第73話:伝統的な「透熱灸」について

◆昔ながらの「透熱灸」
最近若い女性に「お灸のブームが到来」と新聞で報道していました。使っているお灸は「せんねん灸」という市販されているいわゆる「簡便灸」で、アロマの香りを施したおしゃれな商品もあるとか。ブームの仕掛人がお灸メーカーとはいえ、こうしてお灸がいくらかでも注目されることは結構なことです。

お灸には様々な種類がありますが、わたしが治療に使っているお灸は、艾(もぐさ)を指で小さくひねって据える昔ながらの「透熱灸(とうねつきゅう)」というものです。かつては民間療法として一般家庭でも普通に使われていましたが、「簡便灸」の普及により、次第に家庭で使われなくなり、街の薬局には必ず置いてあった艾(もぐさ)もいつのまにか消えてしまいました。今や治療院だけで施術するのみとなってしまったこの伝統的な「透熱灸」は、実は「せんねん灸」などの「簡便灸」では味わえない独特の世界をもち、身体に元気を与える効果があるのです。そんな「透熱灸」の魅力をここで紹介してみます。

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◆道具一式
上の写真はその道具一式です。昔ながらの方法と少し違う点は、火傷しないように「灸点紙」という丸いシールをツボに貼って据えることです。艾(もぐさ)は蓬(ヨモギ)の葉から作ったもの。滋賀県伊吹山のものが昔から有名で、黄金色に近いものほど良質(高級品)で香りもよく、柔らかくてひねりやすくなります。艾(もぐさ)に火をつけるには、紫色の線香を使います。これはタブノキから作ったもので、仏壇用の線香よりも安価ですが香りが穏やかなのが特長です。そしてワセリン軟膏は何に使うかといえば、シールの上に艾(もぐさ)が立つようにシールの表面に少しだけ塗るためのものです。こうしてみるとほとんどが自然のもので治療していることがわかります。「お灸」は身体にやさしいまさにオーガニックな伝統医療なのです。

◆「透熱灸」の特長
指でひねった艾(もぐさ)を艾炷(がいしゅ)と呼びますが、その大きさはだいたい米粒の半分ぐらいの紡錘形。それをひとつのツボに約5~7壮据えます。病状(「症」)や体質(「証」)にあわせて必要なツボを決め、ツボ一個一個にていねいに据えてゆくので、結構手間ひまのかかる仕事なのです。

手間ひまがかかるというのは、すべて「透熱灸」だけで治療しようとすれば、複数の患者さんを並行して治療することができないということ。でもそれは患者さんとしっかり向き合ってじっくり治療するという利点にもなります。患者さんとお話をしながら、一壮一壮に気を込めるように据えてゆく営みは、自然と気の交流がはかれる「場」となります。

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患者さんはジワッーと身体の深部まで熱が届くのが、とても気持ちがよいと云います。ときには腰のツボにお灸を据えているのに、なぜか足先の方に「ジーン」と伝わります。これが「お灸の響き」といって「鍼の響き」と同じように、気の流れが広範囲に通じたことだと私は理解しています。ただ、鍼治療と大きく異なるのが、一壮毎にツボに伝わる「ジワッー」とした熱刺激が、深部にまで波状的に伝わること。こうした繊細な「刺激の加重」は鍼治療では中々だせない「透熱灸」だけがもっている最大の特長だと思っています。

「透熱灸」を含めた「お灸」には「免疫力をあげる」効果があります。お灸をすることで白血球が増え、それが免疫機構にとってよい刺激へとはたらくことはよく言われています。現代中医学では「免疫力をあげる」ことを「身体に元気を補充する」という意味の効能として「扶元気」とか「培元気」という用語を使っています。「お灸」は当にこの効能を実現するに相応しい治療手段であり、絶妙な刺激の加重さにおいて「透熱灸」は最も威力を発揮できるものとみています。

わたしの治療では、基本的には鍼治療を中心にして「透熱灸」を補助的に使っていますが、ときにはすべて「透熱灸」のみで治療することがあります。主に術後で体力を回復したい方、ガンの患者さんで抗がん剤投与など療養中の方、高齢で体力が衰えてきている方などが対象です。患者さんとじっくり向き合い、ひとつひとつのお灸によって元気が回復するように、気を込めながら据えるようにしています。
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第72話:心と身体を結ぶ「気」

