第139話:『五行論』について



◆背景にある『五行論』◆
「キトラ古墳」の天井と壁面をみると、まず天井には北斗七星などの星座が描かれてあり、これは「道教」における「星辰信仰」という宇宙観に依拠します。さらに四方の壁面を見れば、それぞれに「四神(ししん)」を為す架空の動物が描かれてあります。「四神」とは四方の守護神のこと。東面に「青龍」、南面に「朱雀(すざく)」、西面に「白虎」、北面に「玄武」と、それぞれ壁中央に配置してあります。ちなみに『五行論』では四方に「中央」を加えて「五方」と呼び、さらに呼称についた「色」に着目すれば、青・赤(朱)・白・黒(玄)というように、中央の黄色を加えれば『五行論』における「五色」が内包されているのです。このように古代の古墳を覗いてみても、『五行論』を背景にしてすべてが構築されていることが分かります。

次に、季節の移り変わりにも『五行論』のリズムが刻み込められていることを紹介します。それは旧暦の「二十四節気」です。「立春」から始まり「大寒」で終わる合計24個の「節気」は15日毎に訪れます。その15日というのは、一日一日を「木」「火」「土」「金」「水」に配当しその最小単位の5日間を「候(こう)」と呼び、その「3候」を「節気」としているのです。旧暦は正式には「太陰太陽暦」といい、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽暦)が加味されたもの。「二十四節気」は太陽の運行(公転角度15度)に則した季節の節目ではありますが、実はそこには中国古来の『五行論』におけるリズム(木火土金水)が刻み込められているということです。

   1候=5日(木日・火日・土日・金日・水日)  節気=3候=15日
   1年=360日=24節気(15日x24)=72候(5日x72)

◆そもそも『五行論』とは
こうして中国で生まれた『五行論』は、「陰陽論」と共に天文・宗教・文化・芸術そして伝統医学である東洋医学の世界に色濃く浸透しています。
そこで今回は『五行論』について、主な特長について整理してみました。

『五行論』は、自然界のすべてが「木」「火」「土」「金」「水」の五つに分類されるという考え方です。たとえば季節であれば春夏土用秋冬、方位であれば東南中央西北、五臓であれば肝心脾肺腎、色であれば赤青黄白黒ということです。
これを一覧に表したのが「五行色体表」と呼ばれるものですが、主な項目だけを書くと次のようになります。

   【五行】 木  火  土  金  水
   【五色】 青  赤  黄  白  黒
   【五季】 春  夏  土用 秋  冬
   【五方】 東  南  中央 西  北
   【五臓】 肝  心  脾  肺  腎
   【五腑】 胆  小腸 胃  大腸 膀胱
   【五主】 筋  脈  肌肉 皮毛 骨
   【五竅】 眼  舌  口  鼻  耳

ここで注意すべきは『五行論』は単なる分類学ではないということ。大事なことは二つあって、ひとつは自然界すべてのものが絶え間なく変化し、しかも円環(もしくは五角形)運動を呈している、とする所謂「循環の思想」を意味します。
   「木」⇒「火」⇒「土」⇒「金」⇒「水」⇒「木」・・・
たとえばそこに「金」の隠喩(メタファー)が現れていたとしても、それはあくまでも循環変化のひとつの位相(フェーズ)であるということ。むしろその場合、上流側の「土」との関係性を大切にします。具体的な例をあげれば、風邪(肺金の病)を引いている患者さんには、肺機能をサポートしている胃腸(土の臓腑)の治療も同時に加える-ということがそれに該当します。

そしてもうひとつは、五つのエレメントに隠喩(メタファー)として分類しながらも、「五行色体表」の縦列に示す項目に着目します。そこで一見関係性のない項目同志に「意味的連関」を見出すことを重んじること。それが『五行論』における最大の特長となっています。たとえば、「肝」虚証の人は、「春」に体調を崩しやすく、「眼」が疲れやすく、「筋」肉が疲労しやすい・・などと繋がるのです。しかも大半のことが不思議なくらいにぴったり整合性を示します。したがって、逆に「眼」が疲れやすい人であれば、「肝」虚証ではないか、他に「筋」肉も疲労しやすいのでは・・と問診しながら診察を進めることができるのです。

