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第190話:船箪笥の本(その2)

~小泉和子著『船箪笥の研究』~



◆『船箪笥の研究』
柳宗悦の『船箪笥』に続いて紹介したいのが、小泉和子の『船箪笥の研究』(2011年刊)です。著者の小泉和子は元京都女子大教授で、現在大田区鵜の木にある「昭和のくらし博物館」の館長。家具の歴史についての著作が多く、傍らで「家具道具室内史学会」を主宰。最近の話題では、アニメ映画『この世界の片隅に』の時代考証にも関わっています。

この本は学術書の体裁をとりながらも、船箪笥の歴史や、三大産地(福井の三国・佐渡の小木・庄内の酒田)のそれぞれの特徴を分かりやすく解説。なかでも、我がふるさと酒田の船箪笥の項を読むと、その歴史の全貌を知ると共に、幕末から明治後半にかけて活躍した高度な技術をもった酒田の職人たちの姿が、失われてしまった文化と共に浮かんできます。

◆酒田の船箪笥の特徴
この本から、酒田の船箪笥の特徴を拾ってみます。
酒田の船箪笥は主に欅製で、側板の接合部(ほぞ組)は、複雑な「天秤蟻(てんびん・あり)」を採用。これは酒田の木工で非常に使われる精密な技法です。金具は銅や真鍮を使い、その装飾技法は絵様刳形(えようくりがた)と呼び、絵様曲線に刳って作る抽象的な図柄を装飾する技法です。これらの技法を凝らした酒田の船箪笥は「作りが丁寧である」「意匠的に派手でなく、技術的に高度である」「堅牢に作られている」などの形容が連なるほどに高く評価されています。

◆酒田湊の特殊性
他の産地(三国や小木)と比べて大きく違う点は、船箪笥だけを専門に製造していたわけではないこと。そもそも酒田は箪笥・指物類全体にわたり盛んに製造されてきた地域であったこと。しかも、幕末に始まった船箪笥の技術が、しだいに帳箪笥(帳面類を納める箪笥)や衣装箪笥までの箪笥指物全体にまで影響を与え、ついには「酒田箪笥」全体の水準をあげたという経緯を辿ってきたのです。

酒田湊の歴史からも次のように解説しています。
7世紀後半に目を落とすと、1672(寛文12)年からの上方と結ぶ西廻り航路、さらには18世紀後半、1799(寛政11)年からの東蝦夷地と結ぶ北前船の運行により、海運が一層発展した酒田は、すでに東北地方一帯の経済的・文化的中心都市となっていた。したがって、市域内での箪笥・指物関係の需要が極めて大きいため、わざわざ廻船相手の需要を開拓して船箪笥だけを作る必要がなかった。よって、船箪笥は商品生産ではなく注文生産が主となり、職人と買い手が直接交渉するため、丁寧でよい仕事をするようになったというのです。
そのことが、前述の「技術的に高度で堅牢に作られている」土壌を作ったというわけです。ちなみに、現存する(廻船相手の)船箪笥が、三国や小木と比べると極端に少ないと言われていますが、一方で酒田の商人たちが商売で使っていた「懸硯(かけすずり)」や「帳箪笥(ちょうだんす)」は、船箪笥と全く同じものだったのです。つまり酒田では、商人から注文を受ける「懸硯」や「帳箪笥」の類も、実は(商人相手の)船箪笥であったという訳です。



◆酒田の職人たちの足跡
船箪笥をはじめとする箪笥・指物関係の職人たちにとっては、発注元の商人たちの存在はとても大きいといえます。特に、廻船問屋「鐙屋(あぶみや)」を代表する旧来の三十六人衆に加えて、江戸中期・新興の豪商である本間家の台頭は、地域の政治・経済そして文化の面で主導的な役割を果たしていました。そうした環境が、職人たちを支え、職人たちを競わせ、ついには職人の高度な技術力を育むことになったことは間違いないと言えます。

この本の真骨頂は、職人たちの足跡を詳細に記録している点です。特に、箪笥(箱屋)職人、指物師、金具職人、塗り師たちがどこの町に住んでいたか、さらには職人名とその系譜について詳細に記録されています。たとえば、わたしが生れた「鷹町(たかまち)」と隣の「天正寺町(てんしょうじまち)」、そして「檜物町(ひものまち)」には箪笥職人の名人、それを囲む指物師たち、そして「十王堂町(じゅうおうどうまち)」には金具職人の名人が住んでいたことが分かります。

「鷹町」:斎藤右惣右衛門(箱屋) 
「天正寺町」:斎藤津右衛門(箪笥屋)
「檜物町」:斎藤茂兵衛(箪笥屋) 
「十王堂町」:白崎孫八、佐々木清一(金具師)

現存する酒田の船箪笥は、今や骨董品として人々に触れられない所にそれぞれが散在しているようです。かつての職人たちの足跡も、人々の記憶から忘れさられようとしています。この本が遺した記録を基に、なんとか地元酒田に公的な博物館として「酒田の船箪笥」を遺して欲しいと願うのは、きっとわたしだけではないと思うのです。(了)

