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第63話:理想は「家具のような音楽」

治療室ではパソコンとオーディオステレオをつないで、インターネットラジオの音楽を流しています。ずいぶん便利になったもので“iTunes”ソフトの中には、たとえばクラシック専用局なら海外の約190局の放送局が用意されています。そこから適当な局を選んでBGMに使っています。

治療室はいわば私的空間であり、自分なりの空間演出として心地よい音楽が流れていればいいぐらいに当初は思っていました。ただ、治療家がよかれと思って音楽を流しても、患者さん一人ひとりはさまざまな感性をもって来院されます。音楽のかけ方や選曲のしかたひとつで、患者さんにとって心地よい音楽にならないことも当然あるのです。

そんな失敗例を紹介すると、ひとつはピアニストの患者さんにうっかりピアノの曲を流してしまったことです。「その音楽止めてくださる」と言われてはっと気づいて、平謝りしてすぐに曲を止めると、患者さんがおっしゃるには、他人のピアノを耳にすると「なんでここはそう弾くのかな?」とか、つい反射的に仕事モードに切り替わり、よけい聴き入ってしまうのでちっとも休まらないとか。至極もっともな話です。カルテの特記事項に「BGMはクラシック以外」と明記して、以後気を付けたことはいうまでもありません。

もうひとつの失敗例は40代の女性。バッハのピアノ曲を流していたら「この曲、別れた亭主がバカみたいに好きでね。」とぽつり吐露されました。せっかく鍼灸で気持ち良く寛いでいるのに、音楽によって余計な記憶を呼び覚ましたということ。ポピュラーな曲ほど、聴き入ってしまい、さらにそこに思い出が絡んでいれば、かえって気を取られて邪魔になってしまうということです。

ここで、治療室での理想的なBGMを考えてみます。たとえば、フランスの作曲家エリック・サティ(1866~1925)が実験音楽として提唱した「家具の音楽」のようなものが最も相応しいのではと思っています。

この「家具の音楽」とは、聴いて!とばかりに前方からやってくる音ではなく、たとえば街を歩くとまわりから聴こえてくるさまざまな音のように、やんわりまわりから穏やかにやってくる音です。聴き手はそれらの音に全面的に感情移入するわけでなく、無意識的に、半無意識的に、なにげなく聴いて、邪魔をされない、それでいて心地よい―と思えるそんな音楽です。

そんな「家具の音楽」のような理想の音楽は、具体的にはなかなかないのですが、次のような選曲の仕方や音楽のかけ方で、それに近い演出はできると思っています。
① 穏やかな曲。アダージョやラルゴなどが理想。
② ポピュラーでない曲。バロック音楽とかピアノやチェロなどの室内楽。
③ 音量を下げて聴く。何気に音が流れている感じのする音量で聴く。

結局、心地よい「音楽」とは、心地よい「流れている音」なのかもしれません。流れていないと室内の空気も流れていないような気がして息が詰まってきますし、流れていると室内の空気と、患者さんとの気の流れもスムーズに流れるような気がしています。

※『音楽の手帖/サティ』青土社(81年)
  サティの音楽は今やポピュラーになりすぎて「家具の音楽」とはいえないかも。
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第62話:露伴が説く「気を張る」こと

◆物には物の気がある。
菊には「菊気」、梅には「梅気」、竹には「竹気」、茶には「茗気(めいき)」、薬には「薬気」、酒には「酒気」、一切種々の物には一切種々の気がある。たとえば金木犀。“かをり”が気をひく間は目いっぱい「金木犀の気」は張り、花がほころんで“かをり”を失せた頃にはその気が弛む。また一年を通してみれば、春に芽をふく頃には「金木犀の気」は次第に張り始めるも、秋に葉が落ちれば急にその気が弛む-というように、幸田露伴は物の変化の時々をそれぞれの気の変化として説明します。

◆「気の張弛」は「気の消息」
一事が万事、物にはすべて気があり、いつも同じ状態などなく、その時々の変化の実体は、「気が張る」と「気が弛む」という「気の消息」にあるとします。自然界において、日の出と入り日、上げ潮と引き潮、満月と新月があるように、すべての物事において、これから盛んになっていく様子を「気が張る」とし、これから衰えていく様子を「気が弛む」と表現します。言い換えればこれは「陰陽論」と同じ。露伴は、たえず変化して止まない物の変化を「陰陽」で表現する代わりに「気の張弛(ちょうし)」として表現しているわけです。

