平岡篤頼文庫 第八回講演会

演題 「文学というカオス」

  島田雅彦 × 根本昌夫  対談
  日時 : 2017年8月6日(日) 午後2時
  場所 : 平岡篤頼文庫(軽井沢町追分)
  HP: http://www.hiraokatokuyoshi.com/
  入場料無料 【要予約】

ご予約方法
参加者ご氏名・ご住所・ご連絡先電話番号をお書き添えの上、
メールまたはFAXにてお申し込みください。
e-mail : bunkohiraoka@mild.ocn.ne.jp
Fax 03-5702-5981

ご予約締切 8月4日(金)17:00
お問い合わせ用電話 03-3781-7608
当日のお問い合わせ 0267-45-1907



島田 雅彦
1961年、東京都生まれ。東京外国語大学ロシア語学科卒業。
小説家・法政大学国際文化学部教授・芥川賞選考委員。
1983年『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。
『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、
『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
他の作品に『天国が降ってくる』、
無限カノン三部作『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』、
『悪貨』『傾国子女』『ニッチを探して』『往生際の悪い奴』など多数。



根本昌夫
早稲田大学卒業後『海燕』編集長、『野生時代』編集長を歴任。
小川洋子、角田光代、よしもとばななをデビュ-させるなど新人発掘に定評があり、
現在、大学及びカルチャーセンター等で小説教室の講座を担当。
当初より当文庫講演会の企画を手がけられています。
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第168話:禅と老荘思想の関係



◆フランス人に教えられる
日本に来て25年というフランス人男性(40代)を治療したときのことです。来日した動機を伺うと、彼は「禅の心を学ぶために日本に来た」と応え、普段から坐禅をたしなむと話してくれました。朴訥な日本語ながらも、外国人とは思えないほどの清楚で凛としたたたずまいを感じさせ、東洋の「禅」を日々の生活のなかで実践されている方のようでした。

「禅」がアジアですでに衰退の道をたどっているその同じ時期に、西洋が「禅」について学び始めたという歴史があります。そうしたなかで日本人の仏教学者、鈴木大拙(1870~1966)は、西洋人の禅に対する関心を高めるにあたって多大な貢献をしたと言われています。

本家本元の日本人でありながら、「禅」の影響が日本の伝統文化や芸術、そして茶道・華道などの作法のなかにも脈々と生き続けていること、そして先達が欧米に「禅」を伝道したことをついぞ忘れかけています。まるで「逆輸入の使者」ともいうべき彼は、忘れかけていた「禅の心」を呼戻してくれました。

そこで今回は、東洋の伝統的思想である「禅」、特に「中国禅」と「老荘思想」との関係について書きとめてみました。

◆「中国禅」の系譜
仏教はインドに発生し、中央アジアを経て、中国・朝鮮・日本に伝播しました。なかでも「禅宗」は中国仏教の本流になったもので「中国禅」と呼ばれています。「禅宗」は確かに仏教から派生してきたものですが、釈迦から伝えられたインドの坐禅(禅定)を受けて、それに老荘思想(特に荘子の思想)の考え方を生かし、みごとに融合したという経緯を辿っています。

「禅宗」が生まれたのは7世紀のこと。坐禅修行に専念するための僧院が創設され、ふたりの僧が輩出されます。神秀(?~706)は中国の北方、慧能(638~713)は南方で教えを弘め、それぞれ「北宗(ほくしゅう)」と「南宗(なんしゅう)」を創設します。「北宗」が次第に衰退しはじめたころ、「南宗」の威勢と信望が確固としたものとなっていきます。中国禅の歴史に関する文書のほとんどは、この南宗から生まれています。南宗の急速な発展と共に、五つの宗派(五家)が創設され、そのうちの曹洞宗と臨済宗が、それぞれ留学僧であった道元と栄西によって日本に伝えられました。

