FC2ブログ

第180話: QOL(生活の質)としての鍼灸



たとえば30分という一定時間であっても、楽しいことをした30分であればあっという間に過ぎ、逆に苦しいことをした30分であれば長~く感じるものです。時間には、一定のリズムで流れてゆく「量的時間(クロノス)」があれば、時には短くも長くも感じてしまう、心が介在する「質的時間(カイロス)」もあるよ、と教えてくれたのは哲学者のアンリ・ベルクソンでした。

ここでガンの終末期の患者さんを想像してみてください。終末期の患者さんは、残された「量的時間」を前にして苦しくも不安なのです。患者さんのご家族から、鍼灸でいくらかでも痛みを和らげてほしいとの依頼がありました。治療すると「身体が楽になった」と喜ばれました。楽になった時間がたとえ半日という短い時間だったとしても、健康な人の半日とは明らかに質が違うと、患者さんの緩んだ頬がそう教えてくれます。

終末期の患者さんに対する鍼灸治療の目的は、と問われれば、もちろん「治す」ことではなく、残された「量的時間」を少しでも良質な「質的時間」に代えることだと答えます。
よく「QOL(Quality Of Life)」と言いますが、ベルクソン流に言えば、それは「QOT(Quality Of Time)」と言えるのかもしれません。

ここ数年、数は少ないのですが、末期のガンの患者さんの治療を頼まれます。自宅での治療がほとんどです。まだまだ病院担当医の理解が得られず、入院先の病室で治療することはなかなか難しいのが現状です。過去に一度許可を出してくれた病院がありましたが、火を使うお灸はダメとのことで、その場合は鍼だけで治療を施しました。

末期の患者さんは、抗がん剤や放射線治療を選ぶ方と、すべての化学療法を選ばない方に分けられます。後者は終末期を穏かにソフトランディングすることを患者さん自らが選んでいるケースですが、わたしの経験では、そうしたケースに「QOL」としての鍼灸を施すと、より効果が発揮できる感触を持っています。

最近問題になっているのが、80代になってからのガンの発症が増えていることです。しかも高齢者の治療ガイドラインが、実は未整備の状態だそうで、現場の医師の裁量にまかせられているために混乱を生じやすいことを、昨年、朝日新聞が採り上げていました。高齢者は体力と免疫力が低下しているため、攻撃的な化学療法を扱うことはより慎重になります。場合によっては、何もしないという選択の基に終末医療を施すこともあるわけです。今後、ガンの高齢化が進む状況下での終末医療の在り方を考える際に、ぜひそこに「QOL」としての鍼灸を保健医療の中に加えてもらえればと願っています。(了)
スポンサーサイト



第179話:西郷隆盛と庄内と本間家と(2/2)



◆転封騒ぎと本間家:
「戊辰戦争の戦後処理に裏の歴史が存在した」というのは、酒井の殿様の転封騒ぎと、そこに介在した本間家のことです。

慶応4年(1868年)の12月に明治と年号が改まり、出羽の国は最上川を境にして、南が羽前(鶴岡を中心とする田川郡)、北が羽後(酒田を中心とする飽海郡)とに分離させられました。さらに酒井の殿様は会津若松十二万石に移ること(転封)を命ぜられましたが、庄内の百姓たちの願い出により中止となります。翌2年(1869年)には磐城平(いわき・たいら)十二万石に移るように再度命ぜられたのですが、これもまた百姓たちの願い出により転封が中止になりました。しかしそのかわりとして、金七十万両を新政府に献金することになり、庄内藩は百姓や町民からもお金を集め、合計三十万両をまず政府に提出して、結果的には酒井の殿様の転封騒ぎはそこで一件落着したのです。