※小泉和子著『船箪笥の研究』思文閣出版(2016年)
小泉和子氏は、古くは酒田市歴史編纂室篇『酒田市史』の中で「酒田の家具の歴史」の執筆を担当。酒田市とは所縁のある学者さんです。
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第189話:船箪笥の本(その1)

~柳宗悦著『船箪笥』~



◆酒田と船箪笥
ふるさとの酒田は、かつて北前船に積んだ「船箪笥」の産地でもありました。今や「船箪笥」を作る職人は皆無となり、「船箪笥」は過去のものとなりました。羽越本線の酒田駅開業(大正8年)と同時に陸上交通網が発達し、さらに海運業は汽船の登場により近代化を計り、ついに船箪笥は北前船と運命を共にして終焉を迎えたと言われています。

子どもの頃(昭和30年代)の微かな記憶を辿れば、近所に箪笥屋と指物師の家があり、幼稚園に行く道すがら金具職人の家もありました。当時の高齢の職人たちが実は「船箪笥」の系譜上の職人であると知ったのは、随分と後になってからでした。
もはや伝説の家具となった船箪笥を初めて目にしたのが20代の頃、友人の誘いで何気に立ち寄った駒場東大前の「日本民藝館」。そこに展示してあった酒田の船箪笥は、とても風格のある骨董品に見えたものです。独特の金具を身に纏い、重々しい堅牢な造りの船箪笥は、欅や漆、鉄といった素材の持つ力と美しさをぎりぎりまで発揮させているところに、わたしはすっかり魅せられました。

◆柳宗悦著『船箪笥』から
興奮の冷めぬままに買い求めた本が、「日本民藝館」を創設した柳宗悦(やなぎむねよし)による『船箪笥』(昭和36年出版)でした。忘れかけていた船箪笥を世に初めて紹介した記念すべき本。趣のある旧仮名づかいの文面が、民芸運動の神髄を伝え、しかも写真のように、同胞である芹澤銈介が担当した装丁と本文に添えられた図案も、とても魅力的です。

船箪笥は用途の違いから、懸硯(かけすずり/硯箱を入れる)・帳箱(ちょうばこ/帳面類を入れる)・半櫃(はんがい/衣装を入れる)の三種類に大別されます。このうち懸硯と帳箱は一種の金庫(さらに言えば前者は手提金庫)で半櫃は衣装箪笥になります。



◆船箪笥の魅力
柳宗悦(1889~1961)は船箪笥の魅力を次のように語っています。
「船箪笥の一つの魅力はその金具にある。こんなにも見事な金具を澤山身に纏ふ箪笥類は他にない。今だとて技は残るのであらうが、作る機縁が薄く、又勢ひに缺ける。何か時代に、又生活に力がなくば、これほどのものを生むことは出来ない。」

船箪笥を単なる骨董品としてみるのではなく、むしろ、それを取り巻く生活者と職人に視座を置き、生活の力があるからこれだけの作品ができる「これだけのものを使ひ切る暮らしが再び欲しいではないか。」と現代の人々に諭すかのように柳宗悦は説くのです。これぞ民芸運動家の面目躍如たる主張といえます。
職人は技だけがあってもダメ。「作る機縁」と「作る勢い」を重んじるところに深い意味を感じとれます。「機縁」とは人と人のご縁であり、「勢い」とは職人の気概と読み取れます。職人を自認するわが身としてはそのことを胆に銘じながら、いつまでも大切にしたい一冊となっています。(つづく)

※柳宗悦著『船箪笥』春秋社(昭和36年刊)

第188話:心包/心包経を考える(2/2)



◆奇経の要素を併せ持つ心包経虚
この図は、杉山勲の『はり灸治療の手引』から採りあげたもので、経絡治療における病証論をチャートに表しています。図中の「陰虚証」「陽虚証」は中医学による「陰虚証」「陽虚証」とは全く意味が異なり、あくまでも経絡治療の概念によります。

そうした細かい解説は省略しますが、要は、ここで理解して頂きたいのは、「心包経虚」が他の臓腑・経絡とは別に、特異な存在であるということです。ちなみに右側中央にある「奇経」は、病が慢性域に到達すると、12経絡から溢れ出て、バイパスラインに流れた状態にあることを意味していますが、左側中央の「心包経虚」にも、この「奇経」と同じ状態になることがあると考えるのです。

ただし、わたしが考えている病証論と杉山勲による病証論との違いは、このチャートで示すと、「心包経虚」には二つのケースがあり、ひとつは「陰虚証」の中の一つとしての「心包経虚」、もうひとつは「陰虚証」から逸脱して、いわば奇経の要素を併せ持つ「心包経虚」(チャートでは左側中央の「心包経虚」)となります。

この奇経の要素を併せ持つ「心包経虚」を語る場合に欠かせないのは、感情との関係性、そして無意識との関係性です。これら順を追って説明します。

◆感情との関係性(該当する感情は「心配」と「不安」)
『黄帝内経・素問』では五臓に対して、それぞれに怒・喜・思・憂・恐の5つの「感情(情志)」を配当しています。ところが、「心包」が初めて登場した『黄帝内経・霊枢』においても、心包に配当する「情志」の記載はないままでした。

◇肝(怒)-心(喜)-脾(思)-肺(憂)-腎(恐)-心包(?)

