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第36話:愛猫の死と業平

今年米寿(88歳)を迎えるAさんは、寝しなに『源氏物語』を読まれるほど、古典に造詣が深い方です。そのAさんが飼っていた猫が正月早々に亡くなったときの話です。23歳といいますから、人間ならもう百歳は超えているとか。お孫さんが拾ってきた子猫のときから、家族の一員として、平成をまるごと生きてきた猫です。昨年の夏あたりから食が細くなり、だいぶ弱ってきたことは聞いていました。家の中の一番涼しい処に、ひねもす寝ころんでいることがだんだん多くなったそうです。Aさんがおっしゃるには、最後は、猫は猫なりに自分の死期をしっかり覚悟した上での静かな大往生だったと。Aさんはそんな猫の最期に接して、ふと在原業平(ありわらのなりひら)の歌が浮かんだそうです。

つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを

覚悟はしていたけど、ついにその日がきてしまった思いが、愛猫と業平と御自身を重ね合わせながら、すとんと胸に落ちてきたのかもしれません。愛猫の死を坦々と話される中に、少しさびしげな表情をみてとれた気がしましたが、実はAさんの真意は、ただ単にさびしさにあるのではないということに、私はあとで知ります。

というのも、古今和歌集の解説本を調べると「つひに行く・・」という歌は「無常思想を強調したり、悲しみを大げさに表現したりすることなく、平凡な人間の心をそのまま述べている。」とあります。さらに業平の死生観としては、阿弥陀信仰の浄土教を基盤として「死とは最後には行かなければならない道」それもあくまで、日常(生)の延長にあるという考えのようです。

最近になってのことですが、Aさんが私に、「死ぬことはなにも怖くない。」「眠る向こうに死があるようなもの」と何気に語ってくれました。そうか、Aさんは業平と同じ死生観をもっていらしたんだ、と納得したのです。Aさんは、静かな大往生を遂げた猫にあっぱれと思い、気丈にもさびしくも、それを日常の風景として捉えようとされたのだと思いました。


※『日本古典文学全集:古今和歌集』小学館(昭46年)
「つひに行く・・」は古今和歌集に収蔵された在原業平の歌。病気をして弱くなったときに詠んだもの。業平がモデルとされる「伊勢物語」の最終段にもあり、昔から有名な歌。
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第35話:「身土不二」と分子生物学

数年前、米国歌手マドンナがマクロビオティックの専属シェフを雇っていることが話題になりました。マクロビオティックは米国で生まれた食事療法のように思いがちですが、本来は日本の「食養生」から派生した概念で、桜沢如一(通称ジョージ・オオサワ)が外国で広めたもの。いわば日本には逆輸入の形で話題になったということなのです。

日本の食養生の歴史は、明治40年に発足した「食養会」を起点とします。その先覚者が医師の石塚左玄(嘉永4年~明治42年)です。石塚の没後、「玄米の二木」で有名な二木謙三と桜沢如一が「食養会」の双璧として昭和30年頃まで活躍しています。

日本の食養学を代表する概念で、石塚左玄が提唱したことで有名な「身土不二の原則」があります。「身土不二」とは身体とその土地で生まれた食材とは親和性があることを説き、むやみに外国産のものを摂らず、その土地のものを摂りましょう、ということです。その土地のものを食べるのがよいというのは、新鮮だからおいしいということと、その土地の食文化に根差した料理を大切にする意味からも、当然頷けることです。ただ、身体と親和性があるということは、科学的な裏付けという面からすると、納得する理由がみつからないのです。

ところが最近、分子生物学の世界から、それを実証する発言が出始めています。「生物と無生物の間」で有名になった福岡伸一です。彼は次のように解説しています。

「『Science』という科学専門誌に掲載された論文の結果。日本人の消化管内には、海藻の成分を分解できる腸内細菌が存在するが、欧米人の腸内にそんな菌はいない。ちょっと考えてみればこれは当然のことである。腸内細菌はその風土の食とともに私たちの消化管に定着し、時間をかけて風土に応じた共生関係を形成する。海藻をおいしく食べる私たちが、海藻の成分を分解できる能力を有した腸内細菌とともに暮らしていてなんの不思議もない。」

つまり腸内細菌のコロニーは、その土地の食材と親和性があるということを言っています。私たちの腸内細菌は、健気にも、その土地の食材と時間をかけて共生関係を築いてきたわけです。だから他所の土地に行って、食べつけないものを食べると、腸内細菌は新参者に一度イエローカードを出して、下痢という洗礼をあびせるわけです。

昔からの「食べつけないものは食べるな」という教えも、食養生からの「身土不二」という教えも、こうして分子生物学から裏付けられるようになりました。結局先人の教えに間違いはなかったということです。それと近年、腸内細菌は人間の免疫力に大きく関わっていることが分かっています。それを支えるのはやはり「食事」の正しいあり方であることも、改めて私たちに教えてくれます。



※沼田勇『病は食から』農山漁村文化協会(78年)
日本の食養生の歴史が詳しく紹介している本。03年に復刻版がでた。
※福岡伸一/阿川佐和子『センス・オブ・ワンダーを探して』大和書房(11年)
レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』をモチーフにした対談本。福岡博士からとても面白い話をひきだす佐和子さんの聞き上手は見事。

