第162話:昭和16年の日記から見えるもの(1/2)



~開戦への道筋~

◆一冊の日記帳
父が59歳で亡くなった今からちょうど40年前のこと、遺品を整理していると、表紙に「2601」と刻印された1冊の古い日記帳が出てきました。最初に手にした当時22歳だったわたしは、なんとなく読むべき使命をそこで授かったような気がして、母に許可をもらい、形見分けとしてそのまま東京に持ち帰りました。

その日記は昭和16年(1941年)、父が24歳のときに書いたものです。「2601」とは皇紀2601年を意味していました。同級生のほとんどが兵隊として戦地に赴く中、父は肋膜炎(今でいう結核性胸膜炎)を患い、そのために大学を中退し徴兵検査を不合格となり、失意のまま世田谷の自宅で療養していました。結核発病から6年目、午前中は無理をせずに臥せば、午後は少しの散歩ができるほどにようやくなったと記しています。社会との接点はラジオと新聞のみであり、楽しみといえば読書で気を紛らわすことぐらい。そんな孤独な療養生活ぶりと、今から75年前の閉塞した時代の空気が日記から窺い知ることができます。

ここで私的な日記を紹介する意味は他でもありません、昭和16年といえば大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発した年です。当時の(戦争に行くことができなかった)一青年が、12月8日開戦の日をどのような気持ちで迎えたかを知る上でも、父の日記は貴重な歴史資料になると思ったのです。

◆開戦に感動する父
12月8日の頁を開いてみると、午前七時の臨時ニュース「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」の有名なフレーズをそのまま記しています。さらに「畏(かしこ)し大詔喚発される。来るものが来たのである。」と添え、真珠湾攻撃、マレー半島敵前上陸などの華々しい戦果を並べ、結びは「歴史的な一日であった。」と感動した様子が綴られています。

この「来るものが来た」という万感の思いは何だったのでしょうか。戦後生まれのわたしにはとうてい理解しがたいところです。近代史の解説書を読むと、それは父に限ったことではなく、当時の国民が抱いた思いだったようです。ならば、なぜあんな悲惨で無謀な戦争に、国民のほとんどが大政翼賛の空気に埋没して、万感の思いを以て総力戦に参加していったのでしょうか。

その疑問に対する答えは、近代史の文脈と照合しながら、じっくり日記を読み解いてゆくと、ある程度は想像がつきました。というのも、父は内省の記録を遺しただけではなく、重要と思われた時事に関する新聞の切り抜きを丁寧に貼りつけ、自分なりの感想を添えていたからです。父の日記からは、まるで一冊のノンフェクションノベルを手にしたかのように、国内外の動静と時代の空気、そして12月8日に至る総動員化された国民の様子が読み取れるのです。

◆支那事変は「聖戦」
昭和16年とは支那事変(=日華事変)(1937年)から5年目の年。「解決不能」になった支那事変が、ついには世界規模の大東亜戦争をひきおこしてしまった年になります。明らかに日本軍は中国を侵略した戦争であるにもかかわらず、「戦争」と言わず「事変」と呼び、皇軍による「聖戦」とまで言いきります。日本側は、条約を守らない中国、条約を遵守する日本という図式に立つ論法を展開。つまり日本にとって満蒙は(日露戦争に)戦勝して講和条約で認められた既得権益であるのに対して、中国は背信または不法行為によって阻害していると主張していたのです。

たしかに日記を読む限りでも、「侵略行為」という意識はきわめて薄いことがわかります。たとえば「山東省南部の赤匪一万に大鉄槌をくだす」という記事があります。この「赤匪(せきひ)」とは共産党軍(八路軍)のことですが、軍隊ではなく匪賊(ひぞく)扱いであり、それはまるで悪者を征伐している感覚なのです。そうした国民意識の根底には、中国人を低く見る差別意識が働いていることは明らかです。

