第69話:朝鮮が近かった時代



◆「環日本海諸国図」からみえるもの
上の写真は以前、神奈川大学の市民講座で網野善彦が紹介して話題になった「環日本海諸国図」です。これは富山県が作成したものですが、見慣れた地図を逆さにするだけで、東アジアの印象を大きくかえます。海と思っていた日本海は実は大きな湖のようなものであり、それを挟みこむ日本列島と中国大陸と朝鮮半島が、こんなにも近接していることに気づかされます。日本海の大きさはメキシコ湾やハドソン湾とそうは変わらないとか。福岡から釜山までは直線距離で約200キロ。それは福岡から鹿児島までの距離に等しく、高速フェリーを使えば同じ所要時間で韓国に日帰りで焼き肉を食べにいけるそうです。かつての大和朝廷が北九州に防人(さきもり)を配備したわけが、これでなるほどと頷けます。

古代の人々にとっても、海路をつかえば海流や海風によって相当早く運んでくれることを既に知っていました。大陸や半島は決して遠い世界でもなく、実際6世紀の「飛鳥時代」には大陸は隋から唐の時代、半島は高句麗・新羅・百済の三韓時代でしたが、遣隋使・遣唐使の派遣はもちろんのこと、特に朝鮮半島と日本における人の交流はわたしたちが想像する以上に盛んに行われていました。

◆仏教と医学が伝来した「飛鳥時代」
その「飛鳥時代」に目をおとしてみます。仏教が日本に伝わり、聖徳太子が「十七条の憲法」を制定し、大運河をつくり始めた隋の国と国交が開かれた頃の日本は、大臣(おおおみ)の蘇我氏、大連(おおむらじ)の物部氏に代表される氏族たちが醜く争った時代でした。朝鮮から渡ってきた人々の家が七千軒もあり、朝鮮の言葉が町に流れ、この人達(渡来人)の持って来た学問や技術が朝廷で重要な役を占め、氏族の争いに巻き込まれていくのです。

欽明天皇の時代に仏教が百済から公式に伝来します。「朝鮮経由で伝来」というより「朝鮮百済から伝来した」という点が重要です。当時の百済は高句麗・新羅の両国と緊張状態にあり、攻められるたびに都を変えていました。大和朝廷はそうした百済の窮乏を支える友好国の立場であり、後に百済を守るために唐・新羅連合軍との「白村江の戦い」に水軍を派遣して打って出るのです。百済は日本に救済を求める代わりに、中国伝来の仏教を、仏像(釈迦太子像)と経典を以て差し出したのです。欽明天皇は即座に仏教を受け入れたわけではなく、釈迦太子像は蘇我稲目が預かります。天皇家が正式に仏教を受け入れたのはそれから約80年後の舒明天皇であり、舒明天皇は百済大寺を建立します。

話を欽明天皇の時代に戻すと、仏教伝来の翌年には、欽明天皇が詔を出して使いを百済に派遣して、医博士・易博士・暦博士を交替で来朝させ、かつ卜書・暦の本や種々の薬物を送らせたと「日本書紀」に記載されています。さらに鍼灸関係についての伝来も、同じく欽明天皇の時代に大友狭手彦(おおとものさてひこ)によって高句麗から中国伝来の「明堂図」と薬書・本方書がもたらせたとあります。このように古代の日本は朝鮮を窓口として大陸からの文化と技術を吸収してきたのです。

◆渡来人との交流による友邦の歴史
「大化の改新」後の「白鳳時代」に入ると百済が滅び、それをきっかけに百済からの多くの亡命者が渡来人として日本に移り住んだと言われています。また、中大兄皇子と共に活躍した中臣鎌足は「藤原姓」を拝領して、息子の藤原不比等の代からは絶大な権力を握ります。その中臣鎌足についての出自が不明なことから、最近の研究では鎌足は百済の王子である豊章(豊璋・余豊とも書かれる)と同一人物であるとする説もあるのです。

日本と朝鮮のこれまでの永い歴史を顧みると、友邦とも脅威とも、また手本とも競争相手とも、硬軟是非を含めて常に意識し続けてきたのがわかります。日本人が地理的にはこんなに近い関係にあることに気付いていないのは、最近の領土問題に象徴されるように、常に排他的な政治的イデオロギーが状況に応じて見え隠れするからでしょうか。かといっても、歴史は互いに共存共栄としての「友邦」から始まっているのは確かなこと。それと渡来人の子孫の系図は脈々と現代にまで続き、日本は決して単一民族として成り立っているなどとは幻想にすぎないということです。

