FC2ブログ

第106話:「走ることについて」



◆ランナーズハイ
自宅から中原街道・桜田通りのルートを使って皇居の桜田門(12キロ)まで走り、そのまま皇居の周回コース(5キロ)を左回りに走ります。ちょうど終盤の半蔵門(上の写真)から桜田門へ向かう辺りになると、苦しい時間帯のはずなのに足取りはとても軽く、左手の緑の急斜面から深いお堀へと吸い込まれそうな気分になってきます。一瞬「このまま転げ落ちてもいい」と思うほどの「心地よさ」を感じてしまいます。これが当に「ランナーズハイ」。有酸素運動を繰り返すことで脳内の麻薬用物質であるβエンドルフィンが分泌されて、心身共に高揚する状態といわれています。人はなぜ走るのか、たぶん、こうした「ランナーズハイ」の「心地よさ」を味わえることが、その大きな要因であると考えています。

◆「心地よく走る」経験則
ジョギングは30代から続けてきた唯一のスポーツ。シティーランナーらしく「心地よく走る」ことにこだわってきました。ジョギングはきわめて個人的なスポーツ。だから何を語ろうがそれは汎用性のない内容になりがちです。あくまでも自分の身体を実際に動かすことによって、個人的に学んで得た「心地よく走る」経験則みたいなものですが、あえて紹介してみます。

走るときの「心地よさ」は、有酸素運動の中でひたすら「身体」と向き合うことよって生じてきます。「身体」と「精神(こころ)」のバランスを考察してみれば、明らかに身体性がより優位に働くほど、変性意識ともいえるランナーズハイが確実に訪れてきます。もし日常の些事の悩みや心配事があれば、とりあえず留保して考えることを止めます。つまり何も考えることなく、ただひたすら走ること―それが「身体と向き合う」ことであり「身体性をより優位にする」ことなのです。

それともうひとつの「心地よさ」があります。それはアイデアがふっと降りてくること。治療上のヒントなどが走っているときにふと浮かんだりします。無理に自分から考えることをしないかわり、直感的に思い浮かんだことだけを拾って考えることにしています。たぶんそれは無意識からの贈り物であり、やはり「身体性をより優位にする」ことで無意識との回路がオンになるからでしょう。それがうまくはたらいているひとときが創造的な「至福の時間」といえます。

ここで留意すべきは、肉体的な痛みとか苦しさの対処法。もし足が痛いとか膝が痛くなれば、ペースを落とすか走る距離を短縮するかで調整します。そうすることで、常に痛みや苦しみはオプショナルなもの(こちら次第)にしておくことが「心地よく走る」ためにとても大切なことだと考えています。ちなみに、この「オプショナルなもの」という表現は村上春樹がつかっていたもので、とても気にいっています。

◆「走ること」は「瞑想すること」
こうして「走る」という行為は「身体」と「精神」に関わるという意味では、ちょっと大げさな言い方かもしれませんが、まるで宗教的な「行(ぎょう)」に似ています。というのも、宗教学者が説いた「瞑想の基本型」について述べた次の行(くだり)が目に留まったときに、ふと「走ること」と「瞑想すること」にはどことなく共通性があると気づいたのです。

「瞑想というのは精神から身体へ深まっていくものであります。決して精神に対立する身体ではなくて、精神の表面的作用が次第に消えていって、遂には、精神そのものを包みこんでしまうような深い身体へきわまっていくのであります。」(玉城康四郎)

「瞑想」を「走ること」に置き換えても、意味は十分通ることがわかります。たとえば「走る」という単純な身体運動をひたすら繰り返し、または意識を呼吸に集中することで、すべて自分の「身体」に向き合うようにします。すると日常の些事から生じた諸々の感情は次第に遠ざかってゆく―それが「精神の表面的作用が次第に消えていって」という意味と重なります。さらに身体性が深まることで無意識レベルに生じる感情が抑制され、ランナーズハイのような変性意識が生じて高揚し、ときに創造的世界へと拡がることも可能です―それが「精神そのものを包みこんでしまうような深い身体へきわまっていく」という意味と共通するのです。

「走ること」の利点には「仲間や相手を必要としない」「特別な道具や装備も不要」「特別な場所まで足を運ばなくてもいい」などたくさんあって、それらに総じていえることは、きわめて個人的営みを大切にしているスポーツだということです。したがって走る楽しみ方も人の数だけあってもよいということ。わたしはといえば、こんなふうに瞑想する気持ちでいつも走れたらいいなと思っているところです。

※村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』文春文庫(10年)
「走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている」というフレーズが印象的。
※玉城康四郎『瞑想と経験』春秋社(73年)
玉城康四郎(1915~1999)。仏教学者であるまえに、日々行者であろうとする姿勢に敬服。
※湯浅泰雄『気・修行・身体』平河出版社(86年)
坐禅のように坐る瞑想が「常坐三昧」で、ひたすら行(ある)く瞑想が「常行三昧」。
「常行三昧」で有名なのが比叡山での「千日回峯行」。走る瞑想があるとすればこの「常行三昧」に近いといえる。
関連記事
スポンサーサイト