タオイストの露伴は「人」を「自然」の一つと見、人の日常生活の処し方、人生の処し方に至るまでを、自然界の物と同様に、「気が張る」「気が弛む」としての「気の消息」として捉えます。朝起きると同時に「気が張って」活動を始め、夕方日が沈むと同時に「気が弛み」身体は休息へと向かう。こうして一日の内に「気が張る」ときと「気が弛む」ときがあり、全体のバランスをとりながら日々成長していきます。さらに永い人生の道のりでいえば、青壮年期の頃はすべてにおいて「気が張って」気力旺盛であるが、老年期となれば次第に「気が張る」ことが長く維持できなくなってゆく―これも自然のことわりです。

◆「気を張る」とは「気」を入れること
そうした中、人間活動にとって一番重視すべきことが「気が張る」ことである―と露伴は強調します。ここで「気が張る」というのは、何かをするときに絶えず「気」を入れてやること。反面、苦痛を我慢して努力することは「つとめて(無理をして)気を張る」ことであり、これは本当の「気が張る」ことではない。本当の「気が張る」とは、「気」を入れることで、苦痛を忘れるとか、これを物の数ともしないこと。いわば「おのずから(無理しないで)気を張る」ことである―と露伴は独特の持論を展開します。ちなみにこの「気を入れる」ことを「全気全念で事を為せ」という言い方をしています。

「天数、人事、人寿、この三者を考察して、張る気を持続せよ。ただそれ能く日において張り得よ、夜において善く弛まん。ただそれ生において張り得よ、死において善く弛まん。」

これは「進潮退潮」にある結語の行(くだり)です。天数(自然)、人事(人間社会)、人寿(人間の寿命)には、共通した生々の気が流れていることを認識したうえで、「気が張る」べきときはしっかり「気を張り」、「気が弛む」べきときはしっかり「気を弛ませ」ようと論じています。

◆日常生活にこそ「気を張る」
露伴が説くこれらの主張で特に興味深いのが、「気を張る」べきときを、あくまでも「日常生活」に力点を置いているところ。日常の瑣事(さじ)にこそ「全気全念で事を為せ」と説きます。実際、娘の幸田文に、箒の使い方、雑巾のかけ方を、露伴自らやってみせて厳しく教えこんだことは有名な話。露伴に限らず昔の日本人は、朝起きれば、寝巻やふとんをたたむ、雨戸を開ける、燈火を消す、室内を掃除するといった日常の決まりきった事柄をキチンとすることが普通でした。それが便利快適文明化した現代になると、気を入れるべき日常の瑣事がどんどんなくなっていることに気づきます。

これまで多くの患者さんを見ていると、健康で凛として長生きされている方は、総じて決まった生活ルーチンをキチンとこなしている方が多いようです。露伴がいう「全気全念で事を為せ」とは言わないまでも、いつもキチンと続けていることで自然と気が入り、無理のない自然のたたずまいにされているとみています。こうした方たちは、露伴を知らなくても、露伴の説く理想の「日常生活」を実践されているのでしょう。

文明批評を続けた夏目漱石は胃潰瘍を患い49才で亡くなっていますが、同じ慶応3年生まれの幸田露伴は、明治大正昭和に渡り悠々と東洋的理想主義を実践し、昭和22年に享年80歳で亡くなっています。わたしたち現代に生きる者にとって、「気を張る」ことを説いた露伴には、漱石に劣らず教わることがまだまだあるような気がしています。

※幸田露伴『努力論』岩波文庫(1940年)
※中野孝次『自分を活かす“気”の思想』集英社新書(2001年)

第61話:タオイスト幸田露伴

◆慶応3年生まれの文豪
慶応3年(1867年)といえば坂本龍馬が暗殺された年。この年にふたりの対照的な明治の文豪、幸田露伴と夏目漱石が生まれています。漱石は現代においても広く読み継がれている作家ですが、露伴といえば、今や娘の幸田文を通じて俎上にのるぐらいでしょうか。代表作『五重塔』にしても格調高い文語体ゆえにすらすらとは読めず、いわゆる「未読の必読書」の類になりつつ、結果露伴に対しては漱石と異なり、読書人でもなかなか食指が動きにくい作家のようです。

