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第130話:「足三里」周辺のツボ

◆足三里の周辺
今回は、足三里の周辺のツボで、同じ胃経のツボ「上巨虚(じょうこきょ)」「下巨虚(げこきょ)」そして「豊隆(ほうりゅう)」の3つを紹介します。
「上巨虚」は大腸の疾患に、「下巨虚」は小腸の疾患に効き、共に「下合穴(しもごうけつ)」と呼ばれています。そして3つ目の「豊隆」は痰をとるツボとされています。これらは胃経のツボなのに、なぜ他の臓腑に効き、そして痰をとる作用があるのでしょうか? 順を追って説明します。



◆下合穴という安全装置
では、はじめに「下合穴」について説明します。「上巨虚」を「大腸経の下合穴」、そして「下巨虚」を「小腸経の下合穴」と呼びます。この「下合穴」とは、上(手)の経絡のツボの代わりに下(足)の経絡のツボを使うという意味になります。
「大腸経」は人差し指から肩先に向かう経絡で、「小腸経」は小指から肩の後側に向かう共に手の経絡です。「大腸経」にも「小腸経」にも、実は大腸と小腸それぞれの疾患(臓腑病)に効くツボがないのです。では何に効くのかといえば、経絡上の筋肉組織や器官(鼻とか眼)に関連した疾患(経絡病)に効くとされています。
となると「大腸経」も「小腸経」も名前に臓腑を冠していながら、臓腑に効かないのであれば当に名前負けになります。そこで先人は「下合穴」という安全装置をつかい、代わりとして足の胃経上の「上巨虚」と「下巨虚」にその役割があることを知らしめた、と想像しています。

◆「上巨虚」は大腸に効く
それでは各ツボの紹介です。「上巨虚」の位置は、足三里から指4本(第2~5指を合わせた第2関節の幅)下った処にあります。「大腸経の下合穴」である「上巨虚」は、下痢や便秘などの大腸の症状に効きます。たとえば下痢をしたときには、押すとイタ気持ちいいとか、ツボ周辺が張って痛くなるなど、症状に応じて比較的反応がでやすいツボです。
ちなみに、お臍から横へ指3本(第2~4指を合わせた第1関節の幅)の処に「天枢(てんすう)」という胃経のツボがあります。これは「大腸の募穴(ぼけつ)」といって、これも大腸の症状に効くツボです。こうして胃経には、大腸に効くツボが「上巨虚」と「天枢」の2穴あることになります。下痢や便秘などの症状があれば、この2穴を併せて鍼やお灸をするとより効果があります。

「上巨虚」の効用で、もうひとつ紹介したいのが筋肉のマッサージ効果です。このツボは「前脛骨筋(ぜんけいこつきん)」という筋肉上にありますが、「上巨虚」に低周波のような電気刺激を加えると、前脛骨筋がより大きくピクッと動きます。電気刺激により筋肉が最大収縮するポイントをモーターポイント(MP)といいますが、前脛骨筋のMPがツボ「上巨虚」と符合するのです。
したがって下腿に運動性の疲労がたまりやすい方や、変形性膝関節症によるO脚の方は、この前脛骨筋がパンパンに張りやすくなります。そこでMPである「上巨虚」に、鍼やお灸を施せば、周辺の固くなった筋肉をほぐして血行を改善してくれます。

◆「下巨虚」は小腸を調える
次にツボ「下巨虚」の位置は、「上巨虚」からさらに指4本(第2~5指を合わせた第2関節の幅)下った処にあります。「小腸経の下合穴」である「下巨虚」は、小腸の症状に効きます。食欲が減退して下腹部が張り、便が柔らかいもしくは下痢をするような症状です。

東洋医学がいう「脾胃」とは、西洋医学での「胃腸」(消化器系)に当たります。したがって「脾」はむしろ「小腸」に近い臓器とみてよいでしょう。胃を代表する「足三里」と小腸を代表とする「下巨虚」を同時に治療することで「胃」と「脾」のバランスを調える効果が期待できます。特に近年、小腸の免疫機能が注目され、腸内環境が身体の健康に深くつながっていることが分かってきました。しかしながら東洋医学の世界では、「脾胃」を調えることが身体全体の健康につながることを、すでに先人たちは認識していました。
そうした意味合いからも、ツボ「下巨虚」は「足三里」と併用することをお勧めします。

