FC2ブログ

第129話:井筒俊彦の世界



◆わたしの「横浜事件」
個人的な話ですが、「横浜事件」と勝手に呼んでいる忘れられない出来事があります。それは10年ぐらい前のある日の夕方。週に2日担当している横浜の治療院からの帰路、横浜駅京浜東北線のホームで上りの電車を待っていました。その日はいつものように何人かを治療した中で、ある患者さんの治療が不思議なほどに奏功したのですが、むしろ逆に「なぜあんなにうまくいったんだろう?」と妙にひっかかりを感じてしまい、釈然としないまま、ぼんやりホームで佇んでいました。

すると全く突然なことに、そのひっかかりに対する「回答」というべきイマージュ(心象)が、まるで深いところから湧き上がってきたかと思うと、一瞬にして身体が揺さぶられたのです。ふと周りを見渡せば、みるみる一面がセピア色に染まっていきます。と同時に、昂揚感とでもいうのか身体全体が熱くなってきて、わたしも一緒にその色に染まってゆくような感覚がしたものです。

どんな「回答」かについては、守秘義務に係わることなので詳しくは書けないのですが、とにかくわたしにとっては当に「腑に落ちる」衝撃的な内容だったということ。アイデアが浮かぶという感覚と同じように、意識の奥から勝手に浮上したことなのでしょうが、ただ、一面がセピア色になったり身体が熱くなったりする感覚はもちろん初めて体験することでした。

◆『意識と本質』
この不思議な出来事をどう解釈すればよいのか、その糸口を掴んだのは、偶然にも井筒俊彦の『意識と本質』を読んでいるときに、次の文章に遭遇したときでした。

「突然、日常的意識の活躍のさ中で、ふと、現実的事物との結合を離れ、事実性から遊離したイマージュがどこからともなく現れてきて、意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがある。・・・(中略)・・・シャーマンやタントラの達人のように、深層意識の超現実的次元を方法的に拓いた人たちだけが、この種のイマージュを正しく活用する術を心得ている。
しかし、常識的人間の場合でも、このようなイマージュ体験が実際に起る時、実は彼の内部には既に表層意識から深層意識への推移が生じつつあるのだ。」
            (『意識と本質』Ⅷより抜粋;187~188頁)

つまり、わたしが体験した「横浜事件」は、それこそ常識的人間のイマージュ体験であり、意識の表層と深層とで起きた事象であるに違いない、とたちまちのうちに理解ができたのです。

哲学が扱うものは「意識」とすれば、自分の意識の観察法を体得しておくために、「哲学」を学ぶことには意義があります。井筒俊彦の名著『意識と本質』は、そうした意味ではきわめて示唆的な事柄を提供してくれます。なかでも興味深いのが深層意識に関すること。わたしたちの日常生活では表層意識で彩られていますが、ひとたび足を止めてその足元を覗いてみれば、恐ろしく深い淵が開けた深層意識の存在に気づかされます。井筒は、深層意識に「言語」というファクターを持ち出し、言語以前の種子(ビージャ)が絡まり合うカオスの海であるとし、これを「言語アラヤ識」と名付けています。

こうして井筒が説く深層意識とは、フロイトやユングの「無意識」とはひと味もふた味も趣が異なり、広く哲学・宗教・文学・言語学に及びながらも東洋哲学に根差しています。

◆井筒俊彦という人物
井筒俊彦(1914~1993)は、はじめイスラーム哲学の研究から出発し、後年、広く東洋哲学全体へと研究の幅を広げ、そこから独自の哲学を構築した学者です。井筒の学識の広さと深さについては広く知られていることで、また数十か国語を理解できるとまで言われた世界的な碩学です。遠藤周作を筆頭に井筒俊彦に傾倒した著名人は多く「日本人の魂の師匠たるべき大思想家」と評価されてきました。

わたしにとっての井筒俊彦の魅力は、単に学識の広さということだけではなく、東洋思想でいうところの「身体知」を感じさせる「知の巨人」にあります。たとえば、先の引用した文章でもそうですが、井筒の文章はいわゆる学者の文章でないということ。意識と身体の最も深い場所に身を置いて言葉を選んだこうした文章は、少なくとも自らの体験がなければ書けないといえます。ですから文中の「意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがある」は当にそうで、体験があるからこそ書けるのです。

また、恐るべきカオスともいえる深層意識を実際に垣間見ることで、それについて論究できるのは、座禅などの伝統的瞑想法による宗教的な行(ぎょう)をきっと体験されている方だろうと想像できます。実際のところ、井筒は父親の影響で若い頃から「禅」には深い関心を持ち、父・井筒信太郎から伝授された内観法を日々行じていたと言われています。

こうした井筒俊彦の「身体知」というべき実証主義的姿勢は、日本の「禅」に限らず、ギリシャ哲学の中の「神秘哲学」、イスラーム神秘主義(スーフィズム)、仏教の華厳哲学などの哲学研究を通して、あくまでも「形而上学は形而上的体験の後に来るべきものである」と言及していたことが当に象徴的です。
「井筒哲学」とは井筒自身の実感に裏打ちされた「哲学」だということです。


※井筒俊彦『意識と本質-精神的東洋を索めて』岩波文庫(91年)
決してやさしく書かれているわけではないが、繰り返し読んでみたくなる本。
※『井筒俊彦-言語の根源と哲学の発生』河出書房新社・道の手帖(2014年)
井筒俊彦生誕100年を記念して刊行されたガイドブック。
特に印象に残った記事は若松英輔による「光と意識の形而上学」。井筒と漱石とベルクソンの共通項を検証することで、井筒哲学の根幹がよくみえてくる。
※井筒俊彦『意味の深みへ―東洋哲学の水位』岩波書店(85年)
イスラームに対して時局追求的興味で知るよりも、その歴史的文化的根底を知るべきと井筒は説く。なかでもスンニ派とシーア派の根源的な違いについての言及が印象的。

関連記事
スポンサーサイト