歴史から教わることがあるとすれば、かつて町に朝鮮の言葉が流れ、多くの渡来人との交流と融合によって日本の文化の礎を築いたという「原風景」をいかに想像できるかということかもしれません。


※[飛鳥・白鳳年表]
538年(欽明戌午) 百済より仏教伝来(元興寺縁起説)
552年(欽明十三) 百済より仏教伝来(日本書紀説)
593年(推古元)  厩戸皇子(聖徳太子)による政治
596年(推古四)  飛鳥の法興寺(飛鳥寺)竣工
600年(推古八)  遣隋使派遣(第一次)
622年(推古三十) 聖徳太子亡くなる
623年(推古三一) 新羅より仏像など送り来たる
630年(舒明二)  遣唐使派遣(第一次)
639年(舒明十一) 舒明天皇、百済大寺を建てる
643年(皇極二)  山背大兄王一家滅ぶ
645年(大化元)  蘇我蝦夷・入鹿滅ぶ(大化の改新)
660年(天智二)  百済滅ぶ
663年(天智二)  白村江の戦
669年(天智八)  藤原鎌足亡くなる
670年(天智九)  斑鳩の法隆寺被災
671年(天智十)  壬申の乱
710年(和同三)  平城遷都

※直木孝次郎著『日本の歴史2・古代国家の成立』中央公論新社(1973年)
※田村圓澄著『仏教伝来と古代日本』講談社学術文庫(昭和61年)
※田村圓澄著『古代朝鮮と日本仏教』講談社学術文庫(昭和60年)
※松岡正剛編『NARASIA』丸善(2010年)
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第68話:鍼灸がとりもつ「ご縁」

◆ご縁としての鍼灸
鍼灸の専門治療院となると、マッサージとか指圧の治療院に比べて、初めての方にとってどうしても敷居が高いようです。それは「鍼をどのくらい刺すのか?」とか「鍼は痛くないのか?」という不安から、「どんなふうに治療するのか?」「どんな人が治療するのか?」という基本的なことまで、初めての方にとっては「鍼灸」がとにかくブラックボックスだらけの未体験ゾーンということ。そうした不安なり先入観なりを払拭するために、鍼灸に関しての正しい情報を啓蒙すべきことは、わたしたち治療家にとって常に心しておく課題です。(このブログもその目的のひとつですが。)

と言いながらも幸いなことに、通院されている患者さんは、自分で調べて来院された方よりも、知り合いに紹介されて来院された方のほうが圧倒的に多いのです。安心して来院するための判断材料は、やはり知り合いからの口コミ情報が一番ということ。さらに紹介者が事前にレクチャーをして、なおかつ来院するように背中を押してくれたりします。院主のわたしはそうしたご好意に安住してばかりいるのですが、ただ鍼灸治療院の特殊性といってよいのかわかりませんが、鍼灸治療の世界とは、ある意味「人と人のご縁」があってこそ成り立つものと思っています。

◆紹介というシステム
患者さんと治療家の間には、信頼関係が欠かせません。紹介者が仲立ちすることは、その信頼関係を築きやすい環境づくりへとお膳立てするようなものです。さらにそのことで治療の上での「気の交流」もとてもスムーズになります。よく「紹介される時点から治療は始まっている」と言われます。これは師匠から教わった至言ですが、こうした紹介システムの特長をよく表しています。つまり、紹介者の患者さんに対する思いが、実は治療という流れのひとつとして事前に反映されていると解釈できます。

◆鍼灸がとりもつ
先日のこと、患者さんのAさんのご依頼で、大病をされている友人のBさんのご自宅に出張治療をしてきました。「少し身体が楽になってとても喜んでいましたよ」と後でAさんから連絡をいただきました。大変な病気をかかえながらも、いくらかでも身体を楽にしてあげたいというAさんの思いが、きっとわたしが据えるお灸のひとつひとつに反映されたのだと思います。

そうした鍼灸がとりもつ「ご縁」を大切にしながら、これからも多くの方々に治療していけたらと願っています。

第67話:鍼灸の時間医学

◆12本の経絡
気血が流れる12本の「経絡」は独立した存在ではなく、決まった順番で全部が繋がっています。これを「流注(るちゅう)」と呼びます。初めに肺経から気血の流れはスタートして、終わりを肝経とし、そしてまた肺経へ戻る。全体がまるで「メビウスの環」のような周回運動の中で気血が巡り巡って、昼に50回、夜に50回循環を繰り返すといいます。

