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第177話:酒田のグリーンハウス(2/2)



◆「世界一の映画館」:
グリーンハウスを知らない方は、たぶん東北の日本海に面した人口10万規模の小都市の、ありふれた場末の映画館を想像するかもしれません。ところが、そうではないのです。昭和30~40年代ごろ、映画評論家の淀川長治にグリーンハウスを「世界一の映画館」と高く評価されたほど、東京日比谷の映画館に全くひけをとらない、上質の映画を提供し、しかも一級の館内環境を誇る映画館だったのです。

そのグリーンハウスをプロデュースしたのが、経営者の子息であり支配人の佐藤久一(1930~1997)という人物。佐藤は映画の買い付けに直接ひとりで東京に出向き、試写会で直に選定するという徹底ぶりでした。ちなみに、試写会で映画評論家の荻昌弘や淀川長治と知遇を得たことから、淀川は酒田のグリーンハウスに数回来訪。それが縁で先の「世界一の映画館」発言に繋がっていったのです。
また、昭和35年(1960年)にアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』を上映したときは、東京・日比谷スカラ座のロードショウと同時公開を成し遂げています。当時の地方映画館としては、かなり画期的なことでした。

◆館内の魅力と先進性
グリーンハウスは元々ダンスホールを改築した建物で、さほど目を引くほどの外観ではなかったのですが、館内環境の充実ぶりとなると、今でも当時を知る酒田市民の語り草なっています。たとえば、入口の回転ドアを抜けると、エントランスホールの右手にオープン式の切符売り場。壁のショーケースにはブランド物のハンドバックとアクセサリーが展示。そこに居る白髪の案内係の男性は、グレーのダブルのジャケットに黒ズボン、蝶ネクタイに白手袋で正装し、まるで一流ホテルの接客並みに「いらっしゃいませ」と出迎えてくれます。
ロビーは、館内喫茶室「緑館茶房」からの珈琲のとてもいい香りが漂っています。500席ほどの場内は二階席が完全予約席、加えて一部家族用の個室も完備。ロビーの右隅の階段を登った先には、当時は珍しい名画座「シネサロン」と呼ぶ定員10名ほどの小規模映写室が併設されているほどの贅沢さでした。

特に酒田市民がグリーンハウスを語る上で欠かせないものが、開映を知らせるグレンミラー楽団による「ムーンライトセレナーデ」の音楽です。館内の休憩時間表示がカウントダウンすると同時に「ムーンライトセレナーデ」が流れだし、音量が次第に小さくなるのに合わせて、緑の緞帳(どんちょう)が静かに上がる。ダウンライトが曲のテンポに合わせて後方から順に消えて、ステージ右端の生け花と左端の白い女性像のスポットライトだけが残る。最後にそれも消えるとレースの幕がするするっと開き、スクリーン上に映画が映し出されます。この憎いばかりの一連の演出はすべて佐藤久一の考案によるものでした。

◆文化をプロデュース
江戸時代の酒田は北前船による交易が盛んで、「西の堺、東の酒田」と並び称されるほど、商都として繁栄を誇っていました。酒田の豪商や豪農は京都の文化を吸収することに貪欲で、都の文化人や職人を招くこともしばしばで、そうした交流の中で酒田の文化は磨かれたという歴史があります。佐藤久一は酒田の名家の生まれ。かつての豪商の血を引くように、金に糸目をつけず一流の文化を希求する感性を持ちながら、他に類のない映画館「グリーンハウス」をプロデュースしたといえます。

昭和34年(1959年)のこと。館内喫茶室「緑館茶房」を根城にした酒田の詩人たちが同人を結成し、詩誌『緑館』を創刊しています。佐藤久一は同人のよきパトロンでありよき理解者でした。その詩人のひとりが、名作『祝婚歌』で有名となった酒田出身の詩人・吉野弘(1926~2014)だったという逸話も残っています。

実は、佐藤久一は酒田大火の12年前、昭和39年(1964年)にグリーンハウスの支配人を辞めています。突然上京し荻昌弘の紹介で日生劇場に就職。そこで3年間勤務すると、また酒田に戻り次には「欅(けやき)」「ル・ポットフー」というフランス料理の一流レストランを手掛けます。グリーンハウスをプロデュースしたのは実質14年間。ひとつの事業が理想に近づくとそこには興味が薄れ、次の夢の実現にこともなげに展開していく姿勢はまさに天才といえます。

◆酒田人として
岡田芳郎の『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』が平成19年(2007年)に世に出るまで、天才ともいえる彼の偉業の数々を、実際のところ酒田市民の多くが知らなかったことでした。酒田大火の出火元という複雑な問題を抱えていたために多くを語れなかった事情もありましたが、酒田大火から42年にして、ようやく佐藤久一の名誉回復と再評価がなされた感があります。
さらには、グリーンハウスと共に青春時代を過ごした酒田市民が、ようやく想い出を語り始めたことにも感動します。
そしてなによりも嬉しいのが、ロビーに漂う珈琲の香りとムーンライトセレナーデの調べと共に、グリーンハウスの想い出がそれぞれの胸の中に生きていることが、酒田人としての誇りだということを改めて気付かされたことでした。(了)


※ねじめ正一著『風の棲む町』日本放送出版協会(1996年):酒田大火を舞台にした青春小説。2000年に文庫本化(新潮文庫)に伴い『青春ぐんぐん書店』に改題。
※岡田芳郎著『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』講談社(2007年):岡田芳郎は元電通社員。知られざる佐藤久一の偉業をはじめて紹介。
※映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』(2017年):プロデューサーが高橋卓也(山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局長)。監督は佐藤広一(天童出身)。同プロデュース作品で渡辺智史監督(鶴岡出身)『よみがえりのレシピ』(2011年)では佐藤広一は撮影を担当。
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第176話:酒田のグリーンハウス(1/2)



