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第159話:中沢新一の流動的知性としての「無意識」



◆北海道の少年
「おしおき」とばかりに山に置き去りにされた北海道の少年が、6日後に無事発見されたと報じられたニュースは記憶に新しいと思います。とかく暗いニュースが多い昨今だけに、救出の知らせは当に日本中がほっとした瞬間でした。そこで誰もが驚いたのは、日が沈む前に自衛隊施設にたどり着いたことと、8歳の子どもでありながら、救出されるまでひとりで5泊もの間をじっとそこに留まっていたことです。

それはいくつもの偶然が重なったとニュースでは解説していましたが、どうみても少年は「特別な能力をもった子ども」としか思えないのです。「特別な能力」というのは、たとえば自然と同化できる能力ということ。北海道であればキタキツネや熊と会話ができるとか、闇夜の中でも話し相手を見つけられる能力のことです。そうした見方が正しいとするならば、たぶん少年はある意味で父親を越えた存在であり、逆に父親にとって息子は手に負えない存在だったのかもしれません。

突拍子もないことをいうようですが、実はそんなことを思いたったのは、わたしたちの直接の先祖である現生人類(ホモサピエンス)の時代に遡る時に、動物が人間と対等の関係で成立していたであろうことを想像できるからです。きっと北海道の少年にはそうしたDNAの片鱗がしっかりと生きていると思えるのです。

◆「神話的思考」の本質は「無意識」
そこで脳裏に浮かぶのは、中沢新一(1950~)が著書『対称性人類学』に綴られた―「人間と熊はかつて兄弟だった」と語る神話を語るだけで、胸の奥から不思議な感動までこみあげてきます。―という一節です。
たしかに、宮澤賢治の『なめとこ山の熊』を読んだときに受けた感動もこれと同質の体験だったのかもしれません。ではなぜ人は神話を語るだけで感動するのでしょうか。

その昔、まだ人間が動物や植物と分離していなかった時代には、神話的な時間と空間があって、そこから「哲学」ともいうべき「神話的思考」が生まれました。中沢は、レヴィ=ストロース(1908~2009)の「神話は無意識のおこなう思考である」を紹介しながら、この「神話的思考」の本質には流動的知性ともいうべき「無意識」が存在すると解説します。つまり神話は「無意識」系の活動の所産であり、その語りに読み手が感動するのは「無意識」系の思考が揺り動かされるというわけです。ですから北海道の少年にも、現代の神話ともいうべき同様のにおいを感じてしまうのかもしれません。

◆フロイトとの違い
「無意識」といえば、20世紀の初頭にフロイトが「意識」と区別して「無意識」の存在をはじめて明らかにしました。そこで「無意識」を「心」の中の抑圧された部分として理解しようとしました。西欧の近代社会では「無意識」のはたらきは人格や社会の表面に現れてこないように仕組まれています。

しかし、中沢は「無意識」がつねに抑圧と結びつけて考えられることに(ユングと同じように)異を唱えます。そもそも「無意識」系の活動は言語を生じ、いくつもの意味領域を重ね合わす「比喩」や「象徴」の表現も、そこから発生してきます。したがって、詩をつくり、宗教を持ち、芸術を創造し、科学的発見をおこなうわたしたちの「心」は、実は脳における流動的知性(=無意識)のはたらきを通して形成されてきたのだと考え、「無意識」こそが「心」の基体を為すとまで言い切ります。そのことは、3~4万年前に登場したわたしたちの祖先である現生人類(ホモサピエンス)の大脳組織におこった革命的な変化によって生み出されたと主張しています。

◆東洋思想との共通性
そもそも「無意識」を流動的知性として捉えているのは、ダイナミズムとしての流動的な思考回路を呈していることによります。
そのひとつは、たとえば人間と動物が兄弟や親子関係の対等もしくは同質とする、いわゆる本来異種の関係を対称的関係に捉える「二項操作」にあります。これが発展した姿を俯瞰してみれば「部分と全体」論になり、仏教の華厳経が唱える「一即多、多即一(部分は全体であり、全体は部分である)」の共通した世界観にもなるわけです。
もうひとつは、「無意識」における時間論ですが、「無意識」領野では過去・現在・未来の区別がつかない世界であることです。「神話」が現代にまで普遍的に通ずるのは流動的な時間論が根底にあるからであり、量的時間(テクノス)よりも質的時間(カイロス)に重きをおく「易の時間論」(または「ベルクソンの時間論」)にも共通しています。