第34話:歴史のマッピング

サラリーマン時代(80年代)のことですが、大きなプロジェクトの一環で、技術研修の目的で来日した中国人10名のお世話をしたことがあります。それはなんの準備もないまま臨んだ半年にわたる仕事でしたが、とにかく一室に外国人と膝をつめて仕事をするのは初めての経験。若さ故の気負いもあってか、一応無事つとめたのですが、自分なりに反省を残した経験でした。というのは私自身、日本と中国に関わる基本的な歴史認識(特に現代史)を大いに欠いていることに気づかされたからです。外国人と付き合う最低の礼儀として、まず相手国との歴史を知っておくこと、と今では言えますが、当時は本当に恥ずかしいかな無知の極みでした。

そんな反省もあって、当時ちょうど刊行が始まった『昭和の歴史』(小学館)を注文して、自分なりに学習し直しました。学校で教わる現代史といえば、受験勉強優先の中では極めてぞんざいに扱われていました。戦国時代や幕末のことは詳しいのに、先の戦争での歴史的事情となると正直よくわからない、という人は戦後教育を受けた人なら大勢いるはずです。ましてや私の親の世代は、高度経済成長の牽引者だったかわりに、戦争体験を子どもに語ることには、極めて寡黙を通した世代という事情もからみます。

ともあれ、複雑な出来事が多い現代史の流れを理解するために、ひとつの方法をとりました。それは「歴史のマッピング」と呼び、地図をひらいて自分が立っている場所を確認するように、歴史の流れの中で、自分の立ち位置を確認する作業のことです。それには自分の家族全員がマッピングの対象にします。たとえば、家族が生まれた年と主な出来事をリンクにして羅列してみると次のようになります。

祖父:1894年(明治27年)・・日清戦争
父 :1917年(大正06年)・・ロシア革命
母 :1924年(大正13年)・・関東大震災の翌年、甲子(きのえね)の年
兄 :1950年(昭和25年)・・朝鮮動乱、警察予備隊結成
自分:1954年(昭和29年)・・警察予備隊が自衛隊に

これを覚えた上に、それぞれ時系列での関係性を探します。たとえば日清戦争の10年後が日露戦争(1904年)、さらに10年後が第一次世界大戦(1914年)、さらに10年後が母の生まれた1924年(大正13年)という流れがあります。この大正13年は暦の上では「甲子(きのえね)」で、「甲子園球場」が誕生した年になります。そしてさらに30年後が私の生まれた1954年(昭和29年)となるわけです。父の「ロシア革命」は、第一次世界大戦でドイツが敗北し、結果ドイツとオーストリア、ロシアが帝政の終焉を迎えたと覚え、兄と私は自衛隊つながりで覚えます。

こんな風に家族をマッピングした「骨組み」をまず作ることで、歴史がより身近なものになります。そしてこの「骨組み」を基本にして、その都度覚えた歴史的事象を「骨組み」に肉付けしていくわけです。すると、昭和何年生まれというと、どういう時代を生きてきた年代か、ある程度イメージがもてるようになります。

このように私なりに覚えた現代史の基礎的な知識が、脱サラして鍼灸師の仕事をする上で、役に立つとはゆめゆめ思わなかったことです。というのも、患者さんは、これまで歩んできた時代の”history”のなかに、それぞれの履歴が織り込こまれた個々の”story”を抱えています。治療家からみて、症状にだけ目を向けるのではなく、全人的な見方で患者さんと接するよう心掛けています。その固有の”story”を理解するまなざしは治療家として大切なことであり、その背景にある”history”を知っておくことも、より大切なことだと思うからです。


※西暦と年号の覚え方は:19世紀最後の1900年が明治33年、昭和が実質スタートした昭和02年が1927年、20世紀最後の2000年が平成12年、この3つを覚えると便利です。

第33話:灸痕の「申送り」

深谷伊三郎(1900~1975)というお灸の名人が遺した臨床余録『お灸で病気を治した話(第2集)』に、とても興味深いエピソードが書かれています。たぶん終戦直後の話でしょうが、こんな話です。警視庁の刑事が深谷の治療所に尋ねてきます。新宿歌舞伎町のガード際の草むらに、身元不明の7~8才男児が遺棄されていた。死体を点検すると下腹部に3つの灸痕がある。この小児はたぶん夜尿症であり、灸治に通うぐらいだから近くの浮浪児でないことは想像できると説明し、下腹部の灸痕がわかる死体写真を深谷にみせて、専門家としての意見をぜひ伺いたいというのです。

深谷はこれに対して、下腹部の3つのツボは、中央が「曲骨」で左右が「横骨」、確かに夜尿症に使うツボであるが、私はこの3つの配穴は使わないのでうちの治療所ではない。「曲骨」の取穴からして他の流派に違いない。鍼灸師会の名簿を貸すから順々にお尋ねするがいいと答えます。

深谷が語るこのエピソードでとても興味深いのが、お灸の痕が必ず残るということはさておき、灸痕によって患者さんの身体に治療家の履歴を残すということです。現在のお灸であれば(もちろん私のお灸も)、火傷しないように「灸点紙」というシールを貼った上に施灸するので痕は残らないのです。

ただ、灸治療の経験がある年配の患者さんを治療させていただく中で、その履歴となる灸痕を見かけることがあります。その多くは、背骨の傍らに縦に並ぶ、内臓に効くとされる「背兪穴(はいゆけつ)」と呼ぶ経穴群です。その背兪穴の灸痕が、患者さんによっては、あちこち狙いが定まらない位置に点在しているものもあれば、まるで定規で測ったのかと思わせる、正確な整列をした灸痕もあります。

