第112話:清河八郎再考(2/3)



~孤高の策士・清河八郎~

◆八郎が生きた幕末とは
清河八郎(1830~1863)が生きた動乱の幕末といえば、「黒船来航」(嘉永6年・1853年)を契機にすべてが動きだします。幕府は大老井伊直助を筆頭に開国に舵をきり、さらに将軍の世子(よつぎ)問題もからむと薩摩藩や水戸藩などの諸藩から反発をかいます。井伊がその反対派を弾圧したのが「安政の大獄」(1858~1861年)。ついに井伊が水戸藩士らに暗殺されたのが「桜田門外の時変」(1860年)でした。この一連の流れの中で、幕府の開国政策の不備もあって通貨流失と物価高騰が生じて国民生活が困窮すると、「条約は即時に破棄し、外夷は追い払え」という「攘夷」の機運が沸騰し、京の朝廷に「攘夷」の勅令を願いついに「尊皇攘夷」というムーブメントが沸き起こります。すると諸藩では国許にいて階級制度に潰されるよりは、京や江戸に出て勤王攘夷の志士で活躍したいとする脱藩浪士が増えます。土佐の坂本龍馬(1836~1867)も当にその一人でした。

◆攘夷浪士の旗頭的存在へ
八郎は坂本龍馬の6歳年上になります。面識があったかは不明ですが、共に千葉道場で剣術を学んでいます。ただ龍馬と違うのは、八郎は「学問の世界」で功名を立てたいと江戸に出て東条塾と昌平黌で学び、ついに安政元年(1854年)神田三河町に私塾を開き、浪人志士たちに文武を教授するまでになったことです。それも開塾したのは、江戸に出て7年、千葉道場に入門して3年10ヶ月の25歳という驚くほどの若さでした。その前年の嘉永6年(1853年)には黒船が来航。この神田三河町の清河塾は火災に遭って全焼してしまい、安政4年(1857年)の28歳のときに、再び神田駿河台に清河塾を開いています。それもちょうど「安政の大獄」が始まる前年。八郎は当に激動のなかで開塾を繰り返したわけです。

千葉道場で知り合った幕臣で攘夷派(反井伊派)の山岡鉄太郎(鉄舟)や、清河塾に集まった薩摩藩士らと交流をするなかで、八郎の志は次第に学問や文事から離れると当面の国事に向かい始め、ついに尊王攘夷家になることが決定づけられます。そして八郎31歳、万延元年(1860年)3月3日の「桜田門外の事変」を迎える頃には、清河塾はもう単なる文武教授所ではなく憂国者の集会所になっていました。八郎は同志を集めて「虎尾の会」を結成し、当に江戸在住の攘夷浪士の旗頭的存在になっていました。その年の暮れに起きたハリス総領事の通訳が殺された「ヒュースケン事件」の主犯は、「虎尾の会」に所属する薩摩藩士の2名。それをきっかけに八郎は幕府から警戒される人物になっていきます。

◆策士としての清河八郎
「桜田門外の事変」は元来、水戸藩士と薩摩藩士の合作で、桜田門で水戸藩士らが井伊を暗殺するだけでなく、京都では薩摩藩士らが朝旨を奉じて兵を挙げ、幕政の変革をはかるという計画であるはずが、その後半部分はついぞ未遂に終わっていたのです。そこで策を組み上げたのが、今や攘夷浪士の旗頭である清河八郎でした。八郎の策とは「京の公家を通じて一封の奏書を天覧に供し、何らかの密旨を戴いて九州に下り、薩摩の有志を糾合して義兵を募り、尊王攘夷の義挙を上げる」というもの。

八郎は行動にでます。事変の翌年、文久元年(1861年)の11月には、公家に仕える諸大夫(しょだいぶ)の田中河内介と京都で会い、八郎の策に賛同を得ると、田中の紹介状をもとに長州から九州へと行脚。九州では同じ志をもつ平野國臣や真木和泉守らと交流を重ねています。八郎の画策が功を奏したのと、島津久光が精兵千余を率いて東上する時機もあって、翌文久2年(1862年)の春には、西日本の志ある壮士らが京阪の地に集まる様相となり、薩摩藩邸の二十八番長屋には多くの浪士が集結したのです。

