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第148話:差別は歴史の歪曲から生まれた



◆「白村江の戦い」での敗戦
6~7世紀の日本は、朝鮮を窓口として大陸からの文化と技術を吸収してきました。それが仏教であり漢方医学です。中国大陸における隋・唐といった統一国家の出現が、朝鮮半島の新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)に反乱を起こさせ、それが日本にも及んできたという状況でした。その当時は、明らかに朝鮮の三国(三韓)が先進国であり、日本はむしろ辺境の地で先進文化に追いつこうとする立場。さらに日本の政治はすべて、朝鮮半島とのからみ合いで進められたとみるべきなのです。

日本は戦をして初めての敗戦を経験します。それが「大化の改新」(646年)から17年後の「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)でした。当時の百済は高句麗・新羅の両国と緊張状態にあり、攻められるたびに都を変えていました。日本はそうした百済の窮乏を支える友好国の立場であり、百済を守るために唐・新羅連合軍に水軍を派遣して打って出たのですが、百済と共に敗戦国となります。

◆敗戦から「壬申の乱」へ
敗戦処理として唐・新羅から二千人ぐらい来日していたと言われ、敗戦国百済からは多くの亡命者が渡来人として日本に移り住んだとも言われています。「白村江の敗戦」から体勢をたてなおしたのが、近江大津宮に移した天智天皇(中大兄皇子)です。そこで唐の律令制度を受け入れたといわれていますが、実際は唐・新羅に否応なく押し付けられたポツダム宣言受諾とする見方もあります。天智天皇の死後に起きた「壬申(じんしん)の乱」(672年)は、そうした外交路線の変更をめぐる天智天皇と大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)側の対立の構図とみると、なるほど合点がいきます。

近江朝廷は、後ろに唐という陰の力があったからこそ、一定の安定を保っていたのです。天智天皇は大津の都を小長安とすることを夢見ていました。額田王(ぬかたのおおきみ)の「あかねさす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守(のもり)は見ずや君が袖振る」と歌われた薬狩(くすりがり)は、近江大津宮が唐の風習をそのまま受け入れたという証左とみてよいのでしょう。こうして、日本古代史の流れを唐や朝鮮半島を含めた東アジアの情勢としてみると、みえないものが随分みえてくるということです。

◆歴史を歪曲した「三韓征伐」
ところが驚くことには、戦前の歴史教科書(国定教科書の「小学国史」)では、この「白村江の戦い」については一行も載せていないのです。そればかりか、それとは真逆の「日本は新羅を征伐して朝鮮半島を統一した」という所謂「三韓征伐(さんかんせいばつ)」を教えていました。これは『古事記』『日本書紀』の記述に基づくもので、「神功(じんぐう)皇后の三韓征伐」として出てくるものです。参考までに、その「小学国史」には次のように書かれています。

「この頃、朝鮮には新羅・百済・高麗(高句麗のこと)の三国があり、これを三韓といったが、中でも、新羅はわが国に一番近く、その勢いもたいそう強かった。熊襲(くまそ)がたびたびそむくのも、この新羅がそそのかすためであった。そこで神功皇后は、新羅を従へれば熊襲は自然と平ぐであらうとお考へになり、武内宿禰(たけうちのすくね)と御相談となって、御みづから兵をひきゐて新羅をお討ちになることになった。時に紀元八百六十年であった。」

文中の「紀元八百六十年」は西暦200年にあたる年で、第14代の仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后である神功皇后が、朝鮮に凱旋して新羅を滅ぼすと、百済・高句麗の二国もまた我が国に従うようになり、大和朝廷はついに朝鮮半島を統一したという内容でした。
この史実はのちの歴史学者(津田左右吉、直木孝次郎など)により否定され、七世紀頃に創作されたものと結論付けられています。

しかしながら、この「三韓征伐」は日本人に強烈な印象を植え付けて、皇国史観における日本人の優位性を強調し、天皇にひれ伏した朝鮮民族は「劣等だ、未開だ」というイメージを尋常小学校から教え続けたのです。
思えば、戦前教育を受けたわたしの両親も祖父母も、朝鮮人を差別する言葉を日常的に使うことがありました。そこに明白な悪意はないにしても、市井の人々が極々普通に差別的な言葉を口にしてしまうところに、戦前教育の罪深さを改めて実感できます。