わたしが「無意識」についての興味がやまないのは、こうした東洋思想との共通性です。さらに、気の存在やユングや身体論の研究で著名な湯浅泰雄(1925~2005)によれば「経絡は無意識下の回路である」とする言葉を遺しています。
ですから、日々の鍼灸治療を通して「経絡と無意識の関係」を観察してゆくことが、わたしに課せられたひとつのテーマであると思っているのです。(了)

※中沢新一『対称性人類学(カイエ・ソバージュⅤ)』講談社(2004年刊)
異種同志を同質の対称的関係に捉える思考法(二項操作)を「対称性の論理」と呼び、無意識の根幹を為すとし、逆に「意識」の根幹は「非対称性の論理」と呼んでいる。
※宮澤賢治『なめとこ山の熊』
古くは「マタギ」と呼ばれた猟師の小十郎と熊の交流を描いた作品。人間の社会と動物の社会の対称的な関係を語っている。
※湯浅泰雄『身体論(東洋的心身論と現代)』講談社学術文庫(1990年)
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第158話:壮年はユングに学ぶ



◆肩こりの影に
鍼灸院には「うつ病」を直接の主訴として来院されることはないのですが、それに伴う身体症状、たとえば肩こりや背中のだるさを訴えて来院されることはあります。肩こりなどの影に実は心の悩みが隠れているケースです。その多くが壮年期の患者さんで、いわゆる「中年の危機」に該当します。

心の悩みを抱えていたとしてもすべてを話すとはかぎりません。終始身体症状のことしか話さない患者さんも当然います。それでも、治療家が心の在りようを察しながら会話ができれば、様々な状況下に置かれた姿が見えてくるものです。

ある60代の女性は、子供が無事結婚したことで夫婦ふたりの生活に。ところが、ある日急に虚無感に襲われ家事一切のことが手につかなくなります。あれほど精力的に動いていたことがまるで嘘のようです。趣味に精を出す気力もなく、外出するのも気が重く、頸肩までもどんより重く、今は何をやっても面白くないと言います。

また、ある定年間際の男性は、役職からはずれ部下のいない閑職に。そんな矢先に転勤の辞令が下り、慣れない土地で単身赴任を強いられます。まるで辞めろといわんばかりの扱いにもめげずしばらくは仕事を続けていました。ところが、しだいに睡眠障害に悩まされると、ついには出勤しようにも身体が重く会社に向かうことができなくなってしまいました。

これらは総じて壮年期の神経症といえるもので、心療内科にかかれば「空の巣症候群」とか「うつ病」と診断されます。

◆「中年の危機」とは
「中年の危機」と呼ばれる状況は、それまでの社会的適応態度が突然に役に立たなくなる瞬間を迎えること、あるいはこれまで築いてきた価値観までもが否定されることです。普段は家庭や社会によく適応し成功を収めているとみられていた人でさえ、こうした局面を前にすると、突然、人生の意味や目標を見損なうような精神状態におちいり、ついには「うつ病」などの神経症になってしまうのです。「うつ病」とまでいかないケースも含めれば、大なり小なり誰にでもこうした「中年の危機」は訪れると言われています。

◆ユング心理学の見方
「中年の危機」の正体を解明したのが、心理学者のカール・グスタフ・ユング(1875~1961)と言われます。ユングは、青年期と壮年期における神経症の違いを例にして、次のように分析してみせます。

青年期であれば、人生の意味を外の世界たとえば職業や仕事の中に見出します。心のエネルギーを外の世界(対人関係)に注いで、一生懸命社会と適応しようとします。それが十分に遂行できないときには神経症的不安が生まれるのです。

一方、壮年期になると、それまでの社会的適応態度が突然役に立たなくなる瞬間が訪れます。青年期と同じように心のエネルギーを外の世界に注いでも全く用をなしません。むしろ心のエネルギーを内なる世界に注ぐべき状況と言えるのです。青年期の心の癖として外に対して適応することのみ努力していると、内からの要求に直面したとき、心はなすすべを失い神経症的不安が生まれるのです。言いかえれば、これは内向性の欠如といえる状況です。

ユングは壮年期の神経症を心的エネルギーの「逆流」によるものと分析します。青年期には外界に向かって流れていた心的エネルギーが、年と共に次第に方向を変えて内なる世界へ向かって流れ始めるからです。たえず変化する社会や外の世界の問題よりも、永遠に変わらない人間性の内面的問題に関心が向かってきます。多くの人々はこのことを自覚していないために、「中年の危機」を迎えると、あたふたとしてしまうのです。
よって「人生の午後」においては、人生の意味を自己自身の内に見出すように心がけなくてはならないとユングは提言しています。

