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第195話:ハンセン病作家・冬敏之の夫人嘉子さんのこと




~理想の鍼灸師:深津嘉子~
◆ニーダムの教え
わたしが鍼灸専門学校生の頃。東洋医学(中国伝統医学)をどのように学んでいけばよいのか迷っていたときに、師匠から、ジョセフ・ニーダムの名著『中国の科学と文明』の存在を教わりました。ニーダムの思想をかいつまんで言うと、中国の「科学」には「人文科学」とか「自然科学」という明確な垣根はない。むしろ医学・天文学・土木学・哲学・宗教・文学であれ、すべて共通した世界観(陰陽論)で論じられるというもの。つまり、東洋医学を学ぶには、共通した世界観をもつ哲学や宗教あるいは文学をも、その守備範囲に入れるということ。そして東洋医学と同じくらいに、その世界(中国の科学)に精通することが最も理想だ-とニーダムは教えているのです。

◆理想の鍼灸師
前置きが長くなりましたが、ここで、ニーダムの教えを体現したというべき理想の鍼灸師を紹介したいのです。その方とは、ハンセン病作家・冬敏之(1935~2002)の夫人である深津嘉子さん(1939~)。鍼灸業界では、おそらく無名の存在でしょうが、わたしが初めてその人となりを知り得たのは、冬敏之の評伝『鷲手の指』(本の泉社)を上梓された作家の鶴岡征雄さんから教えていただいたのがきっかけでした。
その『鷲手の指:評伝冬敏之』には「嘉子の青春は労働と勉学の明け暮れだった」と形容されています。作家の夫を支えながら看護師そして鍼灸師として活躍された経歴は、当に医療人として理想とする学びの履歴そのものであることに、わたしは驚きました。

◆深津嘉子さんの経歴
冬敏之と出会ったのは70年代。中国文学を学ぶ病院勤務の看護師である嘉子さんは、冬敏之が講師を務めていた「文学ゼミナール第11期」の受講生でした。普段は勤勉で物静かである嘉子さんは、師である冬敏之を尊敬し、冬文学の良き理解者でありたいと思うに留まらず、ハンセン病である冬敏之のすべてを承知した上で、結婚相手に名乗り出たという何事も一途な女性です。

医療人として凄まじいまでの経歴をここで紹介すると、嘉子さんは高校進学を許されない家庭環境で育ったため、中学卒業後、二年制の鳥取市立病院付属看護養成所にて准看護師の資格を取る。病院に一年間勤務して正看護師。さらには通信教育を受けて高卒資格を取得。それに飽き足らず上京して、病院看護師として働きながら、三部制の都立代々木高校に入学し、三年で卒業。ここで学校推薦をもらい二松学舎大学に進み、中国文学科にて魯迅研究をめざすのです。(この時点で25歳。)

冬敏之と周囲の反対を押し切って結婚したのが32歳。看護師を続けながら作家の夫を支えます。80年、冬敏之が45歳から肝硬変を患うと、夫のために夜勤のない自宅でできる仕事がよいだろうと考え、一念発起して、東京の鍼灸専門学校に三年間通学し、鍼灸師の国家資格を取得したという経歴なのです。

◆「医療人」としての生き様
ハンセン病作家冬敏之の評伝である『鷲手の指』から、支え役である嘉子夫人に関する記述を集め、特に「医療人」深津嘉子としての経歴にスポットを当てて紹介しました。この評伝本から察すると、嘉子さんが看護師を辞めて鍼灸師になったのは、おそらく80年代中半ごろ。そこから冬敏之の晩年の20年弱を、開業鍼灸師として夫を支えたと計算できます。

「医療人」としての深津嘉子さんが凄いと思うところは、一見「脇役」の装いを見せながらも、実は常に何事も「究める」ことで、自らの道を切り開いて来たという「直向きさ」です。
看護師として西洋医学の基盤をしっかり身に着けていた嘉子さんは、働きながら二松学舎大学の中国文学科に進み、魯迅研究に励まれています。その目的が中国文学を究めることであったとしても、その背景となる中国哲学思想に精通され、当然、東洋医学の基盤ともなる世界観をそこで取得されたと推察できること。そこが、当にニーダムの教えを体現した理想の「鍼灸師」と言えるところなのです。

作家の鶴岡さんに伺うと、現在、深津嘉子さんは高齢のため引退され自宅療養されているそうです。なかでも、鍼灸師生活の後半は、冬敏之が7歳のときにハンセン病療養所に強制収容されて以来、26年間もの療養生活の大半を過ごした「国立療養所多摩全生園」に赴き、入所者の方に鍼灸治療をボランテアとして施されていたそうです。

深津嘉子さんの「医療人」としてのこうした真摯で直向きな生き様は、ハンセン病作家夫人という脇役の存在に隠れて、これまでスポットが当てられることがなかったとすれば、とても残念なことです。それだけに、同業の鍼灸師としては、永く記憶に留めていきたいと思うところです。(了)

※鶴岡征雄著『鷲手の指:評伝冬敏之』本の泉社(2014年)
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