第98話:至陰というツボ



◆逆子に鍼灸
ユリノキの花が咲く頃、逆子で来院されていたAさんから「おかげさまで直っていました」と、うれしい報告をうけました。ふたり目の赤ちゃんを妊娠中のAさんは、病院での検診で逆子を告げられたのが、ちょうど2週間前の妊娠32週目のこと。相談した家族の勧めもあって当院に来院されたのです。
逆子に鍼灸が効くという情報はIT社会のお蔭もありますが、ずいぶんとポピュラーになっています。そもそも一般的に知られるようになったきっかけは、20年ぐらい前でしょうか、東邦大学医療センター大森病院が、その効果を紹介したことだったと記憶しています。

◆「至陰」という特効穴
逆子に効く代表的なツボが「至陰(しいん)」です。場所は足の小指の外側、爪甲根部の傍らにあります。わたしの治療院では、両足の「至陰」2穴と、経絡診断による要穴(肝虚証であれば肝経の要穴、腎虚証であれば腎経の要穴というように・・)の合計3穴を正確に取穴し、マジックで印をつけておきます。自宅では毎日、印をつけたツボに施灸をしてもらうのですが、来院時にはご主人をまじえて、お灸の仕方を以下の要点で教えています。

【自宅施灸の要点】
○お灸前に排尿しておく
○腹帯をゆるめる
○仰臥位で腰を弛めるために膝枕をする
○自分で施灸しない(腹部を圧迫するため)
○家族(ご主人)に施灸してもらう(毎日1~2回)
○赤ちゃんに「あたまはこっちだよ~」と声掛けしながら施灸

お灸をすると、それに合わせてよく胎児が動き、羊水が波打つのがわかるといいます。そうした感覚を実感しながら、お腹の赤ちゃんと会話し、ご主人の愛情こもったお灸を施すことが、もっとも大切なポイントだと思っています。

◆あえて注意点
但し、「至陰」の施灸による有効率は早い時期ほど高いのですが、妊娠周数が多いほど有効率は下がっていきます。なかなか改善しない場合は、産婦人科医の判断を仰ぎます。逆子が直らない場合には直らない理由がそこにあると考えるべきです。胎児を無理に動かすことで臍帯が首に絡んでしまうことがあり、その可能性がある場合は逆子の治療は中止します。帝王切開を選ぶことが、胎児にとって安全で最適な方法である場合もあるのです。状況に応じた柔軟な判断もときに必要とされます。

◆「至陰」の意味
経穴に使われる漢字は表意文字ですから、漢字の一字一字に意味と情報が込められています。「至陰」とは「陰に至る(以後、陰が始まる)」という意味です。「至陰」は陽経である「膀胱経」の終点のツボ。経絡の流注からいうと、「至陰」から次に繋がるのが陰経である「腎経」の始点のツボである「湧泉(ゆうせん)」です。つまり「至陰」は陽から陰に変わるインターフェースとしての役割があるということ。たとえばそれは、一枚のカードを突然裏返すと、たちまち「陽」から「陰」に豹変するという作用が、たぶん「至陰」に内在している。だから先人は、胎児をひっくりかえすほどの作用が「至陰」にあると見抜いたのではないか、というのがわたしなりの解釈です。(成書では「気を引き下げる」効果があるとしていますが・・)

◆古典にみる「至陰」
「至陰」が逆子に効くという淵源を古典に尋ねると、古くは中国宋代の医学書『太平聖恵方(たいへいせいけいほう)』に「至陰 小便淋、婦人横産」との記載があります。婦人横産の「横産(よこざん)」とは、胎児が横位になることによる難産を意味しています。
宋代は、印刷術と製紙業が急速な発達をみせた時代。建国まもない時期より、国家的事業による医籍の出版が盛んに行われました。そのなかの『太平聖恵方』は982~992年の間に完成をみた医方書のひとつで、広く宋代以前の医方書および当時民間で行われていた治療処方を収集し、それらを集大成しまとめられた書物です。