◆ある夫婦の夕食での風景
「あっメールだ」と箸を止め、唸りだした携帯に手を伸ばして着信メールを確認する夫。「食事どきなのにまた仕事なの?しょうもないな」とつぶやく妻。ふと夫をみると、みるみるユーウツそうな顔に変わってゆく。妻は「なんかあったの?」と心配して聞いても「あ~」と答えるだけ。「ごめんごはんもういいや」と夫はユーウツな顔のまま自分の部屋に入っていく。しばらくして部屋からでてくると、夫はいつものように太田胃酸を服用していた。

こんなふうに、メール1本によって人は病気にもなってしまいます。もちろんメールに細菌やウイルスが付着して病気を運んできたわけではありません。メールの内容が「こころ」を不穏な状態にし、そのことが「身体」に影響を及ぼし、ナイーブな部位である「胃」をキリキリさせたということです。

◆「こころ」と「身体」
「こころ」と「身体」の間には非常に深いつながりがあります。それを問題にするのが「心身医学(psychosomatic medicine)」の立場。「こころ」の状態がおもわしくないと「身体」にいろいろな影響が及び、反対に「身体」の状態がおもわしくないと「こころ」の方にもいろいろ影響がある―という関係です。「こころ」と「身体」は実際どういうふうにつながっているかということは、現代の西洋医学、心身医学でもまだはっきり分からないのです。

ところが東洋医学からみると、それは自明のものと扱います。つまり「気」というエネルギーというものが「こころ」と「身体」の世界を結び付けていると考えます。
    「こころ」⇔「気」⇔「身体」
「気」は「こころ」と「身体」を仲介するエネルギーとみれば、「こころ」のエネルギーを「身体」のエネルギーにかえたり、「身体」のエネルギーを「こころ」のエネルギーにかえたりする力があります。ですから、精神的なことが原因で身体のどこかに異常が起きることもあれば、逆に、身体の調子を落としたことが原因で精神的にまいってしまい、こころの病気になったりもするのです。

◆「気」を調えることの意味と「鍼灸治療」
鍼灸治療やヨーガのような体操は、この「気」のエネルギーを調える治療法なわけです。「気」を調えて平穏な状態に保つことで、「こころ」の平穏と「身体」の平穏が担保されます。このことは鍼灸治療が「気の医学」と呼ばれる所以であり、養生法や予防医学としての「プライマリーケア」に通ずるところなのです。

たとえば、いったんウイルスや細菌が入ってきて病気になれば、西洋薬の方がはるかに効きます。ところが、ウイルスや細菌が入ってきても、病気の起きる人と起きない人がいます。結核菌が入ったからといっても、だれもが結核になるとは限らない。ならない人はどうしてならないのか、なる人はどうしてなるのかといえば、それはやはり、日頃の「気」の状態のバランスがうまくとれていて、心身の健康な人では病気になりにくいわけです。

鍼灸治療は、身体に「経絡」という気の流れる通路を対象に、鍼や灸を使うことで気の流れを調えようとする医療です。その眼差しの先には、絶えず「身体」のありようだけではなく「こころ」のありようにまで及んでいるのです。

第71話:岡倉天心『茶の本』に学ぶ



◆西欧に発信した『茶の本』
岡倉天心がニューヨークで『茶の本(The Book of Tea)』を英語で執筆出版したのは明治39年のこと。新渡戸稲造『武士道(Bushido:The Soul of Japan)』(明治33年)と並んで、この時代に日本(東洋)文化論を西欧社会に紹介することの意義は大いにあったといえます。この『茶の本』は、タオイスト天心が行き着いた究極の思想-道教(道家思想)を根底にした暮らしの哲学をあますことなく語った代表作といえます。「茶の湯」を軸とした東洋文化論の代表的古典として、現代に至るまで世界各国で読み継がれてきたものです。