◆『五行論』は迷信にあらず
鍼灸の学校教育を振りかえると、『五行論』といえば「五行色体表」を教えて終わりという傾向にありました。「五行色体表」を丸暗記した学生であれば、たぶん『五行論』は古色蒼然とした分類学にすぎないと思いがち。そうなると、当然にして『五行論』は迷信あつかいされてしまうのです。

しかし先に説明したように、『五行論』とは、自然界の「循環の思想」であり、または自然界を横断する「意味的連関」に眼差しをおいた独特の思考法であります。
人の身体と心が、まるごと自然界の一員であるとするのが東洋思想の根幹とするならば、眼とか耳などの身体の部位も、臓器も、気持ちのあり様も、季節のうつろいも、口にする食べ物も、それぞれが呈する位相(フェーズ)間には、意味をもって繋がっているというのは、ごくごく自然なこと。そうした眼差しを提示してくれる思考法が、当に『五行論』だということです。(了)

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第138話:ツボ「陽池」と「委陽」

◆三焦経に関連したツボ◆
今回は三焦経に関連したツボ「陽池(ようち)」と「委陽(いよう)」の二つを紹介します。「陽池」は臓器の陽気を高める効果があり、「委陽」は浮腫(むくみ)などに水はけを改善するツボとして使います。「陽池」は三焦経のツボ。一方「委陽」といえば膀胱経のツボでありながら三焦経の下合穴(しもごうけつ)と呼ばれるツボです。
「実体のない腑」と呼ばれる「三焦」を説明した上で、これら二つのツボについて順を追って紹介します。

◆「三焦」とは
「三焦」の経絡である「三焦経」は手の薬指(第3指)から手の甲を通り、前腕・上腕の後側を通り、肩から耳の周りに至る「手の経絡」です。ツボは項(うなじ)で終わっていますが、その前に支流として胸部(上焦)、腹部(中焦)、下腹部(下焦)へと連絡しています。この上中下の「三焦」へ広範囲に連絡していることが大事なポイントです。
そこで「三焦経」を考えるには、「経絡病」と「臓腑病」のふたつの面から捉えます。

まず「経絡病」であれば、経絡が走る部位の疾患に関連するということ。たとえば五十肩や頚腕症候群などの上肢の痛みや、または耳に関連した眩暈や耳鳴りなどの症状が、三焦経のライン上が最も反応を顕著に呈するようであれば、三焦経のツボを選穴します。

次に三焦経の「臓腑病」としての側面を考えると、これがなかなか「実体のない腑」という特異な存在であるために、歴代の医家が「三焦学説」として諸説様々に語られてきた経緯があります。そのなかで、わたしが採用している学説は「三焦は臓器の陽気をつかさどる処でありこれを『三焦の原気』と呼ぶ」というものです。

三焦の「焦」は「焦がす」という字。それは「火」であり「陽気」を示します。身体の3か所「上焦」「中焦」「下焦」にある陽気全体を統率しているのが「三焦」の役割です。「上焦」には「心陽」、「中焦」には「脾陽」、「下焦」には「腎陽(命門の火)」というように、各臓器にそれぞれの陽気がいわば熱エネルギーとして生命活動に係わっています。それらを下支えしているのが「三焦」ということになります。

◆ツボ「陽池」=陽気を高める


「陽池」は写真のように、手の甲にあるツボで、薬指と小指の間を指でなぞって止まる処です。陽池は三焦経の中でも「原穴(げんけつ)」と呼ぶ大事なツボです。原穴はもっとも臓器にはたらくツボですから、陽気全体を統率する「三焦の原気」がもっともはたらくツボとなります。したがって「陽池」というツボは陽気不足の症状に使われます。

たとえば、胃癌の術後に消化器系が十分にはたらかず、腹部をはじめ足腰が冷え切ってしまうケースがあります。中焦の「脾陽」がよわいばかりか足腰を温める下焦の「腎陽」にまで影響があるという状態です。そうした症状には「陽池」にお灸(透熱灸5~7壮)を施します。
また、心臓機能が衰えて「心不全」の様相が見受けられるケースです。上焦の「心陽」がふるわないと、肺に水が溜まりやすくなります。そこまでの重篤なケースに至らないまでも、心臓のはたらきが弱そうで身体の冷えが認められるときは「陽池」にお灸(透熱灸5~7壮)を施します。
鍼でもよいのですが、陽気不足による冷えの症状には、お灸の方がより効果的です。
このように、身体を温めるエネルギーが明らかに不足している症状群には、『三焦の原気』を高める「陽池」のツボを使い、さらに毎日自宅で施灸してもらうように指導しています。

