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第115話:無意識と自然治癒力の関係(1/2)



◆長生きは「瞑想法」にある
日本の仏教者や儒家の享年を調べてみると、かつては人生50年と言われた時代にもかかわらず、ほとんどが驚くほどに長生きしていることがわかります。

《仏教者の享年》
・空海(弘法大師)真言宗 (774 ~ 835)  62才
・最澄(伝教大師)天台宗 (767 ~ 822)  56才
・円仁(慈覚大師)天台宗 (794 ~ 864)  71才
・源信(恵心僧都)天台宗 (942 ~ 1017)  76才
・栄西   臨済宗 (1141 ~ 1215) 75才
・法然   浄土宗 (1133 ~ 1212) 80才
・明恵   華厳宗 (1173 ~ 1232) 60才
・親鸞 浄土真宗 (1173 ~ 1263) 91才
・道元   曹洞宗 (1200 ~ 1253) 54才
・日蓮   日蓮宗 (1222 ~ 1282) 61才
・一遍   時宗 (1239 ~ 1289) 51才
・白隠禅師 臨済宗 (1685 ~ 1768) 84才

《儒家の享年》
・貝原益軒    (1630 ~ 1714) 85才
・佐藤一斎    (1772 ~ 1859) 88才

この長生きの原因はどこにあるのか―ということですが、きっと東洋の伝統的な「行」としての「瞑想法」にあるのではないかとみています。仏教では「止観」、「三昧」、「定善観」、「坐禅」、または念仏を取り入れた「観想念仏」とか、または動的な瞑想としての「踊念仏」や「千日回峯行」など、それぞれの宗派に応じて、数多くの「瞑想法」が用意されています。そして儒教には「静坐」があります。これらを一括して呼ぶところの「瞑想法」を、先人たちは日々の「行」としてお務めすることが、それぞれの健康法になっていたのです。

◆無意識のエネルギーが健康にする
「瞑想法」は、深層心理学の立場からみると、意識の表面にはたらいている抑制力を弱め、その下にかくれている無意識のエネルギーを活発にする訓練といわれています。この無意識のエネルギーを活性化することが、たぶん自然治癒力を養うことに通じていたのではないかと想像するのです。というのも、ある識者がそれを裏付ける発言をしています。

たとえば、毎日早朝坐禅を日課にしている宗教学者の山折哲雄によれば、朝起きたときに多少風邪気味で、くしゃみとか悪寒などの自覚症状があったとしても、いつものように坐禅をしてしまえば、終わる頃には風邪の症状があったことは忘れてしまうといいます。

◆帯津良三の仮説
また医師の帯津良三は、身体の免疫や自然治癒力は無意識領野に関連していると説き、仏教の心理学ともいえる「唯識」の理論を持ちだし、次のような仮説を立てます。

「免疫が半分解明されたところで、あと自然治癒力が手つかずでまだ残っているというわけです。(中略)唯識で言うと「末那識(まなしき)」が「免疫」のところである。自分(自我)ということを考える「阿頼耶識(あらやしき)」の共通の生命のようなところが「自然治癒力」だろうと、私は思っている。」

ここで「末那識」と「阿頼耶識」と名付けられた2つの深層心は、五感や意識よりも深いところに位置するフロイトがいう「無意識」の領域です。「無意識」は「身体」とは区別された心の領域の深層部分であり直感の生まれる場所とされますが、帯津が説くには、「無意識」には「身体」に対して「安定」を求める作用もある―というわけです。

近代科学が踏み込んでこなかった「無意識」の世界とは、むしろ哲学や心理学が扱う分野でした。「無意識」の世界が生命体の安定維持装置としての機能を持つとする考え方は、近代科学からすれば当然荒唐無稽な考えと一刀両断に無視されるところです。ところが近年になって、第一線で活躍している科学者が、それを後押しするような理論を発表しているのです。

というのは、帯津良三のこうした仮説の背景には、たぶんノーベル化学賞のイリヤ・ブリゴジン(1917~2003)の思想があるとわたしはみています。ロシア出身のベルギーの化学者・物理学者であるブリゴジンは、非平衡熱力学の研究で知られ、晩年は中国思想に傾倒した学者でもあります。次回はそのブリゴジンの思想について紹介します。(つづく)
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第114話:『いのちの記憶』




  ♪ いまのすべては/過去のすべて/必ず また会える/懐かしい場所で
     いまのすべては/未来の希望/必ず 憶えてる/なつかしい場所で
     いまのすべては/未来の希望/必ず 憶えてる/いのちの記憶で  ♪


