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第170話:修験道との繋がりを求めて(2/3)



◆庄内地方の山岳信仰:
庄内地方は東西に流れる最上川を境に、以南を田川郡、以北を飽海(あくみ)郡と呼んでいました。田川では霊峰・月山が聳え、それに羽黒山・湯殿山を加えて出羽三山と呼びます。そして飽海では山形・秋田の県境に跨る出羽富士・鳥海山の雄姿が見えます。
出羽三山と鳥海山は共に古くから山岳信仰で栄えた霊山。特に月山と鳥海山は子午軸(南北)に対峙することから、それぞれを「陰の山」「陽の山」の関係とみなし、密教を取込んだ修験道の世界からは、「胎蔵界」「金剛界」の曼荼羅を形成しているとみます。

出羽三山と鳥海山に行者や修験(山伏)が登拝し修行の山として定着したのは中世の頃。それが近世になると、麓の人々の暮らしに水を提供する水分(みくまり)の山として五穀豊穣を願い、あるいは健康祈願や病気直しなど暮らしの安泰を祈るという庶民の信仰と祈願の山となっていきます。庶民の間で「お山参り」と呼ばれる信仰登拝は江戸時代には盛んに行われていました。各地域で「講」が組織され、男性は15歳になると村を代表して白装束に身に纏い、行者や山伏に先導されて鳥海山と出羽三山を続けて登拝するという風習もありました。

春に田植の季節となれば山の神が降りて田の神になり、秋の収穫が終われば田の神はふたたび山に帰るとされ、田の神との交替を繰り返す山の神は農神とみなしていました。
さらに、山の信仰は人々の死生観にまで及びます。山の自然の移り変わりに、人の死と再生の循環を重ね合わせ、先祖の霊が三十三回忌を超えると神霊は清まって山の神になるとする他界観がありました。

◆鳥海山の神社と修験
こうした山岳信仰の中核となったのが、鳥海山では「大物忌神社」と「鳥海修験」でした。
鳥海山の山頂に建てられた「大物忌神社」には祭神「大物忌神」が祀られ、麓の山形側・秋田側のそれぞれの登拝口にも「大物忌神社」が置かれています。
山岳信仰と修験道の世界は、現在では消滅した世界ですが、改めてその過去の姿を振り返り、現在の姿へと変貌した経緯を書き留めてみます。

明治に入るまでの、吹浦にある「大物忌神社」では、神社と寺そして修験道が統合して、鳥海山の山岳信仰の中核をなしていたわけです。たとえば、神社の境内には神宮寺(真言宗か天台宗)があります。半僧半俗の山伏(修験の徒)は、その神宮寺に衆徒(しゅと)として所属して、周辺に居を構え山伏の集落を形成していました。
大物忌神社には本地垂迹説に基づく権現が祀られ、神宮寺には本地の仏像が安置。神社では真言密教の曼荼羅(胎蔵界と金剛界)を反映する意味から、鳥海山と月山の両権現が祀られ、大物忌神社は「大物忌月山両所宮」と言われていました。それと境内にある神宮寺(梵宮山光勝寺)には、両権現の本地である薬師如来と阿弥陀如来が共に祀られていたのです。

大物忌神社(大物忌月山両所宮)⇒ 鳥海山権現+ 月山権現
神宮寺(梵宮山光勝寺)    ⇒ 薬師如来 + 阿弥陀如来
山伏(修験の徒)は神宮寺に所属


神仏全体を取りまとめるのが「別当(べっとう)」と呼ばれる役職。別当の多くは僧侶が担うため、神社よりむしろ神宮寺のほうが権力を握っていました。それが江戸の後半になると神社と神宮寺との権力争いが次第に増して、神社と寺はある種の緊張関係にあったそうです。いずれにせよ、そうした環境下で、山伏(修験)たちは神宮寺側(密教系の仏教)に所属していたのです。

現在の大物忌神社は完全に神道に鞍替えしています。明治初年に政府が国家神道を中核に据え「神仏混淆禁止の令」を断行して、仏教色を徹底的に排除する所謂「廃仏毀釈」を押し進めた結果、神仏習合の装いは全くなくなっています。僧侶と修験を追放したことで、それまでの神社と神宮寺との権力争いは終結を迎えます。
具体的には、御神体は大物忌神と月山大神に代わり、境内の神宮寺は壊され、安置されていた薬師如来と阿弥陀如来は他の寺社に移設されたと聞きます。そして明治5年に下された「修験道廃止の令」を境に山伏(修験)は終焉を迎えるのですが、吹浦衆徒はそれに先駆け、明治2年には全戸が神道に転換し、明治3年には正式に神職となったそうです。

大物忌神社 ⇒ 大物忌神 + 月山大神
神宮寺(梵宮山光勝寺)は破壊
山伏(修験の徒)は廃止


鳥海山を信仰の対象とする「登拝」は、明治以降、民間信仰としての「お山参り」が引き継ぐのですが、それも徐々に衰退して、今ではスポーツや観光または健康や癒しを目的とする「登山」に変わりました。山伏(修験)の姿は消え、修験の集落は普通の村落になり、かつて山岳信仰で栄えた面影は、今は神社が受け継いだ伝統芸能に少し残っているのかもしれません。
次回は修験道の歴史と修験の体験を綴ります。(つづく)

※投稿論文『山岳信仰の展開と変容:鳥海山の歴史民俗的考察』
鈴木正崇(慶応大学文学部教授)
三田哲學會刊『哲學』第128集p447~514(2012年)

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