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第29話:身体知(身体で覚える)

東洋の伝統的な「身体論」についての本を読んでいくなかで、ふと目を見張る文章に遭遇します。例えば「身体より脳の方が攻撃的」というフレーズがそのひとつ。言い換えると「脳の暴走を止めるのは唯一身体である」ともいえます。そのこころは、実は「身体」の方が「脳」より頼りがいがあって大事だよということです。

現代はとかく脳万能主義が横行しがち。すべてのことが脳から上意下達できると勘違いしてしまいます。これは危険な兆候です。なぜなら知識の詰め込みは、かえって身体からリアリティーをなくすことになってしまいます。少年犯罪においても、簡単に人を殺したり、人をいじめたりするのは、きっとその少年の身体に「傷つけられると痛い」というリアリティーが欠落しているからでしょう。となると、脳が下す「人を殺したい(いじめたい)」という感情の暴走を止められない「身体」になりやすくなっていることが、実は教育や家庭に対して問われている、真の課題ではないかと思っています。

東洋の伝統的な「身体論」には「身体知」という言葉があります。身体は知性的で、知性は身体的です。「身体」の方が「脳」より頼りがいがあって大事とは、「身体知」が成り立つ状態です。そのキーワードは「身体で覚える」にあるとみています。

例えば、芸道や武道あるいはスポーツでも同じことですが、初歩の状態では、いわば、まず頭で考えてから身体を動かそうとします。指導者がこういうようにすればよいと教えてくれるのを、知的に理解し、計算してから身体をそれに従わせようとします。しかし、身体を心で思うようには動きません。この場合には、心と身体は二元的にとらえられています。考える意識としての心と、意識の命令に従って動かされる身体とが、分けてとらえられています。しかし、訓練をくり返し続けていれば、しだいに、心で思う通りに身体が動くようになります。そのときはじめて、指導者のいっていることの意味がわかってきます。身体で覚えたからです。こうした理想的状態を「心身一如(しんしんいちにょ)」と呼びます。名人の演技では、心の動きと身体の動きに少しもズレがなく、心と身体は一つになっています。さらに、普段の姿勢や佇まいに精神性が感じられるといいます。

身体で覚えるというのは、なにも芸道や武道あるいはスポーツだけのことではなくて、一般的な学習において、声を出して読むとか、何度も紙に書いて覚えるということも該当します。これは江戸時代の「寺子屋」にみる学習法であり、現代の教育に大いに参考にすべきことかもしれません。身体で覚えたことは忘れないというのは、「心身一如」の状態をキープした「身体知」が働いていることです。

それと身体性の希薄さとして最近気になっていることが、人と人の距離感いわゆる「間合い」を取れない人をみかけることです。混んでもいないエレベーターの中や、レジの前で列についているときに、私の後ろにぴたっとくっついてでもいるかのような距離感で立つ若者がいます。またTVドラマ「南極大陸」をたまたま観たときも、堺雅人が年上役の柴田恭平に向かって、顔と顔の距離が10センチぐらいの位置で口角泡を飛ばすぐらいの勢いで説得するシーンがありましたが、とても違和感を覚えます。もしも武士の世なら、その間合いは失礼千万の危険すぎる間合いであって、ばっさり斬られてもおかしくないでしょう。間合いがうまくとれない人が増える社会って、結構危険なことなのです。

現代社会において、これほどデジタルが氾濫していくと「脳」ばかりが優先され、かえって身体性が希薄になってしまい、社会の健全性を失うことにつながります。東洋の伝統的な「身体論」における「身体知」には大いに参考にすべきことがありそうです。

※「身体より脳の方が攻撃的」:たぶん内田樹の本だと思います。内田樹は仏哲学者レヴィナスを専門としながら合気道をたしなむ人物。身体性を基礎とした思考が魅力です。
※湯浅泰雄『気・修行・身体』平川出版社(86年)
 
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