◆国宝的存在のタオイスト
ここであえて露伴を採り上げようとするねらいは、実は露伴が「気の思想」を明治以降初めて論じた作家であり、たいへんな「タオイスト」だったことを紹介したいのです。明治時代に、タオイズム(道教・道家思想)の実践者たる人を「タオイスト」と呼んだかは定かではないのですが、とにかく露伴は漢籍の知識が豊富、なおかつ東洋思想(当時は支那学)の全般にわたり恐ろしいくらいに造詣が深い人物です。菊池寛をして露伴は一碩学を越えた「国宝的存在」と言わしめたほどでした。

「元来詩の類というのでもないが、また科学の書というのでもないから、旧態を存して新需に応じたのである。少しでも人に勇健の気を振起さすることにおいてこの書が役立たば、初念今願、本より異なるところなく、わが満足するところである。」 (『努力論』あとがきより)

これはまだやさしいほう。とにかく露伴の文章は漢文口調の多い文語体で、使う文字は難しく読むには難儀します。小説の他に史伝、論説、随筆を遺していますが、露伴は自然主義文学の「言文一致」の流れには乗らず、かといって漱石のような近代文学とは趣を異にして、徹頭徹尾、近代とかかわりのない場所で、悠々と東洋的理想主義を生き続けた稀有な文学者と言われています。ゆえに東洋医学に携わる者としては、文章が難しいとはいえ看過するわけにはいかないのです。

◆『努力論』にみる「気の思想」
露伴がタオイストぶりを大いに発揮させて書いたのが『努力論』。これは明治の末期に上梓された当時の青壮年向けの人生論です。ただ題名に「努力」とあっても、たんに努力をすすめ讃えるのではないのです。西洋風にいえば「幸福論」に当たるのでしょうが、西洋の「幸福論」ではどれも人間の側からのみ論じているのに対し、露伴の『努力論』では東洋独自の人間観、宇宙観からみた、つまり「天地自然」という大局の側から論じた幸福論といえます。

『努力論』を読んで驚くのが、露伴が説く「気の思想」。本の後半「静光動光」「進潮退潮」という題がついた章になると、「気」というものが人間の活動にいかに決定的な作用を及ぼすかを説いています。タオイスト露伴がその全学識を動員して展開する「気」についての深奥な考察こそ、この本の真骨頂といえるところでしょう。

特に、露伴が人間活動にとって一番重視するのは「気の張り」ということ。全力をつくして「張る気」が人間にいかに大きな仕事を為させてきたかをみると同時に、気が張ることを妨げるさまざまの心の状態と、その時々の「気のありよう」について、実例を挙げて読者にしめしてみせます。「張る気」に対するのが「弛(ゆる)む気」であり、他に「凝(こ)る気」「散(ち)る気」「亢(たかぶ)る気」「逸(はや)る気」など、気が張ることを妨げる気の数々を列挙して、実際日常生活の中でそれらが人にどんな状態をもたらすかを解説しています。

◆現代に生きる露伴の教え
こうした「気のありよう」の分類は露伴の独創とばかりに、無視したり看過したりすることはとてももったいないことだと思っています。実際のところ、東洋医学において露伴のこうした「気のありよう」を採用している臨床家をこれまで聴いたことはないのですが、今まで採りあげなかったことの方がむしろ不思議なくらいです。ここ数年、わたしは治療の中で患者さんの「気のありよう」を露伴の分類を基に検証していますが、患者さんの時々のこころの状態とこの「気のありよう」が実に符合しているという感触を得ています。

『努力論』の最終章として「説気 山下語」という不思議な名の一章が設けられています。なかなか難しい文章ですが、遅々として読み解いていくと、露伴は中国の古典、たとえば「望気術(気を察する方法を説いた書)」とか東洋医学のバイブル『黄帝内経(こうていだいけい)』に総じて精通していることが分かります。さらに中国伝統医学について批判を含めて論究もしています。まさに「国宝的存在」のタオイスト幸田露伴は恐るべしなのです。
                                    (次第62話につづく)

