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第62話:露伴が説く「気を張る」こと

◆物には物の気がある。
菊には「菊気」、梅には「梅気」、竹には「竹気」、茶には「茗気(めいき)」、薬には「薬気」、酒には「酒気」、一切種々の物には一切種々の気がある。たとえば金木犀。“かをり”が気をひく間は目いっぱい「金木犀の気」は張り、花がほころんで“かをり”を失せた頃にはその気が弛む。また一年を通してみれば、春に芽をふく頃には「金木犀の気」は次第に張り始めるも、秋に葉が落ちれば急にその気が弛む-というように、幸田露伴は物の変化の時々をそれぞれの気の変化として説明します。

◆「気の張弛」は「気の消息」
一事が万事、物にはすべて気があり、いつも同じ状態などなく、その時々の変化の実体は、「気が張る」と「気が弛む」という「気の消息」にあるとします。自然界において、日の出と入り日、上げ潮と引き潮、満月と新月があるように、すべての物事において、これから盛んになっていく様子を「気が張る」とし、これから衰えていく様子を「気が弛む」と表現します。言い換えればこれは「陰陽論」と同じ。露伴は、たえず変化して止まない物の変化を「陰陽」で表現する代わりに「気の張弛(ちょうし)」として表現しているわけです。

タオイストの露伴は「人」を「自然」の一つと見、人の日常生活の処し方、人生の処し方に至るまでを、自然界の物と同様に、「気が張る」「気が弛む」としての「気の消息」として捉えます。朝起きると同時に「気が張って」活動を始め、夕方日が沈むと同時に「気が弛み」身体は休息へと向かう。こうして一日の内に「気が張る」ときと「気が弛む」ときがあり、全体のバランスをとりながら日々成長していきます。さらに永い人生の道のりでいえば、青壮年期の頃はすべてにおいて「気が張って」気力旺盛であるが、老年期となれば次第に「気が張る」ことが長く維持できなくなってゆく―これも自然のことわりです。

◆「気を張る」とは「気」を入れること
そうした中、人間活動にとって一番重視すべきことが「気が張る」ことである―と露伴は強調します。ここで「気が張る」というのは、何かをするときに絶えず「気」を入れてやること。反面、苦痛を我慢して努力することは「つとめて(無理をして)気を張る」ことであり、これは本当の「気が張る」ことではない。本当の「気が張る」とは、「気」を入れることで、苦痛を忘れるとか、これを物の数ともしないこと。いわば「おのずから(無理しないで)気を張る」ことである―と露伴は独特の持論を展開します。ちなみにこの「気を入れる」ことを「全気全念で事を為せ」という言い方をしています。

「天数、人事、人寿、この三者を考察して、張る気を持続せよ。ただそれ能く日において張り得よ、夜において善く弛まん。ただそれ生において張り得よ、死において善く弛まん。」

これは「進潮退潮」にある結語の行(くだり)です。天数(自然)、人事(人間社会)、人寿(人間の寿命)には、共通した生々の気が流れていることを認識したうえで、「気が張る」べきときはしっかり「気を張り」、「気が弛む」べきときはしっかり「気を弛ませ」ようと論じています。

◆日常生活にこそ「気を張る」
露伴が説くこれらの主張で特に興味深いのが、「気を張る」べきときを、あくまでも「日常生活」に力点を置いているところ。日常の瑣事(さじ)にこそ「全気全念で事を為せ」と説きます。実際、娘の幸田文に、箒の使い方、雑巾のかけ方を、露伴自らやってみせて厳しく教えこんだことは有名な話。露伴に限らず昔の日本人は、朝起きれば、寝巻やふとんをたたむ、雨戸を開ける、燈火を消す、室内を掃除するといった日常の決まりきった事柄をキチンとすることが普通でした。それが便利快適文明化した現代になると、気を入れるべき日常の瑣事がどんどんなくなっていることに気づきます。

これまで多くの患者さんを見ていると、健康で凛として長生きされている方は、総じて決まった生活ルーチンをキチンとこなしている方が多いようです。露伴がいう「全気全念で事を為せ」とは言わないまでも、いつもキチンと続けていることで自然と気が入り、無理のない自然のたたずまいにされているとみています。こうした方たちは、露伴を知らなくても、露伴の説く理想の「日常生活」を実践されているのでしょう。

文明批評を続けた夏目漱石は胃潰瘍を患い49才で亡くなっていますが、同じ慶応3年生まれの幸田露伴は、明治大正昭和に渡り悠々と東洋的理想主義を実践し、昭和22年に享年80歳で亡くなっています。わたしたち現代に生きる者にとって、「気を張る」ことを説いた露伴には、漱石に劣らず教わることがまだまだあるような気がしています。

※幸田露伴『努力論』岩波文庫(1940年)
※中野孝次『自分を活かす“気”の思想』集英社新書(2001年)
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