはブランド物のハンドバックとアクセサリーが展示。そこに居る白髪の案内係の男性は、グレーのダブルのジャケットに黒ズボン、蝶ネクタイに白手袋で正装し、まるで一流ホテルの接客並みに「いらっしゃいませ」と出迎えてくれます。
ロビーは、館内喫茶室「緑館茶房」からの珈琲のとてもいい香りが漂っています。500席ほどの場内は二階席が完全予約席、加えて一部家族用の個室も完備。ロビーの右隅の階段を登った先には、当時は珍しい名画座「シネサロン」と呼ぶ定員10名ほどの小規模映写室が併設されているほどの贅沢さでした。

特に酒田市民がグリーンハウスを語る上で欠かせないものが、開映を知らせるグレンミラー楽団による「ムーンライトセレナーデ」の音楽です。館内の休憩時間表示がカウントダウンすると同時に「ムーンライトセレナーデ」が流れだし、音量が次第に小さくなるのに合わせて、緑の緞帳(どんちょう)が静かに上がる。ダウンライトが曲のテンポに合わせて後方から順に消えて、ステージ右端の生け花と左端の白い女性像のスポットライトだけが残る。最後にそれも消えるとレースの幕がするするっと開き、スクリーン上に映画が映し出されます。この憎いばかりの一連の演出はすべて佐藤久一の考案によるものでした。

◆文化をプロデュース
江戸時代の酒田は北前船による交易が盛んで、「西の堺、東の酒田」と並び称されるほど、商都として繁栄を誇っていました。酒田の豪商や豪農は京都の文化を吸収することに貪欲で、都の文化人や職人を招くこともしばしばで、そうした交流の中で酒田の文化は磨かれたという歴史があります。佐藤久一は酒田の名家の生まれ。かつての豪商の血を引くように、金に糸目をつけず一流の文化を希求する感性を持ちながら、他に類のない映画館「グリーンハウス」をプロデュースしたといえます。

昭和34年(1959年)のこと。館内喫茶室「緑館茶房」を根城にした酒田の詩人たちが同人を結成し、詩誌『緑館』を創刊しています。佐藤久一は同人のよきパトロンでありよき理解者でした。その詩人のひとりが、名作『祝婚歌』で有名となった酒田出身の詩人・吉野弘(1926~2014)だったという逸話も残っています。

実は、佐藤久一は酒田大火の12年前、昭和39年(1964年)にグリーンハウスの支配人を辞めています。突然上京し荻昌弘の紹介で日生劇場に就職。そこで3年間勤務すると、また酒田に戻り次には「欅(けやき)」「ル・ポットフー」というフランス料理の一流レストランを手掛けます。グリーンハウスをプロデュースしたのは実質14年間。ひとつの事業が理想に近づくとそこには興味が薄れ、次の夢の実現にこともなげに展開していく姿勢はまさに天才といえます。

◆酒田人として
岡田芳郎の『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』が平成19年(2007年)に世に出るまで、天才ともいえる彼の偉業の数々を、実際のところ酒田市民の多くが知らなかったことでした。酒田大火の出火元という複雑な問題を抱えていたために多くを語れなかった事情もありましたが、酒田大火から42年にして、ようやく佐藤久一の名誉回復と再評価がなされた感があります。
さらには、グリーンハウスと共に青春時代を過ごした酒田市民が、ようやく想い出を語り始めたことにも感動します。
そしてなによりも嬉しいのが、ロビーに漂う珈琲の香りとムーンライトセレナーデの調べと共に、グリーンハウスの想い出がそれぞれの胸の中に生きていることが、酒田人としての誇りだということを改めて気付かされたことでした。(了)


※ねじめ正一著『風の棲む町』日本放送出版協会(1996年):酒田大火を舞台にした青春小説。2000年に文庫本化(新潮文庫)に伴い『青春ぐんぐん書店』に改題。
※岡田芳郎著『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』講談社(2007年):岡田芳郎は元電通社員。知られざる佐藤久一の偉業をはじめて紹介。
※映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』(2017年):プロデューサーが高橋卓也(山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局長)。監督は佐藤広一(天童出身)。同プロデュース作品で渡辺智史監督(鶴岡出身)『よみがえりのレシピ』(2011年)では佐藤広一は撮影を担当。

第176話:酒田のグリーンハウス(1/2)