◆映画館「グリーンハウス」:
ふるさと酒田に、かつて「グリーンハウス」という映画館がありました。昭和24年(1949年)の開業から昭和51年(1976年)の酒田大火で焼失するまで、凡そ四半世紀にわたり酒田市民に親しまれた洋画専門の映画館です。酒田で生れた人なら、かつ現在60歳以上の方なら、青春に寄り添う映画館は?と問われれば、きっとグリーンハウスと答えることでしょう。

酒田大火から今年で42年。グリーンハウスを懐かしむ市民の証言を集めたドキュメンタリー映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』が、酒田で先行上映されたとの風の便りが届きました。2月に亡くなった大杉漣がナレーションを担当していることも話題になっているようです。ともあれ、わたしが高校時代によく利用した想い出の映画館だけに、映像に記録されることを永らく切望しておりました。「グリーンハウス」ファンとしては、ついにその日がやって来た!という感慨があります。
その風の便りに誘われて、グリーンハウスに纏わる想い出を語ってみます。

◆我が心の「グリーンハウス」
わたしの高校時代(昭和44~47年)は、ちょうどアメリカン・ニューシネマが全盛の頃でした。『卒業』『明日に向かって撃て』『イージーライダー』『小さな巨人』『いちご白書』など数えたらきりがないのですが、すべてグリーンハウスで観た記憶があります。アメリカではベトナム戦争が泥沼化のまま終結し、日本では学生運動や、日本赤軍などの過激派の活動が終焉を迎え、体制批判のヒーロ―を求めつつも、結局は体制に潰されてゆくという時代の閉塞感を、田舎の高校生には遠い世界のことながら、逐次映像の世界から感じ取っていた気がします。今思えば、精一杯背伸びをしていた自分がちょっと気恥ずかしく、それでいて懐かしいもの。そんな心象風景を辿ってゆけば、中町柳小路通りにあったグリーンハウスの外観が、アメリカン・ニューシネマのワンシーンのように今でもぼんやり蘇ってきます。

◆昭和51年(1976年)の酒田大火
酒田大火でグリーンハウスがなくなってしまった後は、実は複雑な事情を抱えることになります。酒田大火の出火元がグリーンハウスだったということです。昭和51年10月29日午後5時頃、グリーンハウスから出火(漏電が原因と言われています)。折しも風速26mの強風にあおられ、中町商店街から東の住宅地へ瞬く間に延焼し、翌朝の午前5時に新井田川にぶつかるところでやっと鎮火。市街地の1774棟を焼失。被災者3300名。戦後4番目と言われた大火でした。わたしの実家は幸い延焼を免れましたが、親戚や多くの同級生の家が全焼しています。当時22歳のわたしは大火から1週間後に帰省。焼け跡の傍に災害救助で出動した自衛隊のトラックが点在し、焦げ臭い匂いがまだたちこめるなか、焦土と化した街並みの向こうに鳥海山がみえた光景は今でも忘れることはできません。これだけの災害の傷跡は、結果としてグリーンハウスを表立って懐かしむことを拒んでしまったのです。

◆みんなの思い
酒田大火からしばらくして、東京で高校の同級生たちと酒席を囲んだときのこと。誰かが、ちょっといいかっこしーながら「グリーンハウスの焼失は青春の終焉を意味している」と口火を切ると、急に堰を切ったように座は盛り上がりました。大火の年の春に父を亡くしていたわたしは、そのときの「青春の終焉」という言葉には密かに胸がざわついたことを覚えています。さらには、役者を目指していたA君が呼応して、映画『アメリカングラフティー』とダブらせ「グリーンハウスを舞台にした俺らの青春映画を作りたい」とみんなの総意を代弁するかのように熱く語ってくれたものです。
グリーンハウスが火元だったということはショックなことでしたが、グリーンハウスにまつわる青春の想い出は誰もが大事に抱えているだけに、それを何か「形」に残したいという思いはみんな共有していたのです。

◆グリーンハウスが語られるまでの経緯
大火から20年経った平成8年(1996年)、ねじめ正一の『風の棲む町』が話題になりました。映画ではなく小説でしたが、酒田大火を背景にした青春小説というふれこみでした。ところが、中身を読んでみると、グリーンハウスは大火の当日『愛のコリーダ』を上映されていた-というくだりしかなく、『アメリカングラフティー』のような映画館を取り巻く青春物語ではなかったことに失望したものです。でもどだい東京生まれのねじめ氏に要求すること自体無理な話だ。欲を言えばやっぱり、酒田の人間に書いてほしかった―と思うしかなかったものです。

それが平成19年(2007年)になると、急に事態は一変します。一冊の本によってグリーンハウスを評価する動きに転換したのです。それが『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れさられたのか』という長い長いタイトルの本でした。グリーンハウスが名実ともに「世界一の映画館」であることを初めて世に問う内容でしたが、著者は元電通社員の岡田芳郎という方です。結果的には、岡田氏という酒田の人間でない方が書いてくれたお陰で、グリーンハウスが全国に知られることになっただけでなく、地元酒田においても、酒田大火の出火元故に語られることが憚られた、それまでの封印を解かれる契機になったのです。

冒頭で紹介したドキュメンタリー映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーンハウス証言集』は、この本の出版から10年という熟成の時を経て、ようやく酒田の人間が呪縛から解き離されたように、それぞれの想い出を語っていると十分想像できます。
では、なぜグリーンハウスが「世界一の映画館」だったのか、長くなりましたのでそれは次回に書き留めます。(つづく)