◆不思議なフレーズ
これは映画『かぐや姫の物語』のエンディング・ソングである『いのちの記憶』の「さび」の歌詞です。昨年末からTVやラジオで予告編が流れるたびに「いまのすべては 過去のすべて」とか「いまのすべては 未来の希望」というフレーズが、なぜかこころに染みてきます。

シンガーソングライターの二階堂和美による楽曲で、「かぐや姫」が昇天するエンディングに合わせ、表面的には記憶を失っているかぐや姫の心情を代弁するかのように作られたそうですが、わたしにとってはむしろ、映画を超えたところでの普遍的なメッセージとして受けとめてしまいます。それだけ『いのちの記憶』は不思議な「ちから」をもっています。歌のメッセージに共感してしまうのは、きっと「いま」の「不安」や「悲しみ」を癒してくれる「ちから」が歌に備わっているからだと思うのです。
    
◆3.11以降のメッセージとして
ふと思ったのは、3.11以降だからこそ「こころ」に染みてくるのかもしれないということ。大切な人を亡くした経験をもつ人であれば、その無念さを抱えながらも、大切な思い出といつまで向き合えばよいのかというやり場のない「不安」に駆られるところです。すべてを忘れることが解決することではなく、「いま」の不安や悲しみのすべてを受け入れるということが「未来の希望」につながる、ということはとても深い意味をもっています。いつまでも悲しんで過去に逗まることなく、その先へ前向きにつなげられるように生きていこうと、この歌はやさしく背中を押しています。

◆認知症の不安に対して
そしてもうひとつ思ったのは、認知症で記憶をなくしてゆく不安へのメッセージです。物忘れがひどくなって、徐々に認知症が進んでいると自覚する高齢者ほど、楽しかった思い出や大切な記憶までもが失われてしまうという「不安」にかられます。いつか訪れるであろう「死」を前にして、その恐怖を乗り越えるための唯一の「こころの財産」であったはずの「記憶」が、脆くも崩れてゆくのはそれこそ耐え難いことです。
そうした患者さんには「記憶が失ったのではなくて、記憶が取り出しにくくなっただけですよ」とよく説明しています。

ところがこの歌ではさらに高いレベルでの「いのちの記憶」という言葉を使っています。たとえ認知症になったとしても、楽しかった思い出や大切な記憶は、その方の「いのち」にしっかりと刻まれているから安心しなさい-とするメッセージは、多くの認知症の方にとって、これほどまでの「救済の言葉」は他にはないと思うのです。

今年もよろしくお願い申し上げます



正月2日が誕生日のわたしにとっては、年が明ければまたひとつ歳を重ねるという感覚でいつも正月を迎えます。それが今年はちょうど60回目の「還暦」。先人が編み出した「還暦」という暦のサイクルは、迷える中老の徒にとっては「峠の道しるべ」というべきもの。「残りの人生」のスタートラインについに立ったぞ、という特別な思いをもって正月を迎えました。

昨年は10月からブログの更新が滞りがちでしたが、それは自宅のリフォームと治療院の移転をこの3か月で行ったことによります。

昨年はいろいろな意味で特別な年でした。その大きな出来事として、昨年2月末に救急車で運ばれるという経験をしました。幸い大事には至らなかったのですが、亡くなった母と同じ「心房細動」との診断を受けました。これまで病気ひとつしたことがなかっただけに、いろいろなことを考えさせられました。紺屋の白袴とはいいますが、自分の健康管理に目を向けるのはもちろんのことですが、特にこれから先10年の人生設計を考える機会を得ました。その答えが「身辺を身軽にすること」でした。
その手始めとして、自宅のリフォームに併せて一室を治療室に当て、旗の台の治療院を閉院することにしたのです。

そして年末には、方丈の庵ほどの治療室が完成しました。
上の写真は、その治療室に飾っているパピルスの古代エジブト画です。30年前に海外赴任から帰国した友人から頂いたものです。この画が最近になって、なぜか「手当て」をしている姿にみえてきました。画の方がかわるはずもなく、わたしの意識がようやくこの画に近づいたのかと思うと、時の流れと共に不思議な縁を感じてしまいます。

そんなわけで2014年は新たな人生のスタートを切りました。
今年も「安神堂の慎思録」 お付き合いの程よろしくお願い申し上げます。
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