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第165話:遠藤周作と聖母信仰と『沈黙』と



◆なぜ『アベマリア』に癒されるのか
クラシック音楽の世界には『アベマリア』とか『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』のように「聖母マリア」に関する多くの楽曲があります。基督教のカトリック教会だけに許された「聖母信仰」がその背景にあり、歴代の作曲家による同名の多くの作品があります。

西洋の宗教的歌曲にもかかわらず、日本ではどちらかといえばヒーリングミュージックとして受け入れられています。とはいえ、基督教徒でもないのに「聖母マリア」の音楽を聴いただけで、なぜか自然に癒されてしまう構図は冷静に考えてみてもおかしなことです。日本人の感性には、きっと特別な受信装置があるのかもしれません。

そんな疑問に応えてくれたのが、基督教徒(クリスチャン)でもある作家の遠藤周作(1923~1996)です。彼のエッセイによれば、長崎の隠れ切支丹たちは、基督教の「神」よりもむしろ「聖母マリア」に心ひかれていたといいます。しかも切支丹たちの聖母画はなんとなく泥臭く「おっかさん」のようであることから、彼らの聖母信仰とは西洋と異質の、むしろ日本人特有の母性的宗教心理によるものであったと指摘しています。だとすれば、現代の日本人が「聖母マリア」の音楽に癒されるのも、日本人の精神の基底に、隠れ切支丹と同じ母性的宗教心理がはたらくからであると理解できます。

◆日本人は「母の宗教」に心ひかれる
遠藤周作は、こうした母性的宗教心理を「母の宗教」と呼んでいました。そもそも基督教とは、戒律を重視した厳しい「父の宗教」と、深い愛を以て許すやさしい「母の宗教」とを兼ね備えたものであるとし、「聖母信仰」はその後者として存在していると解説しています。

一方で、日本人がこの「母の宗教」的世界に心ひかれる理由は、仏教が日本的展開をして、やっと根をおろし始めた鎌倉時代にあるといいます。鎌倉時代とは、それまでの「父の宗教」的な仏教から「母の宗教」的な仏教へと変化したこと、つまり浄土教(浄土宗や浄土真宗)の出現が大きく関与したということです。阿弥陀さまは、裁いたり罰したりする父ではなく、子どもの過ちを助けようとする母のように、普く衆生に浄土を補償する存在だということ。つまり、多くの民衆が浄土教(阿弥陀さま)に救われたことで、日本人の心に「母の宗教」的精神性が形成されていったと遠藤周作は説いているのです。

◆遠藤周作の異端性
わたしは遠藤文学のまじめな読者とはいえませんが、没後に出版された著作集を読んでいくうちに、こうした遠藤周作の宗教観に魅かれていきました。とりわけ仏教などの東洋思想に傾倒し、基督教を語りながらも東西の文化に拡がっていく独特の視座にはとても刺激を受けました。それと、彼の基督教の考え方には「異端性」を含んでいることが、なんといっても最大の特長といえるところです。

たとえば、仏教における「誰の心にも仏がある」とする「如来蔵(にょらいぞう)」の教えのように、遠藤周作には「心の中に神は存在する」もしくは「イエスは心の中に寄り添う」という確信があります。ところが基督教では「神」は天上の超越的存在であり、神を人間と同等に位置づける解釈そのものは異端と弾劾されます。

にもかかわらず、遠藤周作がそこにこだわる理由とは、日本人として生まれ、愛する母親に服を着せられるように基督教の洗礼を受けたころから、自分の心にある「東洋的で汎神的な感性」が内在しているからでした。基督教の教えと相反する「汎神的な感性」を持ち合わせながらも、ならば日本人の間尺に合った基督教があってもよいのではないかと、終生追い求めたところに遠藤周作の基督教文学の真髄があるのです。言い換えれば、それは「神と人間の関係性」の希求であり、彼の内面における「神の変容のドラマ」こそが、代表作『沈黙』を生んだとわたしは捉えています。

