第134話:「鳥海山」の神仏と陰陽



◆さやけき山「鳥海山」◆
ふるさと酒田では、日本海を背にすれば北東に「鳥海山」(標高2,236m)、そして南東に「月山」(標高1,984m)が望めます。酒田の人にとって「鳥海山」は「地元の山」という意識がつよく、「月山」はどちらかといえば隣の鶴岡の山とみなします。
斎藤茂吉の歌をかりれば、鳥海山は「さやけき山」です。こどもの頃から見慣れた鳥海山の雄姿は成長の折々に背景として存在し、かといってなにかを主張するふうでもなく、日常のありふれた風景の中に「さやけき」姿をいつもみせていました。

◆荒ぶる山「鳥海山」
その鳥海山が突然「荒ぶる山」の形相を見せたのは、わたしが上京して2年目、20歳になった1974年(昭和49年)のことでした。174年ぶりの噴火(水蒸気爆発)を知らせるTVニュースがいきなり6畳一間のアパートに飛び込んできたのです。幸い大きな被害はなかったようですが、山頂の大物忌神社(おおものいみじんじゃ)の屋代が噴石の被害を受けたと報じていました。お蔭でわたしは、興奮して寝付けなかったことを今でも覚えています。まるで寝た子を起こすかのような衝撃とでもいうのでしょうか、将来を定めきれない20歳の青年にとって、否応なしに奮起を促されたような熱いエネルギーを鳥海山噴火のニュースから感じとってしまったのです。かといって青年のこころが翌日から一変したわけでもなかったのですが、ただ、その日を境に鳥海山が「ありふれた山」ではなくなったことだけは確かでした。

◆「大物忌神社」とは
鳥海山が「荒ぶる山」とは全く想像もしてないことですが、山頂にある「大物忌神社」の主神である「大物忌神(おおものいみのかみ)」を調べてみれば、それは当然のことでした。民俗学者谷川健一の『日本の神々』によれば、「大物忌大神」とはいわゆるタタリ神で、怒りをかうと、鳥海山の噴火や出羽の蝦夷(えみし)の反乱が起きるという構図をもっていました。古代、大和朝廷が平穏を祈るためには「大物忌神社」に国司をつかわして祈祷させたとあります。つまり鳥海山に眠る「大物忌神」の怒りを鎮めるために「大物忌神社」は存在し、鳥海山は元々荒ぶる神の「大物忌神」を擁する「陽の山」であったというわけです。

◆陰陽の関係と曼荼羅
南に聳える月山と相対して鳥海山を捉えれば、月山が「陰の山」で鳥海山が「陽の山」というように、両山は陰陽の関係にあるとされてきました。
それは地図を開いて両山を俯瞰すると、より明白に理解できます。というのは、不思議なことに月山と鳥海山はぴったり南北線上に位置しているからです。月明かりの夜に月山の頂に立ち、真北の北極星を仰ぐとその直下に鳥海山がみえるわけです。こうした地理的関係を偶然の所産と考えてしまえばそれまでです。しかし、月山と鳥海山が「子午の関係(南北線上の位置)」を以て対峙していることの意味を考えてみれば、かつて修験道で栄えた信仰の山である月山と鳥海山とを陰陽の関係で繋げることで、実は庄内地方を「曼荼羅」の宇宙観にみたてた古代人の眼差しがそこにあったことを、わたしはつよく感じてしまうのです。

◆鳥海山をとりまく神仏
曼荼羅を形成している鳥海山をとりまく神仏たちをここで紹介してみます。
大物忌神社には、鳥海神(鳥海山大権現)の「大物忌神」と月山神(月山大権現)の「月読命(つくよみのみこと)」を共に奉られています。「陽の山(鳥海山)」に主神である「大物忌神」のみを奉るのではなく、「陰の山(月山)」の主神である「月読命」をも奉るという意味合いは、陰陽論でいえば「陽中に陰を取り込む」という独特の思想が反映されているとみます。
ちなみに鳥海山周辺の地図をみれば、鳥海山を水源とするふたつの川「月光川」と「日向川」があることや、鳥海湖の傍に「月山森」と名付けた森があることも、まさに「陽中に陰を取り込む」という考え方が根底にあると想像できます。

さらに、かつての神仏習合の時代には、陰陽は「仏」の領域にも広がります。日本海に面した吹浦(ふくら)にある大物忌神社には「神宮寺」がありました。この神宮寺に「薬師如来」と「阿弥陀如来」が奉られていました。これは本地垂迹説に基づき、「大物忌神」の本地を「薬師如来」とし、「月読命」の本地を「阿弥陀如来」とされていたのです。ここで「阿弥陀如来」は来世往生の仏で、「薬師如来」は病気平癒を初めとする現世利益の仏と言われています。これを平たく解釈すれば、月山は「あの世の山」で鳥海山は「この世の山」という図式にもなります。