『茶の本』のなかで、茶にはワインのような傲慢さも、コーヒーのような自意識も、ココアのような間の抜けた幼稚さもないと述べ、西欧社会にはないユニークな茶の文化を「茶碗にあふれる人間性(The Cup of Humanity)」と表現しながら、東洋文化の特質を語っています。具体的な内容としては、茶の文化が発祥した中国での歴史、特に宋代で生まれそして元の襲来とともに途絶えてしまった抹茶による「茶の湯」とその哲学的背景にあった「道教」と「禅」、後半は日本に伝わったものが「茶道」として完成していった経緯、そしてその周辺の禅の生活と芸術を紹介しています。

◆「茶道」は姿をかえた道教
中国の茶の文化は、時期により唐代が「団茶(茶を煮立てる)」、宋代が「抹茶(泡立てる)」、明代が「煎茶(浸す)」と三段階に大きく分けることができます。特に宋代の「抹茶」の流行は、仏教徒の南方禅の宗派が道教の教義を大幅に取り入れて精緻な茶の礼法を作りあげたものです。僧侶たちは達磨の像の前に集まり、神聖な儀式にのっとって一椀の茶を順に飲みます。この禅の礼法こそが、後に日本の室町時代に完成した「茶道」のルーツです。

インドから伝わった中国仏教の中で、最も中国らしい仏教が「禅」(と「浄土教」)。なぜなら「道教(道家思想)」をその教理のなかに継承し、その思想に根深く培われているからです。南宋時代は老子の思想についての最良の注釈は南方禅の学者によって書かれているほどです。そして南宋の茶が日本に渡来したのは1191年のこと。南方禅を学ぶために彼の地に渡った栄西禅師(臨済宗)がもたらしました。日本では「茶道」と「禅」の深いつながりを指摘されますが、ルーツをたどれば「茶道」の思想的背景には「道教」が潜んでいます。故に天心は―「茶道」は姿をかえた「道教」―とまで言い切ります。

◆影響を与えた「道教」と「禅」とは
では「茶の湯」の文化が作られる過程で、「道教」の何が影響を与えたのでしょうか。天心は次のように解説しています。「道教」は個人主義を擁護する思想で、私たち自身(=現在)を問題とします。現在とは絶えず変化する相対的な場とみて、自身がどうやったらそれに対応できるのか、身の回りの状況を絶えず調整していく術を問題にします。道教はこの世をありのままに受け入れ、儒教や仏教と違って、嘆かわしいこの世の暮らしの内にも美を見出そうとする思想です。宋代には、その「道教」の影響が強まって、現実を宇宙真理の反映・象徴としてみる発想から、「現実そのものが宇宙真理なのだ」という発想の転換が起こります。さらにそれが「禅」の発展に繋がり、日々のありふれた暮らしの細々とした事柄のうちに、宗教儀礼と同様の偉大さを見出します。つまり「茶の湯」の理念はそうした「禅」の考え方に由来し、日本においては「茶道」を「禅」の精神にまで結実したのです。

以上のように、岡倉天心の『茶の本』では、「茶の湯」の系譜を貫く「道教(道家思想)」、「禅」という根本思想を遡上にあげ、儒教や仏教以上に本質的な東洋人の人生哲学であると説いています。

◆雅号の「天心」
ちなみに本名岡倉覚三の雅号である「天心」を調べてみると、「道教」の瞑想法の経典『太乙金華宗旨』(唐代)にあります。「天心」の意味とは、両眼の間に潜在する天上の光(天光)のことである、と説かれています。両眼の間とは「上丹田」のことであり、仏教では釈尊が悟りをひらかれたときに光を放ったという「白毫(びゃくごう)」のこと。アジアに止まらず広く西欧に、伝統東洋文明の伝道師として当に光を放った天心は、まさにタオイストに相応しい雅号だったということです。

※岡倉天心著/大久保喬樹訳『新訳・茶の本』角川ソフィア文庫(平成17年)

第70話:タオイスト岡倉天心



◆六角堂
北茨城の五浦(いづら)にある岡倉天心(1862~1913)ゆかりの「六角堂」です。東日本大震災の津波で流されて土台を残すだけになっていましたが、ようやくその復元工事が完成したという新聞記事を最近目にしました。海に突き出た岩の上に建つこの「六角堂」は天心が晩年によく利用した書斎であり、時によく瞑想をし、まるで仙人のような日々を過ごした処です。

