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第173話:アンテナが敏感な方のためのツボ(2/2)

◆霊性に関わる経絡とツボ:
宗教学者・山折哲雄が「人間には誰であれ、心や精神に関心をむける『心的な世界』と、『霊的な世界』のふたつを内蔵している。」との見解を以前に紹介しました。  ※参照:第99話:背中のツボでみえるもの
ここで『心的な世界』とは、日常生活のなかで自我とか自己とかの名で呼ばれる「発信器」のような光を発して現実世界に応答するという通常の精神活動です。一方「霊的な世界」とは、人間の奥深いところに隠されて、見知らぬ世界に敏感に反応するいわば「受信器」のようなもので、ひとたび生命の危険とか異常な事件に出くわすと突然霊感的なものに応答する世界のことです。

前回述べた、アンテナが敏感な方がもつ受信能力の反応系である「霊性」とは、当にこの「霊的な世界」を意味しています。
ならば、この「霊性」に対応して受信器のようにはたらく経絡とツボが当然存在するはずです。多くの「アンテナが敏感な方」を観察したところ、経絡は「心包経」であり、ツボは「霊台」を代表とする「霊」の付く経穴群、および「魂」「魄」の付く経穴であるとするのが、わたしの結論です。

「心包経」は実体のない臓器「心包」に関わる経絡です。心包が「心臓を取り囲む外堀のような」と形容されるのは、直接に心臓が侵襲されないように言わば「盾」の役割があるからです。つまり霊的な刺激をまずは「心包」で受け止めると解釈すれば、関連経絡である「心包経」が反応するのも当然と考えられるのです。
実際、FMテストでの経絡診断で「心包虚」の反応を確認できます。ただ、通常の「心包虚」では右の「内関」穴に反応がでるところ、「アンテナが敏感な方」が霊的な刺激を受けているときには、後述する右の「郄門(げきもん)」穴に反応するのが特徴です。
「霊」の付く経穴群に関しては、「霊台考」で述べた通りです。特に「霊台」は当に「背中の眼」のように顕著な反応を示すツボです。  ※参照:第39話:「霊台」考(その3)
次に、実際の治療穴について写真を交えて説明します。

◆仰臥位の配穴
右の郄門+左の蠡溝+檀中
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上の写真は仰臥位で3穴に治療している様子です。患者さんの右前腕中央にある「郄門(げきもん)」穴に金製の鍉針、次に左足の内側で脛骨中央の溝上に位置する「蠡溝(れいこう)」穴に銀製の鍉針、そして胸の中央にある「檀中(だんちゅう)」穴に銀製の鍉針を、それぞれテープで固定して置鍼をしています。

主たる経絡(「主経」といいます。)は心包経です。その要穴として選んだのが郄穴(げきけつ)の「郄門」。沢田流によれば「郄穴は急性病の治療点」と指摘されていますが、この場合は、杉山勲がかつて「郄穴は暦の変わり目に反応しやすい」と指摘した点に着目します。というのは「暦の変わり目」というほどめったに反応するものではなく、まさに「郄穴は非常時に反応するツボである」と実感しています。

次のツボが肝経の「蠡溝(れいこう)」穴。肝経を選んだのは、肝経は心包経の五行相生関係による母経であり、同陰関係(共に厥陰経)にあるからです。そのなかで「蠡溝」はFMテストで反応を確認できることによりますが、文献を探せば、「郄門」と「蠡溝」の二穴は平田内臓吉(1901~1945)が考案した「平田氏帯」における同一帯にあるということ。また右―左の「タスキ掛け」の配穴にしたのは間中良雄(1901~1945)のイオンパンピングの配穴法を参考。つまり心包経の反応穴である気海穴と檀中穴など、任脈上(正中線上)の圧痛を消滅させるには「タスキ掛け」の配穴が有効とされているからです。

最後に胸中央、任脈上の「檀中(だんちゅう)」穴は、心包経の募穴(ぼけつ)にあたります。さらには、本山博によれば、檀中は密教ヨーガでは「心臓のチャクラ=アナハタチャクラ」に該当すると指摘しています。アンテナ敏感な人は総じて「アナハタチャクラ」が反応しています。本山の指摘は、ツボが経絡上の反応系を示すだけではなく、おそらく異なる位相の反応系にも通ずることを示唆しているものと考えられます。

◆伏臥位の配穴
刺鍼(浅刺置鍼):厥陰兪、肝兪、腎兪(以上背部/膀胱1行)、承霊(頭部/胆経)
透熱灸(灸点紙):命門、緊縮、霊台、th4/5(以上背部中央/督脈)
        この順番(下から上)で施灸する。
透熱灸(灸点紙):魄戸、魂門 (以上背部/膀胱2行)  
        この順番(上から下)で施灸する。

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厥-肝-腎の背兪穴を選びます。まずは主経の心包系としての厥陰兪。その母経(肝経)、そのまた母経(腎経)としての肝兪、腎兪を配穴。さらに背兪穴中央の督脈穴であるth4/5(無名穴)、緊縮、命門を加えます。
以上のツボに、「第99話:背中のツボでみえるもの」で論究した「霊的な世界」に通じるツボとして承霊、霊台、魄戸、魂門を配穴します。
背兪穴と頭部の承霊のみ刺鍼、他は灸点紙による透熱灸。施灸の順番は経絡の走行に順じます。(了)

