第102話:森敦『月山』の背景(3/3)



◆矢印の方向に気が動く
左右の掌(たなごころ)に三角の図形がそれぞれ載っています。左は矢印が外へ向かい、右は矢印が内に向かっています。紙テープで作ったものですが、ひとつのものを表と裏に載せただけで矢印の方向がかわる仕組みになっています。載っている掌には矢印の方向に気が動くのがわかります。気のせいではと言われますが、穏やかに気に集中するとどなたでも感じると思います。

作り方は次の通りです。
① 適当な長さの紙テープの中央に、矢印を短辺方向に等間隔で書き入れ、裏側にも短辺方向に等間隔でただし逆方向に書き入れる。
② テープの一端を180°ひねって、表を裏に貼りつける。これを「メビウスの帯」という。
③ メビウスの帯を上からぐしゃりと押し付けて正三角形にする。そこで矢印に注目すると、
表が外向きなら裏は内向きになる。

◆曼荼羅を表す不思議な図形の意味
実はこれは森敦の『マンダラ紀行』に紹介しているもので、左の三角は「金剛界曼荼羅」で、右の三角は「胎蔵曼荼羅」を表しています。森敦は数学に詳しく、位相幾何学(トポロジー)として曼荼羅を展開するとこうした三角形と矢印に表すことができると提言しています。そこで、この不思議な図形に込められた意味合いを紹介してみます。

「金剛界曼荼羅(小宇宙)」と「胎蔵曼荼羅(大宇宙)」は二項対立ではなく、「入れ子構造」による連続体であることを前回説明しました。そこに次の「華厳経」の思想が加わります。

「それぞれの中にすべてがあり(一即一切)、すべての中にそれぞれがある(一切即一)」

この成句は、平たく言えば「小宇宙の中に大宇宙があり、大宇宙の中に小宇宙がある」となります。したがって両者のベクトルは、金剛界曼荼羅は「内から外へ」で胎蔵曼荼羅は「外から内へ」となり、図形の矢印の違いに反映されているのです。

ところが二つの図形には、矢印の方向の違いだけに終わりません。そこに潜むもっとも大事な意味合いとして「メビウスの帯」にあります。「メビウスの帯」には表裏はなく、仮に一方を表とすればどこまでも表であり、裏とすればどこまでも裏のままです。これを手繰って行けば「胎蔵界」は同一平面を滑って「金剛界」になり、更に手繰って行けば「金剛界」はそのまま同一平面を滑って再び「胎蔵界」になるのです。

◆照応(コレスポンデンス)
森敦はこれを「完結しながら無限であり、無限でありながら完結する二次元の仏教空間である」と表現しています。つまり、「金剛界曼荼羅」と「胎蔵曼荼羅」は共にメビウスの帯上に存在することから、境界が存在しない連続した関係にあり、お互いに照応(コレスポンデンス)する関係にあるということです。

「金剛界曼荼羅(小宇宙)」  ⇔ 照応 ⇔  「胎蔵曼荼羅(大宇宙)」
  内から外:「一即一切」              外から内:「一切即一」

このように、小説『月山』とは「月山周縁の自然」を中心とした仏教空間に、真言密教による「曼荼羅の世界」と、華厳経による「一即一切・一切即一」の思想を織り込みながら、完璧なまでに照応する「宇宙小説」として謳い上げています。改めて作家森敦の奥深いまでの才能に驚きます。

◆森敦についての追記
あまり信じてもらえないかもしれませんが、実はわたしが小学校3年生ぐらいの頃だと思うのですが、酒田の街で森敦と出会っています。というか、友達と相撲をして遊んでいるときに、明らかに土地の人ではない眼鏡のおじさんに声をかけられたのです。不思議なことに、たったそれだけの出来事が、いつまでも記憶の片隅に残っていました。それが森敦だと分かったのは、わたしが20歳になった年(1974年)、芥川賞受賞で一躍有名になった森敦(当時62歳)をTVで初めて見て気づき「あのときの眼鏡のおじさんだ!」とおもわず声を挙げたものでした。

森敦(1912~1989)の履歴を調べると、月山から鶴岡・酒田・吹浦へと庄内を放浪した時期があり、ちょうどそのときは隣の鶴岡市大山に住んでいた時期と重なります。でもなぜ酒田の街にいたのか確かめる手立てはないのですが、ただひとつ言えるのは、眼鏡のおじさんに不思議なオーラのようなものを子どもなりに感じていたことは間違いないようです。