◆ツボ「委陽」=水はけをよくする


「三焦」のはたらきでもうひとつ大事なことは「水分代謝をつかさどる」ことです。これは先の「三焦の原気」が衰えると冷えとともに水はけが悪くなり浮腫(むくみ)を呈しやすくなる-という説明もできるでしょう。

そこで登場するのが、浮腫(むくみ)に効果がある「委陽」というツボです。「委陽」は三焦経の「下合穴(しもごうけつ)」と呼ばれますが、写真のように膝の裏外側の窪みに位置している、そもそも膀胱経のツボなのです。この「下合穴」というのは「足の膀胱経」のツボに「手の三焦経」の役割を代行的に託したという意味になります。

たとえば、膝に人工関節を施した術後で、膝周辺の浮腫が顕著なケースです。「委陽」に施灸(透熱灸5~7壮)すると、治療を終えて帰るころには、足が幾分細くなったのが靴を履く時点で実感するといわれます。そのくらい即効性を発揮することがあります。
また、耳周りの三焦経に反応が顕著に現れている「突発性難聴」とか「耳鳴り」のケースでは、三焦経上が水はけの悪い印象をもちます。そのときは三焦経の外関というツボに瀉法の鍼をしてから、「委陽」に施灸(透熱灸5~7壮)をすると、一定の効果が得られます。
このように、浮腫を呈するなど所謂「水はけがわるい」症状群には、ツボ「委陽」への施灸をお勧めします。(了)

第137話:「神道」と出会う旅



◆伊勢神宮への旅◆
祖父の実家が「神社」であることに、なんとなく意識し始めたのは50歳を過ぎたころです。家の歴史の中に「神道」という宗教世界が生業(なりわい)としてあることが、今のわたしにどのような影響があるのだろうか?とふと思うことがあります。自ずと「神道」への関心が膨らんでいったことはたしかです。
桜が咲き始めた3月の末に、思い立って伊勢神宮を参拝してみました。神宮は深い森に囲まれ、なにか特別に澄みきった「気」がそこかしこに流れていました。
1泊2日のツアーとはいえ、「神道」についていろいろ考える旅になりました。

◆朝熊山の金剛證寺
その伊勢神宮参拝ツアーでのことです。外宮に向かう車窓から見えた「朝熊山(あさまやま)」について、添乗員さんから意外な話を聞きました。それは、江戸の末までは「お伊勢参り」といえば内宮・外宮だけでなく、朝熊山にある真言宗の金剛證寺(本尊が虚空蔵菩薩、現在は天台宗)も必ず一緒にお参りしていたという話。それが明治に入ると「神仏分離令」によって寺の参拝は禁止され、お参りは内宮・外宮だけになったというのです。

そのことがとても気になったので、「お伊勢参り」の紀行文として名高い清河八郎の『西遊草』や、高倉健のご先祖さまの小田宅子(いえこ)らの『東路日記』を調べてみると、たしかに内宮外宮参拝のあとに朝熊山に登り参拝したという記述がありました。小田宅子はそのときに次のような歌も詠んでいます。
「前は海 うしろは伊勢の雄朝熊(おあさま)くまなくみゆる舟のゆきかひ」

◆伊勢神宮における神仏習合
朝熊山(金剛證寺)の参拝が意味することは、神道と仏教が共存する所謂「神仏習合」の形をとっていたということ。実際のところ当時は「伊勢神道(渡会神道)」のほかに仏教(密教)系の「両部神道」が関わっています。密教と習合した神道としては、真言宗系の「両部神道」と天台宗系の「山王神道」がありますが、「両部神道」は「伊勢神道」と関係が深く、伊勢の内宮(天照大神)・外宮(豊受大神)、さらに金剛證寺の本尊(虚空蔵菩薩)を、それぞれ曼荼羅の世界にあてはめます。したがって神仏3か所の参拝は「お伊勢参り」には欠かせなかったのです。

