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第191話:『パリの漆職人・菅原精造』から



◆一冊の本
『船箪笥の研究』の小泉和子先生に直接お話を伺う機会を得たときのこと。船箪笥三大産地のひとつの酒田は、わたしの故郷であることをお伝えしたところ、先生は間髪を入れず「酒田出身の方だったら、この本を読みなさい」と、一冊の本を教えてくださったのです。それが今回紹介する『パリの漆職人・菅原精造』(白水社・2016年)です。

この本は、今から凡そ100年前、20世紀初頭に横浜港から渡仏したSUGAWARAというひとりの漆職人にフォーカスを当てています。フランス工芸界の歴史にその名を残しながら、日本国内では全く知られていない漆職人SUGAWARAについて、著者の熱田充克(元フジTVパリ支局長)は、残された僅かばかりの情報を基に、現地パリへ取材に赴き、家族や関係者たちの証言を集め、知られざるプロフィールをついに明らかにしたのです。

◆海を渡った菅原精造
謎の漆職人は、菅原精造(1984~1937)という人物でした。1984年(明治17年)山形県酒田市に生まれ、地元の「川瀬屋」という木工会社で漆工として働き、17歳に上京すると東京美術学校(現在の東京芸術大学)漆芸科に入学。卒業して2年後の1905年(明治38年)には、漆芸科の指導教官らと共に、21歳にして横浜港から出航しフランス・パリへと渡ります。その後指導教官らは次々に帰国するなか、菅原精造ひとりがそのままパリに定住し、日本に再び帰ることなく1937年(昭和12年)に生涯を終えるまで、日本の漆芸技術をヨーロッパに伝えたキーパーソンとして名を遺したのです。

パリに渡ったそもそもの理由は、パリのガイヤール工房が日本の漆芸技術導入のために、技術者派遣を東京美術学校に要請したことがきっかけでした。当時(20世紀初頭)西洋の工芸界では、アールヌーボーの衰退がみられ、その空白の時代を埋めようと、すでに芸術的評価の確立していた日本美術の伝統に目を向け始め、日本に熱い視線を注いでいたという背景があったと著者は分析しています。

◆パリにおける菅原精造の功績
ひとりパリに定住した菅原は、その後の潮流となるアール・デコにおける著名な漆芸家の二人に、日本の漆芸技術を教えています。そのことが、後々西洋の工芸界にSUGAWARAの名を遺すことになったのです。とりわけ菅原が一躍注目されるようになったのは、その著名な漆芸家のひとりであるアイリーン・グレイ(1878~1976)との関わりでした。工芸デザイナーであり女性建築家でもあったアイリーンの足跡を語る上で、菅原精造は欠かせない存在だったからです。というのは、菅原が当初、アイリーンが経営する工房に所属していましたが、彼女が40歳になって漆芸デザイナーから建築家へと転身したことを契機に、アイリーンの工房を菅原が引き継いだという経緯がありました。ちなみに、近代建築の巨匠であるル・コルビュジュエは、建築家アイリーンの才能に嫉妬していたという有名な逸話があり、それを題材にした映画もありますが、そうしたアイリーンの影に菅原の存在があると想像するだけでも、興味は尽きないところです。

また、本場のパリに絵を学びに訪れた画家たち、たとえば藤田嗣治らとも、菅原は交流があったようです。ところが、菅原は彼らにとってパリの先輩でありながら、彼らの華々しい歴史の影に完全に埋もれてしまった感すらあります。日本の職人が海を渡っていた歴史にもっとスポットを当てるべきであると同時に、菅原精造の足跡において、自分が持っている日本の伝統工芸技術をヨーロッパで試したいとする、あくまでも主動的な職人としての矜持と、アール・デコの著名な漆芸家たちに多大な影響を与えたという功績は、さらに顕彰すべきことかもしれません。

◆酒田との関わり
冒頭に紹介したように、小泉先生がこの本を推した理由は、菅原精造が酒田出身だということと、酒田の船箪笥との関係が少なからずあったということです。というのは、『パリの漆職人・菅原精造』には、菅原が漆工として修業した時代の、つまり当時酒田の木工業界について、著者は専門とする小泉先生に取材した経緯が書かれているのです。さらには、小泉先生の『船箪笥の研究』を併せて読むと、菅原精造と当時酒田の木工業界との関係が、より具体的に浮かび上がってきます。

近世の幕藩体制下における酒田は、北前船の寄港地として栄えた港湾都市でした。なかでも、幕末から明治大正にかけて、酒田の特産のひとつが、船箪笥をはじめとする箪笥・指物類全体の製造でした。海運の発達により北海道にまでその市場を拡大する程であり、そのために、酒田には技術的に質の高い職人たちを大勢擁していたということ。そして、漆職人の菅原精造は、その系譜上にいた職人であることは十分理解できるのです。

菅原精造が17歳まで漆工として働いていた酒田市今町にあった「川瀬屋」は、木工品全般を大量に北海道へ輸出するほどの工場でした。「川瀬屋」の経営者は金沢出身の円山卯吉。彼自身は職人ではないのですが、木工品や漆工品の品質改良や意匠の改善を企てたり、子弟の教育のため済世学校を建てたり、そして新潟や会津から腕の良い職人を呼んで指導を当たらせるなど、特に熱心な経営者だったようです。この円山の下で職人の指物・塗物全般にわたり指導に当たった名人級の職人に新潟出身の土田龍八がいました。土田の指導が始まってから酒田木工の水準が飛躍的に上がったといわれているそうです。土田が来酒したのは1890年(明治23年)ですから、菅原は少年時代に土田龍八の薫陶を受けたことは間違いないと言えます。

こうしてみると、船箪笥を代表とするかつての箪笥・指物文化で栄えた湊町・酒田が、海外にまで活躍の場を広げた漆職人・菅原精造を産み出したとも言えます。と同時に、今や失われてしまった酒田箪笥の歴史文化と共に、菅原精造の名は記憶に留めるべきだろうと思うばかりです。(了)

※熱田充克著『パリの漆職人・菅原精造』白水社(2016年)
※小泉和子著『船箪笥の研究』思文閣出版(2011年)
※アイリーン・グレイ(1878~1976)
アイルランド生まれ。ロンドンの美術学校を経たのち、パリに出て工房を立ち上げ、家具作りやインテリアなどのトータルデザイナーとして活躍。独学で建築を学ぶと、40歳にして建築家になる。近代建築の巨匠コルビュジュとの交流を描いた仏映画「ル・コルビュジェとアイリーン 追憶のヴィラ」は2017年に公開されている。
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