たとえば、10年あまりに渡って通院されているAさんの背中には、ひとつひとつの灸痕が極めて小さく、明らかに丁寧に施灸したと思わせるような、灸痕の見事な整列を確認できます。Aさんは、以前かかっていたJ先生が病気になったので、その後継者として私をたまたま選んだのです。私はJ先生とは当然面識はないのですが、10年あまりもAさんの背中に臨み治療していると、何かツボを通じてJ先生と会話をしているような気持ちになります。たとえば、Aさんの体調とか症状によってツボを選ぶと、そこにJ先生がとったツボの灸痕と符合してしまうのです。J先生からいつも、灸痕によって「申送り」を頂いているような気分にもなります。

そんな気持ちをAさんに伝えたところ、うれしそうにJ先生の思い出を語ってくれました。J先生は仏教に興味をお持ちになり、診療の傍ら仏教大学の夜間に通われていたそうです。私も仏教とか神道に関して、歳を重ねるほどに興味をもってきました。この世はすべて「縁起」によって成り立つといいます。お灸の力はさることながら、お灸でひとの縁も生まれます。こうして不思議な縁を繋ぎ繋がれ、ひとは生きているのかもしれません。

第32話:縄文のにおいのする「木」(タブノキ)

タブノキ

◆酒田の木
ふるさと酒田市の木といえば「タブノキ」。古くから酒田旦那衆の屋敷の生垣に使われていたことで、酒田のシンボルに選ばれたと聞きます。酒田沖に浮かぶ「飛島」にはタブノキの群生があり、ここは自然群生としては北限といわれています。

タブノキはクスノキ科に属する暖帯性常緑広葉樹。いわゆる照葉樹林の代表的樹種ですが、私にとっては、単にふるさとの木を越えてしまい、かの「もののけ姫」の下地にある「照葉樹林文化論」とか、東北の深層に流れる縄文の息吹きなど、とにかく勝手に想像をかきたてられる木になっています。そんなタブノキに関して、とりとめのない話をしてみます。

◆三崎公園のタブノキ
酒田から隣の遊佐町に北上し、日本海に臨む「三崎公園」に足をのばせば、見事な群生したタブノキが見られます。ここは秋田県との県境に近い処。戊辰の役では、わが庄内藩と秋田藩が戦った戦場です。奇しくも私の母の曾祖父(平太)がここで戦死しています。といっても4~5年前に親戚の長老からはじめて聴かされた話です。庄内藩は会津藩と同様、幕府方についたいわゆる「朝敵」。秋田といえば親戚がいてもおかしくない近しい人々と、こうした戦をした歴史があったことなど、家族代々で口にすることなく、ましてや学校教育でも教えることもなく、150年余りが過ぎたわけです。日本海の荒波が耳に届きそうな「三崎公園」のタブノキだけが、しっかりそれを覚えているかと思うと、不思議な感慨に浸ってしまう処です。

◆「手長足長」の意味
ここで「三崎公園(三崎山)」について、地元に残るひとつの伝説を紹介。それは平安時代にまで遡ります。鳥海山に「手長足長」という大蛇がおって、行き来の人を取って食ったという。そこを通った天台宗の慈覚大師は、近くの「うやむやの関」でお祈りすると大蛇は二つに切れて、尾の落ちたところが今の「落伏(おちふし)」という地名になったという。慈覚大師は、大蛇が以後人を食べないように、タブの実を播いたとか。それで三崎山には、見事にまで、タブノキが生い茂っているということです。

伝説は証人を必要としないので、郷土史によってはやや内容が違うようです。ただこの伝説をどう理解するかが大事です。「手長足長」という大蛇の正体は、鳥海山が噴火した時の「溶岩説」が有力のようです。しかしそこであえて異説を唱えて「蝦夷(えみし)説」を私は提案してみたいのです。

天台宗の慈覚大師円仁(794~864)は比叡山延暦寺の座主になった高僧で、東北地方をめぐり、山寺で有名な「立石寺」、平泉の「中尊寺」、象潟の「蚶満寺」などを建てた人物です。なぜこれほどまでに東北地方を行脚して寺を建てたのか。その理由を宗教学者の山折哲雄は「慈覚大師の目的は、坂上田村麻呂による征討によって滅ぼされた、先住民の蝦夷への、鎮魂供養のためだった」と推理しています。ならば、慈覚大師は蝦夷に対して慈悲深い心で臨んでいることがわかります。

鳥海山の頂上に「大物忌神社(おおものいみじんじゃ)」の本社があります。主神の「大物忌神」はいわゆるタタリ神で、怒りをかうと、鳥海山の噴火や出羽の蝦夷の反乱が起きるとされています。朝廷が平穏を祈るためには「大物忌神社」に国司をつかわして祈祷させるわけです。ですから前述の伝説では、「手長足長の大蛇」が「溶岩」であっても「蝦夷」であっても、この地域ではやっかいなことだから、話のつじつまは合います。しかし、大蛇が以後人を食べないように、タブの実を播いたという行為は、蝦夷の生活生存権を、特定の場所に限って保障したという意味に捉えると、益々「蝦夷説」が有力になると思うのです。となれば、蝦夷はきっとタブノキが茂る三崎山に静かに共生できたのではないか、と空想はさらに拡がります。