そんな不思議な縁を感じるままに20代の頭で『月山』を読みましたが、ほとんど理解できなかったのが偽らざるところです。いま60歳を間近にして、仏教に多少なりとも興味をもつようになり、ようやく森敦の小説世界を理解できる「とば口」に辿り着いたといえます。森敦は当時小学生のわたしに何を話しかけてくれたのか、まったく思い出せないのですが、「きっと大きくなったら僕のことを思い出すからね」とか言われたのでしょうか。いずれにせよ、森敦の作品群は人生終盤にかけての座右の書のひとつになりそうです。これからもゆっくりと森敦の至言を拾っていこうと思っています。(完)

※森敦著『マンダラ紀行』ちくま文庫(89年)
※森敦対談集『一即一切、一切即一』法蔵館(昭和63年)
※鎌田茂雄著『華厳経』講談社学術文庫(91年)
本によっては「一即一切・一切即一」が「一即多・多即一」になる。
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第101話:森敦『月山』の背景(2/3)



◆曼荼羅(マンダラ)の世界  
森敦は対談集の中で、「小説『月山』は金剛界曼荼羅を描いたものである」と述べています。この場合の「金剛界曼荼羅」とは、真言密教における「曼荼羅の世界」を見据えてのこと。森敦は仏教哲学、とりわけ真言密教や華厳の思想に造詣が深く、そうした世界観を多くの作品にちりばめています。ここはまず、「曼荼羅」について簡単に説明します。

冒頭の写真は東寺にある「両部の曼荼羅」。真言宗を開いた空海が唐から請来したもので、左が「金剛界曼荼羅」、右が「胎蔵曼荼羅」、2つ合わせて「両部の曼荼羅」と呼んでいます。曼荼羅には、四角・三角・円などを組み合わせた幾何学的模様が並び、形と色が「宇宙」の本質とつながり、それぞれの意味を発信して「宇宙」を象徴しています。
具体的には、「金剛界曼荼羅」が「小宇宙」であり「胎蔵曼荼羅」は「大宇宙」を象徴しています。

「金剛界曼荼羅」=小宇宙(ミクロコスモス)
「胎蔵曼荼羅」 =大宇宙(マクロコスモス)

◆『月山』における「曼荼羅の世界」
小説『月山』は、古刹「注連寺」を舞台に、それを取り巻く月山の自然を含めた「宇宙」を「曼荼羅の世界」に投影しています。具体的には、注連寺の日常が「金剛界曼荼羅(小宇宙)」に対応し、月山周縁の自然を「胎蔵曼荼羅(大宇宙)」に見立てています。

「金剛界曼荼羅」=小宇宙=「注連寺」
「胎蔵曼荼羅」 =大宇宙=「月山周縁の自然」

但し、これは単に二項対立の関係ではなくて、「入れ子構造」の関係になっています。つまり「宇宙」の中には「宇宙」があり、さらにその「宇宙」の中にも「宇宙」がある。かくて無限に「宇宙」があって、ついに塵の中に至ってもやっぱり「宇宙」があるという図式です。
すると小説『月山』では、月山周縁の自然という「宇宙」の中には大網(おおあみ)という地域の「宇宙」があって、その中に七五三掛(しめかけ)という村の「宇宙」があり、更にその中に注連寺という寺の「宇宙」。そして究極は主人公が和紙で作った蚊帳の中の小さな「宇宙」に及び、まるで無限連鎖の宇宙の拡がりを「曼荼羅の世界」として表現しているのです。

「蚊帳の中」 ⊂ 「注連寺」 ⊂ 「七五三掛」 ⊂ 「大網」 ⊂ 「月山周縁の自然」
「金剛界曼荼羅(小宇宙)」 ⊂ ⊂ ⊂ ⊂ ⊂ ⊂ ⊂ ⊂ 「胎蔵曼荼羅(大宇宙)」

こうして「曼荼羅の世界」の中心核を「小宇宙」である「注連寺」に置いていることから、森敦が説く「小説『月山』は金剛界曼荼羅を描いたものである」となるのです。

◆世俗的な「小宇宙」から「大宇宙」へ
面白いのは、中心的舞台である「注連寺」が真言密教の聖域である湯殿山の古刹でありながら、小説で展開される日常は極めて世俗的な些事ばかりなこと。出入りするカラス(ドブロク買い)やヤッコ(乞食)や、富山(薬売り)が関わり、寺の「じさま」が語る偽坊主の不正ぶりとか、村の「ばさま」が語るうわさ話などのように、世俗的な話が延々と続きます。