◆映画館「グリーンハウス」
ふるさと酒田に、かつて「グリーンハウス」という映画館がありました。昭和24年(1949年)の開業から昭和51年(1976年)の酒田大火で焼失するまで、凡そ四半世紀にわたり酒田市民に親しまれた洋画専門の映画館です。酒田で生れた人なら、かつ現在60歳以上の方なら、青春に寄り添う映画館は?と問われれば、きっとグリーンハウスと答えることでしょう。

酒田大火から今年で42年。グリーンハウスを懐かしむ市民の証言を集めたドキュメンタリー映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』が、酒田で先行上映されたとの風の便りが届きました。2月に亡くなった大杉漣がナレーションを担当していることも話題になっているようです。ともあれ、わたしが高校時代によく利用した想い出の映画館だけに、映像に記録されることを永らく切望しておりました。「グリーンハウス」ファンとしては、ついにその日がやって来た!という感慨があります。
その風の便りに誘われて、グリーンハウスに纏わる想い出を語ってみます。

◆我が心の「グリーンハウス」
わたしの高校時代(昭和44~47年)は、ちょうどアメリカン・ニューシネマが全盛の頃でした。『卒業』『明日に向かって撃て』『イージーライダー』『小さな巨人』『いちご白書』など数えたらきりがないのですが、すべてグリーンハウスで観た記憶があります。アメリカではベトナム戦争が泥沼化のまま終結し、日本では学生運動や、日本赤軍などの過激派の活動が終焉を迎え、体制批判のヒーロ―を求めつつも、結局は体制に潰されてゆくという時代の閉塞感を、田舎の高校生には遠い世界のことながら、逐次映像の世界から感じ取っていた気がします。今思えば、精一杯背伸びをしていた自分がちょっと気恥ずかしく、それでいて懐かしいもの。そんな心象風景を辿ってゆけば、中町柳小路通りにあったグリーンハウスの外観が、アメリカン・ニューシネマのワンシーンのように今でもぼんやり蘇ってきます。

◆昭和51年(1976年)の酒田大火
酒田大火でグリーンハウスがなくなってしまった後は、実は複雑な事情を抱えることになります。酒田大火の出火元がグリーンハウスだったということです。昭和51年10月29日午後5時頃、グリーンハウスから出火(漏電が原因と言われています)。折しも風速26mの強風にあおられ、中町商店街から東の住宅地へ瞬く間に延焼し、翌朝の午前5時に新井田川にぶつかるところでやっと鎮火。市街地の1774棟を焼失。被災者3300名。戦後4番目と言われた大火でした。わたしの実家は幸い延焼を免れましたが、親戚や多くの同級生の家が全焼しています。当時22歳のわたしは大火から1週間後に帰省。焼け跡の傍に災害救助で出動した自衛隊のトラックが点在し、焦げ臭い匂いがまだたちこめるなか、焦土と化した街並みの向こうに鳥海山がみえた光景は今でも忘れることはできません。これだけの災害の傷跡は、結果としてグリーンハウスを表立って懐かしむことを拒んでしまったのです。

◆みんなの思い
酒田大火からしばらくして、東京で高校の同級生たちと酒席を囲んだときのこと。誰かが、ちょっといいかっこしーながら「グリーンハウスの焼失は青春の終焉を意味している」と口火を切ると、急に堰を切ったように座は盛り上がりました。大火の年の春に父を亡くしていたわたしは、そのときの「青春の終焉」という言葉には密かに胸がざわついたことを覚えています。さらには、役者を目指していたA君が呼応して、映画『アメリカングラフティー』とダブらせ「グリーンハウスを舞台にした俺らの青春映画を作りたい」とみんなの総意を代弁するかのように熱く語ってくれたものです。
グリーンハウスが火元だったということはショックなことでしたが、グリーンハウスにまつわる青春の想い出は誰もが大事に抱えているだけに、それを何か「形」に残したいという思いはみんな共有していたのです。

◆グリーンハウスが語られるまでの経緯
大火から20年経った平成8年(1996年)、ねじめ正一の『風の棲む町』が話題になりました。映画ではなく小説でしたが、酒田大火を背景にした青春小説というふれこみでした。ところが、中身を読んでみると、グリーンハウスは大火の当日『愛のコリーダ』を上映されていた-というくだりしかなく、『アメリカングラフティー』のような映画館を取り巻く青春物語ではなかったことに失望したものです。でもどだい東京生まれのねじめ氏に要求すること自体無理な話だ。欲を言えばやっぱり、酒田の人間に書いてほしかった―と思うしかなかったものです。