◆吉田松陰の罪
明治22年の大日本帝国憲法の公布、明治23年の教育勅語の制定によって明治の屋台骨が完成したと言われています。それを受けて明治36年(1903年)には国定教科書が作られ、終戦の昭和20年(1945年)までの間、尋常小学校や国民学校で使われたことになります。

この「小学国史」に書かれた「三韓征伐」に盛り込まれた皇国史観や朝鮮人への差別は、実は幕末の吉田松陰による「朝鮮論」がその背景にあると、日本近現代史の加藤陽子(東大大学院教授)は指摘しています。

「松陰は、列強との交易で失った損害を朝鮮や満州で償うべきであると論じつつ、国体の優秀性を皇統の永続性に見出し、天皇親政がおこなわれていた古代における三韓朝貢という理想のイメージに基づいて、朝鮮服属を日本本来のあるべき姿として描き出しています。」 (『戦争の近現代史』44頁)

文中の「天皇親政がおこなわれていた古代における三韓朝貢」とは、日本が三韓征伐して朝鮮を統一(実際は伝説)したときは、日本が宗主国で朝鮮は属国という関係だったのだから、幕府が倒れた後の王政復古(つまり明治維新)になれば、当然朝鮮は日本の属国であるという一方的な論理なのです。ある意味、松陰の思想はかなり危険な思想ということになりますが、松陰が説く朝鮮服属論は、松陰の薫陶を受けた明治の元勲らに継承され、後の「脱亜入欧」や「アジア主義」にも色濃く影響を与えていたのです。ところが「脱亜入欧」はアジアの人々を低くみて、「アジア主義」は結局アジアの人々に支持されなかった結果を、わたしたちは決して忘れてはいけないのです。

◆歴史を知ること
こうしてみると、松陰の「朝鮮論」や戦前の歴史教科書は、いずれも「三韓征伐」という史実とは異なる伝説を基本とし、明らかに間違った歴史観を構築していたことになります。
結果、朝鮮半島の人々に対する差別が、自然と日本人に植え付けられる原因になりました。

ただ、それが過去の出来事だけではなく、最近のヘイトスピーチにみられるように、韓国や北朝鮮の人々への差別的発言を耳にしてしまう状況は、新たに憂慮すべき問題です。
冷静に考えてみると、わたしたち戦後世代の中に朝鮮半島の人々を差別する要因がもしあるとすれば、それは明らかに歴史認識の欠如にあります。というのは、戦前生まれの親たちは先の戦争について寡黙を通し、ほとんど子供に語り継がなかった、さらに学校教育においても、近代史を充分な時間を割いて教えることもなかった、などがその主な理由です。たとえば、日本は日露戦争に勝利した後の1910年に朝鮮を併合して、終戦1945年までの35年もの間、朝鮮を植民統治とした事実をどれだけの人が正確に知っているでしょうか。また、その事実を知っていたとしても、「朝鮮を近代化するために必要だった」という誤った認識をいまだにもっている人が多いことも事実なのです。

こうした歴史観のずれを戦前戦後を通していまだに継続していることは、東アジアの平和にとって不幸な事象です。考えるべきことは、この差別に至った歴史上の出発点をいま一度検証してみる必要があるということ、そして過去の歴史に学び現代を考えるということは常に大切だということです。(了)

※杉本苑子/永井路子著『ごめんあそばせ独断日本史』(中公文庫)1988年
  共に大正14年生まれの女流作家による歴史対談。
※『日韓理解への道』座談会/司馬遼太郎、金達寿ら(中公文庫)1987年
※『日韓ソウルの友情』座談会/司馬遼太郎、田中明ら(中公文庫)1988年
  80年代の古代史ブームのさなか、司馬遼太郎を中心とする日韓の碩学たちによる白熱した座談会を記録
※加藤陽子著『戦争の近現代史』(講談社現代新書)2002年
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