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第140話:「子午軸」と経絡ネットワーク(1/2)



◆「子午軸」の重視◆
ふる里の山、鳥海山と月山は地図で俯瞰するとぴったり南北の軸に位置し、それぞれが陰陽の山として対峙していることを前に紹介しました。 (第134話:「鳥海山」の神仏と陰陽」参照)
方角を十二支でたとえると、北は「子」の方角、南は「午」の方角となり、この南北軸を「子午軸」と呼びます。
この「子午軸」を特別なものとして捉える考え方は、中国の「陰陽五行説」を背景としながら、古代日本が律令国家をめざしていた頃の歴史のなかにも散見できます。
さらにいえば鍼灸の世界においても、この「子午軸」の重視は、重要な概念として既に成立していました。そこで今回のテーマは、「子午軸」の重視がどのように鍼灸の世界に反映されているのか、その背景にある「陰陽五行説」を踏まえながら説明していきます。

◆古代日本における「遷都」から
古代日本の7世紀から8世紀の歴史を振り返れば、天智天皇(大津京)、天武天皇(明日香京)および持統天皇(藤原京)、元明天皇(平城京)そして桓武天皇(長岡京と平安京)というように、短期間における度重なる遷都はすべて南北軸上、つまり「子午軸」に限って行われていました。

中国唐に倣った律令国家の成立は、近江の大津京から始まり京都の平安京で落ちつく中で、こうした度重なる遷都は総じて北へ北へとなされたという背景があります。このことを民俗学の吉野裕子(1916~2008)は、陰陽五行説における「北を太極とする思想」に依拠した「子(北)の重視」もしくは「子午軸(南北)の重視」 にあると指摘し、その思想をもたらしたのは、おそらく「白村江の戦い」の頃に亡命した百済からの学者たちであろうと推測しています。

◆「子午軸」に隠された意味
さらに吉野は「子午軸」を重視した理由について、子午を「方角」から「月」に宛て、次のように説明しています。

「子」の月は冬至を含む旧11月で、『易』によれば陰がきわまった後に一陽が萌す時で「一陽来復」の象。それに対して「午」の月は夏至を含む旧5月で、陽がきわまった後に一陰がはじめて萌す時。「子→午」は無から有への軌(みち)、「午→子」は有から無への軌を示す。万象はこの軌道に乗ることによって、はじめて輪廻転生の永遠性を保証される。

ちなみに十二の「月」を陰陽の消息で表すと、最も「陰」が極まった月が旧10月(亥の月)であり、最も「陽」が極まった月が旧4月(巳の月)となります。
「子」の月である旧11月は「一陽来復」の象で表せる吉祥の月であることから、皇室における重要な行事、たとえば「大嘗祭(だいじょうさい)」などは今でも旧11月に行われています。「子」の重視は今や皇室の中に残っているといえます。

また「北を太極とする思想」というのは、星座の中心である、動かない「北極星」を神格化することであり、道教の世界ではその神を「天皇」と呼称され、色は「紫」とされています。道教研究の第一人者である福永光司(1918~2001)によれば、日本の天皇という呼称が正式に使われたのは天武天皇からであり、その背景には「陰陽五行説」を含む「道教」の導入があると指摘しています。

いずれにせよ、「子午軸」が「無から有へ、もしくは有から無への軌(みち)を示す」というのは、陰陽の消息(成長と衰退)という位相変化をもたらす大事な「軸」と考えていたといえます。
次回は、その「子午軸」の重視が、鍼灸の世界にどのように反映されているかを説明します。


※吉野裕子『隠された神々・古代信仰と陰陽五行』河出文庫(2014年)
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