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第3回川内の郷 かえるマラソン



4月28日、福島県双葉郡川内村でのマラソン大会に昨年に続き参加してきました。川内村はいわきと郡山のちょうど中間に位置する人口2000人規模の村。郡山駅から用意されたバスに乗って約1時間半。決して交通の便がよいとは言えないのに、大会当日はこの小さな村に参加者がどっと過去最高の1800人余りが押し寄せたのは驚きです。

村おこしの企画に応募した、ひとりの小学生がマラソン大会を発案したのがきっかけで、原発事故避難から帰村がはじまった時期と呼応して、村民をなんとか元気づけたいとする大会趣旨に、公務員ランナー川内優輝さんが快く賛同したという経緯があったとか。小さな村でのマラソン大会が、これほどまでに成功しているのは、川内さんの存在がとにかく大きいということ。

川内さん本人のほか、お母さんと二人の弟さんも参加。今年はボストンマラソン優勝や来年4月からのプロ宣言をしたことで、大会中も彼を讃える声援で大盛り上がりでした。
写真は、ハーフマラソン女子60~69歳の部の表彰式。ひとりひとり丁寧に表彰状を読み上げる川内さんの律儀なほどの人柄はとても好感がもてます。ちなみに副賞の川内カレーを持っている方が弟さんで、黄色い蛙の帽子を被っている方がお母さん。

マラソンの後は村営の温泉で汗を流し、村の物産と郡山の薄皮饅頭をお土産に購入。郡山駅のホームで新幹線を待つひととき、安達太良山に沈む夕陽が一日の疲れを癒してくれました。
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第175話:治療家の「受信感覚」(2/2)



◆五感の先にある深層意識:
鍼灸治療の診察法としては、わたしの場合「問診」と「触診」に最も重点を置きます。問診においては、患者さんの話を分析しながら、そこに露見する顔色とか声質などを大切な情報として受取ります。またFMテストなどの触診においては、患者さんの筋肉やツボにやさしく触れながら、指先に伝わってくる感触から大切な身体情報へと翻訳していきます。こうしたFace to Faceの関係に加え、身体に直に触れて会話をするという「気の交流」ともいうべき空間は、鍼灸治療ならではの独特の世界といえます。

そこで治療家に求められるものは何かとすれば、技術的なノウハウ云々はもちろんのことですが、むしろ患者さんと対峙したときの受信感覚だといえます。つまりそれは、五感を最大限に開放して「あなたの身体情報をすべて受け取りますよ」という感覚(イメージ)をもつこと。さらには、五感の先に患者さんの深層意識へ向かう眼差しを維持することだと理解しています。

◆山伏の世界との符合
こうした受信感覚について、ぜひ紹介したいのが山岳信仰における修験、所謂「山伏」の世界です。かつて、山伏は里に定住して、山に入れば神仏と交流することで自然の特別な験力を身につけ、里に下れば民衆への加持祈祷などのほか、民衆の精神的な救済として病気直しやカウンセラーとして活躍していた時代がありました。
山中を駆け上りながら「懺悔、懺悔、六根清浄」と掛け声を挙げます。「懺悔(さんげ)」は煩悩を払い心の中をリセットする意味であり、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」とは、六根つまり五感に通ずる感覚器を清浄(クリア)にし、大自然に対峙して受信感覚(アンテナ)を全開にする意味になります。

東洋医学では、患者さんの身体をまるごと一つの「自然(=小宇宙)」とみなして診るという営みになりますが、それはちょうど山岳信仰における山伏が「自然(=大宇宙)」に対峙する姿に符合します。さらにいえば、五感を全開にして患者さんの深層意識へとアプローチする構図は、山伏が「六根清浄」と唱えて五感を全開にして大自然を育む神仏と交流することにも符合します。

そうした「山伏の世界」を象徴する言葉をご存知でしょうか。それが出羽三山の山伏(羽黒修験)に今でも残る「受けたもう!」という言葉です。先達がいう言葉に、山伏は「受けたもう!」と言葉を返して無条件の「受容のこころ」を示します。この精神は先達と山伏の関係だけに留まらず、山伏が山中を駆け巡り大自然と対峙する際の「受けたもう!」とする「受容のこころ」でもあるのです。一方、治療家が患者さんを前にして「あなたの身体情報をすべて受け取りますよ」という感覚(イメージ)をもつことも、山伏が発する「受けたもう!」の精神に共通していると思わざるを得ないのです。

◆受信感覚を養うための坐禅
昨年夏に出羽三山での「山の行」に短期間ながら参加しました。山に入れば感覚は鋭敏になり、山から「ちから」をいただいて元気になれることを体験しました。治療家の受信感覚を養うには、山という大自然の「いのち」に触れ、共に「いのち」を共有する感覚や体験をすることがとても大切であると気づかされたものです。
とはいえ、都会のなかの普段の生活では自然と触れ合うことはままならないものです。

そこで、山伏が「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながらの行を、治療家の日常生活の中でなんとかできないものだろうかと考えたのが、普段からの瑜伽行(ゆがぎょう=ヨーガ)つまり坐禅をすることでした。
坐禅の実践によって、心の中からすべての汚れが払拭されて清らかに成りきった心「懺悔」の境地に至ります。
さらには、感覚を鎮めて外部からの情報を遮断し、感覚器を受動的なはたらきからむしろ能動的なはたらきへとシフトチェンジして「六根清浄」の境地を臨みます。ちなみに仏教の唯識思想によれば「六根」の「根」は感覚器官のことで、サンスクリット語では「インドリア」といい「力あるもの」という意味をもっています。
参禅することで、たとえば「見える」から「見る」、「聴こえる」から「聴く」というように、力ある能動的な感覚器官を取り戻すことによって表層意識を鎮めて、ついには深層意識への道筋をつけるという効果があると考えています。