今から千年余り前の時代に、妊産婦にとって危険な症候であった「横産」を改善するために、「至陰」というたった一組のツボに効能を見つけだした先人の功績には感心するばかりです。しかも「婦人横産」と、つつましくも4文字熟語でさらりと記述するあたりに、深い経験に裏打ちされた「中国伝統医学」の神髄を感じます。
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第97話:庄内弁からみえる朝鮮との交流



◆「パンダジ」と「船箪笥」
以前、李朝家具の「パンダジ」を初めてみたときに、金具と錠前の装飾ぶりが、ふる里酒田の「船箪笥(ふなだんす)」に、まるでそっくりだと思ったものです。歴史を順序だてて考えれば、当然「船箪笥」が李朝家具「パンダジ」に似ているというべきこと。それはとりもなおさず、日本海に面した庄内地方と朝鮮との間に、なにかしらの交易があったのでは、と予感させるきっかけになりました。

最上川河口にある酒田は、江戸時代には北前船の重要な港街。地元の職人が作る「船箪笥」はその北前船に積み込んでいた小型の箪笥で、貨幣や往来手形などの貴重品を入れるためのものでした。酒田は小木(佐渡)、三国(越前)とならぶ「船箪笥」の三大産地でもあります。この西回り航路を日本海全域に目を移せば、歴史学者の網野善彦がとりあげた「環日本海諸国図」が示す通り、それは対馬海流に沿った朝鮮との交易海路になります。  ※参照記事⇒「第69話:朝鮮が近かった時代」
北九州から東北へと延びる日本海側は、古い時代より朝鮮との交流が盛んに行われていた可能性を示しています。となれば、一連の「船箪笥」はきっと李朝家具「パンダジ」を参考にして作られたと理解してもなんら不思議ではないと思うのです。

◆庄内弁と朝鮮語
さらに興味深いことは、庄内地方の方言の一部が朝鮮語に似ていることです。共通した音で、似かよった言葉があることは、ひょっとして朝鮮からの渡来人が庄内に移り住んだ「なごり」として、そのまま言葉に残っている可能性があります。それを指摘したのは、意外にも詩人の茨木のり子(1926~2006)でした。茨木のり子は大阪出身ながら、母親が庄内の三川町の出身、しかも夫も庄内の鶴岡出身という、まさに庄内ゆかりの人です。彼女は庄内訛りの母親に育てられ、母の実家にいけば、祖母の正調ともいえる庄内弁に触れる環境にありました。

そうした茨木のり子が、50歳を機に朝日カルチャーセンターの語学講座にて「朝鮮語」を学び、その10年後、詩人の眼からみたハングルの魅力を、韓国への旅の思い出を織りまぜて『ハングルへの旅』という一冊の本にまとめています。そのなかに、「日本方言との対比」(92頁)として、出雲、北陸、越後、出羽、津軽などの日本海沿いの地方の方言に、古代語の片鱗とする朝鮮語に近い発音が残っている実例を掲げ、真っ先に庄内の方言をとり上げているのです。

【ハングル(意味)】      ⇒   【庄内弁(意味)】
「アガ」(赤ちゃん)          「あが」(赤ちゃん)
「アッパ」(父ちゃん:幼児語)     「あっパ」(父ちゃん)
「アネ」(女房)            「あね」(女房)
「イッタガ」(居たが、あるが)     「いっだが」(居たが)
「オブバ」(おんぶしてやるよ)     「おぶっさげ」(おんぶしてやるから)
「モッケスムニダ」(ご馳走になります) 「もっけだの」(恐縮です、ありがとう)

これには驚きました。特に、この「もっけだの」は、わたしの母が人にお礼をいうときによく使っていた懐かしい響きであり、庄内人のやさしいまごころです。
次に語尾の対応をみると

【ハングル(意味)】     ⇒   【庄内弁(意味)】
「~ニカ?」(~ですか?)      「~ねが?」(~ですか?)例:「寒ぐねが?」
「~ニャ?」(対等形の疑問)     「~にゃ?」(~だろ?)例:「寒にゃ?」
「~ジ」(強調の終結語尾)      「~じ」(~だよ)例:「んだじ(そうだよ)」