この明治の転封騒ぎは、酒井の殿様を慕う百姓たちの尽力により撤回されたという美談で語られていたのですが、後世の歴史家により、その真相が次第に明らかにされています。というのは、百姓たちの願い出の影で、庄内藩の菅実秀と本間家当主(本間光美)とが、政府側に転封中止の交渉を進めていたこと。そして献金三十万両のうち、本間家が五万両もの大金を拠出していたのです。酒井家の後ろ盾が本間家ですから、本間家が拠出した総額は当然五万両を越えていたことは十分想像できます。

こうした美談の影で、実際は本間家が大きく関与していたという構図は、維新から遡ること28年前の天保年間(1830~1844年)に起きた転封騒ぎにもありました。酒井の殿様を慕う庄内の百姓たちが幕府に申立をして中止に追い込んだ、所謂「天保の義民」は、後に藤沢周平が『義民が駆ける』(中公文庫)に著していますが、実際のところは、本間家が百姓たちに運動資金を出して影で演出していたというのが真相だったようです。

◆本間家の威勢
つまり本間家は、天保年間と明治二年の二度にわたって酒井の殿様を転封命令から救ったということです。明治維新後に朝敵であるはずの庄内藩の藩主が知事としてそのまま残った異例の処置は、確かに西郷隆盛による温情のお蔭ではありますが、裏の歴史からみれば、それは本間家の財力があったからこそ実現できたと言えます。

明治政府が転封中止替わりの献金七十万両を庄内藩に要求したという経緯は、政府の財政難に対する穴埋めが目的であり、更には、西郷隆盛主導で庄内藩が厚遇される流れに抵抗しようとする長州側(その中心が大村益次郎)からの要求という背景もあったようです。いずれにせよ、財政難の明治政府は「出羽の本間家」の財力に最初から目をつけていたと考える方が自然のようです。というのは、出羽(庄内)をまずは羽前と羽後に分けたのは、酒田の本間家を鶴岡の酒井家から一旦切り離すという狙いがあったと言われています。

ここで幕末の国際関係を俯瞰すると、幕府はフランス、薩摩はイギリス、そして奥羽越列藩同盟はプロシャ(プロイセン)と、それぞれの後ろ盾が付いていました。その中で庄内藩下の本間家はプロシャとの交易を通して武器のブローカーとして暗躍していたわけです。特に本間家はプロシャ人の武器商人スネル兄弟と手を握り、奥羽越列藩同盟軍、とりわけ酒井家に兵器や軍艦を供給し、外人水兵さえも斡旋しようと奔走していたほどでした。

ここまで酒田の豪商本間家について長々と綴るのは、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という俗謡が示すように、殿様以上に威勢を誇っていた本間家の存在を、明治政府と西郷隆盛は当然にして一目置いていたであろうことを指摘したいのです。

◆西郷が庄内藩を特別扱いした理由
ではなぜ、西郷が庄内藩に対しては温情を以て配慮をし、無血開城に至ったのか。その疑問を解くカギは、やはり西郷と庄内藩及び本間家との関係性にあるとみています。

そのひとつが1867年(慶応3年)12月25日に起こった江戸薩摩藩邸焼討事件との関係です。薩摩藩邸を焼討した実行隊が江戸市中取締役である庄内藩でした。この焼討事件を契機に、幕府は討薩摩、薩摩藩は討幕へと舵をきり、ついに翌1868年(慶応4年)1月3日の鳥羽伏見の戦いへと大きく動いたわけです。ところが、焼討事件には裏があり、すべて西郷隆盛の謀略でした。西郷は関東浪士たちを囲い、江戸市中を横行して暴行掠奪を繰り返させ、江戸の治安が乱れ幕府の威信が底をつくことをねらい、さらには討幕のきっかけをそこで作りたかったのです。庄内藩は新徴組と共に市中取締役として、幕府の命を受け関東浪士たちを征圧するために囲い先の薩摩藩邸を焼討したわけです。一方西郷には、焼討の知らせを受けると手を叩いて喜んだという逸話が残っています。つまり庄内藩は、西郷の策略に乗っかり結果的には片棒を担がされたわけです。その片棒を担がされた返礼として、おそらく西郷は庄内藩に対して戦後温情を以て無血開城の処置をとったのではないかと思うのです。その根拠といえば、鳥羽伏見の戦いで官軍が作成した「朝敵リスト」には、なぜか焼討実行隊の庄内藩は含まれていなかったからです。