肺経[始点]⇒大腸経⇒胃経⇒脾経⇒心経⇒小腸経⇒
⇒膀胱経⇒腎経⇒心包経⇒三焦経⇒胆経⇒肝経[終点]

◆12の時間(とき)
この経絡の「流注」と、「十二辰刻(じゅうにしんこく)」で表す「時間」とを結び付けたのが、鍼灸における「時間医学」の概念です。これは金元宋時代あたりに生まれています。これを一覧表にまとめると以下の通りです。

[十二辰刻]        [中心時刻]  [経絡]
[子の刻](23時~01時)[午前00時]  胆経   ↓
[丑の刻](01時~03時)[午前02時]  肝経 [終点]
[寅の刻](03時~05時)[午前04時]  肺経 [始点]
[卯の刻](05時~07時)[午前06時]  大腸経 ↓
[辰の刻](07時~09時)[午前08時]  胃経   ↓ 
[巳の刻](09時~11時)[午前10時]  脾経   ↓
[午の刻](11時~13時)[午後12時]  心経   ↓
[未の刻](13時~15時)[午後02時]  小腸経 ↓
[申の刻](15時~17時)[午後04時]  膀胱経 ↓
[酉の刻](17時~19時)[午後06時]  腎経   ↓
[戌の刻](19時~21時)[午後08時]  心包経 ↓
[亥の刻](21時~23時)[午後10時]  三焦経 ↓ 

◆時間と経絡と病
それぞれの経絡が旺盛になる固有の時間があるということ。たとえば肝経であれば「丑の刻(午前2時)」、心経であれば「午の刻(午後12時)」に、気血の流れが旺盛になるという意味です。ただし病気はその裏返しで、気血の流れが滞りやすくなると、「丑の刻(午前2時)」には肝の病、「午の刻(午後12時)」には心の病になりやすいという意味にもなります。

興味深いことは、このような東洋医学の「時間医学」が実際の病気と符合すること。たとえば、喘息発作が起こりやすい時間帯は、早朝の午前4~5時あたりに多いのはちょうど「肺経」の時間。心臓発作が起こりやすい時間帯はちょうどお昼時に多いのはちょうど「心経」の時間。そして胆石発作が起こりやすい時間帯は午前0~1時あたりに多いのはちょうど「胆経」の時間、ということなどです。

◆「生物時間」と「時間医学」
現代では同じように「生物時間」という概念があります。代謝現象や、内臓系、神経系、内分泌系のリズムには、一日、一月、一年リズムが反映されているといわれています。ただ驚くことに、東洋医学における「時間医学」の概念は、そうした現代の「生物時間」に先駆けて提唱していたことになります。これは天地自然の「時間」と身体の「時間」がほぼ同調していることに先人は気づいていました。つまり大自然を大宇宙(マクロコスモス)、人間を小宇宙(ミクロコスモス)とみなして互いに感応するとみる「タオイズム」からみれば、人間にとってごく自然なまなざしだったのでしょう。

現代社会では、快適な生活を得たことで、天地自然のリズムをあたかも無視するような生活にもなっています。逆に天地自然についていえば、昨今の温暖化など地球規模の気象変動により、天地自然のリズムも狂い始めています。いずれにしても「生物時間」としての感度は、昔の人達より脆弱なものになっているという懸念は当然あります。

そうした背景からも、「生物時間」としての感度がとても良好だった昔の人達によって考えられた「時間医学」、現代のわたしたちにとって見直す価値は十分にありそうです。

第66話:刺さない鍼「テイ鍼」

◆ある治効理論から
鍼がなぜ効くのかという理由について、最近ちょっと気になっていることがあります。それはネット上でときどき散見する次のような内容です。

「鍼を刺すことによってできる微細な傷によって、人の身体は傷を負うと修復しようと働きます。その修復しようと働くときに血行がよくなります。」

わたしが鍼灸専門学校に通っていたのはもう20年前になりますが、当時の教科書にはこんな治効理論はなかったと記憶しています。念のため現在の「東洋療法学校協会」や「全日本鍼灸学会」などの公益団体のHPを覗いてもそうした説明は見当たらないようです。