それが平成19年(2007年)になると、急に事態は一変します。一冊の本によってグリーンハウスを評価する動きに転換したのです。それが『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』という長い長いタイトルの本でした。グリーンハウスが名実ともに「世界一の映画館」であることを初めて世に問う内容でしたが、著者は元電通社員の岡田芳郎という方です。結果的には、岡田氏という酒田の人間でない方が書いてくれたお陰で、グリーンハウスが全国に知られることになっただけでなく、地元酒田においても、酒田大火の出火元故に語られることが憚られた、それまでの封印を解かれる契機になったのです。

冒頭で紹介したドキュメンタリー映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』は、この本の出版から10年という熟成の時を経て、ようやく酒田の人間が呪縛から解き離されたように、それぞれの想い出を語っていると十分想像できます。
では、なぜグリーンハウスが「世界一の映画館」だったのか、長くなりましたのでそれは次回に書き留めます。(つづく)

第171話:修験道との繋がりを求めて(3/3)



◆修験道の歴史
法螺貝を鳴らして山中を駆け巡る山伏による修験道の世界は、どのように成立してきたのでしょうか。詳しく紹介している成書は少ないようですが、五来重(仏教民俗学)や鈴木正崇(宗教民俗学)らの著書から紐解くと、その歴史的な流れは概略次のような文脈になります。

仏教が入る前には陰陽道なり道教なりの仙人といわれるような山中修行者が山を管理していたのが山伏の原型。平安初期には山岳仏教の真言宗や天台宗などの密教の影響を受け、平安後期には吉野や熊野で発展。鎌倉時代には役小角(えんのおづぬ)が開祖に祀り上げられ、室町時代後期には教義・思想・組織が整えられ教団化。江戸時代には京都の聖護院中心の「本山派(天台系)」と醍醐三宝院中心の「当山派(真言系)」に組織化された―という経緯です。

煎じ詰めれば、修験道は山への独自の意味づけを通して、神仙思想を中核とする道教の思想や技法、陰陽道の知識なども加えた古来の山の神霊信仰に、仏教(特に密教)を合わせた「権現信仰」とする神仏習合(仏教+修験+神道)として確立したこと。
そうした中で、修験(山伏)は、あくまでも仏教側(密教系の神宮寺)に身を置き、山中での実践行と、里に下りての民衆への救済を通して「仏と神を繋ぐ」存在だったといえます。

◆修験道の「身体知」
日本列島の70~80%は丘陵や山地からなっています。山はそれだけ日本の風土の根幹をなしているわけですが、さらに民俗学の世界では、山こそ日本の文化、芸術、宗教の源泉であるとみます。その一環として、重畳する山岳に囲まれる広大な領域に目を留め、その奥地に潜入して修験(山伏)の生態をつぶさに観察した記録を読むと、霊山への探索は日常の世界とは別個の、怪奇と魅力に富むフィールドワークであることが十分に伝わってきます。

山に入れば感覚は鋭敏になり、山から「ちから」をいただいて元気になれます。それを古くから体現していたのが修験(山伏)の世界です。自然を神や仏や菩薩そのもの、あるいは顕現とし、その中に分け入って一体となること、仏教で言えば「即身成仏」の境地を修験(山伏)は目指していたのです。大自然の「いのち」に触れ、共に「いのち」を共有する感覚や体験を通じて、身体に新たな「ちから」を宿す。その「ちから」を「験力(げんりき)」と呼びます。言いかえれば、大自然そのものと自己が二つで一つの世界になること、それが修験の極意といわれています。

修験の修行は山中での秘所への到達と秘儀の実践に重きを置き、その根幹をなすのが峰々を縦走して行場や拝所をめぐる「峰入り」と呼ばれる行です。自然の多次元的世界に没入する繊細な感性を持った修験(山伏)にとっては、文字の知識に頼るのではなく、実践と体験こそが重要であると考え、「峰入り」修行をできるだけ多く積み重ねること、所謂「身体知(体験知)」を重要とみなしていたのです。

東洋医学では、身体まるごとを、もう一つの「自然」とみなします。患者さんの身体という多次元的世界と対峙する治療家にとっても、感性を磨く上では「身体知」はもちろん大切なこと。かつて修験(山伏)であったわたしのご先祖さまと繋がったという意味合いを考えれば、そうした身体知の実践を積むことの大切さを教えられている気がするのです。



