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第99話:背中のツボからみえるもの



◆気になる背中のエリア
背中の真ん中(正中線)には「督脈」、さらにその両脇には2本の「膀胱経」が左右対称に走っています。それらの経絡上のツボの中で、肩甲骨間のエリア、高さは胸椎の3番から10番の範囲内で、「心」「神」「霊」「魂」「魄」の字のついたツボだけをピックアップしてみると以下のような配列になります。今回のテーマは、そうしたツボの配列にどんな意味が込められているかということ。交通整理しながら解読してみます。

魄戸―◎◎―◎◎―◎◎―魄戸  ・・胸椎03/04間
◎◎―◎◎―◎◎―◎◎―◎◎  
神堂―心兪―神道―心兪―神堂  ・・胸椎05/06間
◎◎―◎◎―霊台―◎◎―◎◎  ・・胸椎06/07間
◎◎―◎◎―◎◎―◎◎―◎◎  
◎◎―◎◎―◎◎―◎◎―◎◎  
魂門―◎◎―◎◎―◎◎―魂門  ・・胸椎09/10間

◆「表層のこころ」と「深層のこころ」
中国の古典を読むと、「こころ」は「肝心脾肺腎」の五臓に分かれて存在する、といわれますが、とりわけ「心臓」に宿る「神」は重要で、古典によっては心臓のみを「こころの座」として強調することすらあります。それを表すかのように、ちょうど心尖拍動の高さに当たる胸椎の5番6番の間には、「心」と「神」を冠したツボ「神道」「神堂」「心兪」が鎮座しています。このエリアは「こころ」に関連し、精神活動にとって「大事な処」であろうことは十分理解できます。実際のところ、精神疲労が募れば、肩甲骨内縁とよばれるこのエリア(筋肉でいえば菱形筋)が、まるで鉛のようにどんよりとした様相になるのです。

「神道」「神堂」「心兪」のツボを、台(うてな)として下支えしているのがツボ「霊台」です。この「霊台」の意味を『史記』の時代に尋ねれば「運気を察する台」。つまり戦場で敵方のシャーマンが発する運気の妖祥を読み取る「場」でした。とすれば、人間の身体にとってのツボ「霊台」は、「気」を察する受信装置であり「背中の眼」のような役割があると考えます。さらに、ツボ「神道」「神堂」「心兪」が表層の「こころ」であれば、「霊台」は直感とか無意識に通ずる深層の「こころ」であり、あるいは霊的な世界を表していると、わたしなりに解釈しているのです。

神堂―心兪―神道―心兪―神堂  ⇒ 表層の「こころ」=心的な世界
◎◎―◎◎―霊台―◎◎―◎◎  ⇒ 深層の「こころ」=霊的な世界

◆霊魂のツボ
さらに「霊的な世界」に付与されたのが、上下に配しているツボ「魄戸(はくと)」と「魂門(こんもん)」の存在です。これは、「霊魂」を陰陽のカテゴリーとして「魂(=陽)」と「魄(=陰)」に分けるという「儒教」の考え方が反映されています。儒教では、人間を精神と肉体との2つに分けます。精神を支配するものを「魂(こん)」、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼び、両者の一致しているときが生きている状態としています。
ちなみに、人が死ぬと魂・魄が分離し、「魂」は天に昇って空にとどまり、呼べばこの世に帰ってくる。一方「魄」は地下に行き、地中としての「魄」を一か所に集めて大切に守る。「魄」の「白」は「骨」を意味し、それが「祖霊信仰」に基づくお墓の考え方になります。
とこのように、上下に配したツボ「魄戸」と「魂門」は、「霊的な世界」における精神と肉体のバランスを保つために存在していると解釈できます。

「魂」=「陽」=精神を支配 =人が死ぬと「魂」は天に昇る
「魄」=「陰」=肉体を支配 =人が死ぬと「魄」は地下に行く

◆「心的な世界」と「霊的な世界」
これらをまとめると、気になるエリアに配列したツボは、次のように分類できます。

「心的な世界」のツボ=「神道」「神堂」「心兪」
「霊的な世界」のツボ=「霊台」「魄戸」「魂門」

人間には誰であれ、心や精神に関心をむける「心的な世界」と、「霊的な世界」のふたつを内蔵しています。ふたつの世界を日常生活のなかで、わたしたちはどちらかというと、心とか精神とかのはたらきと共に生きています。しかも、自我とか自己とかの名で呼ばれる「心的な世界」が、いわば「発信器」のような光を発して現実世界に応答しています。
ところが、一方ではひとたび生命の危険とか異常な事件に出くわすと、突然霊感的なものにとらえられることがあります。それを感ずるのが、人間の奥深いところに隠されて、見知らぬ世界に敏感に反応するいわば「受信器」のような「霊的な世界」です。

「心的な世界」=「発信器」:現実の世界に意志的に応答
「霊的な世界」=「受信器」:見知らぬ世界に霊的に反応

宗教学者の山折哲雄は、宗教でも芸術でも、「心的な世界」への凝視と「霊的な世界」への感受性がほどよく調和しているときこそ、創造性が発揮され輝きを放射するのだ、と説いています。そのどちらが欠けているときには、芸術も宗教も偏ったものになるということです。たとえばオウム真理教が問題だったのは、心的な世界をおろそかにし余りにも霊的な世界に偏りすぎたために、結果狂気じみた迷走を繰り返したといえます。
事柄はむろん、人間においても同じこと。たとえば、霊能者と呼ばれる人たちは霊的パワーの面では優れていても、すべてが即人格者かといえば、そうとは限らないこと。「心的な世界」もそれだけ見合うほどの水準を備えてこそ、真の霊能者といえるのかもしれません。

そもそも人間には、この2つの機能が備わっていたことを自覚し、有効活用するためにも自らが磨いてゆく努力を惜しまないことが大切。さらに、より深い霊的な機能と、より意志的な心の機能を適度に調和させようとするところに、生きるということの重要な意味がある、と背中のツボの配列がこうして教えているような気がしています。


※加地伸行『儒教とは何か』中公新書(90年)
※加地伸行『家族の思想』PHP新書(98年)
「儒教」における霊魂の考え方、「魂」と「魄」の関係を解説。
「儒教」の宗教性と死生観が「日本仏教」に影響を与えていると説いている。
※山折哲雄『仏教とは何か』中公新書(93年)
「インド仏教」では本来否定されるべき「霊魂」が「日本仏教」では容認されている。その理由は「心的な世界」と「霊的な世界」のふたつの要素を、仏教を受容した以前から日本人はすでに兼ね備えていたからと説いている。
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