◆治療家ができること
壮年期の神経症の方に鍼灸治療を施して、身体症状がある程度改善したとしても、気分は何も変わらないことの方が多いものです。そこには患者さん自身の「気付き」がなければ、なかなか病状の改善が望めないといえます。
「気付き」とは何かといえば、病に至った要因となる「心」の癖について気付くこと、そして病そのものの意味について気付くことです。

ある患者さんには、1日15分の「プチ瞑想」を提案してみると、ずいぶん気持ちがおちついてきたと言われたことがあります。「プチ瞑想」によって意識を静かに内側に向けることで、ユングが説いている「意識と無意識を同化する」一定の効果があったようです。
また「これからは自分ひとりのための人生にエネルギーをもっと使いましょう」と言葉かけも大切な助言になります。
治療家は鍼灸治療を通して、ユングの提言を患者さんと共有しながら寄り添える存在であればよいと思っております。(了)

第157話:ユングの「無意識」について



◆夢遊病の子ども時代
わたしは幼少期から小学校2年生頃までの間、しばしば夜中に家中を駆けまわる夢遊病の子どもでした。突然起きだすと2階の部屋から階段をダダダッと駆け降りては1階の部屋を走り回り、ついに意識が戻ると泣き出してしまうという一連の行動を繰り返していました。夜な夜な起こす夢遊病のことを、口外できない恥ずかしい行為と密かに思っていました。ただ救いだったのは、両親は心配するでもなく「疳の虫だろう」くらいに思っていてくれたことです。

わたしの夢遊病をユング心理学で分析するとこうなります。人間の幼少期は「無意識」が支配的な状態とみなし、成長と共に次第に拓けてきた「意識」との葛藤を生じ、それが夢遊病に現れたとみます。もしくは幼少期の潤沢な「無意識」の力が常に表面にまで活発にあらわれた身体表現と解釈もできます。となると、わたしは夜な夜な「無意識」の下で自由気ままに遊んでいたと解釈もできます。こうしたユングの「無意識」に対する評価には、ユングを知る大人になってからとはいえ随分と救われた気がしたものです。

◆ユングの魅力
混沌とした未分化な「無意識」の世界で満たされているのは、実は子どもや未開人と言われています。90年代にユング心理学のブームの牽引役であった河合隼雄(1928~2007)が、幼児教育にはファンタジーや神話を読むことの大切さを語っていたのは、幼児は「意識」の機能はまだ未発達なかわりに「無意識」領域における本源的な力が潤沢であるとするユングの思想がそこに反映されていたからです。
ユングの偉大な功績をあげるとすれば、「無意識」という闇の世界に光明を当てたことです。「無意識」を時には天才の直感のような創造的な作用を含むと説いたのもユングが初めてのことでしょう。
今回はそうしたユング心理学の魅力のひとつである「無意識」の世界を紹介してみます。

◆フロイトとユングの違い
ジークムント・フロイト(1856~1939)は『夢判断』によって初めて「無意識」に至る扉を開いたと言われます。フロイトによれば、「無意識」とは抑圧された願望や欲求が蓄積された「場」とし、そこに見出されるのは社会的に承認され得ない恥ずべき欲求や闇なるものが蓄積されるというわけです。ややステレオタイプに分類すれば、合理的な知性に代表される「意識」は正常で健康的なものであり、不合理な情動に代表される「無意識」は異常で病的なものとフロイトは考えていました。

一方カール・グスタフ・ユング(1875~1961)は、「無意識」の本質は抑圧された願望とか本来「異常」であるという見方はとりません。たとえば幼児期の記憶がはっきりしないのは、幼児期の心はそもそも「無意識」の世界で支えられていること。しかも成長とともに「意識」が根底(つまり「無意識」)から生い立ってくると説きます。
ここで大事なことは「無意識」が本源的であるのに対して「意識」が「第2番目」のものということです。たとえば、一見コントロールが効かない未分化の状態にある「無意識」の力が「意識」面に露呈して「異常」をきたしたとしても、病理の根本はむしろ「無意識」に向き合えない「意識」の方にあると考えるのです。ここにフロイトの見方との決定的な差があります。