※注:文中の「檀中」の「檀」の字は正確には「きへん」ではなく「にくづき」です。
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第172話:アンテナが敏感な方のためのツボ(1/2)



◆平安の昔から:
平安時代の『源氏物語』に、生霊や怨霊に憑りつかれて横川(よかわ)の僧都に祈祷してもらうという行(くだり)があります。病といえば細菌やウイルスを思い浮かべる現代人にとってみれば、生霊とか怨霊はきわめて非科学的で迷信の類としか受け止められないでしょう。

しかしながら、わたしたちの普段の生活では、たとえば他人から受けた一方的な思いが心理的に重くのしかかり心を病んでしまうことがあるわけです。生霊や怨霊などと、おどろおどろしい表現にしなくても、「ひとの思い」が心に届くことで人が病になる構図としてみれば、実は今も昔もそれほど変わらないということ。だから現代人の日常的な病のひとつのように冷静に受けとめてみれば、平安時代の生霊や怨霊であれ、それほど特別扱いする必要はないように思うのです。

◆「悪い気」を受ける
人と人の関係性が「気の交流」で成り立つとする「気の医学」からみれば、病に至らしむ「ひとの思い」の正体も、やはり「気」の存在となります。人と人は「気」のキャッチボールをしながら関係性を築いていくなかで、そこに「よい気」もあれば「悪い気」もあるということ。「よい気」であれば共感や感動や安心を与えてくれるものですが、「悪い気」となればそれこそ「気が重い」などの気分や「身体がだるい」などの症状に波及してしまうものです。

もちろん気分障害や身体症状の程度には個人差があります。その方がもつ感受性とか受信能力の差によります。そうしたことが原因で治療院に訪れる患者さんを観察すると、総じてひと一倍受信能力に長けた「アンテナが敏感な方」が多いことがわかります。たとえば、これまでに、次のような症例がありました。
「傍にイライラしている人がいるだけで、そのイライラを受けてしまう。」
「母親がもつ怒りを、娘がまるでシェアするかのように受けていた。」
「念の強い人から負の感情を受けてしまった。」
「親しい人が亡くなり、そのあと身体がだるかったり眠かったり」

人と人との関係で、パワーのある人から何か重いものを受けてしまうとか、人と場(自然)の環境下で、急に身体が重くなって体調を崩すなど、いろいろなケースがあります。随伴症状も様々で、自分の呼吸(リズム)が保てなくて浅い呼吸になり自律神経系症状が出てしまうとか、その方にとって一番弱い所(経絡)に症状が出てしまうなどです。

◆そもそもアンテナが敏感な方とは
「アンテナが敏感な人」は俗に「憑依体質」と呼ばれています。それだけに、日常生活上厄介なことが絶えないという印象を与えます。
しかしながら、それを「受信能力が長けている」と逆に考えてみれば、それだけ特化した「能力」であることに気づくはずです。ちなみに、芸術家(アーチスト)の多くは「アンテナが敏感な人」たちであり、受信能力をそれこそ最大限に活用した上に、表現手段としての発信能力を以て芸術作品に昇華しているのです。

芸術家でなくとも普通の人々であれ、「受信能力が長けている」ということは、感受性に優れているだけでなくて、それに呼応する反応系も早いということ。たとえば、絵画を観る・音楽を聴くことに対して、それが自分に合うか合わないか(本物か否か)を瞬時に答えをだせる人であり、作品にこめられたメッセージに瞬時に照応できる人でもあります。

わたしは、こうした「能力」を概して「霊性」と解釈しています。
「霊性とは、芸術と宗教が合体する次元において、知性や感性を超越して成立するものである。」
これは横尾忠則の発言ですが、宗教に抵抗あるとすればそれを「精神性」と置き換えてもよいと思います。この「能力」が長けた人とは、心理学的には深層の無意識レベルが潤沢で直感・ひらめきに富み、仏教での唯識思想でいえば根本心である「阿頼耶識(あらやしき)」が潤沢であることを意味しています。つまり、それは「見えない大事なもの」を見抜く「霊性」に通じていることだと認識しています。

◆ちょっと一言
ここで言葉を変えて「なにかに憑依された」ときの治療と、ひとくちで言ってしまうと、誤解を受けてしまうその危険性を知っているつもりなので、慎重に言葉を選んでここまで書いたつもりです。
「霊性」を口にすることに抵抗がない基督教に対して、「霊性」を感じていても口にしないのが日本の文化なのかもしれません。

とはいえ、患者さんは様々な愁訴を抱えて今日も来院するわけで、アンテナが敏感故の愁訴もそのひとつなのです。大事なことは、特段そのことを以て怖がる必要はないということ。そして、「霊性」という問題がそこに内在しているということなのです。
次回は、わたしなりの具体的な治療法を提言します。(つづく)