◆縄文への憧憬
蝦夷(えみし)は縄文人の末裔といわれています。「もののけ姫」の少年アシタカは蝦夷の首長アテルイの末裔という設定でした。東北を遠く懐かしく思う歳になっても、縄文へのあこがれは、タブノキを通じて失われないものかもしれません。

最後に。お灸をすえるのに使っている線香は、実はタブノキから作ったものです。タブノキが形をかえたものとしても、日常の仕事のなかで大事な道具として傍にあることは、なにか不思議な縁を感じてしまいます。


※冨澤襄『飽海史話』敬天堂(60年)
私の伯父が書いた郷土史。「手長足長」の民話を紹介している。伯父は酒田の木の選考委員のひとりだった。牧野富太郎博士を鳥海山に案内した話など、自分が興味をもって、ぜひ聴いてみたいと思った頃は伯父はすでに鬼籍に入っていた。
※高橋富雄・梅原猛編『東北文化と日本』小学館(84年)
「東北学」という概念がまだなかった頃、東北の縄文文化に初めて出会った本。
※谷川健一『日本の神々』岩波新書(99年)
折口信夫は南の島々から漂着した日本人の祖先の記念樹がタブノキだったと言っている。
タブノキで作った丸木船で渡来したとか。折口は能登の気多大社にある「たぶの杜」をこよなく愛した。折口の養子で硫黄島で戦死した藤井春洋は、気多大社の宮司の息子だったとか。

※追記(13-02-14)
昭和50年制定以来タブノキは酒田市の木であったが、平成17年(05年)の市町村合併に伴い、タブノキに代わりケヤキが「市の木」になったことを最近知る。酒田の名所「山居倉庫」のケヤキが選定の根拠でしょうが、タブノキは酒田市街地の「潜在自然植生」としても貴重である、とする宮脇昭氏らの学術調査(昭和58年)があるだけに、まるで観光を優先したかのような市の見識のなさは残念でならない。

第31話:「木」と会話する(クスノキ)

くす


私にとってのアクティブな趣味といえばジョギングです。ちょっとかわっていますが、私流の楽しみ方は走りながら「木」と会話するということ。「木」と会話するにはまずは相手の名前を覚えるのが礼儀と心得、近くの洗足池公園で散歩しながら樹木の名前をずいぶん覚えたものです。その甲斐あってか、相性がよいと思った最初の「木」がクスノキ(樟)でした。古くから神木として親しまれ、鎮守の森の大木といえばクスノキと相場が決まっています。宮崎駿の「となりのトトロ」でも、七国山の祠の傍にそびえ、しめ縄で飾られたあの大木もクスノキでした。私の父方の本家が神社の宮司ということもあり、なんとなく相性がよいと思ったのはそんなDNAが騒いだのかもしれません。

ひとつ紹介すると、自宅から皇居までのジョギングコースであれば約12キロ。中原街道を五反田に向かい桜田通りをひた走って桜田門までの行程です。途中、魚藍坂から左折する角に面する慶応大三田校舎はクスノキとヤマモモの大木に囲まれています。さらに右手に東京タワーが見えるころには「芝公園」のクスノキも視界に入ってきます。そして和製マロニエと呼ぶトチノキの街路樹になる霞ヶ関官庁街を抜けると終点の皇居桜田門。その手前左には、刑事ドラマでおなじみ警視庁のクスノキがでんと偉そうに立っています。

幸田文の本には「木にはそれぞれ履歴がある」と書いています。私が生まれる前の歴史をこの大木はきっと記憶しています。戊辰戦争とか、関東大震災、二二六事件の雪の日、そして東京大空襲の3月10日未明のことなどを。そんなことを想像しながら、まなざしを「木」に向けることが会話すること、と自分なりに解釈しているのです。

都内のクスノキで一番のお勧めは、なんといっても明治神宮。大正8年に造営されたそうですが、照葉樹林の森として、これだけ成熟度の高い森はないといわれています。時の大隈重信が「代々木の森を藪にする気か!」と落葉樹に反対して杉を植えよと提言したそうですが、専門家たちは「関東ロームには杉は育たない、100年後の森を見据えるなら、カシ(樫)、シイ(椎)、クス(樟)などの照葉樹林が一番相応しい」と説得した経緯があったとか。こうした見識のある専門家のお蔭で、私たち現代人は都会にいながらにして、森林浴を堪能できるというものです。これから8月の暑いさなかに、明治神宮の森に逃げ込めば、きっとここは、緑の涼に囲まれた「アジール(聖域的避難所)」だと確信できます。

それから、舟越桂の彫刻の素材はクスノキだとか。天童荒太の「永遠の仔」の装丁デザインに使われて以来、実は舟越ファン。神木として扱われてきたクスノキで彫った胸像に、大理石の目玉を入れ込むなんてまさに画竜点睛。仏像でいえば現代の「檀像」といえるかも。彼の作品が惹きつける理由は、たぶんそこにあるのではないかと分析しています。

※幸田文『木』新潮文庫(平成07年)
※白洲正子『木』平凡社ライブラリー(00年)
以上の2冊は、「木」と上手に会話できる最良のテキストです。

第30話:心身一如(東洋の心身観)

英語の“body”には、「肉体」とか「身体」という意味がありますが、これはあくまでも、mind(心), soul(魂), spirit(霊)の反意語として使われています。さらに“body”には「物体(ボディ)」という意味もあります。従って西洋における「身体」は最も「心」に遠い存在であり、むしろ「物」に近い存在であることが分かります。