坐禅の先生が参禅の目的について次のように話されたことがあります。
「人がもつ力にはアクティビティーとキャパシティーの二つがあるが、坐禅をすることで養えるのは後者のキャパシティーである。」
ここで「アクティビティー」は発信する力とすれば、「キャパシティー」は受信する力、いわば自然(人)に対峙する際の「懐の深さ」「受容する力」といえるものです。したがって坐禅をすることは、都会に居ながらにして「受けたもう!」の精神が養えると考えられます。

以上のように、治療家の受信感覚を養うために、私の場合はなるべく坐禅を心掛けているわけですが、それが普遍的なメソッドであるとは思ってはいません。自分に合うメソッドが当然あるでしょう。いずれにしましても、受信感覚を養うことは一朝一夕で得られるものではなく、それは日々の「行」によって得られるものであることは間違いないと考えます。(了)

第174話:治療家の「受信感覚」(1/2)



◆「受信感覚」:
鍼灸治療は患者さんと治療家との「気の交流」で成立しています。そこには、西洋医学の「診察法」や「医療面接」などでは説明できないような独特の世界観があります。そうした「気の交流」を通して、診察の過程で患者さんの「身体の声(というべき気)」を受けとり診断へと進みます。「身体の声」を受けとる作業では、治療家個人が積み上げてきた経験値を基に「受信感覚」を最大限にはたらかせています。

わたしの診察では「FMテスト」と名付けたオリジナルの診断法を併用しています。患者さんの腕橈骨筋が発するYesかNoかのデジタルな応答から「身体の声」を引き出す触診法です。そのときの「受信感覚」とは、論理的思考というよりむしろ直感的な「ひらめき」を優先的にはたらかせています。こうした治療家の特異ともいえる「受信感覚」だからこそ、鍼灸治療が「気の交流」といわれる由縁なのです。

今回のテーマは治療家に求められる、その「受信感覚」について採りあげ、さまざまの角度から考えてみようと思います。

◆「体用の論理」という切り口
「受信感覚」を説明する前に、患者さんの身体(という「対象」)をどう捉えるかという問題があります。その指針としているのが、以前に世阿弥の『至花道』を例に説明した「体用の論理」という独特な思考法です。
※参照記事⇒「第77話:世阿弥に学ぶ(その3)」
「体用の論理」は、ものの見方の「切り口」ともいえる東洋的思考法で、現象的な表れである「用」と本質的な構造である「体」という、ふたつの局面でものを見るのが特徴としています。
ここで大事なことは、現象的な「用」は捉えやすく、本質的な「体」は内面的直観(心)で捉えられること。そして「用」の原因を作っている大本の「体」の方に重きを置くことです。

「用」=現象的な表れで捉えられやすい 
「体」=本質的な構造であり内面的直観で捉える

これを鍼灸治療に当てはめれば、表に現れている病態(症状群)への眼差しが「用」であり、病に至る真の原因や病のメカニズムを考えることが「体」になります。具体的な治療法からいえば、局所の症状を和らげるための対症療法的なツボを求めるのが「用」であり、身体の全体から診た大事なツボ(要穴)もしくはツボの組み合わせ(配穴)を求めるのが「体」といえるでしょう。

◆内面的直感(心)がはたらく時
鍼灸治療では、伝統的な診察法である四診(望診・問診・聞診・切診)によって、その情報を基に論理的な思考を重ねて「用」を鑑別して、更には病の本質に当たる「体」の弁証まで漕ぎ着けるという手順を踏みます。ところがこれはあくまでも教科書的な手順といえます。それがシステマティックに診察診断が進むことはもちろん理想であり、そのことを否定するものではありません。ただ、実際の臨床つまり「気の交流」ともいえる患者さんとのやり取りのなかでは、病の本質である「体」を直感的に気付かされることが(鍼灸師を永年やっていると)度々経験するのです。

たとえば、問診している時に、ふと患者さんの話ぶりや顔色の変化から病の根本原因につながる「何か」を直感的に気付くとか、またはツボを触診している中で手指がなぜか止まって「このツボ!」という確信を得ることがあるのです。
こうした瞬間がまさに、内面的直感(心)で「体」を捉えたと理解しています。

◆井筒俊彦の『意識と本質』から
こうした内面的直感(心)がはたらく受信感覚の仕組みについて、深く掘り下げたのが哲学者の井筒俊彦でした。名著『意識と本質』のなかに、『易経』の哲学的思考を例に次のような記述があります。

「事象の本質は深層意識に存在し、それが象徴的イメージ(象)の形をとって表層の意識へ送り込まれる」

ここで大事な指摘は二つあります。一つは本質的な「体」は深層意識に存在していること。もう一つは「深層意識」へのアプローチこそが「内面的直感で捉える」ことであり、その結果において「体」が表層の意識へ送り込まれるのです。
※参照記事⇒「第124話:医と易の関係(2/2)」
これを鍼灸治療に置き換えてみれば、患者さんの「身体の声」を聴くという診察行為は、とりもなおさず患者さんの「深層意識」へのアプローチであり、そこで病の「本質的情報(体)」を「象徴的イメージ(象)」として、治療家の表層意識に浮かび上がらせて(直感的に)理解することになります。

では、こうした一連の流れにおける治療家の受信感覚を普段から養うには、どのように心掛ければよいのでしょうか。次回は、その具体的方法を提案します。(つづく)