ちなみに「~にゃ?」は、茨木のり子の母かたの実家がある三川町に多い語尾方言です。
さらにもっと奥深い類似として、庄内地方(秋田あたりも含めて)の方言は、カ行、タ行が語中にくるときには濁音になる癖があること、これはハングルの特徴とそっくりだというのです。

秋=アギ  港=ミナド  餅=モヂ  下駄=ゲダ  砕く=クダグ  
酒=サゲ  頭=アダマ  柿=カギ  竹=タゲ   集める=アヅメル
息=イギ  刀=カダナ  赤=アガ  跡=アド     

ここまでくると、庄内弁はもっとも朝鮮語の雰囲気をもった方言といえます。
茨木のり子によれば、こうした方言のバリエーションは古代語がそのまま残った結果ともいえるが、古代語そのものが隣国と姉妹語だったとも言える―と解説しています。

かつて司馬遼太郎とよく古代朝鮮について対談を交わしていた金達寿(キムタルス)が、「朝鮮語に堪能な歴史家がいれば、古代朝鮮と古代日本との関わりがもっと明瞭にみえてくるはず」と指摘していたことを思い出します。
専門家の問題にかかわらず、普段日常つかわれていた方言にこそ、古代史の謎を解くヒントが隠されていると教えてくれた茨木のり子の指摘は傾聴すべきこと。今や朝鮮半島とは、残念ながら近くて遠い隣国になっています。だからこそ、いまや消えつつあるふる里の方言には、かつて隣国と自由に交易し交流があった時代の息吹がこうして隠されていることを、わたしたちは今一度目を向ける必要があるといえます。

※茨木のり子『ハングルへの旅』朝日文庫(89年)

第96話:三國連太郎にみる「虚実論」



◆Aさんとの会話から
リタイアされてもう5年、好きな映画を週に2本はみている悠々自適のAさんが、「三國連太郎の代表作が『釣りバカ日誌』じゃ、おかしいよね」とわたしに同意を求めるので、「それはそうですよ」と間髪入れずに応えました。いつも映画の話をレクチャーされるAさんのいわんとすることはわかります。たしかに『釣りバカ日誌』で演ずるスーさんもよいでしょうが、それはあくまでも齢を重ねたことで到達した円熟の境地。それよりも、三國連太郎の魅力はなんといっても若いころの、あの武骨で不器用な演技ですよ。そうした意味でいけば『飢餓海峡』が彼の代表作ですよね、という共通認識がAさんとわたしの間には成立するのです。

◆記憶に残る映画
Aさんの話からふと思い出すと、実は記憶に残る映画には、たえず三國連太郎がからんでいます。たとえば18歳で上京して、始めてみた記念すべき映画が今村昌平監督の『神々の深き欲望』。たしか新宿伊勢丹の前にあった「新宿日活」でしたが、映画の内容はほとんど忘れています。それからサラリーマンだった35歳の頃、出張先のビジネスホテルで深夜、BS放送をたまたまつけて、それこそ食い入るように最後までみてしまったのが、内田吐夢監督の『飢餓海峡』(上映時間183分)でした。こんなに面白い映画が世の中にあったのかという驚きで、以来『飢餓海峡』はわたしの中での「日本映画ベストワン」になっています。

◆『飢餓海峡』の演技
この『飢餓海峡』は、正直なところ助演の左幸子(東北訛りの幸薄い娼婦役)と伴淳三郎(老練な刑事役)の演技の方が、三國連太郎の演技を凌いでいました。乱暴な言い方をすれば、助演の二人が輝けたのは、主演である三國連太郎の武骨で不器用な演技があったればこそといえるほど。いや、もしやこれは織り込み済みで、助演陣と主演による「演技の虚実」という絶妙なバランスをねらった内田監督の演出だったのでは、とまで思うようになりました。というのも、三國連太郎が生前(昨年2月)、『新潮45』に寄せた、自身の演技論についての次の文章に最近目に触れることがあり、わたしなりに納得できたからです。