この挙兵の中心は薩摩藩の「誠忠組(精忠組)」の激派で「討幕挙兵に踏み切ろう」と血気盛んでした。「誠忠組」とは下級武士からなる「改革派」で、藩主久光側の「守旧派」と対峙する関係にあり、薩摩藩内部の複雑な事情もからんでいます。案の定、京での挙兵の流れを止めたのは藩主久光でした。久光の東上の目的は幕府と朝廷の関係修繕を計ることであり、「公武合体策」をあくまで是とする姿勢です。そこで寺田屋に集結した激派が幕府に刃向うとする動きを知った久光は激怒し、剣の達人たちを派遣して無礼討ちを命じ、粛清したのです。これが世に謂う「寺田屋事変」(文久2年4月23日)。ちなみに海音寺潮五郎は「寺田屋事変」を血で血を争う「薩摩維新史上の大汚点」と酷評しています。

◆八郎の次なる一手
こうして清河八郎の名を世に知らしめたのが、策士としてみせたこの一連の行動だったはずが、結果的には薩摩藩主島津久光による「寺田屋事変」によって計画は頓挫してしまったのです。このことは、八郎にとって薩摩藩との関係が完全に切れたことを意味しています。つまり坂本龍馬には薩摩と長州の大藩の後ろ盾がありましたが、結局清河八郎には何も後ろ盾のない「孤高の策士」で終わったということになります。

ところが策士としての八郎は怯むことはないのです。同年(文久2年)の暮れに次の一手を画策します。それが前回述べた幕府に対する「浪士組」結成の建白です。幕府を欺く策は一見トリッキーにみえたとしても、尊王攘夷旗頭の策としては、それまでの八郎の行動をみればひとつもブレはないのです。

◆八郎は「豪邁な才人」
海音寺潮五郎は、八郎を才気に溢れた人物と認めながら、人の処し方からみて「傲慢」な性格と評しています。庄内人の贔屓目かもしれませんが、わたしからみれば「傲慢な才人」というよりむしろ「豪邁(ごうまい)な才人」とみます。八郎の類まれな「行動力」「推進力」にこそ正当に評価すべきと思っています。というのも、八郎が遺した日記に自分の性格を語る上で「然るに、素性豪邁にして・・」との行(くだり)があります。この「豪邁」は「絶えず邁進する性格」と理解できます。もしわたしが八郎の「気のありよう」を診断すれば、きっと「気が逸る」とでるでしょう。「豪邁」の人は現代でいえば起業家に多く、頭では絶えずプランニングすることが日常であり、思い立てば即行動をとるタイプです。但しこうした「できるひと」はとかく「傲慢」にみえて誤解を受けやすいもの。したがって彼をサポートする優秀な参謀や、後ろ盾があれば、それにこしたことはないのです。

攘夷浪士の旗頭的存在になるきっかけとなった「桜田門外の事変」は八郎31歳。そして麻布一の橋で佐々木只三郎によって斬殺されたのが八郎34歳。その間のわずか4年という歳月を、郷里清川村の「清川だし」が吹きすさぶが如く、そして「前のめり」に生き急ぐが如く、清河八郎は激動の幕末を駆け抜けていったのです。       (つづく)


※海音寺潮五郎『幕末動乱の男たち(上)』新潮文庫(平成20年)
※中村彰彦『幕末入門』中公文庫(2007年)
※佐々木只三郎という人物:元会津藩士。文久3年(1863年)4月13日に清河八郎を暗殺したときは「新徴組」の取締出役。その功績を買われて「京都見廻組」の与頭(くみがしら)になる。慶応3年(1867年)11月15日近江屋での坂本龍馬暗殺事件の執行者は「京都見廻組」が定説。従って佐々木只三郎は、奇しくも八郎と竜馬の暗殺にそれぞれ関わった人物である。その後、鳥羽伏見の戦いでの負傷がもとで慶応4年(1868年)死去。享年35。
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第111話:清河八郎再考(1/3)



~八郎は奇妙にあらず~

◆「清川村」の清河八郎
酒田市に隣接する庄内町に「清川(きよかわ)」という地域があります。市町村合併前は「立川町清川」、さらに江戸時代に遡れば「出羽国田川郡清川村」。清川は最上川とその支流の立谷沢川との合流点に位置します。最上渓沿いに吹く夏風はとても険しく、地元の人は「清川だし」と呼び、最近ではそれを風力発電に利用しています。