◆スキャンダルから始まる天心の足跡
岡倉天心を語る上で欠かせないのが、天心自らが起こしたスキャンダル事件。それは天心35才(明治31年)、文部省の美術行政官僚時代に、上司の九鬼隆一(帝国博物館総長)の夫人波津(はつ)と恋愛関係をもったことです。九鬼との確執などから、天心は当時の役職(帝国博物館の理事や東京美術学校校長)から職を解かれてしまいます。

天心は免職を機に、即座「日本美術院」を創設(明治31年)して「伝統日本美術」を復興再生させることに尽力し、横山大観、菱田春草らの愛弟子を育てます。ところが当時近代化、西欧化一辺倒の時代情勢においてはなかなか理解されず、しだいに孤立していきます。すると天心は日本から離れ、日本美術の源流を求めて中国の他インドに調査旅行(明治34年)に出掛け、さらに日露戦争の年(明治37年)には活動の本拠を米国に移します。以後天心はボストン美術館の東洋美術部門の責任者として古美術品の収集活動などの仕事に従事したのです。

◆2冊の本が説くもの
天心はそのボストン赴任の前後に、英語で執筆された2冊の本を出版。それが『東洋の理想(The Ideals of the East)』(明治37年)と『茶の本(The Book of Tea)』(明治39年)です。天心は広く欧米世界に向かって、自分の理想とする「伝統東洋文明のありかた」を説くことに力を注いでいったのです。

天心は、東アジアにおける文明化は儒教・仏教・道教の登場とともにはじまり、やがてそれらを総合的に混入させ合った形で発展したと説きます。その例として、宋代(特に南宋)の文人たちの手になる「南宋文化」である「禅宗文化」の出現を挙げます。ここで忘れてならないことは、南方中国で広まったことから「南方禅」と呼ばれる宗派は、そもそもインドから伝来した仏教に「道教」の自然観を取りこんだものです。ところが十三世紀に入ると不幸な事態がおこります。モンゴル民族が急に勃興して宋は侵略され、国土が荒廃するとともに南宋文化の精華「禅宗文化」も破壊されたのです。

こうして「禅宗文化」が大陸では絶たれてしまうのですが、逆に日本に入った流れが日本で独自の発展をとげ、室町時代以降の日本美術と文化の基調を形作ったのです。つまり日本における水墨画、茶道、華道、庭などの室町時代に最高水準に達したという美術文化は、実は南宋文化の「禅宗文化」を継承し、さらに日本独自で発展させたものということです。

天心は、歴史的にみて日本の美術が中国(支那)の圧倒的影響下にあったと認め、そのうえであえて「日本の美術の独立」を成し遂げてきたと語ります。重要なのは「輸入」した文化を「よく渾化(こんか)」(一体化)し「その国のもの」とするかということ、を力説します。「その国のもの」とは天心の言葉でいう「国粋(ナショナリティ)」になります。

◆天心が一番伝えたかった「アジアはひとつ(Asia is One)」
天心が主張する根幹は、日本美術史の紹介を通じてアジアの一体性を論じることです。それは当時の欧米が世界進出の過程としてアジアを他者(=植民地)として規定することに対する、文明論としての「回答」でした。同時にアジア諸国民に必要と考えたのは「自信の回復」であり、西洋人によるオリエンタリズムからの克服といえます。

文明論的には天心と正反対の位置にいるのが福沢諭吉です。『脱亜論』(明治18年)により「野蛮なアジア」と絶縁を唱えて、日本の西洋文明化を主張しました。現代の日本人が対アジア姿勢を考える上で、天心の「アジアはひとつ」と福沢の「脱亜論」は比較検証すべき歴史的事象であることは間違いないようです。


※岡倉天心著/大久保喬樹訳『新訳・茶の本』角川ソフィア文庫(平成17年)
天心が遺した書籍はすべて英文であり、生前は日本語の翻訳本がなかった。
翻訳本の出版は昭和10年ごろ。
※岡倉天心著『東洋の理想』講談社学術文庫(86年)
冒頭「アジアはひとつ(Asia is One)」という書き出しで始まる。
※塩出浩之著『岡倉天心と大川周明』山川出版社(2011年)