◆出羽三山の修験道
修験道の世界を体感したくて、8月下旬に「山の行」へと旅に出ました。今や鳥海修験は消滅しているなか、現存する出羽三山の修験道を訪ねてみたのです。

ここでひとつ説明をはさむと、明治の神仏分離以降は、出羽三山の修験道が神道系と仏教系の二つに分かれています。仏像が壊され寺社が神社に鞍替えするという徹底的な神道化の流れの中で、新たに出羽三山神社が中核となったわけです。一方仏教系の修験とは、旧来からの羽黒修験の神宮寺であった正善院が、わずかに命脈を保ち、修験道儀礼を維持して現代を生き抜いてきたといえます。

神道系修験道(羽黒派古修験道) ⇒ 出羽三山神社
仏教系修験道(羽黒山修験本宗) ⇒ 正善院/荒沢寺


地元の人々でさえも、今や神道系と仏教系の区別をはっきり認識できる人は数少ないと思います。神仏分離からすでに150年経った現在、後戻りはできないほどの歳月を重ねています。神道系と仏教系が共存しながら、羽黒の修験道をさらに積極的に文化遺産として活用していく時代を共に模索していくことの方がむしろ現実的なのかもしれません。

◆修験道の体験
本年8月下旬、出羽三山神社主催の「錬成修行道場」(2泊3日)に参加してきました。参加者は全国から集まった約40名、そのおよそ2/3は経験者で、わたしのような還暦過ぎの初心者はむしろ無謀と思われていたのかもしれません。

行中は小雨が降る中、白装束(行衣と袴と脚絆)を身に纏い、片手には金剛杖を頼りに、とにかく転ばぬように足元だけに意識を集中して歩きます。全体の行程は羽黒山の参道、月山8合目から月山山頂、そして月山山頂から湯殿山への下りです。特にこの湯殿山への下りは、途中鉄梯子を後ろ向きで降りるという難所もあり、踏破してみればふくらはぎがパンパンに張り、膝はガクガク笑うほどでした。

湯殿山では滝行を経験。秘所と言うべき滝までの道程は、すべらないように足袋に草鞋(わらじ)を履いての沢登り。滝に着くと裸足に草鞋、褌(ふんどし)と鉢巻だけの裸になり、道彦さん指導の下、神道の禊の儀式に則りひとりひとりが滝に入ります。頸と肩に叩きつける水圧は、まるで地球の重力を一身に受けとめるかの勢いです。それが1分たらずの時間とはいえ、なぜか身体がほかほか高揚してくる、当に「ちから」をいただいて、すっかり禊をした気分になりました。

2泊3日の「山の行」を通じて、かつて人里離れたこの地でひたすら大自然と対峙して修行を積んでいた修験のいた時代を想像もし、わずかながらも修験の世界を追体験ができました。
月山から湯殿山の山路をひたすら無心に歩いた末のこと。ふと見渡すと峰々の稜線に囲まれたその大自然の狭間にぽつんと置かれた自分がいました。それは、自分の「いのち」が自然の「いのち」に生かされている、と気づかされた瞬間でもありました。(了)

※五来重『山の宗教・修験道案内』角川文庫(平成20年)
※鈴木正崇『山岳信仰』中央公論新書(2015年)

第170話:修験道との繋がりを求めて(2/3)



◆庄内地方の山岳信仰
庄内地方は東西に流れる最上川を境に、以南を田川郡、以北を飽海(あくみ)郡と呼んでいました。田川では霊峰・月山が聳え、それに羽黒山・湯殿山を加えて出羽三山と呼びます。そして飽海では山形・秋田の県境に跨る出羽富士・鳥海山の雄姿が見えます。
出羽三山と鳥海山は共に古くから山岳信仰で栄えた霊山。特に月山と鳥海山は子午軸(南北)に対峙することから、それぞれを「陰の山」「陽の山」の関係とみなし、密教を取込んだ修験道の世界からは、「胎蔵界」「金剛界」の曼荼羅を形成しているとみます。

出羽三山と鳥海山に行者や修験(山伏)が登拝し修行の山として定着したのは中世の頃。それが近世になると、麓の人々の暮らしに水を提供する水分(みくまり)の山として五穀豊穣を願い、あるいは健康祈願や病気直しなど暮らしの安泰を祈るという庶民の信仰と祈願の山となっていきます。庶民の間で「お山参り」と呼ばれる信仰登拝は江戸時代には盛んに行われていました。各地域で「講」が組織され、男性は15歳になると村を代表して白装束に身に纏い、行者や山伏に先導されて鳥海山と出羽三山を続けて登拝するという風習もありました。

