第163話:昭和16年の日記から見えるもの(2/2)

~国体イデオロギーと八紘一宇~



◆泥沼化した日中戦争
昭和12年(1937年)7月7日に勃発した「支那事変(日華事変)」は、盧溝橋で日中両軍の偶発的な衝突から始まり、次第に全面戦争へと発展します。当初、現地では停戦協定を進めているにもかかわらず、時の近衛内閣は早々と華北への派兵を決定。8月には上海で武力衝突、12月には国民政府の首都である南京を占領(ここで南京大虐殺が起きた)。こうして日本軍優勢のまま中国は簡単に屈服すると思われたにもかかわらず、中国の抵抗が予想外につよく日本軍の死傷者は増大します。この年に動員された兵士はなんと93万人、そのうち戦死者は11月8日までに9115人に達したと戦史には記録されています。これは「事変」ではなく明らかに「日中戦争」という名の「侵略戦争」です。10月の国際連盟総会では日本に対する非難決議が採択され、日本は国際世論の反発を受けながら、もはや先の見えない泥沼へと突入していったのです。

◆「東亜新秩序の建設」
「支那事変」が混迷の長期戦に至り、結果的に昭和16年(1941年)の大東亜戦争(太平洋戦争)に発展した経緯を振り返れば、その大方の舵取りに近衛内閣の首班である近衛文麿が関わっています。(その意味では近衛文麿の政治責任は東條英機よりも重大。)
近衛内閣は宣戦布告のないまま、「支那事変」の派兵を「膺懲(ようちょう)」(条約を守らない中国を懲らしめる意)のための聖戦であると声明。ところが多くの犠牲を払い長期化を余儀なくされると、「膺懲」の理由だけでは難局を打開できない状況に陥ります。

そこで近衛内閣は、新たに「東亜新秩序の建設」を戦争目的であると声明。ドイツがヨーロッパで快進撃するさなか、ナチスドイツがベルサイユ体制を打破し「ヨーロッパ新秩序」を打ち立てると宣言したことに呼応し、アジアでも日本を中心とする新秩序を作ると宣言したものです。それは昭和13年(1938年)11月の「東亜新秩序の建設」の提唱であり、さらに昭和15年(1940年)6月の「新体制運動」の決意表明における「大東亜新秩序の建設」と続きました。

アジア全体(大東亜圏)における「新秩序の建設」とは、アジア諸国を西欧の植民地支配から開放し、アジア全体の安定を確保するために日本が中心となって新秩序の建設をおしすすめるということ。そのことが戦争の目的であり、領土的野心に基づく侵略戦争ではないと主張します。しかし実際のところ、日本は朝鮮に対し明治43年(1910年)以来植民地化を続け、中国には大正4年(1915年)の「対支24カ条の要求」以来、排日運動が止まないなか、国際法違反の領土侵略を続けているという矛盾を抱えていました。つまり日本が戦争目的と主張した「東亜新秩序の建設」とは、結局のところ「自己説得の論理」というべきものでした。

さらに言えば、国民はその欺瞞性に気づくことはなかったということ。たとえば父の日記には「新秩序の建設に絶えず邪魔をする米国」という新聞記事のフレーズが記されているくらいです。

◆「八紘一宇」とは
一般国民が「東亜新秩序」に賛同し戦争を支持せざるを得なかったのは、「東亜新秩序」に天皇制(=国体イデオロギー)が如実に組込まれていたことが最大の理由でした。国民に主権がなく、天皇にのみ主権があった時代であれば、それだけ天皇が絶対の権威として存在し、国民は臣民として従わざるを得ないのです。さらに、その基本理念というべきスローガンこそが「八紘一宇(はっこういちう)」だったということです。

「八紘一宇」の意味とは、「八紘=八方の遠い土地、一宇=一つ屋根の家。八方の遠い土地までも一家とするという意味で、天皇の御恩徳にしたがい奉らない、一切の禍をなすものを打ち払い、世界中が互いに助け合って、丁度和気に充ちた一家のように親しみ合い、以て全世界の国々の平和を確立し、共々の幸福をすすめようという大精神のことである。」とあります。

神話ともいうべきこの「八紘一宇」の世界とは、皇室の万世一系の「縦の世界性」から形作ってきた日本を、「横の世界性」へ拡大し、天皇統治を世界全体に広げてゆく、という意味なのです。そうなると、「横の世界性」に含まれるアジア諸国が、ウイルソンの民族自決主義に目覚めた(ナショナリズムの)国だとすると、それは「八紘一宇」の世界には馴染まないことになり、日本は侵略する可能性を含むことになります。

昭和15年(1940年)は神武天皇即位から2600年にあたるとされた年です。戦時下の国民の重苦しさをふきとばすために、11月10日に「紀元2600年記念祝賀行事」が盛大に挙行。
記念行事において政府と大政翼賛会は「八紘一宇」の神話を強調して、戦争へのいっそうの協力を求め、国家への国民の統合をはたそうとしたのです。
こうして「八紘一宇」の神話によって、日本軍が支那で展開している「聖戦」が天皇の名のもとに美化されていったのです。

◆戦前の狂気を支えた理念
先日100歳で亡くなった三笠宮崇仁親王(1915~2016)は「皇室の歴史はかなり粉飾された歴史である」と述べられていました。これは注目すべき貴重な発言です。戦前の天皇制とは、実は明治以降に作られた「特異な天皇制」だということ。プロイセンを参考に制定された大日本帝国憲法では、天皇を皇帝に倣い主権と統帥権をになう絶対的権威とし、尚且つ粉飾した皇国史観で神格化したものです。そもそも天皇が軍服を着て白馬に跨る姿は、江戸時代以前の帝であれば、それはまずありえないということです。

ともあれ、戦前の天皇制による「国体イデオロギー」は、国民に「思想の動員」を強いたということ。しかも、国民の心情や言論までも封殺してしまうことになり、国民は国際社会を客観的に俯瞰することがないまま、謂わば「精神的鎖国」の中に置かれていたのです。そうした意味では、スローガンの「八紘一宇」とは、「国体イデオロギー」の呪術語であり、国民の誰もが熱に踊らされた、あの時代の狂気を支えた理念のひとつだったといえるのです。(了)

※『昭和の歴史⑤/日中全面戦争』藤原彰著・小学館(82年)
藤原彰は元陸軍大尉として中国大陸を転戦した経歴があり、戦場における餓死の実態を明らかにした『餓死した英霊たち』(青木書店)も著わしている。
※『シリーズ日本近現代史⑤/満州事変から日中戦争へ』加藤陽子著・岩波新書(07年)
加藤陽子は1960年生まれ。他に『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)
※『日本の失敗』松本健一著・岩波現代文庫(06年)
西田幾多郎には「八紘一宇」についての関連論文があり、和辻哲郎は『戦陣訓』作成に参画した学者のひとりだったとか。知識人が戦争に関与していたことにも言及している。


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