◆「豊隆」は痰をとる
最後にツボ「豊隆」の位置は、「上巨虚」と「下巨虚」の中間よりやや下にあって、ラインから少し下に外れた位置にあります。「豊隆」の効能については、現代中医学では必ずといってよいほど「去痰(痰をとる)」と記載されています。現代中医学の教条主義的な面を嫌うあまりに、正直わたしはこの「去痰」については全く信用していなかったのです。というのも日本鍼灸では「豊隆」に去痰の効能があるとする記載を目にしたことがないからです。

ところが、風邪で痰が絡むと訴える患者さんを治療した際、念のため「豊隆」の反応を調べてみると、これがしっかりあるのです。ならばと、左右の「豊隆」穴を押して、より痛い方に瀉法の鍼(ズーンと響く鍼)を施してみます。すると次の来院した折には「あの鍼をされてからびっくりするくらい痰がなくなった」と言ってよろこんでもらいました。
また、風邪にかぎらず、たとえば脾胃(消化器系)のはたらきが弱くて水はけがわるく、慢性的に痰が絡んでいる方がいます。そうした方には毎日「豊隆」に自宅施灸を勧めています。こうした慢性のケースにおいても、痰の量が軽減するという一定の手応えを感じています。

痰をとるツボは、通常であれば誰しもが肺経のツボに求めます。それがなぜ胃経の「豊隆」なのでしょうか。その回答を古典の成句に求めると「肺は貯痰の器、脾胃は生痰の源」とあります。これは「痰は肺に関係するように思えるけど、肺は痰を貯蔵しているだけであって、肝心なことは痰を生成する原因が脾胃の弱さにある」という意味になります。したがって生痰の源の脾胃を代表して、ツボ「豊隆」を使うことで痰の生成が弱まるとみています。(了)
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第129話:井筒俊彦の世界



◆わたしの「横浜事件」
個人的な話ですが、「横浜事件」と勝手に呼んでいる忘れられない出来事があります。それは10年ぐらい前のある日の夕方。週に2日担当している横浜の治療院からの帰路、横浜駅京浜東北線のホームで上りの電車を待っていました。その日はいつものように何人かを治療した中で、ある患者さんの治療が不思議なほどに奏功したのですが、むしろ逆に「なぜあんなにうまくいったんだろう?」と妙にひっかかりを感じてしまい、釈然としないまま、ぼんやりホームで佇んでいました。

すると全く突然なことに、そのひっかかりに対する「回答」というべきイマージュ(心象)が、まるで深いところから湧き上がってきたかと思うと、一瞬にして身体が揺さぶられたのです。ふと周りを見渡せば、みるみる一面がセピア色に染まっていきます。と同時に、昂揚感とでもいうのか身体全体が熱くなってきて、わたしも一緒にその色に染まってゆくような感覚がしたものです。

どんな「回答」かについては、守秘義務に係わることなので詳しくは書けないのですが、とにかくわたしにとっては当に「腑に落ちる」衝撃的な内容だったということ。アイデアが浮かぶという感覚と同じように、意識の奥から勝手に浮上したことなのでしょうが、ただ、一面がセピア色になったり身体が熱くなったりする感覚はもちろん初めて体験することでした。

◆『意識と本質』
この不思議な出来事をどう解釈すればよいのか、その糸口を掴んだのは、偶然にも井筒俊彦の『意識と本質』を読んでいるときに、次の文章に遭遇したときでした。