◆インド仏教との違い
「禅宗」が中国で生れた理由として、インド人と中国人の精神性の違いがあります。インド人は夢想に向かう理屈好きの性格に対して、中国人は現実的で理屈を嫌う性格だと言われています。その違いがインド仏教から伝わる「輪廻」の考え方について差異を生じ、中国禅を生んだというのです。インド人は生まれかわり死にかわりの果てに、遠い来世に仏になって救済されることを望みますが、中国人は徹底した現実(現世)主義のため、遠い来世まで待てないのです。ましてや「生まれかわると次は豚だぞ」といわれれば、因果応報の観念に強迫されたと解釈するだけです。そこですぐに断ちきる手段はないかと考えたのが「この現世において悟りを開いて仏になる」とする「禅宗」でした。こうした精神性の違いから、インド仏教と中国仏教が全く違うものになっていったという指摘はとても興味深いことです。

◆仏は心の内に宿る(見性成仏)
「禅宗」は、禅院での生活と坐禅をはじめとする厳しい修行によって心身を鍛え、わが心の内に仏を見ようとします。故に「禅宗」は心を重んずる仏教と言えます。
この場合、仏を外にあるものとは見ずに、わが心の内に宿るものと見るのがポイントです。あるいは、わが心がそのままに仏であることを悟る立場でもあります。これを「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」といいます。

本来、心の内に仏が宿っているとするのは「仏性」であり、大乗仏教以来の「如来蔵(にょらいぞう)」思想を引継いでいます。しかも自ら悟ることから「禅宗」は「自力」の仏教といいます。一方「他力」の仏教である「浄土教」は、心の外の遠い彼方(西方浄土)に仏(阿弥陀仏)を置くという意味では、当に対照的な仏教になるわけです。

『荘子』の外篇・雑篇では「自然の本性」という絶対者を自己の内におく点で、「禅宗」に近い性格を備えています。この場合の「自然の本性」は「禅宗」でいう「仏性」に置き換えられます。つまり「中国禅」を『荘子』で解釈できるほどに、老荘思想の影響を受けていると言えます。

◆文字や言語を通じない(不立文字)
禅の行となれば「ひたすら坐る」とか、「ひたすらなりきる」ことが強調されます。それは、有であるとか無であるとかの論理的思考を絶した、あるいは概念的智識を絶した、あくまでも無心の境地をいいます。つまり禅の行においては、経典を紐解くとか、頭で考えてことをなすことではなく、体験そのものを絶対視するということです。これを「不立文字(ふりゅうもんじ)」といいます。

「不立文字」の凡その意味は、「真理を追究することは、文字や言語を通じないで、直接の体験的直感によってとらえられる。」となります。理論よりも体験的直感とする考え方は、インド仏教の世界では主流にはならなかったのが、「中国禅」では重要視されたということです。

その背景には、中国の伝統的な思考法である「荘子の哲学」が関係しているといいます。荘子は、人為的な手段である文字や言語は、ありのままの真理(人為によって歪められない自然の姿)を逆に損なうものとして信用しないと説きます。それは、人間の言葉には、なんでも物を二つに分けて対立を作る習性をもっている。是と非、善と悪、美と醜、などの無限の対立差別を生む言葉による思考法は、あらゆる物は平等無差別とする「万物斉同(ばんぶつせいどう)」の考え方に反するものだと説いています。

これは仏教の根本原理である「空」の思想―二項対立を解体するための理念―にも通ずることから、そもそも荘子の哲学は「中国禅」と融合しやすい思想であったといえます。

◆直接体験としての禅
先のフランス人男性のたたずまいに、「禅の心」が彷彿とさせたのは、そもそも禅を頭で理解していることではなく、日々の坐禅とか日常生活による直接体験からほとばしるものがあったからでしょう。そんな彼に刺激を受けたわたしも、最近は機会があれば寺社に足を運び参禅し、少しでも禅の心に触れるようにしています。(了)

※鎌田茂雄著『禅とはなにか』講談社学術文庫(97年)
著者の体験を交えながら、禅とはなにかを平易に解き明かした入門書。
※森三樹三郎『老子・荘子』講談社学術文庫(94年)
後半に老荘思想が中国仏教の特に禅宗と浄土教にどのように影響を与えたか論じている。