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第122話:研修時代に「わが師」から教わった「意念」



◆鍼灸学校教育の限界
鍼灸師になるには、国家資格(はり師・灸師)をとるための専門学校に3年間通います。よく誤解されることは、学校を卒業し資格さえ取れば、即治療ができるだろうと思われていること。そんなことはないのです。鍼を安全に打てるとか、お灸を安全に据えられるという最低の水準には達していますが、確かな治療理論を以て患者さんの治療に臨むには、学校教育だけでは不十分といえます。なぜなら、臨床に活かせるための「治療理論」は学校では教えてくれないからです。

3年間で習得するカルキュラムは、西洋医学を中心とする医学知識がほぼ全体の7割を占め、あとの3割は東洋医学理論や鍼灸技術を学ぶ程度。そうした授業が毎日ほぼ半日程度で終わります。広範囲かつ膨大な量のカルキュラムを習得する看護士の学校教育に比べれば、鍼灸師の学校教育はきわめて脆弱な内容としかいえません。
その原因としては、そもそも古くは「師匠・弟子」という限られた世界の中で「相伝」された伝統的鍼灸医術を、アカデミックな現代教育の俎上に載せようとすること自体きわめて無理があり、結局は学校教育で教えることは当たり障りのない基本的内容にならざるを得なくなったからと言われています。

◆研修への道
いずれにしても、在学中から実践的な「治療理論」を学ぼうとする心ある学生ならば、学校の外にそれを求めるしかないということ。それには治療家が主催する講習会などに参加するとか、これぞと決めた意中の先生の治療院の門を叩き、教えを乞うことです。見学からはじめて、さらに治療院でのいわば「研修生」にこぎつけたりします。ただ「研修」といってもこれは業界内で制度化されたシステムではないので、実際は個々の治療家の裁量にまかされます。先生によってはベッドサイドのカーテン内には研修生を入れない所もあると聞きます。つまり治療の手の内を絶対見せない治療家もいるということ。それはそれで厳しい「修行の場」ともいえますが、反面「期待して臨んだにもかかわらず、雑用ばかりやらされて何の得るものがなかった」という友人の声を実際耳にしたこともあります。

かくいうわたしは、御縁があって師の治療院で研修経験を積みました。2年生の途中から、学校が終わってからの治療院通いを週に2~3日は続けていました。それは卒業後も続き、徐々に減って週に1日になり、最後は自分の治療院開業の時点をもって終了しました。
その数年間の研修期間は私にとっては「修行の場」でありながら濃密な「学びの場」として過ごすことが出来たことは、いまでも常に師に感謝しているところです。

◆わが師について
私の師は「師匠と弟子」という言葉を嫌いました。師匠風をふかすこともなく、雑用でこきつかうことも一度もなかったと思います。但し「研究心のないものは去れ」という方針でしたから、常に課題を持たされて、学習会で報告するということをよくやっていました。「学びの場」としてははっきりと厳しさを示す師でした。

師は見せない・教えないということはなく、治療に関してはすべてオープンでした。お陰で師のやること、話すこと、全てが私の治療スタイルの基礎になっています。患者さんに話す所謂ムンテラの類をよくメモにしておいては「語録集」としてまとめていましたが、それが今でも臨床に役立っています。

ただ、師の治療理論・配穴・手技などすべて模倣し応用したつもりでも、自分の臨床では同じ治療結果になるとは限らないものでした。そこで師の治療を受けた患者さんに何気なく聞いてみました。すると「治療してもらうと身体が元気になる」とか「いつもパワーを感じる」という答えが返ってきます。どうも「治す」というレベルを超えた「何か」が師の治療にはあるということを次第に気付かされてゆくものです。この「何か」とはなかなか言語化することは難しいことですが、治療家自身の人間性とかそれこそパワーに至る諸々です。

◆師が示した「意念」
あるときに「むずかしい患者さんはどのように治療すべきですか?」と師に尋ねたときがありました。すると、師の口からは予想もしていない意外な答が返ってきたのです。
「患者さんが玄関に入った瞬間から治療は始まる。自分の身体を小さくして、患者さんの身体に入り込んでいく。まるで映画の『ミクロの決死圏』のように、縦横無尽に身体の中をめぐり病の原因を探っていく。まぁ、そんな意識で治療する。」
これだけをとらえて紹介すると一見荒唐無稽のような印象をもつでしょうが、師はわたしに治療上の技術的なノウハウを示したのではなくて、いわゆる「意念」というべき治療上の「意識の持ち方」を教えてくれたといえます。

関連して、以前紹介した世阿弥の『至花道』による「体・用」によれば、能の演戯をみるときには「本質的な構造<体>」と「現象的な表れ<用>」という、ふたつの局面で認識すべしと説いています。世阿弥がいわく、未熟な人は現象面である「用」のみを観て模倣しようとする。これは「用」が元々「体」から生ずるという道理を知らないからだ。逆に能の本質を認識している人は内面的直感(心)で観るから、現象面にとらわれず演戯の根底にある「体」を理解することが可能になるのだ、と説いています。
   参照記事⇒「第77話:世阿弥に学ぶ(その3)」

    「本質的な構造」=「体」=「主体」
    「現象的な表れ」=「用」=「作用」

つまり師が教えたかったのは、患者さんの体内に入り込むくらいに「本質的な構造=体」である「病の原因」に目を向けよ、それには「内面的直感(心)で観る」ほどの「意識の持ち方=意念」が最も大切である―ということです。

師の下から離れて臨床経験を重ねていくなかで、治療上の「意識の持ち方」の大切さを益々実感しているところです。それだけに師から頂いた至言とそれにまつわるエピソードは、今でも常に大切にしています。



※補足:ちなみに内田樹には「師を見るな、師が見ているものを見よ」という至言があります。これは師からどう学ぶべきかを示唆した言葉ですが、本題に関連して言い得て妙なる響きがあります。つまり「師を見る」だけでは「現象的な表れ=用」しか見えないが、「師が見ているものを見る」ことは「本質的な構造=体」に近づくというわけです。
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