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第25話:六根清浄(ろっこんしょうじょう)

◆耳を塞ぎたい理由
学生のAさんが、突発性難聴になりました。突発性難聴という病気は、ほとんどがストレスと関連します。様子を聞いてみると、自分の進路のことがきっかけで家族会議になり、母親と姉が次第にヒートアップして口論になったそうです。その場面を目の当たりにしていたAさんは突然耳に入る音が「ゴワンゴワン」と響き、聴きづらくなったのです。
また、以前に突発性難聴になったBさんも同じような経験をしています。Bさんは上司2人と自分だけという少人数の会社にお勤め。あるとき上司2人による言い争いが1週間続きます。Bさんは席の左側で繰り広げられる口論を聴きながら仕事をしていたら、左の耳が突然聴こえなくなったのです。

突発性難聴になったAさんとBさんに共通するのは、聴きたくない、まさに耳を塞ぎたいという状況下におかれたことです。もちろん同じ状況下で病気にならない人はいくらでもいます。その差はなにかといえば、お二人は共に聴覚がもともと敏感な人なのです。それが突発性難聴になりやすい大きな要因であると私は考えています。敏感な分だけ、聴きたくないと思うとその反発が余計に大きくなるということです。

聴覚が敏感というのは、まずは耳がよいということ。たとえば私の治療院は隣の居酒屋さんと壁一枚隔てただけの建物にあり、夕方になるとお店の話し声がざわざわ聴こえてきます。私にはざわざわとしか聴こえないのに、AさんやBさんは話の内容まで判別できます。地震の揺れも人より若干早めに感じるとか。そのくらい耳がよいのです。さらに聴覚に関してお二人には、それぞれ次のような特徴があります。まずAさんは電話に出るのが苦手なこと。特に初対面の人と電話で話すのが怖いといいます。だから電話口での声は普段よりかなり小さい声になります。一方Bさんは、電話の応対には不自由しないのですが、電話口から耳に入る声で相手の体調がだいたい分かるといいます。直接話しているより電話から入ってくる声のほうが判別しやすいとのこと。このように聴覚が敏感なことは、本来は長所であり特性のはずですが、入ってくる情報によってはまさに「耳が痛い」とか「耳を塞ぎたい」ということになるのです。

◆五感も意識も「こころ」
これはなにも聴覚に限らない話です。たとえばもともと視覚が敏感な方が、ふだんから目が疲れやすいとかまぶしいとかを訴え、もともと臭覚が敏感の方が、身体が疲れてくると嫌な匂いによけい敏感になるとかがあるわけです。視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の五感は、身体と外部とのインターフェースとしての役割をもち、その感度の濃淡によっては、身体症状を引き起こしやすいといえます。

仏教の「唯識」では、五感に意識(思考)を加えて「六識」とか「六根」といいます。「般若心経」のなかの「無眼耳鼻舌身意(むーげんにーびーぜっしんにー)」がこれですし、山岳信仰での行者の掛け声「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の「六根」もこれに該当します。「唯識」のすごいところは、「六識」を「表層のこころ」(表層心)とみているところ。つまり「六識」は身体と外部とのインターフェースとしての役割でありつつ、六つそれぞれが「こころ」として外部に向き合っていることです。ですから外部からの情報(これも「気」)によっては「こころ」が折れることもあるわけです。

感覚(「六識」)が鋭敏な方にアドバイスをするとすれば、常によい情報(気)を受容すること。わるい情報(気)に遭遇したらまずは避けること。避けられない環境であれば、とにかく事務的に坦々とそれを受け流す態度を保つことなどです。
それと瞑想がよいとされています。息が自分か、自分が息かとなるほどに心全体を呼吸に集中してみましょう。「表層のこころ」が静まり澄んでくると、摩周湖の底深く見えるように、これまで気がつかなかった「深層のこころ」が見えてリラックスしてきて「こころ」の安寧が得られるといわれています。


※横山紘一『やさしい唯識』NHKライブラリー(02年)
インドにおける「唯識思想」は瑜伽(ゆが)すなわちヨーガを好んで実践した人々(唯識瑜伽行派)によって打ちたてられ、三蔵法師としても有名な玄奘によってインドへの求法の末、中国にもたらせた。「深層のこころ」には「末那識(まなしき)」と「阿頼那識(あらやしき)」があり、すでに無意識の概念(心理学)があったことが驚きです。
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