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第182話:「行」は体感することがすべて



◆『秋の峰』に参加:
8月24日から9日間に及ぶ羽黒修験の『秋の峰』(仏式)に参加してきました。修行の道場は羽黒山の奥の院と呼ばれた山中ブナ林に囲まれた「荒澤寺(こうたくじ)」。スマホやSNSは届かないのはもちろんのこと、電気水道も引かれていない、当に名刹に相応しいというべき環境下での「籠り行」でした。残念ながらその「行」の内容については他言を固く禁じられているので、ここで触れることはできないのですが、ただ、体験を通じて多くの「気づき」を得ました。差し支えない程度に、その収穫の一端を報告してみたいと思います。

◆読経三昧のひととき
『秋の峰』に参加するに当たり、自分自身にひとつのミッションを課しました。それは「行に身を投じ、三昧(ざんまい)の境地を味わう」ということ。修験道は実践実修を尊ぶ世界だからこそ、何事も頭から理解しようとするこれまでの自分の性格をまずは封印して、とにかく目の前のことだけに集中して、身体まるごとを「行」に投じようと考えました。

そのミッションは、道場にて入峰者一同が経文を唱える「勤行(ごんぎょう)」の中でその手応えを得ました。「勤行」とは、毎日午後10時ごろと仮眠したあとの午前4時ごろの計2回、合せて4時間に及ぶ読経三昧。燈明とランプのほのかな明かりの下で行われるというものです。しかも連日の寝不足に加え、長時間の半跏趺坐(胡坐)は膝や腰までもが痛くなりとてもつらいものがあります。それでも読経に集中すればするほど、道場に響き渡る「読経」の中に自分が包みこまれ、次第に不思議な心地よさが訪れ、痛みの意識が遠のいてくるのです。この心地よさの正体は一体何だろう?と考えてみると、たぶんそれは経文がもつ「音楽性」にあるのだろうと理解しました。
    
◆読経は音楽!
たとえば「般若心経」。錫杖(しゃくじょう)が刻む「シャン・シャン・シャン」という三拍子のリズムに乗せて唱えるのですが、ゆっくりなうちは、まるでボブ・ディランが唄う『時代は変る(The Times They Are a-Changin')』を思わせるリズムなのですが、次第に速くなっていくと無窮動のリズムに代わり、まるで「三拍子」の角が取れて、ついには永遠の「丸」になっていくような感覚にすらなっていきます。
経文の音楽性はこれだけでは終わりません。「観音経」の後半部における「ねっ・ぴ・かん・のん・りき」の連呼は、躍動する五拍子のリズムを刻み、「阿弥陀経」に至っては、いきなり冒頭から「8ビート」のリズムでどんどん畳みかけてきては魂を揺さぶります。
さらに不思議な心地よさはリズムだけに留まらず、独特の節回し(旋律)にもありました。日本語による経文の「釈迦讃」「阿弥陀讃」などは、羽黒修験独特の節回しで唱えられます。専門家の分析によれば、それは「都節(みやこぶし)」音階という日本古来の「わらべ歌」に共通した旋律とのこと。何か郷愁めいた気分になるのも当然かなと思えます。

◆体感することがすべて
こうして「秋の峰」の「勤行」は、自ら経文を唱えるだけでなく、他の入峰者が唱える声を同時に聴き、それが渾然一体となって「音楽空間」をつくりだします。そこに居合せた入峰者は、すべてが包まれていくという特殊な位相を体感して、心地よい「三昧の境地」を具現化するのです。その「三昧の境地」の目的は「六根清浄」ということ。自らが発した声と他の入峰者が唱える声を聴くことによって経文の功徳を頂き、六根の「こころ(識)」は清浄になっていくのです。
と、まるでわかったようなことを頭で整理して言語化していますが、でも大事なことは、実際に「行」に身を投じ、三昧の境地を体感することがすべてなのです。

「行」が無事終わり、東京に帰ると、再び日常の生活に戻ったことを知らせるかのように、膝の痛みがじわじわと64歳のわが身に押し寄せています。
「行」に参加して自分自身何が変わったのかは分かりませんが、変わったといえば、このところ不思議ともいえる新たなご縁を頂くことが2度も続いています。それはきっと、意を決し、羽黒修験の『秋の峰』に身体ごと参加したからこそと信じています。(了)
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