この清川村こそ、勤皇の志士・清河八郎(きよかわ・はちろう)(1830~1863)の郷里。本名は斉藤元司。生家の斉藤家は地主であるとともに酒造業を営み、苗字帯刀を許された豪家でした。現在でも清川には、ゆかりの地を象徴するかのように、清河八郎を祭神とした「清河神社」(昭和8年創建)と「清河八郎記念館」(昭和37年竣工)があります。

今では庄内の人にとっても忘れられた存在になりつつあります。とはいえ、わたしが子どものころ、なぜか家の床の間には清河八郎の胸像が飾ってありました。どんな偉い人なのかよくわからないままに、子ども心にその面長のご尊顔をぼんやり眺めていたものです。そんな心象風景のせいか、清河八郎は大人になってからもなんとなく気になる存在になっていました。

◆「ヒール」としての清河八郎
清河八郎とはいったいどんな人物だったのでしょうか。一般には「新選組」の前身である「浪士組」結成に関わった人物として知られています。但し新選組を礼賛した小説からみれば、八郎は決まってヒール扱いということになっています。八郎は幕臣の山岡鉄舟らの協力を得て、将軍上洛の警護を名目とする「浪士組」結成を幕府に建白して実現します。ところが京都に着任すると「真の目的は天皇の警護」と突然浪士たちに向かって「尊皇攘夷」を宣言するのです。それを知った幕府は仰天し、即座江戸の帰還を命じ「浪士組」は事実上解散。江戸に帰還した浪士たちは、庄内藩江戸屋敷預かりの「新徴組(しんちょうぐみ)」として江戸市中警備に当たり、同じく江戸に帰還した八郎は、幕府の命を受けた佐々木只三郎らによって麻布一の橋で斬殺されます。そして京都に残った近藤勇・芹沢鴨らは新たに「新選組」を結成し、京都守護職の会津藩主松平容保のもと、京都市中警備に当たったというわけです。

幕府を欺いた八郎の策士ぶりを、司馬遼太郎は短編小説『奇妙なり八郎』に書いています。才気がありながら時代の表舞台に立つことなく、幕府の刺客によって斬殺された八郎を主人公にして、帯刀していた名刀「兼光」を報われない「才気」の象徴として描いていますが、司馬は題名『奇妙なり八郎』に示す如くまるで「トリックスター」のように八郎を描いています。

◆「孤高の志士」としての清河八郎
巷間知られる清河八郎のイメージは、あくまでも新選組側からみたものであり、しかも八郎の生涯の最後の1年間を語っているにすぎないのです。同郷の作家、藤沢周平はそんな八郎についての誤解をとくべく『回天の門』を書いています。八郎は18歳にして青雲の志をもって江戸にでて、東条塾や昌平黌で学び、さらに千葉周作の道場「玄武館」で剣術を学んだ当に文武両道を極めた志士でした。藤沢はやがて「勤王の志士」として功名をなした清河八郎の足跡を辿り「幕末に活躍した志士に策士と呼ばないものなどいない」「八郎はむしろ早く生まれ過ぎた天才」と説いています。こうした藤沢の見解には我が意を得るものが大いにあります。

幕末といえばとかく坂本龍馬ばかりが脚光を浴びます。維新の実現を見ることなく亡くなった才能ある志士はなにも龍馬ひとりではないのです。たとえば個人的な好みからいえば福井藩主松平春嶽の側近である橋本佐内(安政の大獄により獄死。享年26)とか、水戸藩主徳川斉昭の側用人である藤田東湖(安政の大地震で死亡)がそうです。そしてそこに庄内の清河八郎を加えてみたいのです。ただ八郎ひとり異色なのは、国許の庄内藩はおろか何の後ろ盾も持たなかった所謂「孤高の志士」だったということです。激動の幕末という時代に、清河八郎はアウトサイダーとしての立ち位置で暗躍した「孤高の志士」だからこそ、もっとスポットを当てるべきで、考察する価値がまだまだ内在している人物だと思っています。

「孤高の志士」である清河八郎の足跡を、次回は紹介してみます。(つづく)

※司馬遼太郎『幕末』より「奇妙なり八郎」文春文庫(1977年)
※藤沢周平『回天の門』文春文庫(1986年)
※海音寺潮五郎『幕末動乱の男たち(上)』新潮文庫(平成20年)
幕末に活躍した人物を列伝体でまとめたもの。海音寺は清河八郎記念館所蔵の日記を細かく読み込んでまとめている。