春に田植の季節となれば山の神が降りて田の神になり、秋の収穫が終われば田の神はふたたび山に帰るとされ、田の神との交替を繰り返す山の神は農神とみなしていました。
さらに、山の信仰は人々の死生観にまで及びます。山の自然の移り変わりに、人の死と再生の循環を重ね合わせ、先祖の霊が三十三回忌を超えると神霊は清まって山の神になるとする他界観がありました。

◆鳥海山の神社と修験
こうした山岳信仰の中核となったのが、鳥海山では「大物忌神社」と「鳥海修験」でした。
鳥海山の山頂に建てられた「大物忌神社」には祭神「大物忌神」が祀られ、麓の山形側・秋田側のそれぞれの登拝口にも「大物忌神社」が置かれています。
山岳信仰と修験道の世界は、現在では消滅した世界ですが、改めてその過去の姿を振り返り、現在の姿へと変貌した経緯を書き留めてみます。

明治に入るまでの、吹浦にある「大物忌神社」では、神社と寺そして修験道が統合して、鳥海山の山岳信仰の中核をなしていたわけです。たとえば、神社の境内には神宮寺(真言宗か天台宗)があります。半僧半俗の山伏(修験の徒)は、その神宮寺に衆徒(しゅと)として所属して、周辺に居を構え山伏の集落を形成していました。
大物忌神社には本地垂迹説に基づく権現が祀られ、神宮寺には本地の仏像が安置。神社では真言密教の曼荼羅(胎蔵界と金剛界)を反映する意味から、鳥海山と月山の両権現が祀られ、大物忌神社は「大物忌月山両所宮」と言われていました。それと境内にある神宮寺(梵宮山光勝寺)には、両権現の本地である薬師如来と阿弥陀如来が共に祀られていたのです。

大物忌神社(大物忌月山両所宮)⇒ 鳥海山権現+ 月山権現
神宮寺(梵宮山光勝寺)    ⇒ 薬師如来 + 阿弥陀如来
山伏(修験の徒)は神宮寺に所属


神仏全体を取りまとめるのが「別当(べっとう)」と呼ばれる役職。別当の多くは僧侶が担うため、神社よりむしろ神宮寺のほうが権力を握っていました。それが江戸の後半になると神社と神宮寺との権力争いが次第に増して、神社と寺はある種の緊張関係にあったそうです。いずれにせよ、そうした環境下で、山伏(修験)たちは神宮寺側(密教系の仏教)に所属していたのです。

現在の大物忌神社は完全に神道に鞍替えしています。明治初年に政府が国家神道を中核に据え「神仏混淆禁止の令」を断行して、仏教色を徹底的に排除する所謂「廃仏毀釈」を押し進めた結果、神仏習合の装いは全くなくなっています。僧侶と修験を追放したことで、それまでの神社と神宮寺との権力争いは終結を迎えます。
具体的には、御神体は大物忌神と月山大神に代わり、境内の神宮寺は壊され、安置されていた薬師如来と阿弥陀如来は他の寺社に移設されたと聞きます。そして明治5年に下された「修験道廃止の令」を境に山伏(修験)は終焉を迎えるのですが、吹浦衆徒はそれに先駆け、明治2年には全戸が神道に転換し、明治3年には正式に神職となったそうです。

大物忌神社 ⇒ 大物忌神 + 月山大神
神宮寺(梵宮山光勝寺)は破壊
山伏(修験の徒)は廃止


鳥海山を信仰の対象とする「登拝」は、明治以降、民間信仰としての「お山参り」が引き継ぐのですが、それも徐々に衰退して、今ではスポーツや観光または健康や癒しを目的とする「登山」に変わりました。山伏(修験)の姿は消え、修験の集落は普通の村落になり、かつて山岳信仰で栄えた面影は、今は神社が受け継いだ伝統芸能に少し残っているのかもしれません。
次回は修験道の歴史と修験の体験を綴ります。(つづく)

※投稿論文『山岳信仰の展開と変容:鳥海山の歴史民俗的考察』
鈴木正崇(慶応大学文学部教授)
三田哲學會刊『哲學』第128集p447~514(2012年)