       「心」≠「身体」≒「物」

これはデカルト以来の『心身二元論(物心二分法)』を根底にしています。西洋の近代化は「心」と「身体(物)」を分けて、それぞれが発展してきました。西洋哲学やキリスト教では「心(精神)」の価値を重視し、「身体」の価値を軽蔑した傾向にあります。近代科学では「心」の要素を無視して、「物や身体」は還元主義をもって追究されてきました。西洋医学では、「身体」は解剖学的に全体を部分に分類し、さまざまな器官やその機能について生理学的に研究します。臨床医学が内科・外科・耳鼻科・・などといった多くの専門に分化しているのはそのためです。従って病気の心身相関を認める立場にたっても、部分の集合体として全体を捉えなおす還元主義の見方では不十分になります。

一方、東洋では、「心」と「身体」は元々一体不可分の関係にあるものとして捉えられています。さらに、「物」を身体の外の世界と捉えると、「身体」は丁度、「心」と「物」の中間に位置しています。

        「心」=「身体」≠「物(外部)」

先の“body”と比較してみると、「身体」という言葉には「身体に効く」「身体に尋ねる」「身体に障る」「身体で覚える」「身体を惜しむ」などの慣用句があるように、明らかに「身体」を「意思」なり「心」を持ったものとしてみていることが分ります。東洋医学では「心(精神)」と身体症状は密接に関係することをいち早く気づいていました。また診察からしても部分から全体を伺う診断技術(脈診や望診など)も先人の経験の中から生まれ、心身の全体的なはたらき方に注目するホリスティック(全体的包括的)な見方が唱えられています。この東洋の「心身観」を一言で表すと「心身一如(しんしんいちにょ)」といいます。さらにこの場合、「身体」と「心」をつなぐものが「気」となります。

        「心」⇔「気」⇔「身体」≠「物(外部)」

「心」と「身体」が一体になる「心身一如」の状態は、無条件で保障されるものではなく、むしろ本来は伝統的宗教での修業法として実証的に担保されるものです。中国では仏教・儒教・道教の三教が微妙な対立と交流を重ねてきましたが、その根底には一つの共通した基礎体験があり、それが修業法。仏教者は「坐禅」とよび、儒者は「静坐」とよび、道士は「錬丹」「導引」などとよぶ心身の鍛練法です。これらを一括して「瞑想法」とよべる内容のものです。それと、これらは身体の訓練を通じて精神の訓練と人格の向上を目指す実践的な企て、という意味をおびています。

「瞑想法」の訓練はまず呼吸法から始めます。呼吸と「気」は昔から関係が深いものと考えられてきたからです。「心」と「身体」を一体にするために「気」をめぐらせます。「気」をめぐらせるといっても、実際は「心」で「気をめぐらせる」と思うわけで、「心(意識)」が気の流れを感得したことを「心気が一致する」といい、「心」と「身体」がそこで一体となって「心身一如」となるといいます。

ストレスフルな環境下で「心ここにあらず」といった状態は、きっと「心」が「身体」から離れた状態のこと。「心身一如」を取り戻すためには、「身体」からアプローチして呼吸法と「気をめぐらせる」ことが大切になります。そうした背景に、伝統的な瞑想法や鍼灸治療の役割があると思っています。

※湯浅泰雄『身体論-東洋的心身論と現代』講談社学術文庫(90年)
※湯浅泰雄『気・修行・身体』平河出版社(86年)

第29話:身体知(身体で覚える)

東洋の伝統的な「身体論」についての本を読んでいくなかで、ふと目を見張る文章に遭遇します。例えば「身体より脳の方が攻撃的」というフレーズがそのひとつ。言い換えると「脳の暴走を止めるのは唯一身体である」ともいえます。そのこころは、実は「身体」の方が「脳」より頼りがいがあって大事だよということです。

現代はとかく脳万能主義が横行しがち。すべてのことが脳から上意下達できると勘違いしてしまいます。これは危険な兆候です。なぜなら知識の詰め込みは、かえって身体からリアリティーをなくすことになってしまいます。少年犯罪においても、簡単に人を殺したり、人をいじめたりするのは、きっとその少年の身体に「傷つけられると痛い」というリアリティーが欠落しているからでしょう。となると、脳が下す「人を殺したい(いじめたい)」という感情の暴走を止められない「身体」になりやすくなっていることが、実は教育や家庭に対して問われている、真の課題ではないかと思っています。

東洋の伝統的な「身体論」には「身体知」という言葉があります。身体は知性的で、知性は身体的です。「身体」の方が「脳」より頼りがいがあって大事とは、「身体知」が成り立つ状態です。そのキーワードは「身体で覚える」にあるとみています。

例えば、芸道や武道あるいはスポーツでも同じことですが、初歩の状態では、いわば、まず頭で考えてから身体を動かそうとします。指導者がこういうようにすればよいと教えてくれるのを、知的に理解し、計算してから身体をそれに従わせようとします。しかし、身体を心で思うようには動きません。この場合には、心と身体は二元的にとらえられています。考える意識としての心と、意識の命令に従って動かされる身体とが、分けてとらえられています。しかし、訓練をくり返し続けていれば、しだいに、心で思う通りに身体が動くようになります。そのときはじめて、指導者のいっていることの意味がわかってきます。身体で覚えたからです。こうした理想的状態を「心身一如(しんしんいちにょ)」と呼びます。名人の演技では、心の動きと身体の動きに少しもズレがなく、心と身体は一つになっています。さらに、普段の姿勢や佇まいに精神性が感じられるといいます。