※幸田露伴(1867~1947)
 慶応3年の翌年が上野の戦争があった明治元年。昭和22年没。享年80歳。
慶応3年生まれには夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨ら七人がいて坪内祐三の『慶応3年生まれ7人の旋毛曲り』に詳しい。
※幸田露伴『努力論』岩波文庫(1940年)
 明治45年(1912年)に東亜堂から刊行。昭和15年(1940年)に岩波文庫から再刊。
※中野孝次『自分を活かす“気”の思想』集英社新書(2001年)
 露伴『努力論』の解説書。他に斎藤孝の解説書があるが未読。
※現代日本文学大系4『幸田露伴集』筑摩書房(昭和46年)

第60話:わが母の教え給いし「お灸の話」

わたしの母は85歳で亡くなるまで毎日お灸(カマミニ)をしていました。70歳を過ぎてから、慢性の心臓病と坐骨神経痛を抱えていました。78歳には心房細動から血栓が腎臓に飛んで腎梗塞を起こし、片方の腎臓が機能しなくなります。それではと、わたしが帰省した折に母にお灸を勧め、適当なツボを教えました。78歳から亡くなるまでほぼ7年間、毎日お灸したことになります。直接治療してあげられない親不孝のわたしができることは、毎月お灸を送ってやることぐらいでした。

ときおり電話で様子を聴きながら、お灸の効果のほどを確認してみると、母はお灸がすっかり気に入った様子。ところが母の口からは、わたしが教えたことのないツボの名前がポンポンでてくるのです。どうも自分でツボの本を買って研究を始めたようです。大正生まれの母は終戦前後に教員をしていました。基本的に人の話を聴くより人に教えることが好きな性格。あとになって、母が持っているツボの本を見せてもらうと、要点どころに朱線がいっぱい引いてありました。

そんな研究熱心な母は、次第にプロであるはずの息子にしっかりお灸の講義?をするようになります。気丈に話す母はとてもうれしそうなので、わたしは電話口で「ハイハイ」と黙って聴いてあげます。そのときにメモをしたのが次のような内容でした。

◎「三陰交(さんいんこう)」は足が温まり調子が良い。冷えがひどいときは2個並べてやるといいようだ。お灸の代わりに円皮鍼を貼るのも持続的に効いている感じがするが、はがれてしまうのでやっぱり毎日のお灸の方がよい。
◎「大敦(だいとん)」にお灸を毎日したら失禁の量が半分に減ってきた。
◎白内障の手術をする前は毎日「二間(じかん)」にすえていた。幾分いいようだった。
◎便秘には「神門(しんもん)」に灸をすると必ず翌日までには排便がある。左の「神門」の方が効くとされているので左に2個右に1個をすえている。
◎食後にお灸をすると効果が半減するのでさける。(食後は消化器系に血液が回るから)
・・などです。(実際はすべて庄内弁で話しています)

こうして母は、きわめて実証主義的な姿勢で毎日お灸をしていたわけです。身をもってわたしに教えてくれたことに感謝するばかりです。母の最期は、家族にそれほど介護を煩わせることなく、病院に入院することもなく、自宅で静かに亡くなりました。お灸のもつ「力」を母が教えてくれたと信じています。

第59話:宮沢賢治と法華経

◆賢治の「宗教性」
宮沢賢治の世界を理解する上で、縄文文化に通ずる自然観(第58話参照)のほかに、仏教とりわけ「法華経」を軸とする「宗教性」を無視しては考えられないとよくいわれます。賢治を『雨ニモマケズ』から想像する二宮金次郎のような実践的モラリストとして捉えていた私には、いきなり「宗教性」といわれても意外な気がしました。それが齢五十を過ぎたころ、仏教に興味をもち始めると、なるほどそうなのかと思いながら、賢治の童話を読むようになりました。

たとえば『銀河鉄道の夜』には、現実の世界と夢の世界と、それからいわば仏教でいう死後の世界との接続が、実に見事に描かれています。銀河を走る列車そのものが大乗仏教の「大きな乗り物」を象徴しているという見方もできます。そうかと思うと、列車の乗客によって信ずる宗教が違えば死後の「理想の世界」が違うように、それぞれ降りる駅が違う様子も描かれ、仏教を中心にすえながらも、宗教上の普遍的なテーマを賢治は提示しているようにも読めます。