◆聖母信仰に隠れた異教性
ここで特筆すべきは、聖母信仰の歴史を紐解くと、意外な一面が見えてくることです。実は、そこを理解しておかないと基督教の底層の部分が見えてこないのです。

というのは、西欧のカトリック教会において「聖母信仰」は公式には長い間みとめていなかったことです。三位(父と子と聖霊)一体の教理のほかに「聖母信仰」を正式に認めたのは、1854年に法王ピオ9世がやっとマリアの無原罪説を採用し、第二次世界大戦も終わった1950年に法王ピオ12世が聖母被昇天を認めたほどなのです。

そもそも「聖母マリア」の教義は教会内部の神学論争の結果から生まれたのではなく、民衆層から起ってきた要求を教会が受け入れたものなのです。その歴史に詳しい心理学者のユングによれば、「中世に基督教が入ってから、原始の地母神の地域は基督教の聖地に変わり、ケルトの処女神は聖母マリアに変身したのである。」とあります。つまりユングに言わせれば、「聖母信仰は異教の地母神を吸収して、民衆信仰の底流を形成していったものである。したがって基督教には、実は見えない地下の根のところで異教的要素を内包している」と指摘しているのです。

遠藤周作にとって、プロテスタントではなくカトリックに救われるのは「聖母マリア」の存在が大きいと告白しています。つまり「聖母マリア」にはかつての異教である地母神が隠されているところに、自らがもつ「東洋的で汎神的な感性」は感応し、ついには異端ともいうべき立ち位置からも開放されたのではないでしょうか。

◆『沈黙』が意味するところ
遠藤周作は16~17世紀の日本人の基督教信仰には、仏教や汎神論が混在しているとみていました。そのことが彼を限りなく隠れ切支丹の世界に近づかせたといわれています。
さらに、『沈黙』で描かれた隠れ切支丹による「聖母信仰」には、西欧の中世における「地母神信仰」の姿を投影させたかのようにもみえます。それは、一見特異な「日本の基督教」を描いているようにみせて、実は西欧の基督教の底層に流れる原初的な精神性をも描いているようにもみえます。

聖母信仰が根強い地中海沿岸地方のシチリアからの移民の子であった巨匠マーティン・スコセッシ監督はそこに共鳴して、28年もの歳月をかけて映画『沈黙‐サイレンス‐』を制作したのではないでしょうか。

物語最後の場面はドラマチックで深く印象を残します。
棄教を強いられ思い苦しむ司祭のロドリゴに、神は救いの手をさしのべるでもなくただ「沈黙」をするだけでした。最後に、ロドリゴが踏み絵に足を上げた瞬間、
「踏むがいい・・・」と
ついにキリストは「沈黙」を破ります。

わたしの勝手な想像ですが、そのときのキリストの声は、まさに「阿弥陀さま」や「母」のような慈愛に満ちた声であり、発した声の主であるキリストは、ついに「如来蔵」のごとくロドリゴの心に宿したであろうと思うのです。(了)

※『神と仏』遠藤周作/山折哲雄監修(海竜社)平成12年
※『沈黙』遠藤周作(新潮文庫)平成16年
※『ユングとキリスト教』湯浅泰雄(講談社学術文庫)96年
  ユングの「聖母崇拝」についての講義内容を解説。(306頁)

※追記(2017‐01‐31):映画『沈黙-サイレンス-』の感想。
冒頭が、漆黒の闇に虫の声や鳥の囁き、そして波の音など、音楽のない静寂な「沈黙」から始まります。汎神的風土の中に神の存在を感じさせる演出です。それが終盤に登場するオレイラの「日本人は自然の中にしか神の存在を認めない」の言葉に符号します。それから、ロドリゴが棄教した後も、母なるイエスが心の中に寄り添っていたことを、スコセッシ監督は原作にないラストシーン(入棺したロドリゴの掌中でロザリオが輝くシーン)で見事に表現していました。
ただ、この作品は重いテーマを扱っていることを覚悟しないと、数々の残酷なシーンはきついかもしれません。
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