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第70話:タオイスト岡倉天心



◆六角堂
北茨城の五浦(いづら)にある岡倉天心(1862~1913)ゆかりの「六角堂」です。東日本大震災の津波で流されて土台を残すだけになっていましたが、ようやくその復元工事が完成したという新聞記事を最近目にしました。海に突き出た岩の上に建つこの「六角堂」は天心が晩年によく利用した書斎であり、時によく瞑想をし、まるで仙人のような日々を過ごした処です。

◆スキャンダルから始まる天心の足跡
岡倉天心を語る上で欠かせないのが、天心自らが起こしたスキャンダル事件。それは天心35才(明治31年)、文部省の美術行政官僚時代に、上司の九鬼隆一(帝国博物館総長)の夫人波津(はつ)と恋愛関係をもったことです。九鬼との確執などから、天心は当時の役職(帝国博物館の理事や東京美術学校校長)から職を解かれてしまいます。

天心は免職を機に、即座「日本美術院」を創設(明治31年)して「伝統日本美術」を復興再生させることに尽力し、横山大観、菱田春草らの愛弟子を育てます。ところが当時近代化、西欧化一辺倒の時代情勢においてはなかなか理解されず、しだいに孤立していきます。すると天心は日本から離れ、日本美術の源流を求めて中国の他インドに調査旅行(明治34年)に出掛け、さらに日露戦争の年(明治37年)には活動の本拠を米国に移します。以後天心はボストン美術館の東洋美術部門の責任者として古美術品の収集活動などの仕事に従事したのです。

◆2冊の本が説くもの
天心はそのボストン赴任の前後に、英語で執筆された2冊の本を出版。それが『東洋の理想(The Ideals of the East)』(明治37年)と『茶の本(The Book of Tea)』(明治39年)です。天心は広く欧米世界に向かって、自分の理想とする「伝統東洋文明のありかた」を説くことに力を注いでいったのです。

天心は、東アジアにおける文明化は儒教・仏教・道教の登場とともにはじまり、やがてそれらを総合的に混入させ合った形で発展したと説きます。その例として、宋代(特に南宋)の文人たちの手になる「南宋文化」である「禅宗文化」の出現を挙げます。ここで忘れてならないことは、南方中国で広まったことから「南方禅」と呼ばれる宗派は、そもそもインドから伝来した仏教に「道教」の自然観を取りこんだものです。ところが十三世紀に入ると不幸な事態がおこります。モンゴル民族が急に勃興して宋は侵略され、国土が荒廃するとともに南宋文化の精華「禅宗文化」も破壊されたのです。

こうして「禅宗文化」が大陸では絶たれてしまうのですが、逆に日本に入った流れが日本で独自の発展をとげ、室町時代以降の日本美術と文化の基調を形作ったのです。つまり日本における水墨画、茶道、華道、庭などの室町時代に最高水準に達したという美術文化は、実は南宋文化の「禅宗文化」を継承し、さらに日本独自で発展させたものということです。

天心は、歴史的にみて日本の美術が中国(支那)の圧倒的影響下にあったと認め、そのうえであえて「日本の美術の独立」を成し遂げてきたと語ります。重要なのは「輸入」した文化を「よく渾化(こんか)」(一体化)し「その国のもの」とするかということ、を力説します。「その国のもの」とは天心の言葉でいう「国粋(ナショナリティ)」になります。

◆天心が一番伝えたかった「アジアはひとつ(Asia is One)」
天心が主張する根幹は、日本美術史の紹介を通じてアジアの一体性を論じることです。それは当時の欧米が世界進出の過程としてアジアを他者(=植民地)として規定することに対する、文明論としての「回答」でした。同時にアジア諸国民に必要と考えたのは「自信の回復」であり、西洋人によるオリエンタリズムからの克服といえます。

文明論的には天心と正反対の位置にいるのが福沢諭吉です。『脱亜論』(明治18年)により「野蛮なアジア」と絶縁を唱えて、日本の西洋文明化を主張しました。現代の日本人が対アジア姿勢を考える上で、天心の「アジアはひとつ」と福沢の「脱亜論」は比較検証すべき歴史的事象であることは間違いないようです。


※岡倉天心著/大久保喬樹訳『新訳・茶の本』角川ソフィア文庫(平成17年)
天心が遺した書籍はすべて英文であり、生前は日本語の翻訳本がなかった。
翻訳本の出版は昭和10年ごろ。
※岡倉天心著『東洋の理想』講談社学術文庫(86年)
冒頭「アジアはひとつ(Asia is One)」という書き出しで始まる。
※塩出浩之著『岡倉天心と大川周明』山川出版社(2011年)
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