◆三國連太郎の虚実論
私の半世紀の経験で言っても、「実」の部分を無視して「虚」だけを演ずるということは、かなり辛いことです。日本では、名監督として評価の高い方でも、「演じることは〈虚〉なのだ」という言い方をする人が多いのです。しかし(私)俳優三國連太郎には、「実」としてしか演じられないという確信をもっています。

ここでいう「虚実」とは嘘の世界と本当の世界ということ。演技とは「虚」と「実」のちょうど間にあるものがよい、ともいわれています。似せて演じるが、かといってそのものになってはいけないということ。しかし三國連太郎の若いときは、暴力シーンであればリアルに暴力を演技にもちこんでしまうというエピソードがあります。これに関して三國は、

役を自分の体験と重ね合わせて、それとの遠近を計りながら、極力、自分の生理(呼吸)に重ね合わせようとするのです。どこまでが「虚」で、どこからが「実」なのか、本当のところ良く分からなかった。

と正直にその不器用ぶりを吐露しています。しかし自分の演技こそ「実」なりと確信がもてるようになったひとつのきっかけは、カンヌ映画祭でイタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニ監督が「自分の原体験と根本のところで関わらないテーマは、上手く行くはずがない」と語ってくれたことを挙げていました。

このように、演技の「虚実論」における三國連太郎の持論と彼の立ち位置を理解した上で、改めて『飢餓海峡』をみれば、さらに深いところでの感動を味わえるような気がしています。

東洋医学には、また違った意味での「虚実論」があります。物(身体)の見方をどういう切り口で分析するかということでは、演技の虚実論とたぶん共通しています。今回はそんなわたしなりの興味から三國連太郎をとりあげてみました。

※「新潮45」2012年2月号(新潮社)36頁
特集「人生後半戦の生き方」に三國連太郎「生と死を見つめた季節」を掲載。
三國は、敬愛する親鸞の「死というものを意識したところから、生きる価値を見いだす」という言葉を引用し、「私はといえば死ぬまで求道です。(中略)たとえ苦しくとも、役者として生きる価値に向かって生き抜いていく覚悟です。」と結んでいます。

第95話:形をアートにするひと


                    「犬」 いとうたくや   

この作品は、古くからの友人であるイトウくんの息子さんが描いた絵です。優秀賞をいただいたという知らせを聞き、美術展に夫婦そろってみに行くからねと応えたのに、急によんどころない事情ができて残念ながらみに行けませんでした。でも息子さんの絵を画像として取り込み、こうしてPCを通して拝見しています。

美術展にちゃんと足を運び作品をみたという共通の友人であるオガワくんは、きのう仕事の合間をぬって、絵の感想を届けに来院してくれました。ちなみにオガワくんは、美術のイロハをいつも教授してくれるわたしの先生なのです。そのオガワ先生いわく「たくやくんの絵は構図がすばらしい。それと線にちからがある」と褒めていました。(不肖の弟子も同感。)

ピカソと並ぶ20世紀を代表する画家フランシス・ベーコンは、「自分が惹かれるイメージを再現しているだけ」といいます。身体の形(フォルム)が一見グロテスクに描かれているのは、それはベーコンにとって惹かれるイメージであるということ。それを鑑賞する側のわたしたちにとっては、なぜか不思議な時間を共有してしまうようです。

たくやくんが対峙した「犬」の身体にも、きっと惹かれてやまないイメージが存在していたということ。絵を描くひとは、律動する形(フォルム)が見えるひとであり、それをアートにして伝える役割をもったひとなのかもしれません。

※フランシス・ベーコン (FRANCIS BACON 1909~1992 )
第28話で斉藤環がとりあげたことに触れましたが、やはり気になる画家です。
◇フランシス・ベーコン展BACON(没後アジア初の回顧展)
東京国立近代美術館 2013.3.8 (金) ~ 5.26 (日)

第94話:アイスマンと鍼灸(3/3)