後世の医家たちの間で、心包の感情について言及した形跡は、わたしの記憶では思い当たりません。それぞれの臓器に特定の感情をむすびつけるのは、『五行論』というオマジナイの世界だと誤解している方がいるとすれば、それは東洋医学の心理学的側面に目を向けないことだと理解しています。

これまで25年の臨床経験のなかで、「心包経虚」と診断できる幾多の患者さんを診てきました。さらには、オリジナルの診察法である「FMテスト」を使えば、患者さんの「感情」の在りようを凡そ観察できます。その経験値から分析すると、心包と密接に関連する「感情」は、たぶん「心配」と「不安」であろう!とするのが、わたしなりの結論です。

◆「心配」と「不安」の意味合い
では、先人は「心配」と「不安」という感情に、なぜスポットを当ててこなかったのでしょうか。それは、次のように考えます。
「心配」と「不安」という感情は、古代の人々にとっては直接的に関与することが少なかったとみてはいかがでしょうか。それよりも「怒り」とか「恐れ」もしくは「喜び」(というよりも、喜び過ぎて木に登るくらいの「狂喜!」)というような、起伏が激しくはっきりとした感情の方が、むしろ古代人の日常生活には十分関与していたのではと想像できます。ところが、人類の進化と成長、ないしは環境の安定化に伴い、別の意味としての感情が必要とされ、たとえば社会生活における疎外感とか不安感からくる感情の吐露として、新たに「心配」や「不安」という感情が生れたのではないでしょうか。そこにこそ、遅れて追加された「心包」という臓器と経絡の存在理由があるように思うのです。

◆カウンターウェイトとしての「心配」と「不安」
「心配」と「不安」という感情について、その表出の傾向を観察してみると、単独で表出することはもちろんありますが、むしろ「怒り」「イライラ」「落ち込み」「自責」などの強い感情や思いに寄り添うように出現する傾向にあります。これは、強い感情に対して、ややブレーキをかけて抑制にはたらくための感情だと理解できます。つまり、強い感情が暴走しないように、「心配」や「不安」がカウンターウェイト(重し)となってはたらいているからです。こうした感情の様子を交通整理した上で患者さんに伝えてあげるだけで、混沌とした気持ちが随分と落ち着いていくようです。

「心配」と「不安」という感情は、一見混沌とした感情の様相を作りだすかのように見えますが、かといって決してマイナスの感情だけではないということ。むしろ感情の世界にバランスをとろうとするはたらきが「心配」と「不安」という感情にあるとみます。

◆無意識との関係性
普段は「肝経虚」や「脾経虚」の方が、急に「心包経虚」に変化するときがあります。そのほとんどは、奇経の要素を併せ持つ「心包経虚」です。その様相としては、外からの強い念とか感情に動揺されて、気持ちの在りようが当に混乱をきたしている状態、いわゆる「人疲れ」が生じている状態です。だるいとか眠いなどの自覚症状がある場合と、ぼんやりとしながらも、はっきりとした自覚症状がない場合もあります。そんなときに、感情の在りようをみると、「心配」や「不安」に増して「怒り」「イライラ」「落ち込み」「自責」などのいずれかが、強い感情として現れ、まるでカウンターウェイトであるべき「心配」や「不安」がカバーしきれない様相にみえます。

概して「アンテナが敏感な人」のように、受信能力がより長けた人に多いようです。そして、決まって胸中央のツボ「檀中」と、背中のツボ「霊台」に反応がみられるのが特徴です。ここで「奇経の要素を併せ持つ」と形容したのは、通常の「陰虚証」から逸脱して、異なるフェーズ(位相)に移行したという意味です。異なるフェーズとは無意識レベルとしか言いようのない領域であり、表出する感情の根源は混沌(カオス)の無意識世界を由来とするものと考えています。無意識世界というと、何か特別な世界のようですが、誰にでも発現する可能性をもっています。

ここで「心包経」が無意識と関係があるとみるのは、心包経の募穴がツボ「檀中」であることが大いに関連があるとみています。乳房と乳房の中間に位置して、胸骨の窪みにあるツボ「檀中」は、本山博によれば、第4チャクラの「アナハタチャクラ(心臓のチャクラ)」に該当すると指摘しています。チャクラとは身体を離れた別次元への「扉」のような概念ですが、わたしにとってはそれが無意識世界への「扉」のように思えるのです。

◆まとめ
自説『心包経虚論』をまとめると、次のようになります。
⑴陰虚証としての「心包経虚」
◇病証:「気分障害」、「睡眠」、「循環器系」の症状を呈する。
◇基本治療穴:右の内関、左の中封
⑵奇経の要素を併せ持つ「心包経虚」
◇病証:気持ちの在りようが当に混乱をきたし、所謂「人疲れ」の状態。
◇基本治療穴:右の郄門(げきもん)、左の蠡溝(れいこう)

(完)

※文中の「檀中」の「檀」は正しくは「木へん」ではなく「肉づき」