    「陽の山(鳥海山)」=「大物忌神」=「薬師如来」 =「この世の山」
    「陰の山(月 山)」 =「月読命」 =「阿弥陀如来」=「あの世の山」

◆庄内を取り巻く「曼荼羅の宇宙観」
ということは、子午の関係で対峙する「あの世の山」と「この世の山」とに挟まれた土地が「庄内地方」です。そこには、肥沃な「庄内平野」と東西に分け入る「最上川」から自然の恵みを授かった人々の悠久の歴史があります。人々は「この世の山」には畏怖の念をもって仰ぎ、「あの世の山」には山岳浄土への願いをもって仰ぎ見たのでしょうか。

このような神仏たちで彩られた「曼荼羅の宇宙観」は、明治政府がとった「神仏混淆廃止の令」をもって終焉させられます。特に明治5年に修験道が廃止されると、いわゆる「廃仏毀釈」が断行され、神宮寺は破壊され「薬師如来」と「阿弥陀如来」は麓の寺に移設されたと聞きます。修験(山伏)は還俗(げんぞく)させられるか、真言宗や神道に帰属させられたそうです。

鳥海山と月山をとりまく、こうした神仏習合による「曼荼羅の宇宙観」は、残念ながら今ではほとんど忘れられてしまいました。とはいえ、「廃仏毀釈」を断行される前を考えてみれば、神と仏が上手に共存していた時代が、ほぼ千年にも渡り面々と続いていたのです。
そのことが庄内における精神文化の基底をなしていた、と考えても決して間違いではないような気がしています。(了)

※斎藤茂吉(1882~1953):鳥海山を謳った短歌
「ここにして 浪の上なるみちのくの 鳥海山はさやけき山ぞ」
※谷川健一『日本の神々』岩波新書(99年)
※本地垂迹説とは
神仏習合における考え方。本地であるインド仏教から日本の地へ神として現れたとする。鳥海山の例で言うと、インド仏教の「薬師如来」が日本の神として現れたのが「大物忌神」。同じく「権現(ごんげん)」は仮に現れた神さまという意味。
※鎌田東二『神と仏の出逢う国』角川選書(平成21年)
明治初年の「廃仏毀釈」の経緯や神道の歴史が詳しく解説している。
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第133話:細胞レベルの陰陽論



◆細胞の世界からみえること◆
身体を構成している細胞の世界に目を投じてみれば、そこには「生」と「死」のドラマが繰りひろげられています。というのも、身体は約60兆個の細胞で構成されていて、ある一定数の細胞が数週間で死を迎えると、さらにその分の新しい細胞が生まれ順次入れ替わるからです。たえず入れ替わるのが「新陳代謝」であり、入れ替わる力が徐々に弱くなるのが「老化」といえます。

こうした一連のドラマを荷っているのが「体細胞」と「幹細胞」のふたつの細胞です。
「体細胞」は身体の多くを構成している細胞で、ある回数の分裂を経た後では、もう分裂することを止めます。したがって「体細胞」は有限な「死すべき細胞」といえます。
もうひとつの「幹細胞」は無限の分裂ができる「不老不死の細胞」の性質をもち、各種「体細胞」に分化できる細胞のことです。したがって「幹細胞」は不老不死の身体から、同様に不老不死の複製「幹細胞」と、定められた役割をもつはかなくも「死すべき細胞」である「体細胞」とを、同時に分裂させる細胞だということです。
例をあげると、骨髄の奥深く蔵された「造血幹細胞」は、血液を構成するさまざまな「体細胞」を産みながら、自分自身は無限に分裂して、老化をすることがない細胞です。

◆細胞間における陰陽論
このように、細胞レベルでの世界では「体細胞」と「幹細胞」が対照的な動きをしながら、身体のホメオスタシスを保つように活動を続けているわけです。言葉をかえれば「死すべき細胞」と「不老不死の細胞」が絶妙なバランスをもって生命活動を維持しているとも言えます。もしも「幹細胞」の役割がなければ「体細胞」の再生ができなくなり、もしも「体細胞」の役割がなければ「幹細胞」が絶えず分裂を繰り返して暴走してしまうでしょう。

この図式はまるで東洋思想における『陰陽論』そのものです。「死すべき細胞」と「不老不死の細胞」がそれぞれ「陰」と「陽」に該当し、陰陽の調和があってこそ生命活動が維持されるということです。

 「陰」=「体細胞」=「死すべき細胞」
 「陽」=「幹細胞」=「不老不死の細胞」

◆「死」の重要性
実は、「幹細胞」は「癌」に変わる細胞であるとも考えられています。無限に分裂していく性質が、両者に共通しているからです。「幹細胞」と「癌」には「死」という信号がDNAにセットされていないということ。死ぬこともなく無限に分裂できるということは、栄養が途切れない限りは永遠に生を連続させていくということですから、とても厄介な代物です。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が開発した「iPS細胞」は人為的に作られた「幹細胞」ですが、再生医療の実用化に向けて乗り越えるべき課題が「iPS細胞が癌化しないこと」であるのは、そうした理由によるのです。