このことは、たぶん真言密教の本質に関係しているからでしょう。世俗的なことや人間がもつ煩悩や欲望に対して、もっとも真正面から向き合っているのが真言密教といわれています。また、空海は、俗と非俗(聖)という一見相反する二面をあわせもち、それらを見事に両立させた不思議な人物だといわれ、そこに普く「弘法大師」として慕われ続けた理由があります。つまり真言密教は、世俗的なことにむしろ「生命のちから」を認めているということです。

従って「注連寺」が描く「金剛界曼荼羅」の、更なる中心に当たる「蚊帳の中の小宇宙」からは、「生命のちから」を放散して、ベクトルは月山周縁の自然が描く「胎蔵曼荼羅」へと向かいます。というか、小宇宙は大宇宙と連続した関係、あるいは感応する関係にあるということです。
その「胎蔵曼荼羅」とは、

山の地形から「臥牛山」と呼ばれ、臥した牛の北に向けて垂れた首を「羽黒山」、その背にあたる頂を「月山」、尻に至って太ももと腹の間の隠所(かくしどころ)とみられるあたりを「湯殿山」といい、これらを出羽三山と称するのですが、遠くから山を眺めると、三山といっても月山ただ一つの山の謂いです。

そして裾野の延長に鳥海山が対峙。それらを鳥瞰すれば庄内地方全体を包括する大宇宙へと拡がります。このように、森敦の小説『月山』は「曼荼羅」が織りなす「宇宙小説」であるといえるのです。
                                (つづく)


※森敦著『月山・鳥海山』文春文庫(79年)
※森敦著『マンダラ紀行』ちくま文庫(89年)
※森敦対談集『一即一切、一切即一』法蔵館(昭和63年)
対談の中で瀬戸内寂聴が、森敦の小説を「宇宙小説」と表していたのが印象的。
※松長有慶著『密教』岩波新書(91年)

第100話:森敦『月山』の背景(1/3)



◆ふる里の「月山」
ふる里の酒田では、日本海を背にして立てば、北東の出羽富士「鳥海山」に並び、南東に霊峰「月山」が望めます。月山はこれに湯殿山、羽黒山を加えて「出羽三山」と称し、古くから参詣者で賑わう信仰の山でした。子どものころを思い返すと、春になれば修験道の山伏が出羽三山から降りて街にくり出し、「山の勧進ボォ~」と法螺貝を鳴らしては家々を一軒一軒まわり、小さな「ひとかた(人形)」を置いていきました。「無病息災になるから」と母に教えられるままに、それに息を吹きかけたことを今でも覚えています。

子どもの眼からみても、月山はどことなく陰気な山に映っていました。日常の山といえば、虚空にそびえる陽の山:鳥海山でこと足りていて、控えめなアスピーテ(楯状火山)の陰の山:月山にそれほど興味を持つ必要はなかったのかもしれません。それが齢を重ね、次第に「月山」に関心が傾いていったのは、仏教や神道について興味をもつようになったことと、とりわけ『月山』を代表とする森敦の作品群に触れたことによります。

◆『月山』の舞台「注連寺」
小説『月山』の魅力とはいったいなんでしょうか。それは、異邦人としての作者・森敦が垣間見た信仰の山「月山」の宗教的世界を、余すところなく表現したその秀逸な語りにあると思います。

「月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然(ほんねん)の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです」

その語りの中に描かれている舞台が、月山の山ふところなる「注連寺」です。正式には真言宗智山派の湯殿山注連寺といいます。注連寺はいまでこそ天井画や映画『おくりびと』のロケ地などで有名になりましたが、森敦が1年を過ごした昭和26年の注連寺は、荒廃しきった寺だったといいます。実は、注連寺にまつわる栄枯盛衰の歴史が、そのまま出羽三山の隠れた変遷の歴史でもあるのです。そうしたいきさつを紹介してみます。

◆廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の歴史
注連寺の前には鶴岡から湯殿山を結ぶ参詣街道「六十里越街道(ろくじゅうりごえかいどう)」があります。参詣者はみな注連寺か、少し先にある大日坊に泊まり、湯殿山参詣の足掛かりにしたそうです。しかし、参詣者で賑わっていた時代は明治初年までのこと。つまり明治政府がとった「神仏混淆廃止の令」を境に、三山にあった主な寺は追放され神社が台頭します。