~タトゥーの模様が意味するもの~

◆「八卦」をツボに貼る治療


上の写真は「肝虚証」の要穴(大事な基本穴)である左足肝経の「中封(ちゅうほう)と右足腎経の「照海(しょうかい)」に鍼を施す代わりに、特定の図形を貼って治療をしています。この図形、実は中国周代に完成された「易」の「八卦(はっけ)」です。

「八卦」は陰爻(いんこう)と陽爻(ようこう)の組み合わせでできる八種類の「卦」。さらに「易」の思想が漢代の「天人相関」の思想をうけると、この「八卦」は「五行」「臓腑」「自然」「身体」などと、次のように関連づけられます。

◇八卦(「先天八卦図」より)―――――――――――――――――――――
   八卦   乾  坤  震  巽  坎  離  艮  兌
   卦画   ☰  ☷  ☳  ☴  ☵  ☲  ☶  ☱
   五行   金  土  木  木  水  火  土  金
   臓腑   大腸 脾  胆  肝  腎  心  胃  肺
   自然   天  地  雷  風  水  火  山  沢
   身体   頸  腹  足  股  耳  目  手  口

この表で説明すると、左足肝経の「中封」には肝木に関連した「巽(そん)」の卦画「☴」を、右足腎経の「照海」には腎水に関連した「坎(かん)」の卦画「☵」を貼っています。こんなオマジナイのような治療で本当に効くのかという疑問を当然もたれるでしょう。しかし実際試してみると不思議と効くのです。

これまで何度も説明してきたように、特定の「形」には気を動かすはたらきがあります。さらに、間中喜雄(1911~1989年)が提唱した身体の中にある「X-信号系」という受信システムの概念を借りれば、色・形・音・磁力などが発する微量な信号に対して、ツボを通じて身体はしっかり反応するということです。
《第91話:筋肉をつかう診断法「FMテスト」(4/4)を参照)》


間中喜雄ワールドを信望する治療家であれば、ツボに「色紙」を貼ったり、ツボに「八卦」を貼ったりする治療は決して突拍子もないことではないのです。したがってアイスマンがツボと思われる処に、3本線や十字形などの幾何学模様でタトゥーを施していたのは、当然「形」がもつそれぞれの「ちから」を認識した上で、治療につかっていたであろうと解釈できます。

◆十字形をツボに貼る


次に、アイスマンが要穴に施していた「十字形」のタトゥーについて検証してみます。同じく「肝虚証」の場合で、左足肝経の「中封」と右足腎経の「照海」にどちらとも「十字形」を貼ってみます。次に他の経絡証においても同様に試してみました。すると面白い結果がでました。それはこうです。「十字形」という形は、肝虚でも腎虚でも肺虚でも、どんなケースでもオールマイティーに効果がでるということ。「十字形」という形には特異的に気を動かす「ちから」があるということです。同様な形には「正三角形」「六芒星(ダビデの星)」があることは経験的にわかっています。

◆5300年前のアイスマンと東洋医学の関係 
以上のような検証から、4大文明が発祥しはじめた5300年前の先史時代には、すでに中国2000年と思われていた東洋医学に通ずる鍼灸治療の「経絡」とか「ツボ」に近似した概念がすでに存在し、しかも特定の「形」には「ちから」があることを認識していたと考えてもよさそうです。

これを文明の流れからどう解釈すればよいのかは、とても難しい問題です。ひとつ考えられるのは、中国医学発祥の「経絡」とか「ツボ」の概念は、おそらく仏教の伝来と同様にインドから中国にその原型が伝わったとすることにヒントがありそうです。たとえば「気」と「経絡」は、ヒンズー教由来の「密教ヨーガ」によれば、それぞれ「プラーナ」と「ナディ」に相当します。また「ちから」をもつ「形」のことを「ヤントラ」と呼びます。さらにそのインドは、古代インダス文明が滅んだBC13世紀ころにはヨーロッパからアーリア人が侵入し、バラモン教が生まれ、そこからヒンズー教と仏教へと派生した歴史があります。

したがって、アイスマンによって表出された古代史の「謎」は、そうした西から東へと移動した「文明の流れ」のなかにその答えがあるのではと想像しています。(完)