「突然、日常的意識の活躍のさ中で、ふと、現実的事物との結合を離れ、事実性から遊離したイマージュがどこからともなく現れてきて、意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがある。・・・(中略)・・・シャーマンやタントラの達人のように、深層意識の超現実的次元を方法的に拓いた人たちだけが、この種のイマージュを正しく活用する術を心得ている。
しかし、常識的人間の場合でも、このようなイマージュ体験が実際に起る時、実は彼の内部には既に表層意識から深層意識への推移が生じつつあるのだ。」
            (『意識と本質』Ⅷより抜粋;187~188頁)

つまり、わたしが体験した「横浜事件」は、それこそ常識的人間のイマージュ体験であり、意識の表層と深層とで起きた事象であるに違いない、とたちまちのうちに理解ができたのです。

哲学が扱うものは「意識」とすれば、自分の意識の観察法を体得しておくために、「哲学」を学ぶことには意義があります。井筒俊彦の名著『意識と本質』は、そうした意味ではきわめて示唆的な事柄を提供してくれます。なかでも興味深いのが深層意識に関すること。わたしたちの日常生活では表層意識で彩られていますが、ひとたび足を止めてその足元を覗いてみれば、恐ろしく深い淵が開けた深層意識の存在に気づかされます。井筒は、深層意識に「言語」というファクターを持ち出し、言語以前の種子(ビージャ)が絡まり合うカオスの海であるとし、これを「言語アラヤ識」と名付けています。

こうして井筒が説く深層意識とは、フロイトやユングの「無意識」とはひと味もふた味も趣が異なり、広く哲学・宗教・文学・言語学に及びながらも東洋哲学に根差しています。

◆井筒俊彦という人物
井筒俊彦(1914~1993)は、はじめイスラーム哲学の研究から出発し、後年、広く東洋哲学全体へと研究の幅を広げ、そこから独自の哲学を構築した学者です。井筒の学識の広さと深さについては広く知られていることで、また数十か国語を理解できるとまで言われた世界的な碩学です。遠藤周作を筆頭に井筒俊彦に傾倒した著名人は多く「日本人の魂の師匠たるべき大思想家」と評価されてきました。

わたしにとっての井筒俊彦の魅力は、単に学識の広さということだけではなく、東洋思想でいうところの「身体知」を感じさせる「知の巨人」にあります。たとえば、先の引用した文章でもそうですが、井筒の文章はいわゆる学者の文章でないということ。意識と身体の最も深い場所に身を置いて言葉を選んだこうした文章は、少なくとも自らの体験がなければ書けないといえます。ですから文中の「意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがある」は当にそうで、体験があるからこそ書けるのです。

また、恐るべきカオスともいえる深層意識を実際に垣間見ることで、それについて論究できるのは、座禅などの伝統的瞑想法による宗教的な行(ぎょう)をきっと体験されている方だろうと想像できます。実際のところ、井筒は父親の影響で若い頃から「禅」には深い関心を持ち、父・井筒信太郎から伝授された内観法を日々行じていたと言われています。

こうした井筒俊彦の「身体知」というべき実証主義的姿勢は、日本の「禅」に限らず、ギリシャ哲学の中の「神秘哲学」、イスラーム神秘主義(スーフィズム)、仏教の華厳哲学などの哲学研究を通して、あくまでも「形而上学は形而上的体験の後に来るべきものである」と言及していたことが当に象徴的です。
「井筒哲学」とは井筒自身の実感に裏打ちされた「哲学」だということです。


※井筒俊彦『意識と本質-精神的東洋を索めて』岩波文庫(91年)
決してやさしく書かれているわけではないが、繰り返し読んでみたくなる本。
※『井筒俊彦-言語の根源と哲学の発生』河出書房新社・道の手帖(2014年)
井筒俊彦生誕100年を記念して刊行されたガイドブック。
特に印象に残った記事は若松英輔による「光と意識の形而上学」。井筒と漱石とベルクソンの共通項を検証することで、井筒哲学の根幹がよくみえてくる。
※井筒俊彦『意味の深みへ―東洋哲学の水位』岩波書店(85年)
イスラームに対して時局追求的興味で知るよりも、その歴史的文化的根底を知るべきと井筒は説く。なかでもスンニ派とシーア派の根源的な違いについての言及が印象的。

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