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第30話:心身一如(東洋の心身観)

英語の“body”には、「肉体」とか「身体」という意味がありますが、これはあくまでも、mind(心), soul(魂), spirit(霊)の反意語として使われています。さらに“body”には「物体(ボディ)」という意味もあります。従って西洋における「身体」は最も「心」に遠い存在であり、むしろ「物」に近い存在であることが分かります。

「心」≠「身体」≒「物」

これはデカルト以来の『心身二元論(物心二分法)』を根底にしています。西洋の近代化は「心」と「身体(物)」を分けて、それぞれが発展してきました。西洋哲学やキリスト教では「心(精神)」の価値を重視し、「身体」の価値を軽蔑した傾向にあります。近代科学では「心」の要素を無視して、「物や身体」は還元主義をもって追究されてきました。西洋医学では、「身体」は解剖学的に全体を部分に分類し、さまざまな器官やその機能について生理学的に研究します。臨床医学が内科・外科・耳鼻科・・などといった多くの専門に分化しているのはそのためです。従って病気の心身相関を認める立場にたっても、部分の集合体として全体を捉えなおす還元主義の見方では不十分になります。

一方、東洋では、「心」と「身体」は元々一体不可分の関係にあるものとして捉えられています。さらに、「物」を身体の外の世界と捉えると、「身体」は丁度、「心」と「物」の中間に位置しています。

「心」=「身体」≠「物(外部)」

先の“body”と比較してみると、「身体」という言葉には「身体に効く」「身体に尋ねる」「身体に障る」「身体で覚える」「身体を惜しむ」などの慣用句があるように、明らかに「身体」を「意思」なり「心」を持ったものとしてみていることが分ります。東洋医学では「心(精神)」と身体症状は密接に関係することをいち早く気づいていました。また診察からしても部分から全体を伺う診断技術(脈診や望診など)も先人の経験の中から生まれ、心身の全体的なはたらき方に注目するホリスティック(全体的包括的)な見方が唱えられています。この東洋の「心身観」を一言で表すと「心身一如(しんしんいちにょ)」といいます。さらにこの場合、「身体」と「心」をつなぐものが「気」となります。

「心」⇔「気」⇔「身体」≠「物(外部)」

「心」と「身体」が一体になる「心身一如」の状態は、無条件で保障されるものではなく、むしろ本来は伝統的宗教での修業法として実証的に担保されるものです。中国では仏教・儒教・道教の三教が微妙な対立と交流を重ねてきましたが、その根底には一つの共通した基礎体験があり、それが修業法。仏教者は「坐禅」とよび、儒者は「静坐」とよび、道士は「錬丹」「導引」などとよぶ心身の鍛練法です。これらを一括して「瞑想法」とよべる内容のものです。それと、これらは身体の訓練を通じて精神の訓練と人格の向上を目指す実践的な企て、という意味をおびています。

「瞑想法」の訓練はまず呼吸法から始めます。呼吸と「気」は昔から関係が深いものと考えられてきたからです。「心」と「身体」を一体にするために「気」をめぐらせます。「気」をめぐらせるといっても、実際は「心」で「気をめぐらせる」と思うわけで、「心(意識)」が気の流れを感得したことを「心気が一致する」といい、「心」と「身体」がそこで一体となって「心身一如」となるといいます。

ストレスフルな環境下で「心ここにあらず」といった状態は、きっと「心」が「身体」から離れた状態のこと。「心身一如」を取り戻すためには、「身体」からアプローチして呼吸法と「気をめぐらせる」ことが大切になります。そうした背景に、伝統的な瞑想法や鍼灸治療の役割があると思っています。

※湯浅泰雄『身体論-東洋的心身論と現代』講談社学術文庫(90年)
※湯浅泰雄『気・修行・身体』平河出版社(86年)
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