◆「法華経」の修行者
興味をもつにつれ、人生37年の足跡をたどると、実際の賢治は「法華経」のひたむきな修行者であったことが分かってきます。こうした賢治に対して、法華経信仰を基とする「法華文学」を志向した作家という評価もあります。ところが賢治は、作品の中では「法華経」のことを決して声高に主張することもなく徹底して謙虚です。むしろ「法華経」の教えを隠喩として作品にちりばめているスタイルに、深い思想と高い品格が感じられます。ここで「法華経」の教えとは一言で「菩薩行(ぼさつぎょう)」です。わかりやすく言えば「相手が何を考えているかを察して、自分を粉にして相手を救済する」ということ。『農民芸術概論綱要』のなかの有名な一節「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」は、まさに「菩薩行」の精神だと理解できます。

◆晩年の「菩薩行」
賢治の生涯の中で、「菩薩行」の信念を最もつよく感じるのは昭和6年賢治35歳の年です。それは18歳に発症した肋膜(結核性胸膜炎)が悪化してついに病に伏した年にあたります。それまでの小康状態を幸いに東北砕石工場と嘱託契約を結んだ矢先、石灰肥料と壁材料の開発のために東奔西走した疲労がつもり、出張先の東京で倒れてしまいます。9月21日死を覚悟し両親に遺書を書いた賢治は寝台列車で郷里に運ばれ、以後病臥のまま著作や相談業務をこなしたそうです。実はこの年は大変な年、満州事変が起こり世相に暗い影を落とし始めた年でした。さらに岩手県は冷害豪雨のため凶作という最悪の年。岩手の農業は冷害との戦いの歴史、賢治はなんとか力になりたいとつよく思っていたことでしょう。そんな中での11月3日、手帳に記した詩が『雨ニモマケズ』でした。賢治は「デクノボウ」と呼ばれてもまさに菩薩(救済者)であろうとした人でした。

翌昭和7年、賢治36歳。すでに死を覚悟した賢治が、救済の回答として書きあげたのが童話『グスコーブドリの伝記』ではなかったと思います。主人公の少年ブドリは、飢饉のさなか家族の離散を経験します。働き場所を得ながら自分で勉強し、師匠といえる人物に出会い成長してゆき、最後は自分を犠牲にすることで多くの農民を冷害から救うという物語です。当時の賢治の思いを重ねて読むとよけい感動します。

徹底して謙虚な宮沢賢治という人は、立派な童話を遺したいと思っていたのではなく、社会に役立つためには自分は何をすれば一番よいのか、いつもそればかりを考えていた、まさに「菩薩行」の実践者だったのだと思います。賢治は昭和8年9月21日永眠、享年37歳。両親に遺書を書いた日からちょうど2年後でした。賢治の願いが通じたのか、その年の岩手は豊作だったそうです。



※宮沢賢治(1896~1933)
賢治は「明治三陸大津波」の1896年(明治29年)に生まれ、「昭和三陸大津波」の1933年(昭和08年)に亡くなる。37年の生涯のなかで、岩手県には凶作の年が何度もあった。
※宮沢賢治「法華経の修行者としての年譜」
18歳のときに読んだ島地大等の「漢和対照妙法蓮華経」に感動し、浄土真宗徒の父親を押切って24歳には日蓮宗系の「国柱会」に入信。35歳に手帳に記した『雨ニモマケズ』の次頁に「南無妙法蓮華経」と記す。37歳で亡くなるときは「国訳妙法蓮華経」1千部を翻刻して知己に贈るように遺言する。
※宮沢賢治『宮沢賢治万華鏡』新潮文庫(平成13年)
※『もう一度読みたい宮沢賢治』別冊宝島1463号(07年)
※梅原猛『日本人の「あの世」観』中公文庫(93年)

第58話:宮沢賢治と縄文文化

◆賢治が描く東北と縄文
宮沢賢治は昭和8年に37歳で亡くなるまでほとんど本が売れなかったそうです。賢治が理解されるようになったのは皮肉にも賢治が死んでからでした。時流を抜きんでた深い思想と高い品格をもつ賢治の作品は多くの人の注目を集め、死後10年にしてすでに古典になったとも言われています。死後80年の現在でも、賢治の作品はよく読まれ、賢治の評価は日々に高くなっているように思います。

