スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第113話:清河八郎再考(3/3)

~『西遊草』にみるもうひとつの顔~



◆高等遊民としての八郎
庄内町清川の「清河八郎記念館」には、八郎が遺した膨大な量の「日記」や「旅日記」が保管されています。巷間伝わる八郎の性格はとかく「才気はあるが傲慢」とみられがちですが、「日記」から窺い知るかぎりでは、そうしたイメージはありません。むしろ豪家の長子として幼少より漢籍の教養を積んだ、所謂「高等遊民」のような趣が感じとられます。

というのも、享年34という短い生涯にもかかわらず、その大部分を「旅」に費やしていたことが驚きです。18歳のときに家族で松島と仙台へ旅をしたのを皮切りに、江戸に遊学した後も19歳で伯父弥兵衛と江戸から西日本に、21歳には京都遊学の帰路に九州を、24歳には北海道に、そして26歳には母親をつれて「お伊勢参り」の旅にまで出ています。当時の「旅」は少なくとも3か月、長くて半年に及ぶものでした。20代までの旅はいわば「修養」が目的のようなもの。「万巻の書を読み万里の旅をして壮大な気宇を養う」という中国伝来の考え方が下地にあったようです。八郎はそうした「修養の旅」をふんだんに経験することが可能な環境に育ち、大いに見聞を広めた稀有な人物であったといえます。

◆親孝行の旅
なかでも八郎26歳で母親(当時40歳)との「お伊勢参り」を克明に綴った旅日記は『西遊草(せいゆうそう)』と銘々され、今では岩波文庫にも収録されています。
『西遊草』に綴られた旅は安政2年(1855年)のこと。その前年(安政元年)12月に、神田三河町の清河塾が火災に遭って全焼してしまい、八郎は国許へ一旦もどっていました。しばらくは清河塾再建までのいわば充電期間として国許で過ごすところが、思い立って母親が冥途の土産にと願っていた「お伊勢参り」に同行したわけです。

その行程を紹介すると、3月に清川村を出立してから、鶴岡に出て、新潟~善光寺参り~お伊勢参り~奈良大阪京都~四国の善通寺へと巡り、西は岩国まで足を延ばしています。そして帰路は東海道をまわり鎌倉~江戸~日光~出羽清川村へと、同年9月に帰る全行程160日間におよぶ長旅です。
一部船を利用したり母のために駕籠を利用したりすることはあっても、ほとんどの行程が「歩くこと」を基本とした旅であり、今となれば驚くばかりの健脚です。この時代に使用人をつれての親子の旅を、しかもこれだけの長旅を可能にしたことからも、酒造と砂金で栄えた斎藤家(八郎の生家)の財力が相当なものだったことが窺えます。

◆『西遊草』からみえてくるもの
八郎親子は行く先々の観光名所に立ち寄り、母親は好きな芝居見物に夢中になったり、呉服屋で着物を買ったりします。芝居見物に興味がない八郎は宿に帰り夜半となれば、名所旧跡・行事、街道や宿場の様子、そして各地で聞いた言い伝え、そして自身の感想も含め、日記に克明に書き留めていたようです。

名所旧跡を綴った所だけを読んでも、158年前の観光ガイドや時代考証としても実に興味深い内容です。例えば「品川」と「高輪」についての行(くだり)を紹介すると、品川は「日の出」が美しい所であり、高輪は「二十六夜待ち」の名所だったことがわかります。江戸の古地図を基に「ブラタモリ」を楽しむ好事家にとっては、『西遊草』はきっと貴重な歴史的文献にもなりそうです。

「江戸の外四宿のうちにても、品川は海にのぞみ、殊に人家のうつくしき事並びなし。此所に宿してあさの時は、海上より朝日のいづる景色、尤も美事也。」

「まもなく高輪にいたる。片側にて海をのぞみ、至てよろしき所なり。殊に七月廿六夜の月見にて、晴天なれば此辺群集いたす事をびただしく、例年をどりなども多くいづる也。」

また、自身の感想を述べた箇所は、八郎の人となりが表出しています。
例えば、京都の金閣寺では「庭の綺麗に感服するはいらぬこと」とし、将軍足利義満は当時の百姓たちの塗炭の苦しみを憂うることなく、個人の楽しみを満たすために金閣寺を築いた。また、京都御所では、先般の禁裡(皇居)の不審火は「異国船騒動以来の天変流行」のひとつで、政(まつりごと=幕府)が怠慢ゆえに天より戒めるべき、などと折々に八郎ならではの見解が述べられています。

当時八郎は26歳、八郎の心の中にはまだ尊王攘夷の気運が成熟していない頃で、交友関係といえば、安積艮斉塾や千葉道場で知合った仲間が中心でした。なかでも清河塾延焼の後始末を手伝った安積塾の仲間に岩崎弥太郎の従兄弟がいたことは、龍馬との関係を考える上でも興味深いことです。

ちなみに、江戸滞在時の記述を読むかぎりでは、八郎は神田橋にある庄内藩江戸上屋敷と交流していたことが分かります。生家の斉藤家が庄内藩に相当の寄進があることから、当時はまだ、庄内藩江戸上屋敷が八郎にとって強力な「後ろ盾」になっており、私塾再建のための一時用立てを都合するとか、当時江戸町方では浪士の土地借用が禁じられているなかで、庄内藩が土地の確保のために仲介までしてくれていたようです。

『西遊草』は、このように八郎に対する既成概念(負のイメージ)を払拭する内容が満載しているだけでなく、幕末の日記文学/紀行文学としても貴重な歴史的文献であるのです。          (完)

※清河八郎著『西遊草』岩波文庫(93年)
清河八郎記念館が所蔵している原本を、小山松勝一郎が校注したもので、漢字と仮名を整理し注釈を加えている。残念ながら現在は絶版のため復刻を待たれる。
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。