身体で覚えるというのは、なにも芸道や武道あるいはスポーツだけのことではなくて、一般的な学習において、声を出して読むとか、何度も紙に書いて覚えるということも該当します。これは江戸時代の「寺子屋」にみる学習法であり、現代の教育に大いに参考にすべきことかもしれません。身体で覚えたことは忘れないというのは、「心身一如」の状態をキープした「身体知」が働いていることです。

それと身体性の希薄さとして最近気になっていることが、人と人の距離感いわゆる「間合い」を取れない人をみかけることです。混んでもいないエレベーターの中や、レジの前で列についているときに、私の後ろにぴたっとくっついてでもいるかのような距離感で立つ若者がいます。またTVドラマ「南極大陸」をたまたま観たときも、堺雅人が年上役の柴田恭平に向かって、顔と顔の距離が10センチぐらいの位置で口角泡を飛ばすぐらいの勢いで説得するシーンがありましたが、とても違和感を覚えます。もしも武士の世なら、その間合いは失礼千万の危険すぎる間合いであって、ばっさり斬られてもおかしくないでしょう。間合いがうまくとれない人が増える社会って、結構危険なことなのです。

現代社会において、これほどデジタルが氾濫していくと「脳」ばかりが優先され、かえって身体性が希薄になってしまい、社会の健全性を失うことにつながります。東洋の伝統的な「身体論」における「身体知」には大いに参考にすべきことがありそうです。

※「身体より脳の方が攻撃的」:たぶん内田樹の本だと思います。内田樹は仏哲学者レヴィナスを専門としながら合気道をたしなむ人物。身体性を基礎とした思考が魅力です。
※湯浅泰雄『気・修行・身体』平川出版社(86年)
 

文化からの復興(新刊本の紹介)



文化からの復興
-市民と震災といわきアリオスと-

ニッセイ基礎研究所/いわき芸術文化交流館アリオス
水曜社(2012年07月07日)定価1,800円+税


“いわき芸術文化交流館アリオス”は東北地方最大規模のアートセンターです。
08年のオープン以来、順調に運営されて延べ来館者数があと150人で200万人に達するという記念日を迎えるはずだった日が、まさに東日本大震災が発生した2011年3月11日でした。震災の翌日からこの「いわきアリオス」は一転して「避難所いわきアリオス」にかわります。そんな未曽有の状況にあった「いわきアリオス」の、震災から全館再オープンにこぎつけるまでのこの1年をドキュメントにまとめています。

文化による復興に取り組んだのは関係者だけでなく、いわき市民が自発的に深く関わって活動していました。いわゆる「はこもの」の文化施設(お高くとまった場所)としてスタートしたものが、震災後の「避難所」から「文化の復興」へと市民をまきこんで果たしたことで、市民と文化施設の距離がぐっと縮んでいったとか。これが一番注目すべきことです。

昨年11月1日、再オープンを記念して中劇場では「バレエ界の女王」と呼ばれるシルヴィー・ギエムが被災地の子どもを集めて「ボレロ」を披露し大きなニュースになりました。それはそれで感動的な出来事ですが、この本の表紙を飾っているのはシルヴィー・ギエムではなく、再オープンの前祝いとして小学校で行われたピアニスト小山実稚子による出前コンサートです。市民と膝擦り合わせるほどの距離感を大事にする文化施設の有り様を、まさに示唆しているかのような装丁も素敵です。

この本の執筆者のひとりである大澤寅雄さんは、以前から奥様の手塚夏子さんを通じて御縁を頂いています。それと妻のふるさとである「いわき」は、私にとっても何度か足を運んでお世話になった街です。この本が発行した7日は娘の誕生日。23年前に現在の「いわきアリオス」の近くにある産院で生まれました。そんな数々の御縁からこの本を紹介させて頂きました。

重松清 (講演会の紹介)

平岡篤頼文庫第三回講演会
「小説を書くということ」
重松清 × 根本昌夫 対談
日時 2012年8月5日(日) 午後2時
場所:平岡篤頼文庫 入場無料


〒389-0115
長野県北佐久郡軽井沢町追分5675
平岡篤頼文庫 HP:http://www.hiraokatokuyoshi.com/index.html
要予約・お問い合わせ先
e-mail : bunkohiraoka@mild.ocn.ne.jp
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第28話:天才と狂気の間

本を読んでいて肝心の内容が難解すぎてよくわからないのに、周辺にちりばめられたエピソードの方がとても面白くて、そっちの方に好奇心がシフトされることってあります。精神科医の斉藤環の『生き延びるためのラカン』はそんな本のひとつです。

それは、統合失調症(精神分裂病)を精神分析学のジャック・ラカン流に分析すれば・・の逸話ですが。斉藤環自身の分析によれば、有名人の中で統合失調症に親和性の高いと思われる、気になる人物が4人いるといいます。それは、20世紀を代表する画家のフランシスコ・ベーコン、映画監督のデヴィッド・リンチ、そして日本からは漫画家の吉田戦車とお笑いの松本人志です。この「統合失調症に親和性の高い」という意味は、彼らには幸い表現手段をもっているからこそ、統合失調症にならずにすんでいるという意味で、それだけぎりぎりの処で創作活動をしているからこそ、既成の概念を超えたところでの(芸術)作品を絶えず提供してくれると、斉藤は解説します。