♪あかいめだまの さそり  ひろげた鷲の つばさ
 あおいめだまの 小いぬ  ひかりのへびの とぐろ♪

高倉健主演の『あなたへ』には、この賢治が作詞作曲した『星めぐりの歌』が挿入歌として効果的に使われています。名作『銀河鉄道の夜』にもでてくる「銀河のお祭り」というのは今の「七夕」で、これはもともと中国の道教にあった「星祭り(星辰信仰)」が伝わったものだと言われています。東北にはこうした「道教」につながる風習やお祭りがいくつか残っています。

ただこれらはそのまま伝わったというより、もともと東北地方の底流として1万年も続いていた縄文文化が、伝来した道教の自然観に感応して融合したとみたほうがよいと考えます。縄文文化は世界でも珍しい土器を有した「狩猟採集文化」でまったく自然に依存した文明です。ただ全くの狩猟民ではなく、山奥深くの樹の下に棲む人々で、栗とかドングリを主食にしていたといいます。そこでは人間と動物ばかりか、人間と植物の区別も本来存在しない世界です。そうした縄文文化の世界観は、アイヌや、大和民族によって滅ぼされた蝦夷(えみし)に残る世界観へと脈々と繋がっています。

賢治の童話の世界では、動物や植物が人間のごとく生き、動物や植物が人間のごとく語ります。宮沢文学がもつ世界観とは、そのような縄文的な伝統の中で理解する必要があるようです。

◆『なめとこ山の熊』の世界観
そんな縄文の世界観に通じる賢治の代表的な童話に『なめとこ山の熊』があります。東北一円に点在していたマタギと熊の交流を描いた童話です。マタギとは東北のブナ林に拠る山人(ヤマビト)のこと。『なめとこ山の熊』の主人公は熊捕り名人の小十郎。小十郎は熊を捕って毛皮と熊の胆を売るのですが、これはあくまで生活の糧、だから「熊が憎いから殺しているわけではない」といいます。小十郎は次第に熊が何を話しているか分かるようになります。あるとき熊を撃ち殺そうとしたときに「あと2年待ってくれ」と熊に命乞いをされます。小十郎はその願いを聞いてあげると、その熊は2年後に約束を守ってその身体を提供します。その後、年老いた小十郎は逆におのが身を熊に提供するときが訪れます。襲った熊は「小十郎おまえを殺すつもりはなかった」とつぶやきます。小十郎はまるで熊と同化するかのように死んでゆくのですが、最後は山の上に臥した小十郎が、まるで熊に祀られるかのようなシーンを残して物語は終わります。

民俗学者の柳田国男は、山人(ヤマビト)は先住民族の生き残りと考えていました。山は死者の世界であるので、山人はどこかで死霊と関係をもつものとも考えられてきました。先住民族が、稲作を業とする大和民族に追われ山の中へ逃げたのです。そうした縄文人の遺民が山人だと柳田国男は考えました。賢治の『なめとこ山の熊』はそうした世界をいかんなく描いた童話だと思います。

◆作品の永遠性
宮沢賢治は、ある童話集の序文で書いていたことですが、数々の童話は頭のなかで空想して書いたのではなく「岩手県の田園の光と風から生まれたものである」というふうに語っています。賢治がイーハトーブと呼ぶ岩手県の田園に立っていると、次第に光と風によって縄文の語り部が語り出し、賢治のこころに物語がどんどん降りてきたのかもしれません。こうしてみると、賢治が遺していった作品の数々は、賢治という個人の作品価値を越え、現代の私たちや未来の人々にまで、永く読み継がれるほどの永遠性を秘めているように思えてきます。

※宮沢賢治『宮沢賢治万華鏡』新潮文庫(平成13年)
※『もう一度読みたい宮沢賢治』別冊宝島1463号(07年)
※梅原猛『日本人の「あの世」観』中公文庫(93年)