◆孤立する日本
満蒙問題はリットン調査団の報告を契機に、米英諸国からの非難が相次ぎ、国際連盟を脱退(1933年)した日本は国際社会から益々孤立していきます。実は国際社会からみれば、満州事変(1931年)以来の日本の軍事行動とは、国際連盟規約(1920年)と「支那ニ関スル九ヵ国条約」(1922年)、それに通称「不戦条約」と呼ばれるパリ条約(1928年)違反である「侵略行為」とみなされていたのです。これらの条約は、第一次世界大戦(1914年)の惨禍を蒙った諸国が反省をこめて「戦争制限と防止の新組織」として樹立した条約で、日本は3つとも参加していました。

ところが、日記を見る限りでは、日本が国際法違反の侵略行為をしているという認識はまず見当たりません。それこそ言論統制がなされていたからでしょうが、結果的には一般の国民意識までもが国際社会から乖離していたことを意味しています。

◆時局は対米国
4月から日米交渉が始まり、明らかに仮想敵国は米国という空気が定着して、大事な時局は対中国ではなく対米国に変わっている様子が日記にも窺えます。たとえば、ルーズベルト米国大統領の一般教書演説やハル国務長官の日本を非難する発言に対して、新聞までもが「日本に対する事実上の参戦宣言である」とか「米国は対日四月危機を執拗に流布している」などと報じ、日米関係の緊迫化をむしろメディアが煽ぐような勢いで連日報道し、読者である父もそれに呼応するかの感想を記しています。

更に8月になると米国は対日石油輸出を禁止。所謂ABCD包囲網による経済封鎖です。10月頃には「米船攻撃事件は次々と発生を見、ついに軍艦撃沈」という報道が出始めると、父は「日米の関係も最後の関頭(瀬戸際)に突入する。」と記していました。
欧州戦ではドイツが地中海とソ連のモスクワへ攻勢。英国と仏国の劣勢に乗じて日本は仏印(インドシナ)など南方に攻勢をかけていきます。

11月に入り、来栖三郎特命全権大使がサンフランシスコに派遣され、緊急裡に日米会談が重ねられると、父は「いつの間にか臨戦態勢は戦時態勢となる。」と時局の重大さを実感してきます。そうした中で、国内では東條英機内閣に期待を寄せる風が吹きます。支那事変を解決できず、結果的に軍部の暴走を許してしまった第3次近衛文麿内閣から引き継いだ軍閥主導の東條英機内閣は強権姿勢に関わらず国民が後押しをしています。東條首相は「帝国外交の三原則」を発表し、日本に対する軍事的脅威や経済封鎖などを加える敵性国家に対しては断固戦うとの国策決議案が11月17日に採択されます。結果的に、この決議が開戦前の大きな局面であったといえます。父は翌日の日記に「昨日の東條首相の演説で国民の覚悟は出来た。」と興奮気味に記しているのです。

◆避けられなかった開戦
緊迫した日米交渉は世界の注目を浴びながら、ついに11月26日ハル国務長官による最後通牒(所謂ハルノート)により交渉決裂。日本は12月1日の御前会議で米英蘭に対して開戦を決定し12月8日へと突入していったのです。国際社会から俯瞰すれば、日本がとった進路は国際法を無視したどうみても無謀な選択にみえます。

しかし軍閥の暴走という枠組みだけでは解釈できない、それこそ国民総動員で熱病に罹患したかのような異常性を、父が記した「昭和16年」から受け取れます。戦争に対する責任論は多くの研究がありますが、責任とは特定の人物というより、むしろ「思想」にあるとする方が腑に落ちます。父を含めた当時の国民すべてが共用していた「思想」ともいうべき「国体イデオロギー」が熱病の正体だったとするのがわたしなりの解釈です。

具体的には前年昭和15年の皇紀2600年の「八紘一宇(はっこういちう)」というスローガンになります。日記の表紙に刻印された「2601」が象徴的にそれを物語っていたのでした。(つづく)
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