第93話:アイスマンと鍼灸(2/3)

~タトゥーの不思議な模様~
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◆タトゥーの位置(ツボ)からみえるもの
合計15か所のタトゥーすべてがどこにあるのかは不明ですが、NHKスペシャルの映像で見る限り分かった箇所(ツボ)は以下の通りです。      ※( )内はタトゥーの模様を表す。

  左腰部:胃兪(4本線)、三焦兪(3本線)、腎兪(3本線)
  左下肢:崑崙(十字)
  右下肢:中封(十字)、曲泉(十字)、陽輔(3本線)、陽陵泉(3本線)

わたし流の「経絡的治療」でこの取穴を解読すると、アイスマンの身体と人となりは次のように推察できます。まずはアイスマンの経絡診断は、右肝(虚)―左膀胱(実)とみます。

     証: 右肝(虚)―左膀胱(実)

体質を表す「本」は右の肝虚証としてみて、右足肝経の中封(ちゅうほう)と曲泉(きょくせん)のツボ。一方、症状を表す「標」は左の膀胱実証としてみて、左足膀胱経の崑崙(こんろん)のツボをそれぞれ取っています。
他に補助穴として、背腰部の左膀胱経の胃兪(いゆ)、三焦兪(さんしょうゆ)、腎兪(じんゆ)の三穴。右足胆経の陽輔(ようほ)、陽陵泉(ようりょうせん)のツボを、それぞれ絶妙に配していることがわかります。

このような「経絡的治療」をさらに症候学的に解読すれば、つぎのように説明できます。体質診断からはアイスマンは「肝虚証(肝の人)」で、眼が疲れやすく筋肉疲労が起こしやすい体質。性格的には少し怒りやすい人かもしれません。誰かに追われて殺されたわけですから、かなりのストレスを抱えて生きていたと想像できます。さらに、腰椎すべり症による左下肢の「痛み」もしくは「しびれ」は、外果(外くるぶし)付近、神経支配でいえば「S1」の領域です。故に、外果とアキレス腱の間にある膀胱経の「崑崙(こんろん)」穴は「実」(興奮)していると想像できます。

このように、5300年前のアイスマンに遺されたタトゥーの位置から、まるで現代の坐骨神経痛の治療と全く同じような配穴として検証できることは、鍼灸師のわたしにしてみれば、正直なところドルファー博士の如く「驚きのあまり倒れそうになる」くらいの衝撃を受けています。



◆タトゥーの模様(かたち)からみえるもの
さらに驚くことがあります。それはタトゥーの模様のこと。「右肝(虚)―左膀胱(実)」という経絡診断による最も大事なツボ(要穴)は、肝経の中封と曲泉、膀胱経の崑崙ですが、そのいずれの模様も「十字形」になっており、しかも他の補助穴が「4本線」や「3本線」であることに対して、明らかに模様によって差別化されていることがわかります。

   要穴に施したタトゥー :「十字形」
   補助穴に施したタトゥー:「4本線」や「3本線」

ただドルファー博士は、アイスマンの手足と腰背部にあったタトゥーが、鍼灸治療のツボの位置とほぼ全てが重なっていたことに気づき、そのタトゥーは治療が目的であったと推理したわけですが、タトウーの模様がもつ意味合いまでには論究していません。もしタトゥーがお灸を施すように、単にツボに刺激を与えるだけのものであれば、すべて同じような模様でも十分なはずです。

上のように、要穴と補助穴と思われるツボの違いに沿うように、あきらかに模様の差別化を図っていると考えれば、アイスマンがいた先史時代には、実はタトゥーの模様がもつ意味合い、つまり「形」がもつそれぞれの「ちから」を認識した上で、治療につかわれていたであろうと、わたしは確信しているのです。

なにか荒唐無稽な話に思われるでしょうが、実はツボには、ある特定の図形を貼ることで気は動くことは分かっています。次回はそうした例証を紹介した上で、さらに5300年前の医療と東洋医学の関連に迫ります。(つづく)