第136話:「ライフヒストリー」を傾聴する



◆それぞれの「ライフヒストリー」◆

大正5年生まれのAさんは東京の生まれ。小学1年の7歳のときに関東大震災を経験。大正12年9月1日、2学期の始業式をまさに終えて帰ろうとしたその正午前に突然グラッときた。なんとか避難した小石川植物園では、みるみる赤く染まる空を不安な気持ちで眺めていた。日が暮れ始めるころにやっと父親が探してくれたときは、ほっとしたあまりに大泣きしたと言います。
そして20歳になった年のこと。雪が降る日に親戚の家へ届け物を頼まれて数寄屋橋まで歩いて来たら、道を塞ぐ物々しいほどの憲兵隊に呼び止められた。「この先は行かないように」と言われ、しょうがないので踵をかえすも、なにやら不穏な空気を背中に感じたことを今でもはっきり記憶していると言います。それが昭和11年の二二六事件が起きた日のことでした。

大正13年生まれのBさんは東京の生まれ。生まれる前年9月1日の関東大震災のときは、まだ母のお腹にいた。母は火災から逃げて神田川に浸かって助かったから今わたしがこうしているのよと言います。
女学校に通う頃になると、厳しい戦時下に入ってしまい英語教育が禁止。それでも英語を勉強したかったBさんは、つてを頼って某教会にお忍びで通い、牧師さんに英語を習ったと言います。
そしてもうひとつ興味深い話が、Bさんは当時女学校の歴史教科書のなかに「壬申の乱」や「白村江の戦い」については全く触れていないことに疑問をもったということ。「万葉集」で額田大王に興味をもてば、天皇同士の戦である「壬申の乱」や新羅との戦いに負けた「白村江の戦い」にどうしても興味をもつでしょう、とその理由を説明してくれます。だから戦争が終わったら、もう一度古代の歴史を学び直そうと、ずっと思っていたそうです。

大正14年生まれのCさんは埼玉の生まれ。いちばん綺麗なときが戦時中だったという年代。村で同級生の優秀な男子の何人かは戦死してしまった。いまでも終戦特集のTV番組はつらくて見られないと言います。20歳になったのが昭和20年終戦の年。学校を卒業して、保健婦さんとして戦前戦後にわたり60歳定年までお勤めされた職業婦人。公衆衛生に尽力された保健婦としての日々は当に「結核との戦い」だったと振り返ります。まだ抗生剤のない時代はとにかく「栄養と休息と新鮮な空気」それだけだったと言います。いまでも保健婦さんの気概はそのままで、新しい医療情報をわたしに提供してくれるほどです。

昭和4年生まれのDさんは東京下町の生まれ。父親は工場を経営し、多くの職人さんを抱えていたそうです。昭和20年3月10日未明の東京大空襲により、家族全員が焼きだされます。飛んでくる焼夷弾の火の粉から身を守ろうと、近くの隅田川にみんな浸かって難を逃れたのですが、ふと気が付けば父親と兄弟のひとりが、目の前で亡くなっていたと涙ながらに話をしてくれました。Dさんは毎年3月10日になると、遺された兄弟と一緒に、墨田区の都慰霊堂で行われる慰霊祭には欠かさず参列しているそうです。

昭和10年生まれのEさんは樺太育ち。石炭が豊富だったので寒さで苦労した記憶はない。樺太の自然は素晴らしかったと言います。海産物も豊富でタラバガニはおやつにしていたくらい。でも楽しかった日々は戦争で長くは続かなかった。炭鉱で働いていた父親は召集されたまま硫黄島で戦死し、母と私たち兄弟は樺太にとり残された。終戦後、昭和21年にようやく本土に帰還。母親の身寄りを頼って親戚の家(といっても離れの納屋)に仮住まいをしたが、母親は心労がたたってまもなく亡くなった。正直その時期が一番つらかった。でも今は子どもと孫に恵まれてしあわせな毎日をおくっている。いつか硫黄島に墓参に行きたいが、なかなか叶わないでいると話してくれました。

◆傾聴することの意味
紹介したお話は、あくまでも治療の流れの中で伺った話です。詳細に聞き書きをしたわけではなく、そのときの記憶を頼りにまとめたものです。個人的な好奇心から聴こうとしても、ここまで話していただけないもので、当然ながら、患者さんと信頼関係が築かれていることが前提となります。

問診事項とは直接関係のないような事柄であっても、患者さんが安心して話されて、治療家がそれを傾聴するという空間は、とても大切な「気の交流」の場となっています。そこで治療家がしっかり傾聴することで、患者さんのこころを支えることができると確信しています。もし、そこに技術的なことが必要であるとすれば、「聴き上手」になるために、ある程度の「歴史の知識」を身につけておくことが必要になるのかもしれません。

生活歴の長い高齢者ほど、過去の民俗学的な生活史のいろどりは豊富で、過去・現在・未来へと連なる、驚くような「ライフヒストリー」をもっているものです。
人生の先輩の話を伺うに際して、常に「教えていただく」という気持ちをもって傾聴すること。そしてなによりも、人生の厚みを知ることが、患者さんに敬意をもって関わることに繋がると考えています。(了)

※六車由美『驚きの介護民俗学』医学書院(2012年)
介護の現場に民俗学の「聞き書き」を導入した実験的試みを紹介。
利用者に対して介護職員はどのように傾聴すべきかが、とても参考になる内容。
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