第57話:東洋の仏性論からみた自然観

♪ミミズだって オケラだって アメンボだって
 みんなみんな 生きているんだ 友だちなんだ ♪ 

やなせたかし作詞「手のひらを太陽に」のおなじみのフレーズです。自然界の生きとし生けるものすべてが共生しているという自然観は、日本古来の神道や縄文に通じるアニミズムの世界観にみることができますが、さらに仏教―インドで生まれ中国に伝わり、そして日本に渡った仏教―の中にもみることができます。ことにそうした自然観は仏教の「仏性論」という概念に繋がります。今回のテーマは「仏性論からみた自然観」ということで、自然観に繋がる「仏性論」の系譜をたどってみます。

はじめに、大乗仏教を代表する『涅槃経』です。このお経には「人が本来持っている仏となる本性」を論ずるいわゆる「仏性論」のくだりがあります。サンスクリットで書かれたその経文は、中国に渡り次のように漢訳されます。
「一切の衆生、悉(ことごと)く仏性を有す」
ここで「衆生」とは仏教用語で「有情の(感情のある)ものすべて」という意味。つまり「生きとし生けるものはことごとく仏になる性質がある」ということです。ところが、インドでは有情のものは動物まで、植物は感情がないから無情の存在で仏になれないとなります。仏教徒は肉食を禁じられても、菜食を禁じられないのは、植物は「衆生」に含まないので食べてよいことにした―という解釈もあります。

七世紀になると、中国天台宗の中で変化が現れます。仏性の対象が「有情のもの」からさらに、植物などの「無情のもの」にまで拡大解釈されるのです。つまり「人間ばかりか、感情のない草木土石まで仏性があります」ということになったのです。それを唱えたのは、中国天台宗の開祖智顗(ちぎ)から数えて六祖の妙楽大師湛然(たんぜん)(771~782)。湛然は『金錍論(きんぺいろん)』の中でこう述べます。
「乃ち是れ一草、一木、一礫、一塵、各(おのおの)に一仏性あり」
この時代は唐代玄宗皇帝のころ。国教である道教の隆盛により、仏教が大きく衰退した時代。そんな中で、湛然は中国天台宗を再興した中興の祖と呼ばれています。仏性論が「有情+無情」と変化した背景には、宗教哲学としての道教の影響があると識者は指摘します。つまり中国天台宗がタオイズム(道教)の自然観を受け入れることで融合し、中国流の仏教に進化したともいえるのです。

さらに舞台は日本に移ります。平安時代、最澄が比叡山に興した日本天台宗です。最澄は遣唐使として入唐した折、湛然の弟子らに天台の教法を教わっています。さらに時代が下り、日本天台宗が密教化を推し進めた時代、安然という高僧が『斟成草木成仏私記』に、動物だけではなく植物にも、さらには国土にまで「仏性」を認め、さらに「成仏」へと拡大し、
「草木国土は悉(ことごと)く皆(みな)成仏す」という有名な言葉を残します。
このことは、中国天台宗の湛然の考えを強調したばかりか、「衆生はもともと仏性を具わり誰でも仏になれる」とするいわゆる「天台本覚思想」の根幹をなしています。比叡山は一大宗教センターとしての役割をなし、以後、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)、道元(曹洞宗)がここ比叡山から輩出します。そうした中で「天台本覚思想」は多くの方面で影響を与えたといわれています。

さらに、「有情」と「無情」の境をなくして「草木国土悉皆成仏」という言葉を生んだのは、日本天台宗が密教化するにつれて、土着の山岳宗教や神道と習合したということを意味しています。なぜなら中国密教はもともと道教の自然観と深く結びついています。従って日本天台宗が蜜教化することは、比叡山に土着する山岳宗教や神道がもつ日本古来の自然観と結びつくことは「自明の理」であると解釈できるのです。

このようにインドに生まれた仏教は、中国に伝わって漢訳されると、タオ(道教)の思想を取り組んだ「漢訳仏教」にかわり、中国の「漢訳仏教」が日本に渡ると、日本古来の山岳宗教とか神道や縄文に通じるアニミズムの世界観とうまく習合し、日本独自の仏教に進化していきます。日本人がもつ「自然観」とは、そうした系譜の上に成り立っているのだと思っています。


※五木寛之・福永光司『混沌からの出発―道教に学ぶ人間学』致知出版社(平成9年)
※「草木国土悉皆成仏」は「山川草木悉皆成仏」という言い方もあるが、これは梅原猛による創作。中曽根康弘が梅原猛に教わり、これを演説で使用したらしい。
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