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第172話:アンテナが敏感な方のためのツボ(1/2)



◆平安の昔から:
平安時代の『源氏物語』に、生霊や怨霊に憑りつかれて横川(よかわ)の僧都に祈祷してもらうという行(くだり)があります。病といえば細菌やウイルスを思い浮かべる現代人にとってみれば、生霊とか怨霊はきわめて非科学的で迷信の類としか受け止められないでしょう。

しかしながら、わたしたちの普段の生活では、たとえば他人から受けた一方的な思いが心理的に重くのしかかり心を病んでしまうことがあるわけです。生霊や怨霊などと、おどろおどろしい表現にしなくても、「ひとの思い」が心に届くことで人が病になる構図としてみれば、実は今も昔もそれほど変わらないということ。だから現代人の日常的な病のひとつのように冷静に受けとめてみれば、平安時代の生霊や怨霊であれ、それほど特別扱いする必要はないように思うのです。

◆「悪い気」を受ける
人と人の関係性が「気の交流」で成り立つとする「気の医学」からみれば、病に至らしむ「ひとの思い」の正体も、やはり「気」の存在となります。人と人は「気」のキャッチボールをしながら関係性を築いていくなかで、そこに「よい気」もあれば「悪い気」もあるということ。「よい気」であれば共感や感動や安心を与えてくれるものですが、「悪い気」となればそれこそ「気が重い」などの気分や「身体がだるい」などの症状に波及してしまうものです。

もちろん気分障害や身体症状の程度には個人差があります。その方がもつ感受性とか受信能力の差によります。そうしたことが原因で治療院に訪れる患者さんを観察すると、総じてひと一倍受信能力に長けた「アンテナが敏感な方」が多いことがわかります。たとえば、これまでに、次のような症例がありました。
「傍にイライラしている人がいるだけで、そのイライラを受けてしまう。」
「母親がもつ怒りを、娘がまるでシェアするかのように受けていた。」
「念の強い人から負の感情を受けてしまった。」
「親しい人が亡くなり、そのあと身体がだるかったり眠かったり」

人と人との関係で、パワーのある人から何か重いものを受けてしまうとか、人と場(自然)の環境下で、急に身体が重くなって体調を崩すなど、いろいろなケースがあります。随伴症状も様々で、自分の呼吸(リズム)が保てなくて浅い呼吸になり自律神経系症状が出てしまうとか、その方にとって一番弱い所(経絡)に症状が出てしまうなどです。

◆そもそもアンテナが敏感な方とは
「アンテナが敏感な人」は俗に「憑依体質」と呼ばれています。それだけに、日常生活上厄介なことが絶えないという印象を与えます。
しかしながら、それを「受信能力が長けている」と逆に考えてみれば、それだけ特化した「能力」であることに気づくはずです。ちなみに、芸術家(アーチスト)の多くは「アンテナが敏感な人」たちであり、受信能力をそれこそ最大限に活用した上に、表現手段としての発信能力を以て芸術作品に昇華しているのです。

芸術家でなくとも普通の人々であれ、「受信能力が長けている」ということは、感受性に優れているだけでなくて、それに呼応する反応系も早いということ。たとえば、絵画を観る・音楽を聴くことに対して、それが自分に合うか合わないか(本物か否か)を瞬時に答えをだせる人であり、作品にこめられたメッセージに瞬時に照応できる人でもあります。

わたしは、こうした「能力」を概して「霊性」と解釈しています。
「霊性とは、芸術と宗教が合体する次元において、知性や感性を超越して成立するものである。」
これは横尾忠則の発言ですが、宗教に抵抗あるとすればそれを「精神性」と置き換えてもよいと思います。この「能力」が長けた人とは、心理学的には深層の無意識レベルが潤沢で直感・ひらめきに富み、仏教での唯識思想でいえば根本心である「阿頼耶識(あらやしき)」が潤沢であることを意味しています。つまり、それは「見えない大事なもの」を見抜く「霊性」に通じていることだと認識しています。

◆ちょっと一言
ここで言葉を変えて「なにかに憑依された」ときの治療と、ひとくちで言ってしまうと、誤解を受けてしまうその危険性を知っているつもりなので、慎重に言葉を選んでここまで書いたつもりです。
「霊性」を口にすることに抵抗がない基督教に対して、「霊性」を感じていても口にしないのが日本の文化なのかもしれません。

とはいえ、患者さんは様々な愁訴を抱えて今日も来院するわけで、アンテナが敏感故の愁訴もそのひとつなのです。大事なことは、特段そのことを以て怖がる必要はないということ。そして、「霊性」という問題がそこに内在しているということなのです。
次回は、わたしなりの具体的な治療法を提言します。(つづく)
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