こうしてみると、細胞に「死」という信号がDNAにセッティングされていることの重要性が明らかに分かってきます。「陰陽論」をさらに「体用の論理」で解釈すれば、「陰は体であり主体、陽は用であり機能」となります。となると「死すべき細胞」はより本質主体的な意味合いをもつということにもなります。

◆『不死の人』から
そこで思い出すのが、アルゼンチンの作家・ボルヘス(1899~1986)です。
彼の代表作である『不死の人』には、次のような興味深いエピソードが綴られています。
ローマ時代のある護民官が、不死の人々が住む神秘の国を求めて旅にでるのですが、そこで遭遇した「不死の国」とはユートピアどころか、住人が皆「言葉」を用いるすべを知らない野蛮人だったという話です。
この「言葉を話せない」というのはとても示唆的です。「言葉(の喪失)」を生きる上での「本質(の欠落)」と理解すれば、不死の人々は決して幸せな存在ではなかったということ。つまり、永遠に生きるしかない「不死」の世界とは、とどのつまりは記憶しても意味がなく、過去現在未来という時の流れにも意味がない、そして生きていること自体に意味をみいだせない世界であるのです。「不死」に拘泥するあまり「死」を蔑(ないがしろ)にすることは、生きる意味を失うことである。「死」とはそれこそ「生」と同じくらい大切なものなのだ―ということをボルヘスは言いたかったのでしょう。

◆細胞の世界が教えること
細胞レベルで繰り広げられた「生」と「死」のドラマは、実は人間の生き死に関わる領域までに投影され、まるで全体が入れ子構造になっていることを、ボルヘスの作品を通じてわたしたちは考えさせられます。
実際のところ現実は多くの問題を孕んでいます。たとえば先端科学技術である再生医療に着目すれば、「iPS細胞」の実用化しだいでは「壮年不死の思想」に拍車をかけないとも限らないでしょう。「不老不死の細胞」が暴走するように、人がなかなか死ねない時代になってしまうことだけは避けたいものです。
「死」は「生」のためにある―とはなかなかすんなりと受け入れられない命題かもしれません。とはいえ、病み、老いて死んでいくことが、人の自然な在り方として改めて見直すべきことを、細胞の世界がわたしたちに教えていることには間違いないようです。(了)


※石田秀美『21世紀問題群ブックス3「死のレッスン」』岩波書店(1996年)
東洋思想の立場から「死」を論究している稀有な本。
※集英社版『世界の文学9「ボルヘス」』篠原一士訳(1978年)
「不死の人」は短編集『エル・アレフ』に収蔵。

‘15 今年もよろしくお願い申し上げます



「文は人なり」とは、山形県鶴岡出身の高山樗牛(1871~1902)の言葉と聞いています。高山樗牛が何をした人物かは、未だによくわかっていないわたしですが、この成句だけは子供の頃ことあるごとに母から教わっていました。しかし「文は人なり」となると「文章を読めばその人となりがわかる」となるわけですから、文章しだいでは生身の自分をさらけ出すことにもなります。臆病者のわたしにとっては、それはとても恐ろしく耐えられないことで、意識すればするほど益々ペンは遅々として進まないというものです。子供のころから文章を書くことが苦手だったのは、きっと高山樗牛の言葉を知ってしまったことで、逆に潜在的なトラウマをつくってしまったのかもしれません。  

とはいえ、こうしてブログの文章をある程度書いているのは、自分なりの文章スタイルを暫定ながらも、ひとつ身につけようと意識したことによります。特に普段から目標にしているのが、敬愛する伯父である冨澤襄(とみざわのぼる)の文章スタイルです。伯父は中学校教員のかたわらで、歴史学・生物学・考古学・地質学など多岐にわたり論文を書くという、いわゆる「在野の研究者」でした。そんな叔父が昭和35年に上梓した『飽海史話』は、中学生向けに平易な文章で書かれた郷土史の本です。甥のひとりとしていまでも大切に保管し、ときおりページを開いては伯父を想いだしています。

伯父の文章スタイルである「中学生でもわかる平易な文章」とは、終始「デスマス体」で統一されていることです。そうしたやさしい語りかけは、当時の中学生に留まらず、あきらかに次世代に向けて発していることは明白で、いま読んでもすこしも古さを感じさせないほど文章の輝きを失っていないのです。そしてなによりも、「デスマス体」を自然体のことばにしていることで、より伯父の人柄を彷彿とさせています。これがまさに「文は人なり」のお手本だと肝に銘じているところです。

自分らしい文章を書くこととは、なかなか難しいこと。いつも心掛けながらも結局は永遠のテーマになってしまうものかもしれません。ともあれ、あくまでも間尺の範囲内での事柄を、これからも無理のない程度にコツコツと書いていこうと思っています。
今年も「安神堂の慎思録」お付き合いの程よろしくお願い申し上げます。