◆心身症や精神病への展開
ユングによれば、心身症や精神病のときは「無意識」領域の力がコントロール不可能な形で「意識」面にあふれ出しているとみます。言いかえれば患者の魂の底に意識の日常的理解をこえた何事かが起こっているということです。
先に説明した通り、「無意識」に向き合えない「意識」の状態が病理を招くということでした。ならば、内面で何事かが起こっている「無意識」からのメッセージを外面の「意識」で汲み取らなければいけないということです。つまり患者さんが感じている苦悩は、彼の心を外界から内面へと向きかえてゆく必要性や目的性を示しているというわけです。

分かりやすく言えば、これは「病の意味論」に通じる事柄であると理解できます。
改善が難しい心因性の病から快方を望むならば、その原因は彼の外側にはなくて必ず彼の内側にあることを示しています。「無意識」からのメッセージという「症状」に隠された本当の意味を「意識」が真摯に汲み取ることで快方への道が明らかになるのです。

◆東洋思想との類似性
人間の心は「意識」と「無意識」の両者が合して一つの全体を成しているものです。もっとも大切なことは「意識」が「無意識」の内容を同化すること、すなわち「意識」の内容と「無意識」の内容が相互に貫流し、結びつけられるということです。
その同化のプロセスとは、「無意識」からあふれてくるみえない力の奥底を探って、魂の内面的本性を追求してゆくことです。

このプロセスには必ず宗教的性質を帯びた体験の領域が展開してくるであろう、とユングは説いています。これは瞑想修行を主体とする東洋の宗教、たとえば仏教や道教に通じることです。また「無意識」にこそ「本質」が存在するとする思想は、仏教のみならず神秘主義にも通じているところです。実際のところ、ユングは道教による神秘的な内的体験の世界を経験し、東洋思想や神秘主義にも造詣が深い人物でした。
一方では、近代科学至上主義の人たちから、ユング心理学は科学とはほど遠い思弁的神秘主義にすぎないと批判されたそうです。

しかし、心の内面世界という見えないものに対するユングの眼差しには、深層心理学の領域を軽く超えて、普く哲学や宗教にまでおよぶ深遠な洞察力を感じてしまいます。(その点ではシュタイナーにも似ています。)
鍼灸治療において患者さんの身体の声を訊くということが、ときには患者さんの「無意識」領域を伺うというアプローチにもなります。そうした意味でも、ユング心理学はとても参考になる世界観だと思っています。(了)


※湯浅泰雄著『ユングとキリスト』講談社学術文庫(96年)
ユングを理解するには、キリスト教とグノーシス主義について理解を深めることが必須。
そのガイダンスとしての「序論 ユング心理学と宗教経験の世界」の章を参照。

第126話:ベルクソンの「知覚」と「時間論」



◆「現在」のみに生きる生物
ウニやナマコまたはホヤの類は、視ること(視覚)や聴くこと(聴覚)が未発達の原始的生物といえます。かれらにとっての唯一の知覚は触ること(触覚)であり、触覚によって現在の空間的刺激に反応するだけ。それは「今!」「今!」という一瞬における空間的刺激に反応し、まさに「現在」のみに生きているわけで、かれらは「過去」を振り返り「未来」を夢見ることなど微塵の可能性もないということです。仏教でいう最少の時間単位を「刹那(せつな)」といいますが、かれらは触覚だけを頼りに当に「刹那!」「刹那!」を健気に生きている生物といえるかもしれません。

◆純粋知覚について
このように、知覚が直接的には「現在」にのみ反応していることを、アンリ・ベルクソン(1859~1941)は「純粋知覚」と呼んでいます。(この場合の「純粋」とは哲学的な独特な言い回しですが、心の問題を排除して身体の存在だけで考えてみると、という意味。)
哲学者のベルクソンが言わんとするのは、「心身論(身体論)」の問題に関わることですが、人体の感覚器官は、それ自体としてみれば「現在」しか知ることができない性質であること。それぞれの器官が外界からの物理刺激(光・音。匂いなど)を受信することは、身体周囲の空間的事物を「現在」という状態で知ること。言いかえれば、身体の器官は「過去」や「未来」を認識することはできない。つまり「時間」を知るようにはできていない―とベルクソンはいっているのです。

◆持続と時間論について
ところが、われわれ人間がウニやナマコまたはホヤの類と大きく違うのは、「過去」や「未来」を認識する動物であるということ。このことは、人間が「過去」や「未来」という「時間」を知るには「心」のはたらきが介在している、ということを示しているのです。過去は記憶の中から回想され、心において再現される。未来は心において予想され想像される―したがって、人間の時間認識について原理的に考えるには、「心身論」についてとりあげる必要があるということになります。