◆刺さない鍼
わたしが気になるのは、鍼によって生ずる微細な「傷」を根拠にしているところ。いくら微細であっても「傷」をつけるという文言に違和感をもつのです。というのも、一般の方にとっては「鍼は刺すもの」というイメージがあるでしょうが、実は鍼には「刺さない鍼」もあって、しかも「刺す鍼」と同等以上の効果があります。ですからこうした「微細な傷云々・・」という治効理論には、「刺さない鍼」を含めた全体の「鍼」として考えれば、当然整合性に欠けるとしか言わざるを得ないのです。

しかし、こうした治効理論を批判するのが今回のテーマではありません。実は伝統医療である鍼灸の世界に「刺さない鍼」があるということを、ぜひここで紹介したいのです。

◆「テイ鍼」の紹介
「刺さない鍼」の代表的なものは、中国の古代から使われている「テイ鍼」(テイ=金偏に是)と呼ばれる鍼です。通常こうした「刺さない鍼」の場合は、金とか銀など特にパワーのある金属が使われます。私の治療では、金と銀の「テイ鍼」2本を、通常のステンレスの針に加えて使用しています。



上の写真は、右足の「太白(たいはく)」という脾経の要穴(大事なツボ)に、金の「テイ鍼」を当てているところです。刺しているのではなく、あくまでも軽く1分間ぐらいを目安にじっと当てます。または「テイ鍼」を経絡の走行に沿って横にしてそのまま絆創膏で止める、いわゆる置鍼(ちしん)のように使ったりもしています。これを使ったときの患者さんの反応は、「だんだんまわりが温かくなってきた」とか「足からじわじわお腹に向かって何かが動いています」など、感じ方は患者さんによってそれぞれ違うようです。

わたしの治療院では、すべて「テイ鍼」だけで治療する患者さんもいます。たとえば、皮膚がケロイドになりやすい特異的体質の方であるとか、どうしても「鍼が恐い」という方(圧倒的に男性)です。「テイ鍼」はそうした方々にとっても、安心して治療を受けられるので好評です。通常の鍼に比べて手ごたえがなさそうに思われるようですが、「テイ鍼」は身体にやさしく、気を動かすことでは鍼の中では群を抜いているのです。

第65話:養生すべき「経絡」

「加齢」という言葉を好きな人はいないでしょうが、ある程度の年齢になれば、どなたでも身体のどこかにひとつは症状をもつものです。大事なことはそうした症状に対して、しっかり向き合い養生していくことにあると思うのです。

治療家の立場から観察していると、患者さんの抱える症状には、ひとつの傾向があります。それはその方特有の「経絡」に関連しやすいということです。

たとえば、胃の調子がわるいということで来院された、自営業のAさんを例にとってみます。Aさんの主訴は胃にガスが溜まりやすいという症状でした。胃の気がスムースに下へ降りないために、胃に気が停滞している状態。温めると寛解するところから、このところの急な冷え込みがまず原因のひとつに考えられます。身体を診ると、足の胃経のツボにしっかり反応がでています。さっそく全体治療を施すと共に、反応している胃経のツボを使って治療し、胃の不快感を改善します。

そんなAさんが、3か月前に来院した折の主訴が顎関節症でした。痛くて口を大きく開けられない状態でした。実はこのときも胃経のツボを使って治療しています。顎関節周辺のこわばった筋肉は胃経のライン上にあり、そのこわばった筋肉を弛めるツボを探すと、お腹と足背部にある胃経のツボ2か所あり、そこにお灸を施しました。

一般的に顎関節症と胃の症状とは、それぞれ整形外科と内科の症状であり、一見なんの関係もないようですが、これが鍼灸の世界となると、胃経という同じ経絡上の症状として大事な意味をもってきます。つまり、Aさんは胃経上に症状がでやすい傾向にある-という事実です。こうした傾向はAさんに限ったことではなく、これまで多くの患者さんを診ていると、どうもその方特有の「経絡」がいつも治療のテーマになりやすいことがわかります。

冒頭で「ある程度の年齢になれば、どこかにひとつは症状をもつ」と指摘しましたが、その症状とは、その方が歩んできた身体の歴史の反映として浮上したものです。症状がでやすい特有の「経絡」とは、一見弱々しそうで悲しい存在のように思えるでしょうが、実はそうした身体の歴史の反映をしっかり請け負っている大事な「経絡」だと思ってみてはいかでしょうか。となれば、しっかり向き合い大事に養生すべき「経絡」となるでしょうから。