◆変貌してしまった神道
こうしてみると、日本の神道は明治を境に大きく変貌したことが分かります。変貌というのもあくまでも政治的なベクトルが作用したということ。明治政府の狙いは、西洋諸国の精神的支柱であるキリスト教の一神教に対して、日本の八百万神の伝統では統合の中心点とはなりえないと判断し、その中心点に天皇制をもってきたといわれています。したがって明治22年に公布された大日本帝国憲法は、天皇を最大限に神格化した憲法といえます。

明治初年の「神仏分離令」により神仏を分離して「廃仏毀釈」で仏教勢力を抑える国策をとります。神道はそれまで八百万の神を崇拝していたのを、天皇家の皇祖神である天照大神を祀る伊勢神宮を中心とする一神教的な「国家神道」にしたてあげます。昭和20年の終戦を迎えるまでの間、政治と宗教が一体化する国家体制が軍国主義の原動力になったのです。そのイデオロギーソースはどこかといえば、諸説ありますが、江戸後期の本居宣長や平田篤胤などの国学、もしくは水戸学や吉田松陰などの儒教系にあると指摘する識者がいます。

先日、池上彰さんがTV番組で「神道のトップとされるのは天皇陛下ですね」と発言されていましたが、これは間違いで、伊勢神宮のトップは天皇かもしれませんが、神道のトップではありません。神道のトップが天皇だったのは明治から昭和20年終戦までのこと。
いずれにしても、「国家神道」の時代を経験したがために、戦後70年の現代においても尚、本来の「神道」が見えにくくなっていることには間違いないようです。

◆本来の神道とは
では本来の「神道」とはなんでしょうか。キーワードは「八百万の神」と「自然の霊性」にある、とわたしはみています。

仏教が「仏を信ずる」といえば、神道では「神を尊ぶ」といいます。具体的には「神祈り」と「神祭り」にあります。その神はひとつではなく八百万(やおよろず)の神であり、自然の万物生成と創造の根源です。日本人はそれぞれの「神」を平等に、聖なる存在として、畏敬・畏怖の念をもって祈りと祭りを奉げてきたということです。

仏教は人間の「苦悩」に深くかかわる宗教ならば、神道は「自然」に深く関わる宗教といえます。たとえば西行法師が伊勢を遥拝した折に、
「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
と神宮をとりまく自然のなかに神の臨在を感じとって「かたじけなさ」と謳っています。このように、自然のなかに神の聖なる存在を認め畏敬し畏怖するという世界観が、当に神道が自然主義であるといえるのです。

日本の神道をこよなく愛したJ.W.T.メーソンは『神ながらの道』のなかで、
「神道および神社には『自然の霊性(普遍的霊性)』がある。」とか
「神社は『自然の霊性』と挨拶する場である」などの主張を遺しています。
西行がいう「かたじけなさ」の正体は、メーソンがいうところの「自然の霊性」に当たります。それは西行さんでなくとも、わたしたちでさえ、神社に参拝すると何か澄みきった「気」を感じることは、「自然の霊性」との出会いであり「神道」との出会いであると思うのです。

これからの時代を考えるときに、もしも神道が神々に優劣をつけて「自然の霊性」に向き合わず、時の政治に利用されるようなことにでもなれば、とてもあぶない世の中だということ。それは過去の歴史をみれば明らかです。
ならばいま一度、神道の歴史を振り返り、本来の「神道」を確認するという作業は、わたしにとって先祖から与えられた命題のような気がしてなりません。(了)

※田辺聖子『姥ざかり花の旅笠』集英社文庫(2004年)
筑前の小田宅子らによる旅日記『東路日記』が底本。文中に清河八郎の『西遊草』を紹介。
※鎌田東二『神と仏の出逢う国』角川選書(平成21年)
明治初年の「廃仏毀釈」の経緯や神道の歴史が詳しく解説している。中世から近世の神道について神仏習合に力点を置いているが、仏教を神道の下に置く「伊勢神道(渡会神道)」や 「吉田神道」のことも詳しく言及している。
※「仏を信じ、神を尊ぶ」
『日本書紀』の用明天皇の段に「天皇は仏法を信じ、神道を尊びたまふ」とあり。用明天皇は個人の信仰としては「仏教」を信じ、伝統的な祭祀(さいし)としては「神道」を尊んだという意味。
※J.W.T.メーソン(1879~1941):米国の新聞記者。退職後神道の研究で一時期日本に滞在。 『神ながらの道』(昭和8年出版)は大田区の図書館に置いていないので今のところ未読。