4人すべては知らないのですが、お笑いの松本人志と映画監督のデヴィッド・リンチはさもありなんと思えると同時に、斉藤の目の付け所にも感心してしまいます。

お笑いの松本人志は最近映画監督としても活動を始めていますが、作品は注目されながらも、もろ手を挙げて評価という状況ではないようです。ただ根拠のない分析かもしれませんが、松本の発想があまりに先行しすぎて、逆に周りの人間が松本のスピードに追い付かないという図式にも思えます。

また、デヴィッド・リンチ監督の「インランド・エンパイア」が封切され話題になったころ映画館に足を運びました。「今まで観たこともないようなすごい映画を観てしまった。」というのが第一印象でした。上映中に席を立った人が2人。きっとこの種の映画は、途中でイヤになるか、逆にクセになるかのどっちかです。想像と現実の世界が混然一体で、真面目にストーリーに意味を見つけ出そうとすると、かえって頭が混乱する類。それより光と闇と音で織りなす彼の映像世界にこそ、むしろ意味があると思えました。

表現者や芸術家のなかには、こうして天才と狂気の間で異彩を放つのでしょうが、斉藤環の分析を借りればなるほどと現実味をおびて理解できます。


※斉藤環『生き延びるためのラカン』バジリコ(06年)

第27話:共感覚の人々

仕事柄いろいろな方と接するわけですが、ときには不思議な感性をもった方と出会うことがあります。そのひとつが「共感覚」。共感覚とは五感のうち2つが組み合わさって同時に働くこと。文字に色がついて見えるとか、音に色を感じるとか、味に形を感じるとかいろいろあります。生まれたときはこうした能力は誰にでもあるそうですが、成長とともに退化(進化?)していくといわれています。だから共感覚の人たちは、こうした知覚感覚を誰にでもあるものと、子供のころは思っていたといいます。

今まで出会った共感覚の持ち主はお二人いました。Aさんは現代美術を研究している大学講師。文字に固有の色がついて見えるといいます。そらからBさんは音楽大学の講師。仏現代音楽のオリヴィエ・メシアンの「世の終わりの為の四重奏曲」を聴くと光や色が見えてくるといいます。共感覚は凡そ200人に1人が持つとされています。宮沢賢治や画家のムンクやカンデンスキー、詩人のアルチュール・ランボー、作家のナボコフ、作曲家のスクリャービンやメシアンなど古今東西の多くの芸術家も持っていたと言われています。

昨年11月放送のNHK『爆問学問』でも「共感覚」を取り上げ、自らも共感覚をもつ関西学院大学教授の長田典子(感性工学)が共感覚の謎を解説。音楽を聴いているときの共感覚者の脳を調べると、聴覚野だけでなく色を知覚する領域も活発に活動しているとか。興味深い話が紹介される中で、爆問の田中くんが共感覚の持ち主であることも判明しました。

そこで面白かったのが、長田いわく「いとしのエリー」はピンクで、バッハはブルー、「太田光」の文字はきれいな黄色のグラデーションという表現の数々。これはなにか日本の伝統的表現方法でもある、”見立て”にも似ています。対象を別の何かに喩えて表現することで、対象の本質が浮き彫りにされ、さらに既存の価値を超えた新たな価値が見出されること。つまり頭の中で対象を別のものと結び付けて編集するというクリエイティブな作業。だから佐藤可士和(アートディレクター)は優秀なクリエーターには、”見立て”がうまい人が非常に多いといいます。

共感覚の人々は、2つの五感をつかって”見立て”のような編集作業をいとも簡単に、いとも自然にできるということでしょう。もちろん彼らは、”見立て”ることを意識してはいませんが、結果的に幅広い感性で奥深く表現ができるのではと考えられます。なるほど多くの芸術家やクリエーターに共感覚が多いというのも頷けます。そうしてみると「共感覚」はまさに知(覚)的財産かもしれません。


※V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』角川書店(99年)
脳の仕組みや働きについて考える本。その中に共感覚が紹介されている。
※オリヴィエ・メシアン「世の終わりの為の四重奏曲」この曲が作曲されたのは収容所の中、初演ももちろん収容所という、
劇的な逸話のある作品。新約聖書「ヨハネの黙示録」から霊感を得て作曲。
※『佐藤可士和のクリエイティブシンキング』日経新聞社出版社(10年)

第26話:本物にふれる

昨年4月から就職と同時に家を出た娘から、珍しく相談をうけました。「12万円のギターを買いたいのだけどどう思う?」という内容。どう思うっていわれても自分で稼いだお金で買うのだから別に親父に相談することでもないよと思ったのですが、彼女にしてみれば生まれて初めての大きな買い物。彼女にとってはたぶんルビコン川を渡るような決意だったのでしょう、だから背中をおしてあげるように「いいんじゃない」とこころよく応えてあげました。

そもそもアコースティックギターの弾き語りを趣味とするようになったのは、3年前の誕生日に私がギターをプレゼントしたのがきっかけ。安い中国製のビギナー用のアコースティックギターセットで確か7000円でした。上手になってもっと高いギターがほしくなったら自分で買うんだね、と私はいったと思います。

それが意外と早く訪れたわけですが、娘がいわくそのきっかけを作ったのは、超すごいギターに遭遇したからとか。保育園時代からずーっと友達であるU美ちゃんの誕生パーティーで家にいったときのこと。U美ちゃんのお父さんがもっていた30万円もするアコースティックギターをたまたま借りて1曲唄ったら、そのきれいな音色と深い響きにおどろき、同じギターでなんでこんなに違うのか!と衝撃を受けたそうです。