そこでベルクソンは、われわれ人間の知覚を「心身論」から捉え直し、独特の「時間論」を展開し、そこに「持続」という概念を提示したのです。それは、われわれの現実の知覚は、いわば「時間の厚み」、あるいは「時間の幅」を含んだ知覚である―それを「持続」と呼びます。人間の空間知覚には、必ず時間の「持続」が浸透しているということです。

では、「持続」が浸透した知覚、すなわち時間的動きのある知覚とは一体どんな知覚なのでしょうか。それは「記憶心象(イマージュ)」が浸透した知覚です。たとえば、「あそこに電車が走っている」という現在の知覚象(視覚)は、電車が一瞬の過去において占めていた空間的位置のイマージュをなお記憶に保持している知覚であるのです。

このことは、われわれ人間の知覚に「心」の関与を認めてみれば、現在の中に過去と未来が織り込まれて流れているような、当に「心の時間」「生きている時間」を知覚できるということです。これがベルクソン独特の時間論です。
ちなみに、二階堂和美による映画『かぐや姫の物語』のエンディング・ソング『いのちの記憶』で「いまのすべては 過去のすべて/いまのすべては 未来の希望」と唄っていたのは、当にベルクソン的世界といえます。

一方物理学者のアインシュタインは、時間は科学にとってみかけの現象にすぎないと考え、過去・現在・未来に区別されるような時間は科学にとって意味のないものであって、時間とは一種の幻想にすぎないと述べています。
それに対して哲学者のベルクソンは、「現在」には科学の外に出た何かがある―いうまでもなく、それは心の問題との関係を主張したのです。ベルクソンのいう「持続」-生きている時間―はそういう過去・現在・未来が織りこまれた「時」をいうのです。

◆ベルクソンの魅力
神学者のポール・ティリッヒによって知られるようになった、古代ギリシャの時間における2つの分類があります。それは「クロノス(量的時間)」と「カイロス(質的時間)」です。ベルクソンの「持続」は明らかに後者の「カイロス」のことで質的に浸透する時間です。さらに、それは東洋思想である「易の時間論」に通ずることが、大いに興味を引くところです。
ベルクソンは、デカルト以来の心身二元的思考様式を克服する道を開き、身体と心の相関性に新しい光を投じた人物であると言えます。心の所在は脳ではなく深層意識と呼ばれる領域にあり、脳とは無関係にどこかに(というのも妙な言い方ですが)存在すると主張しています。また1927年にはノーベル文学賞を受賞した哲学者であり、意外なところではSPR(英国神霊研究協会)に所属して、魂の存在についての言及もあります。いずれにせよ、ベルクソンが説く心身論は、東洋思想に架け橋を築いたという意味では、大いに注目すべき思想であると捉えています。

※湯浅泰雄『共時性の宇宙観』人文書院(95年)
※湯浅泰雄『身体論』講談社学術文庫(90年)
ベルクソンの哲学は難しいが、身体論から論究した湯浅泰雄の解説はわかりやすい。
※新潮CD『小林秀雄講演第2巻―信ずることと考えること』
ベルクソンといえば小林秀雄。昭和36年に収録した学生向けの講演記録。
ユリゲラーの念力からベルクソンへと展開する話術は必聴。爆問の太田光はこのCD集をよく聴いているらしい。わたしもたまに区立図書館で借りて聴いている。


第116話:無意識と自然治癒力の関係(2/2)



◆「熱平衡」と「エントロピー増大」
たとえば熱という現象を考えた場合、カップに入れたコーヒーは時間がたてば冷めて室温と同じになります。これは熱エネルギーが拡散して均一化し、化学変化がなにも起こらない「熱平衡」という安定した状態になったこと。こうして時間的には不可逆で均一化に向かわせるものを「エントロピー」と呼び、偏りのない方向への変化を「エントロピーが増大する」と表現します。これが熱力学第2法則である「エントロピー増大の法則」です。

エントロピーの増大は、あらゆる自然界の現象にも応用されます。「宇宙」も膨大な時間がたてばやがて均一の状態になり、何も動かない「死滅」したものになるということになります。また「人体」においては、排泄機能が低下するとエネルギーの排出が抑えられて「エントロピー増大」に繋がり、老化が進むという解釈もできます。

