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第32話:縄文のにおいのする「木」(タブノキ)

タブノキ

◆酒田の木
ふるさと酒田市の木といえば「タブノキ」。古くから酒田旦那衆の屋敷の生垣に使われていたことで、酒田のシンボルに選ばれたと聞きます。酒田沖に浮かぶ「飛島」にはタブノキの群生があり、ここは自然群生としては北限といわれています。

タブノキはクスノキ科に属する暖帯性常緑広葉樹。いわゆる照葉樹林の代表的樹種ですが、私にとっては、単にふるさとの木を越えてしまい、かの「もののけ姫」の下地にある「照葉樹林文化論」とか、東北の深層に流れる縄文の息吹きなど、とにかく勝手に想像をかきたてられる木になっています。そんなタブノキに関して、とりとめのない話をしてみます。

◆三崎公園のタブノキ
酒田から隣の遊佐町に北上し、日本海に臨む「三崎公園」に足をのばせば、見事な群生したタブノキが見られます。ここは秋田県との県境に近い処。戊辰の役では、わが庄内藩と秋田藩が戦った戦場です。奇しくも私の母の曾祖父(平太)がここで戦死しています。といっても4~5年前に親戚の長老からはじめて聴かされた話です。庄内藩は会津藩と同様、幕府方についたいわゆる「朝敵」。秋田といえば親戚がいてもおかしくない近しい人々と、こうした戦をした歴史があったことなど、家族代々で口にすることなく、ましてや学校教育でも教えることもなく、150年余りが過ぎたわけです。日本海の荒波が耳に届きそうな「三崎公園」のタブノキだけが、しっかりそれを覚えているかと思うと、不思議な感慨に浸ってしまう処です。

◆「手長足長」の意味
ここで「三崎公園(三崎山)」について、地元に残るひとつの伝説を紹介。それは平安時代にまで遡ります。鳥海山に「手長足長」という大蛇がおって、行き来の人を取って食ったという。そこを通った天台宗の慈覚大師は、近くの「うやむやの関」でお祈りすると大蛇は二つに切れて、尾の落ちたところが今の「落伏(おちふし)」という地名になったという。慈覚大師は、大蛇が以後人を食べないように、タブの実を播いたとか。それで三崎山には、見事にまで、タブノキが生い茂っているということです。

伝説は証人を必要としないので、郷土史によってはやや内容が違うようです。ただこの伝説をどう理解するかが大事です。「手長足長」という大蛇の正体は、鳥海山が噴火した時の「溶岩説」が有力のようです。しかしそこであえて異説を唱えて「蝦夷(えみし)説」を私は提案してみたいのです。

天台宗の慈覚大師円仁(794~864)は比叡山延暦寺の座主になった高僧で、東北地方をめぐり、山寺で有名な「立石寺」、平泉の「中尊寺」、象潟の「蚶満寺」などを建てた人物です。なぜこれほどまでに東北地方を行脚して寺を建てたのか。その理由を宗教学者の山折哲雄は「慈覚大師の目的は、坂上田村麻呂による征討によって滅ぼされた、先住民の蝦夷への、鎮魂供養のためだった」と推理しています。ならば、慈覚大師は蝦夷に対して慈悲深い心で臨んでいることがわかります。

鳥海山の頂上に「大物忌神社(おおものいみじんじゃ)」の本社があります。主神の「大物忌神」はいわゆるタタリ神で、怒りをかうと、鳥海山の噴火や出羽の蝦夷の反乱が起きるとされています。朝廷が平穏を祈るためには「大物忌神社」に国司をつかわして祈祷させるわけです。ですから前述の伝説では、「手長足長の大蛇」が「溶岩」であっても「蝦夷」であっても、この地域ではやっかいなことだから、話のつじつまは合います。しかし、大蛇が以後人を食べないように、タブの実を播いたという行為は、蝦夷の生活生存権を、特定の場所に限って保障したという意味に捉えると、益々「蝦夷説」が有力になると思うのです。となれば、蝦夷はきっとタブノキが茂る三崎山に静かに共生できたのではないか、と空想はさらに拡がります。

◆縄文への憧憬
蝦夷(えみし)は縄文人の末裔といわれています。「もののけ姫」の少年アシタカは蝦夷の首長アテルイの末裔という設定でした。東北を遠く懐かしく思う歳になっても、縄文へのあこがれは、タブノキを通じて失われないものかもしれません。

最後に。お灸をすえるのに使っている線香は、実はタブノキから作ったものです。タブノキが形をかえたものとしても、日常の仕事のなかで大事な道具として傍にあることは、なにか不思議な縁を感じてしまいます。


※冨澤襄『飽海史話』敬天堂(60年)
私の伯父が書いた郷土史。「手長足長」の民話を紹介している。伯父は酒田の木の選考委員のひとりだった。牧野富太郎博士を鳥海山に案内した話など、自分が興味をもって、ぜひ聴いてみたいと思った頃は伯父はすでに鬼籍に入っていた。
※高橋富雄・梅原猛編『東北文化と日本』小学館(84年)
「東北学」という概念がまだなかった頃、東北の縄文文化に初めて出会った本。
※谷川健一『日本の神々』岩波新書(99年)
折口信夫は南の島々から漂着した日本人の祖先の記念樹がタブノキだったと言っている。
タブノキで作った丸木船で渡来したとか。折口は能登の気多大社にある「たぶの杜」をこよなく愛した。折口の養子で硫黄島で戦死した藤井春洋は、気多大社の宮司の息子だったとか。

※追記(13-02-14)
昭和50年制定以来タブノキは酒田市の木であったが、平成17年(05年)の市町村合併に伴い、タブノキに代わりケヤキが「市の木」になったことを最近知る。酒田の名所「山居倉庫」のケヤキが選定の根拠でしょうが、タブノキは酒田市街地の「潜在自然植生」としても貴重である、とする宮脇昭氏らの学術調査(昭和58年)があるだけに、まるで観光を優先したかのような市の見識のなさは残念でならない。

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