そうなると思いはとまらず、娘が追っかけのようにいつもコンサートに出かける大好きなミュージシャンがもっているギターと同じものがほしいとなるわけです。だけど米国製の有名なMartinとかGibsonなどは何十万円もしてそうそう手が出ない。するとそのミュージシャンのコレクションにオーストラリア製のMini Matonというミニギターがあり、それを調べると何とか手が届きそうな12万円。ついに彼女はそれに白羽の矢を立てたというわけです。

いいものとか本物って、単に人から与えられるだけではその価値はわからないもの。職人的な生業と自負している鍼灸師としては、これは経験上よく理解できます。あくまでも自分の技術が向上していく中で、本物なりの道具に出会って初めてほんとうの価値がわかるものです。娘にとってはそれがギターだったとはいえ、きっと貴重な経験をしたことでしょう。たかが娘の買い物ですが、なんだか相談されてうれしくなるのはやはり親バカでしょうか。

第25話:六根清浄(ろっこんしょうじょう)

◆耳を塞ぎたい理由
学生のAさんが、突発性難聴になりました。突発性難聴という病気は、ほとんどがストレスと関連します。様子を聞いてみると、自分の進路のことがきっかけで家族会議になり、母親と姉が次第にヒートアップして口論になったそうです。その場面を目の当たりにしていたAさんは突然耳に入る音が「ゴワンゴワン」と響き、聴きづらくなったのです。
また、以前に突発性難聴になったBさんも同じような経験をしています。Bさんは上司2人と自分だけという少人数の会社にお勤め。あるとき上司2人による言い争いが1週間続きます。Bさんは席の左側で繰り広げられる口論を聴きながら仕事をしていたら、左の耳が突然聴こえなくなったのです。

突発性難聴になったAさんとBさんに共通するのは、聴きたくない、まさに耳を塞ぎたいという状況下におかれたことです。もちろん同じ状況下で病気にならない人はいくらでもいます。その差はなにかといえば、お二人は共に聴覚がもともと敏感な人なのです。それが突発性難聴になりやすい大きな要因であると私は考えています。敏感な分だけ、聴きたくないと思うとその反発が余計に大きくなるということです。

聴覚が敏感というのは、まずは耳がよいということ。たとえば私の治療院は隣の居酒屋さんと壁一枚隔てただけの建物にあり、夕方になるとお店の話し声がざわざわ聴こえてきます。私にはざわざわとしか聴こえないのに、AさんやBさんは話の内容まで判別できます。地震の揺れも人より若干早めに感じるとか。そのくらい耳がよいのです。さらに聴覚に関してお二人には、それぞれ次のような特徴があります。まずAさんは電話に出るのが苦手なこと。特に初対面の人と電話で話すのが怖いといいます。だから電話口での声は普段よりかなり小さい声になります。一方Bさんは、電話の応対には不自由しないのですが、電話口から耳に入る声で相手の体調がだいたい分かるといいます。直接話しているより電話から入ってくる声のほうが判別しやすいとのこと。このように聴覚が敏感なことは、本来は長所であり特性のはずですが、入ってくる情報によってはまさに「耳が痛い」とか「耳を塞ぎたい」ということになるのです。

◆五感も意識も「こころ」
これはなにも聴覚に限らない話です。たとえばもともと視覚が敏感な方が、ふだんから目が疲れやすいとかまぶしいとかを訴え、もともと臭覚が敏感の方が、身体が疲れてくると嫌な匂いによけい敏感になるとかがあるわけです。視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の五感は、身体と外部とのインターフェースとしての役割をもち、その感度の濃淡によっては、身体症状を引き起こしやすいといえます。

仏教の「唯識」では、五感に意識(思考)を加えて「六識」とか「六根」といいます。「般若心経」のなかの「無眼耳鼻舌身意(むーげんにーびーぜっしんにー)」がこれですし、山岳信仰での行者の掛け声「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の「六根」もこれに該当します。「唯識」のすごいところは、「六識」を「表層のこころ」(表層心)とみているところ。つまり「六識」は身体と外部とのインターフェースとしての役割でありつつ、六つそれぞれが「こころ」として外部に向き合っていることです。ですから外部からの情報(これも「気」)によっては「こころ」が折れることもあるわけです。

感覚(「六識」)が鋭敏な方にアドバイスをするとすれば、常によい情報(気)を受容すること。わるい情報(気)に遭遇したらまずは避けること。避けられない環境であれば、とにかく事務的に坦々とそれを受け流す態度を保つことなどです。
それと瞑想がよいとされています。息が自分か、自分が息かとなるほどに心全体を呼吸に集中してみましょう。「表層のこころ」が静まり澄んでくると、摩周湖の底深く見えるように、これまで気がつかなかった「深層のこころ」が見えてリラックスしてきて「こころ」の安寧が得られるといわれています。


※横山紘一『やさしい唯識』NHKライブラリー(02年)
インドにおける「唯識思想」は瑜伽(ゆが)すなわちヨーガを好んで実践した人々(唯識瑜伽行派)によって打ちたてられ、三蔵法師としても有名な玄奘によってインドへの求法の末、中国にもたらせた。「深層のこころ」には「末那識(まなしき)」と「阿頼那識(あらやしき)」があり、すでに無意識の概念(心理学)があったことが驚きです。
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