結果、「大日如来・湯殿山大権現」を奉っていた真言宗の寺「湯殿山」は、神道の「湯殿山神社」となり、かわって「大山祇神(おおやまつみのかみ)・大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのかみ)」などの祭神が奉られます。さらに僧侶は解任後に還俗(げんぞく)させられ、寺に所属していた修験(山伏)は神道に組み込まれたのです。その徹底した廃仏毀釈ぶりは、歴史資料にも「月山への登山道にあった夥しい石仏を、人足に命じて谷へ突き落とさせた」とあるくらいでした。

◆神と仏の共存
現在は「出羽三山神社」が統括していることから、出羽三山は「神道の山」というイメージで捉えられやすいのですが、実際のところ「出羽三山神社」は明治に入って建立した神社なのです。それ以前の出羽三山は、むしろ真言密教(江戸初期からは羽黒山のみが天台密教に改宗)を奉じて、しかも、山岳における八百万(やおよろず)の神々を信ずる修験道をも取り込み、いわゆる「神仏習合」の世界を千年の永きにわたり形成していたのです。

今や地元の人でさえもが、こうした事情を知る人が少ないのは不思議なことです。強引とも思える明治の廃仏毀釈は、国家神道による宗教弾圧であったとはいえ、それは天皇に微妙に絡む問題でもあり、これまで歴史教育のなかでも深く掘り下げてこなかったという背景が、当然のごとくにあったのだと思います。

◆小説『月山』からみえるもの
注連寺はこのような変遷の中で、元々4つあった湯殿山の別当寺(神宮寺)のひとつであり、廃仏毀釈の荒波の中で、からくも生き残った名刹です。かつては、関東地方にまで広まっていた「湯殿山信仰」の重要な基点となったこの注連寺は、出羽三山挙げて真言密教を奉じていた頃の代表的寺社だったということです。

煩雑な歴史をざっくり話したつもりでも、つい長々と説明してしましたが、要は、森敦が注連寺を小説『月山』の舞台においたその意味合いとは、ふたつあると考えています。ひとつは、「月山」が密教を中心とした「神仏習合」だった時代への回帰であり、もうひとつは「月山」をとりまく「マンダラの世界」を描くことにあったと、わたしはみています。

次回は、その「マンダラの世界」について紹介してみます。(つづく)

※森敦著『月山・鳥海山』文春文庫(79年)
※森敦著『マンダラ紀行』ちくま文庫(89年)
※安丸良夫著『神々の明治維新(神仏分離と廃仏毀釈)』岩波新書(79年)
明治初年の「神仏混淆廃止の令」による廃仏毀釈の実態を地域ごとにまとめている。

第99話:背中のツボからみえるもの



◆気になる背中のエリア
背中の真ん中(正中線)には「督脈」、さらにその両脇には2本の「膀胱経」が左右対称に走っています。それらの経絡上のツボの中で、肩甲骨間のエリア、高さは胸椎の3番から10番の範囲内で、「心」「神」「霊」「魂」「魄」の字のついたツボだけをピックアップしてみると以下のような配列になります。今回のテーマは、そうしたツボの配列にどんな意味が込められているかということ。交通整理しながら解読してみます。

魄戸―◎◎―◎◎―◎◎―魄戸  ・・胸椎03/04間
◎◎―◎◎―◎◎―◎◎―◎◎  
神堂―心兪―神道―心兪―神堂  ・・胸椎05/06間
◎◎―◎◎―霊台―◎◎―◎◎  ・・胸椎06/07間
◎◎―◎◎―◎◎―◎◎―◎◎  
◎◎―◎◎―◎◎―◎◎―◎◎  
魂門―◎◎―◎◎―◎◎―魂門  ・・胸椎09/10間

◆「表層のこころ」と「深層のこころ」
中国の古典を読むと、「こころ」は「肝心脾肺腎」の五臓に分かれて存在する、といわれますが、とりわけ「心臓」に宿る「神」は重要で、古典によっては心臓のみを「こころの座」として強調することすらあります。それを表すかのように、ちょうど心尖拍動の高さに当たる胸椎の5番6番の間には、「心」と「神」を冠したツボ「神道」「神堂」「心兪」が鎮座しています。このエリアは「こころ」に関連し、精神活動にとって「大事な処」であろうことは十分理解できます。実際のところ、精神疲労が募れば、肩甲骨内縁とよばれるこのエリア(筋肉でいえば菱形筋)が、まるで鉛のようにどんよりとした様相になるのです。