もうひとつは、薩摩藩と本間郡兵衛との関係です。
酒田本間家の分家筋にあたる本間郡兵衛という洋学者がいました。江戸に出て蘭学を学び、北斎に絵を習い「北曜」と号し、勝海舟に頼まれて勝塾の蘭学教師もしています。その後、欧米諸国を福沢諭吉らと巡遊し、このままでは日本は外国に経済的にも蹂躙されるとして、株式会社の創設が急務と考えました。そして薩摩藩の老中・小松帯刀の依頼で郡兵衛は鹿児島に赴き、開成所の英語教師に就きます。そこで起草したのが「薩州商社草案」で、郡兵衛が日本で一番早く株式会社を考えたことを物語る史料とされています。
その郡兵衛が、戊辰戦争直前の酒田に帰り、本間家の本家に「薩州商社」への出資を持ちかけようとするのですが、薩摩藩の間者(スパイ)と疑われ、外出を禁止されたあげくに幽閉先で毒殺されてしまいます。享年47。庄内藩の無血開城まで、あとわずか2か月のことでした。
西郷が開成所教師である本間郡兵衛と直接接したという史料はないそうですが、小松帯刀を通じて「薩州商社草案」のことや、郡兵衛は出羽酒田の本間家の人間であることは西郷の耳に当然届いていたと考えられます。そこで西郷は、庄内藩の影で威勢を誇る本間家を知り、庄内藩を配慮する上では、本間家と酒井家を同等に扱おうと思ったはずです。

◆再検証の必要性
西郷隆盛という人物について調べれば調べるほど、功罪相半ばする人物像が浮き彫りになります。近代と反近代が同居する人物であるとか、寛大で懐が深い反面、危険性と暴力性を併せ持つという評価すらあります。
ところが、南洲神社まで建立するまでに西郷隆盛を信望する(戦前生まれの)庄内人となると、西郷の功罪よりも、お金や名誉には全く関心を示さない西郷の人柄に惚れこみます。そのことは、西郷がなぜ庄内藩を擁護したかという理由を論ずることもなく、とかく美談として扱うことで、結局は西郷崇拝に偏った風土へと熟成させてきたのです。
ですが、そろそろ影の舞台の主役である本間家や本間郡兵衛の存在に、今一度スポットをあてて、この時代を再検証すべき時ではないかと思うのです。(了)

※佐高信著『西郷隆盛伝説』角川文庫(平成22年)
佐高は同郷の先輩。本の題名とは裏腹に、ほとんどが西郷隆盛と庄内藩の関わりを中心に論じる。西郷崇拝の御家禄派の歴史観を排除した郷土の歴史家・黒田伝四郎や、ワッパ運動研究家の佐藤誠朗を紹介し、秘められた裏の歴史を明らかにした本。
※黒田伝四郎著『やまがた幕末史話』東北出版企画(昭和52年)
今や古書店でしか手に入らない貴重本。黒田伝四郎は元山形新聞記者。綿密な史料を基に庄内の幕末史を綴る。やや小説風の文章が気になるが、西郷崇拝の御家禄派にひとり反旗を翻す姿勢はすごい。地元での現在の評価がむしろ気になる。
※半藤一利『幕末史』新潮社(2008年)
薩長中心の歴史観を排除した新たな幕末史。西郷隆盛を毛沢東のような人物と評しているのが興味深い。
※酒田の本間家
わたしが子どもの頃、本町にある「酒田市立公民館」は本間家の旧本宅(上の写真)であり、御成町にある「財団法人本間美術館」は本間家の旧別荘、そして日和山の「酒田市立光丘図書館」は本間家の旧書庫「光丘文庫」の古い建物を利用したもの。まさに酒田の街は本間家を抜きには語れない。