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第53話:「RE:人が死ぬってなんですか?」

Aさんへ
メールありがとうございます。
24歳の若さで、二か所で昼夜お仕事をされているバイタリティーにはいつも感心しています。田舎のおばあちゃんの容態が、お医者さんに「余命2週間」と言われたこと、さぞかしショックだったと思います。おばあちゃんのこと心配ですね。

「人が死ぬってなんですか?」という質問はけっこう重くて、誰にでも早々簡単に納得できる答えはないと思います。ただ、あくまでもわたしが思っている「死」はこうですということをお伝えします。

人はこの世という大宇宙というか大自然に生をうけています。生きることってそれぞれの役割があるのだと思います。そのお勤めが終われば、ふたたび大自然に帰る、それが「死」だと思っています。

江戸時代のある偉い先生が言っています。海水を器で汲むことが「生」で、その器に入った水をまた海に戻すことが「死」だと。海水は大自然の「生命」そのもので、器に汲んだ水はその一部で自分の「生命」ということ。そもそも人間は大自然に生かされている存在だと言われます。だから人間の「生」と「死」はそうした「自然の営み」のひとつだということです。

中国の古い書では、こうした大自然の「変化の流れ」を「流れる気」として説明しています。荘子という人は「気が集まれば生で、気が散じれば死」と言っています。

ならば「気が散じて死となったらどうなるのでしょうか?」という疑問に対して真剣に考えた人がいて、それが王充という思想家です。王充によれば「死とは元気に帰ることである」と答えます。この「元気」とは大自然の根源である「一元の気」のことです。大自然の気の流れの変化によって、集まれば個の命が誕生して生となり、また気の流れの変化によって気が散れば、生命現象は消滅して死となります。そして散じた気は再び「元気」に戻ります。

つまり、死とは生まれる前の状態に戻ることであり、生と死はリンクしていてかつ循環しているのです。西洋では生から死を、始めから終わりへと直線的に考えますが、東洋では生と死を循環運動として、直線ではなく円環として考えることが特長なのです。
こうした東洋思想を「タオイズム」といいます。これは人間の生命現象に限られたことではありません。天地自然の現象から政治や経済や文化といった人間のあらゆる営みまで、すべてを包括する原理なのです。

話が長くなってしまいました。「死」は遺された人間にとっては悲しいことですが、個々にとって「自然の営み」と考えれば「死」は「生」と同じくらい大切なこと、それが一番伝えたかったことです。

おばあちゃんが亡くなったわけでもないのに、死のことを考えることは不謹慎なことかもしれません。でもAさんが初めて直面した「死」の命題を、こうして真剣に考えることに対して、おばあちゃんはきっとご理解して下さると思います。

では、まだまだ秋暑厳しき折、くれぐれもお身体に気を付けてお過ごしください。
安神堂より


※佐藤一斎(1772~1859)『言志四録』より
「海水を器に斟(く)み、器水(きすい)を海に飜(かえ)せば、死生は直ちに眼前に在り」
 佐藤一斎は江戸の儒学者。昌平坂学問所の総長。
※荘子(BC369~BC286)『荘子』(知北遊篇)
「人の生は気の聚(あつま)れるなり。聚れば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る」
 荘子は中国の戦国時代の思想家。道教(老荘思想)の始祖のひとり。
※王充(AD27~?)『論衡』(論死篇)
「人未だ生まれざれば、元気のなかに在り。既に死するや、復た元気に帰る」
 王充は後漢の思想家。儒教批判をした異端の学者として評価されている。
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