「神道」「神堂」「心兪」のツボを、台(うてな)として下支えしているのがツボ「霊台」です。この「霊台」の意味を『史記』の時代に尋ねれば「運気を察する台」。つまり戦場で敵方のシャーマンが発する運気の妖祥を読み取る「場」でした。とすれば、人間の身体にとってのツボ「霊台」は、「気」を察する受信装置であり「背中の眼」のような役割があると考えます。さらに、ツボ「神道」「神堂」「心兪」が表層の「こころ」であれば、「霊台」は直感とか無意識に通ずる深層の「こころ」であり、あるいは霊的な世界を表していると、わたしなりに解釈しているのです。

神堂―心兪―神道―心兪―神堂  ⇒ 表層の「こころ」=心的な世界
◎◎―◎◎―霊台―◎◎―◎◎  ⇒ 深層の「こころ」=霊的な世界

◆霊魂のツボ
さらに「霊的な世界」に付与されたのが、上下に配しているツボ「魄戸(はくと)」と「魂門(こんもん)」の存在です。これは、「霊魂」を陰陽のカテゴリーとして「魂(=陽)」と「魄(=陰)」に分けるという「儒教」の考え方が反映されています。儒教では、人間を精神と肉体との2つに分けます。精神を支配するものを「魂(こん)」、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼び、両者の一致しているときが生きている状態としています。
ちなみに、人が死ぬと魂・魄が分離し、「魂」は天に昇って空にとどまり、呼べばこの世に帰ってくる。一方「魄」は地下に行き、地中としての「魄」を一か所に集めて大切に守る。「魄」の「白」は「骨」を意味し、それが「祖霊信仰」に基づくお墓の考え方になります。
とこのように、上下に配したツボ「魄戸」と「魂門」は、「霊的な世界」における精神と肉体のバランスを保つために存在していると解釈できます。

「魂」=「陽」=精神を支配 =人が死ぬと「魂」は天に昇る
「魄」=「陰」=肉体を支配 =人が死ぬと「魄」は地下に行く

◆「心的な世界」と「霊的な世界」
これらをまとめると、気になるエリアに配列したツボは、次のように分類できます。

「心的な世界」のツボ=「神道」「神堂」「心兪」
「霊的な世界」のツボ=「霊台」「魄戸」「魂門」

人間には誰であれ、心や精神に関心をむける「心的な世界」と、「霊的な世界」のふたつを内蔵しています。ふたつの世界を日常生活のなかで、わたしたちはどちらかというと、心とか精神とかのはたらきと共に生きています。しかも、自我とか自己とかの名で呼ばれる「心的な世界」が、いわば「発信器」のような光を発して現実世界に応答しています。
ところが、一方ではひとたび生命の危険とか異常な事件に出くわすと、突然霊感的なものにとらえられることがあります。それを感ずるのが、人間の奥深いところに隠されて、見知らぬ世界に敏感に反応するいわば「受信器」のような「霊的な世界」です。

「心的な世界」=「発信器」:現実の世界に意志的に応答
「霊的な世界」=「受信器」:見知らぬ世界に霊的に反応

宗教学者の山折哲雄は、宗教でも芸術でも、「心的な世界」への凝視と「霊的な世界」への感受性がほどよく調和しているときこそ、創造性が発揮され輝きを放射するのだ、と説いています。そのどちらが欠けているときには、芸術も宗教も偏ったものになるということです。たとえばオウム真理教が問題だったのは、心的な世界をおろそかにし余りにも霊的な世界に偏りすぎたために、結果狂気じみた迷走を繰り返したといえます。
事柄はむろん、人間においても同じこと。たとえば、霊能者と呼ばれる人たちは霊的パワーの面では優れていても、すべてが即人格者かといえば、そうとは限らないこと。「心的な世界」もそれだけ見合うほどの水準を備えてこそ、真の霊能者といえるのかもしれません。

そもそも人間には、この2つの機能が備わっていたことを自覚し、有効活用するためにも自らが磨いてゆく努力を惜しまないことが大切。さらに、より深い霊的な機能と、より意志的な心の機能を適度に調和させようとするところに、生きるということの重要な意味がある、と背中のツボの配列がこうして教えているような気がしています。


※加地伸行『儒教とは何か』中公新書(90年)
※加地伸行『家族の思想』PHP新書(98年)
「儒教」における霊魂の考え方、「魂」と「魄」の関係を解説。
「儒教」の宗教性と死生観が「日本仏教」に影響を与えていると説いている。
※山折哲雄『仏教とは何か』中公新書(93年)
「インド仏教」では本来否定されるべき「霊魂」が「日本仏教」では容認されている。その理由は「心的な世界」と「霊的な世界」のふたつの要素を、仏教を受容した以前から日本人はすでに兼ね備えていたからと説いている。