◆「安定した非平衡状態」と「散逸構造論」
「熱平衡」は理論的には役立つのですが、実際に身の回りに存在する物理現象では、ほとんどが温度差・気圧差・電位差などを呈した「非平衡」状態の方が圧倒的に多いといえます。ノーベル化学賞のイリヤ・プリコジン(1917~2003)は、この「非平衡系」の問題に着目します。プリコジンは自然の中の「非平衡系」には、時として「安定した状態」が見出されることを説き、それを理論化したのです。それを「散逸構造論」といいます。「散逸」とは、系の外部からとり入れたエネルギー量を低いレベルの廃棄物として排出するメカニズムのことで、それによって全体の系は安定状態を保つことができる-というのです。

要は、温度差・気圧差・電位差というようなすべての物理現象は、永い時間(物理的時間)の流れのなかでエントロピーが増大しながら均一化に向かっています。ところが、ある部分に注目すると、固有の時間(生命の時間)の流れのなかで、エントロピー増大に抵抗する「自発的で自己組織的」なメカニズムが作動し、システム全体を「安定した状態」に形成する-ということをプリコジンは立証したのです。
地球環境を例にとれば、地球の大気は太陽光によって加熱された地面により下部から温められ、上部では宇宙へと熱を放散しています。これにより大気に「熱対流」という「自発的で自己組織的」なメカニズムが発生します。それが地球環境というシステム全体を安定的に維持できるようにはたらいているのです。

◆生命体のなかの「散逸構造論」
非平衡系のなかでエントロピー増大に抵抗する「自発的で自己組織的」なメカニズムが作動するメカニズムといえば、安定した非平衡系である「生命体の内部」にも当然応用できるということ。つまり生体が「老化」や「死」に向かうことでのエントロピー増大に対して、「自然治癒力」というメカニズムが抵抗して、生体の秩序(コスモス)を形作るということです。こうして生体の「自然治癒力」のメカニズムは、プリコジンの「散逸構造論」を背景として説明できるのです。

◆「自然治癒力」が「無意識」にある理由
では、生体の「自然治癒力」が「無意識」とどう結びつくのかという問題です。それはプリコジンが中国の時間観に注目し、二つの異なる時間観で分析したことで説明できます。
先に説明したように、エントロピーが増大する過程は「物理的時間」であることに対して、
エントロピー増大に抵抗するメカニズムが作動する過程は「生命の時間」でした。

エントロピー増大のプロセス      ⇒ 「物理的時間」(クロノスの時)
エントロピー増大に抵抗するメカニズム ⇒ 「生命の時間」(カイロスの時)

中国思想の代表的経典である『易経』では、「時間」の中に生命の「成熟」の力が潜在していると考え、これを「質的時間」である「カイロス」、事物の変化をもたらすという意味で「生命の時間」として位置付けています。そうした意味では、カイロスはいわゆる「易の時間」といえるものです。
「易の占い」は、「卦」という象(かたど)られた形(シンボル)から、「無意識」からの直観によって未来(または過去)における空間的事物の状態を知ることです。つまり生体の深層部にある「無意識」こそが「カイロスの時」が流れる特別な領域といえます。

プリコジンがこの「カイロス」に注目したのは、不可逆的時間での「エントロピー増大」に抵抗できるのは、可逆的にはたらく「生命の時間(カイロスの時)」なのです。
だからこそ、「エントロピー増大に抵抗するメカニズム」である「自然治癒力」は、「無意識」によってはたらいていることを、プリコジンは示唆していると考えます。(完)


※「クロノス」と「カイロス」:
ギリシャ語によれば、時間には「クロノス」と「カイロス」の2つに分類。まず「クロノス」は通常の「順番に流れていく時間」のことで、数量化される「物理的時間」。それに対して「カイロス」は英語ではタイミング(時機)と訳されることが多い時間概念。たとえば生涯のパートナーと出会った日とか、就職試験に合格した日とか。これは過去の記憶とか、未来の予想に関わるので「質的時間」と呼び、また「こころ」で感得する時間なので「生命の時間」と呼ばれる。
※湯浅泰雄『共時性の宇宙観』人文書院(95年)
※プリコジン『確実性の終焉』安孫子誠也/谷口佳津宏訳・みすず書房(97年)
正直内容が難しくてぼんやりとしか理解できない。時間の不可逆性を「時間の矢」と表現。時間論についてアインシュタインやベルグソンとの比較は興味あるが、解説書がほしいところ。
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