第64話:江戸の時間

落語の『芝浜』は魚屋を営む夫婦を描いた人情噺です。しっかり者の女房が、飲んだくれて半月も商いを休んでいる亭主を起こし、釜の蓋があかねーから今日こそさっさと商いに行っとくれとばかりに送り出します。いやいや出掛けた亭主は、いつも魚河岸に着く頃には夜が明けるはずなのに、今日はまだ暗くてどうも様子がおかしいと思う。そうこうしていると、時を知らせる増上寺の鐘が7つ、時は「寅の刻」。明六つの「卯の刻」はまだ一時(いっとき)さき。「おっかぁ~のやつ、一時(いっとき)間違えやがった」と、うす暗闇の芝の浜でつぶやきます。

今では落語や時代小説でしか垣間見られない、こうした「明六つ」だの「卯の刻」という独特の「時間の概念」をここで取り上げてみます。

江戸の時代は、一日を12で割った時間を「一時(いっとき)」といい、「一時(いっとき)」は凡そ2時間に相当します。この十二の時(とき)に十二支を配当して時の名称とし、これを「十二辰刻(じゅうにしんこく)」と呼びます。下図のように、十二支の順番でいくと、午後11時~午前01時が「子の刻(ねのこく)」、午前01時~03時が「丑の刻(うしのこく)」、続いて2時間毎に「寅の刻」、「辰の刻」、「巳の刻」、「午の刻」、「未の刻」、「酉の刻」、「戌の刻」、そして最後に午後09時~11時が「亥の刻」となります。



[十二辰刻]       [中心時刻] [鐘の数] 
[子の刻](23時~01時)[午前00時] 九つ(正子) 
[丑の刻](01時~03時)[午前02時] 八つ 
[寅の刻](03時~05時)[午前04時] 七つ  
[卯の刻](05時~07時)[午前06時] 六つ(明六つ)〇日の出 
[辰の刻](07時~09時)[午前08時] 五つ  
[巳の刻](09時~11時)[午前10時] 四つ  
[午の刻](11時~13時)[午後12時] 九つ(正午)  
[未の刻](13時~15時)[午後02時] 八つ(おやつ)  
[申の刻](15時~17時)[午後04時] 七つ  
[酉の刻](17時~19時)[午後06時] 六つ(暮六つ)★入り日 
[戌の刻](19時~21時)[午後08時] 五つ  
[亥の刻](21時~23時)[午後10時] 四つ   

ここで1年をとおして、日の出の時が「卯の刻」、日没の時が「酉の刻」と決まっていて、時を知らせる梵鐘は、それぞれが同じ「六つ」鐘を叩くことから、「卯の刻」を「明六つ(あけむつ)」、「酉の刻」を「暮六つ(くれむつ)」と呼びます。そこから昼と夜をそれぞれ6等分したのが「一時(いっとき)」になるのです。これは「不定時法」という時間法で、季節によっては「一時(いっとき)」の長さが伸び縮みするというということ。実際昼の「一時(いっとき)」の長さを比較すると、春分秋分のときが「2時間」、冬至のときが「1時間50分」、夏至のときで「2時間38分」となるそうです。こんなふうに季節によって時間の長さが変わってしまうなんて、現代人の頭と身体ではなかなか理解できない話ですが、実はこれこそ、自然の運行を最大限に優先した「時間の概念」といえるのかもしれません。

江戸時代の日本人は、日の出とともに起き、日の入りとともに寝る準備をしていました。それは照明などのエネルギー消費を極めて少なくしたエコロジーな生活だったといえます。商人や職人などの勤勉な労働者は、現代人のように日没後に残業するなんて到底考えられないこと。むしろお天道様を拝める時間の中でしっかり働くことを旨とし、しかも季節によって伸び縮みする時間に、身体も上手に合わせて暮らしていました。まさに自然体で無理のないライフスタイルを、江戸の庶民は普通に身につけていたことに、ただただ驚くばかりです。

十二支は「時間」だけでなく「方位」にも関連付けていいる。
例えば「辰巳の方角」といえば「東南」になる。
※「一時(いっとき)」の4分の1が「刻(こく)」で今の30分。
怪談でよくいう「丑三つ時」とは[丑の刻]の3番目の「刻」で午前2時から2時30分に当たる。
落語『芝浜』:かつては先代桂三木助の十八番でしたが、最近は立川談志があっというまに桂三木助を越えた感すらあります。図書館でCDを借りて両者聴き比べてみました。談志の落語は『芝浜』に限らず、すべての噺に独創的な演出がみられます。談志こそ名人としか言いようがありません。もっと生前に聴いとけばよかったと後悔しています。