◆夢遊病の子ども時代わたしは幼少期から小学校2年生頃までの間、しばしば夜中に家中を駆けまわる夢遊病の子どもでした。突然起きだすと2階の部屋から階段をダダダッと駆け降りては1階の部屋を走り回り、ついに意識が戻ると泣き出してしまうという一連の行動を繰り返していました。夜な夜な起こす夢遊病のことを、口外できない恥ずかしい行為と密かに思っていました。ただ救いだったのは、両親は心配するでもなく「疳の虫だろう」くらいに思っていてくれたことです。
わたしの夢遊病をユング心理学で分析するとこうなります。人間の幼少期は「無意識」が支配的な状態とみなし、成長と共に次第に拓けてきた「意識」との葛藤を生じ、それが夢遊病に現れたとみます。もしくは幼少期の潤沢な「無意識」の力が常に表面にまで活発にあらわれた身体表現と解釈もできます。となると、わたしは夜な夜な「無意識」の下で自由気ままに遊んでいたと解釈もできます。こうしたユングの「無意識」に対する評価には、ユングを知る大人になってからとはいえ随分と救われた気がしたものです。
◆ユングの魅力混沌とした未分化な「無意識」の世界で満たされているのは、実は子どもや未開人と言われています。90年代にユング心理学のブームの牽引役であった
河合隼雄(1928~2007)が、幼児教育にはファンタジーや神話を読むことの大切さを語っていたのは、幼児は「意識」の機能はまだ未発達なかわりに「無意識」領域における本源的な力が潤沢であるとするユングの思想がそこに反映されていたからです。
ユングの偉大な功績をあげるとすれば、「無意識」という闇の世界に光明を当てたことです。「無意識」を時には天才の直感のような創造的な作用を含むと説いたのもユングが初めてのことでしょう。
今回はそうしたユング心理学の魅力のひとつである「無意識」の世界を紹介してみます。
◆フロイトとユングの違いジークムント・フロイト(1856~1939)は『夢判断』によって初めて「無意識」に至る扉を開いたと言われます。フロイトによれば、「無意識」とは抑圧された願望や欲求が蓄積された「場」とし、そこに見出されるのは社会的に承認され得ない恥ずべき欲求や闇なるものが蓄積されるというわけです。ややステレオタイプに分類すれば、合理的な知性に代表される「意識」は正常で健康的なものであり、不合理な情動に代表される「無意識」は異常で病的なものとフロイトは考えていました。
一方
カール・グスタフ・ユング(1875~1961)は、「無意識」の本質は抑圧された願望とか本来「異常」であるという見方はとりません。たとえば幼児期の記憶がはっきりしないのは、幼児期の心はそもそも「無意識」の世界で支えられていること。しかも成長とともに「意識」が根底(つまり「無意識」)から生い立ってくると説きます。
ここで大事なことは「無意識」が本源的であるのに対して「意識」が「第2番目」のものということです。たとえば、一見コントロールが効かない未分化の状態にある「無意識」の力が「意識」面に露呈して「異常」をきたしたとしても、病理の根本はむしろ「無意識」に向き合えない「意識」の方にあると考えるのです。ここにフロイトの見方との決定的な差があります。
◆心身症や精神病への展開ユングによれば、心身症や精神病のときは「無意識」領域の力がコントロール不可能な形で「意識」面にあふれ出しているとみます。言いかえれば患者の魂の底に意識の日常的理解をこえた何事かが起こっているということです。
先に説明した通り、「無意識」に向き合えない「意識」の状態が病理を招くということでした。ならば、内面で何事かが起こっている「無意識」からのメッセージを外面の「意識」で汲み取らなければいけないということです。つまり患者さんが感じている苦悩は、彼の心を外界から内面へと向きかえてゆく必要性や目的性を示しているというわけです。
分かりやすく言えば、これは「病の意味論」に通じる事柄であると理解できます。
改善が難しい心因性の病から快方を望むならば、その原因は彼の外側にはなくて必ず彼の内側にあることを示しています。「無意識」からのメッセージという「症状」に隠された本当の意味を「意識」が真摯に汲み取ることで快方への道が明らかになるのです。
◆東洋思想との類似性人間の心は「意識」と「無意識」の両者が合して一つの全体を成しているものです。もっとも大切なことは「意識」が「無意識」の内容を同化すること、すなわち「意識」の内容と「無意識」の内容が相互に貫流し、結びつけられるということです。
その同化のプロセスとは、「無意識」からあふれてくるみえない力の奥底を探って、魂の内面的本性を追求してゆくことです。
このプロセスには必ず宗教的性質を帯びた体験の領域が展開してくるであろう、とユングは説いています。これは瞑想修行を主体とする東洋の宗教、たとえば仏教や道教に通じることです。また「無意識」にこそ「本質」が存在するとする思想は、仏教のみならず神秘主義にも通じているところです。実際のところ、ユングは道教による神秘的な内的体験の世界を経験し、東洋思想や神秘主義にも造詣が深い人物でした。
一方では、近代科学至上主義の人たちから、ユング心理学は科学とはほど遠い思弁的神秘主義にすぎないと批判されたそうです。
しかし、心の内面世界という見えないものに対するユングの眼差しには、深層心理学の領域を軽く超えて、普く哲学や宗教にまでおよぶ深遠な洞察力を感じてしまいます。(その点ではシュタイナーにも似ています。)
鍼灸治療において患者さんの身体の声を訊くということが、ときには患者さんの「無意識」領域を伺うというアプローチにもなります。そうした意味でも、ユング心理学はとても参考になる世界観だと思っています。(了)
※湯浅泰雄著『ユングとキリスト』講談社学術文庫(96年)ユングを理解するには、キリスト教とグノーシス主義について理解を深めることが必須。
そのガイダンスとしての「序論 ユング心理学と宗教経験の世界」の章を参照。